第3話 怪談朗読「田舎の家と赤い女」


 ――父方の祖父母が立て続けに他界した。


 どちらも高齢で、祖母にはもともと重い持病があったし、祖父は数年前から特養に入り寝たきりだったので、たまたま同じ年に亡くなったことを意味ありげだとは感じなかった。それよりも、身内の葬式が年に2回あると、本当に忙しない。


 父の田舎は同県だが、自宅から車で片道2時間はかかる。父は持病を理由に免許を返納しており、母は年季の入ったペーパードライバーだ。そのため一人っ子の私はいつも両親の運転手役をしている。

 当時の私は残業が多く、週一の休日はことごとく田舎へ行くため潰れていたので、かなり疲労が溜まっていた。


 そんなとき、上から有休を消化して欲しいと言われたので、私は思い切ってしばらく祖父母の家に居座ることにした。

 その頃はちょっとした雑事や遺品整理のためだけに車を出すことが多くあり、私がさっさと片付けてしまえばのちのち楽だろう、と安易に考えたのだ。


 7月初旬、ちょっとしたバカンス気分で私は田舎へ向かった。確か、土日を挟んでの6連休だったと思う。それほどの長期休暇は久しぶりな上、早朝の道路は信じられないほど空いていて非日常感があり、私は浮かれていた。


 途中の国道付近で信号待ちをしている際、なんとなく窓の外を見ると、赤い傘を差した女性が歩いているのが目に入った。そのとき雨は降っていなかったが、時期的に傘を差す人の姿は珍しくない。小雨が降ったり止んだりしているときは私もいちいちワイパーを止めないし、もしかすると日傘のつもりなのかもしれなかった。


「おっ」と思ったのは、田舎に到着した日の夕方、親戚の家から祖父母宅へ車で帰るときに、再び赤い傘の女性を見つけたときだ。

 1度目も2度目も見かけたのは後ろ姿だけだったし、朝は傘に気を取られて服装など見ていなかった。傘以外はロングヘアと女性であることしか共通項がないので別人かもしれないが、なにぶん田舎なもので、この付近の住人がアルバイトや会社勤めをするエリアは大体あの国道沿いと決まっている。朝と夕でたまたま同一人物を見かけた可能性は高い。私は茶柱を見つけたときのような、珍しいものに当たった気分を味わいつつ、そのまま帰宅した。


 親戚宅で貰ったおかずとビールで早めの晩酌を楽しんでいると、近所に住んでいる従兄いとこが酒とつまみを持って遊びに来た。

 彼は私より5歳年長で、年に2~3度しか会わないが昔から仲は良い。


 二人で酒を飲みながら、話の流れで、なんとなく祖父母の馴れ初めの話題になった。


 といっても従兄に話を披露してもらうだけで、私は終始聞き役だ。私の父は三兄弟の末子で、そのせいなのか、祖父母の若い頃の話や田舎の盆正月のしきたりについてあまり詳しくない。この従兄は東京の高専へ通っていた時期以外はずっと田舎暮らしということもあり、私や他のいとこ達よりも古い話をよく知っていた。


 彼の話によると、祖父にはもともと祖母以外の婚約者がいたらしい。しかし祖父が兵役に赴いてから約束がうやむやになり、いつの間にか婚約話が反故ほごになった。戦地から帰還した祖父は結局、親族から勧められるがまま祖母と結婚したのだという。


 しかしこれにはどうも裏エピソードがあるようだ、と、従兄は話を続ける。


「俺も最近大叔母さんから聞いたんだけど、最初の婚約解消にも理由があったんじゃないかって。おまえ『わぁこべさのんかん』て知ってる?」


 なんだか呪文のような言葉と思ったし、初めて聞いた気がする。私は素直にそう答えた。


「うちで代々大切にしてる神様と、すぐそこの稲荷神社の神様を両方大切に奉りますって意味だ。奉りますっていう宣誓だから、念仏みたいに唱えるものではないな。口に出して言う機会は少ないけど、正月に神社で貰ってくる御守りなんかにはちゃんと書いてあるんだぞ。今度よく見てみな」


 言われみれば、神社で貰ったものなど今までろくに見たことがない。私は自分の無知を恥じる代わりに話をすり替えた。


「じいちゃんの婚約の話は?」

「まずは家の話から。うちで代々奉ってる神様のことをわっかべさんとかわっかべ様とか言うのは知ってるか」


 そちらはなんとなく耳にしたことがある。だが、私はそれをこの地域全体で信仰されているもののように感じていたので、我が家だけの神というのは初耳だった。

 しかし私がそんな勘違いをしていたのは、祖母の実家の人間とも交流があるためかもしれない、と従兄は言う。


「わぁこべさのんかんの『わぁこべ』と『わっかべ』は同じなんだって。多分、どっちかはばあちゃんちの呼び方なんだな。ばあちゃんの旧姓ってA西なんだよ。うちはAだろ。〇〇川の西側に住んでるからA西。じいちゃんのA家と同じ家だったけど、A本家とA西に別れてから呼び方が変わったんだろうな」


「ああ、それでばあちゃんが婚約者に勧められたってこと? 元々仲の良い家柄だったんだ」


「多分そんな感じだろうな。でも最初にじいちゃんと婚約してたのは余所の家の娘さん。じいちゃん、田舎者にしちゃハンサムだったから昔はモテたらしい。それで熱烈アプローチを受けて婚約したんだけど、どうもその相手の人、じいちゃんの子を妊娠してたんじゃないかって。昔の話だから、本当かどうかはわかんないけどな」


 しかし祖父母が結婚したあと、祖父の娘と自称する者がこの家を訪ねてきたことがあったらしい。


「ただ、妊娠はしてたけど、じいちゃんが戦争に行ってる間に流産したんだって話もある。で、わっかべ様の話になるんだけど、わっかべ様は家を守る神様だから、ご縁を繋ぎたくない家との間に出来た子は流産させるって言い伝えがあるんだよ。もしその人が本当に流産したなら、わっかべ様はじいちゃんとその娘さんとの結婚に反対ってことだ。流産したなら婚約は破棄しよう、って流れだったんじゃないかって。でも、それならじいちゃんの娘だって来た人は誰なんだ? って話になるだろ。ここからはちょっと怖い話なんだけど、聞きたい?」


 従兄はにやにや笑う。興味はあったが、私は怪談話が昔から苦手だった。おまけに私は今夜からしばらく、この古めかしい日本家屋に独りきりで寝泊まりしなければならない。

 別の機会にしてほしいと正直に答えると、従兄は呆れた風に笑った。結局その後も私たちは語らいつつ酒を飲み、そのまま居間で寝てしまった。


 外が薄らと明るくなってきた頃、私はふっと浅い眠りから覚めた。布団も敷かず畳の上に寝転がっていたので、首や背中が痛んで眠っていられなかったのだと思う。

 座布団を枕にしてもう一眠りしようと目を閉じたが、なぜか私は「もう起きなければ」と感じた。理由はわからないが、不思議とそうしなくてはならない気がした。


 まだ酔いの残っている重い身体を起こして点けっぱなしの電気を消し、ちゃぶ台に頬杖をついてぼうっとしていると、不意に、居間と地続きの台所のほうが気になった。

 台所の奥にある勝手口の扉は、プレハブで使われるような簡素なもので、上半分には擦りガラスが1枚嵌められている。仄かに外が透けて見えるその向こうに、何か見慣れないものがあった。


 大きな丸いもののように見える。私は巨大な赤いボールが木に引っかかっているさまをイメージしたが、勝手口の向こうは予備の駐車スペースとして空けており、今は何もないはずだ。


 なんだろう、としばらくそれを眺めていたが、私はひっと小さく悲鳴を上げ、座った姿勢のまま腰を抜かしそうになった。


 気づいたのだ。赤いボールに見えたそれは傘だった。まだ薄暗い窓の向こうで、傘を差した誰かが立っている。


 悲鳴が出ない代わりにぶわっと汗が噴き出る。その影がほんの少し揺れたとき、あの動きはやはり人だと確信し、またぞっとした。大きな音を出すのはなんだか怖かったので、私は無言のまま従兄を揺り起こそうとしたが、起きてくれない。


 人影のほうも立ち去ってはくれず、ときどき少しだけ動く。従兄の身体を叩きながら、私は次第に理解した。

 外にいる人物は相変わらず身じろぎをするように僅かに揺れている。あれはきっと、ドアノブを握って回そうとしている動きだ。


 ドアを開けようと、入ってこようとしている。


 鍵は締まっているはずだ。いや、昨日は確認しなかったが、祖母はいつも施錠していた。おそらく開かないはずだが、わからない。

 私は戸締りの確認をしていなかったことを悔いつつ、いよいよ従兄を殴ってでも起こそうと、祖父が愛用していた孫の手をひっつかんで振りかぶった。

 が、従兄を殴りつけようとした私は、そのまま凍り付いたように動けなくなった。


 見知らぬ誰かが、寝ている従兄の顔をじっと覗き込んでいたからだった。後ろ姿しか見えなかったが、長く艶のない黒髪で、背格好から女だとわかる。女が私のほうをゆっくりと振り返る、という厭な予感は不思議と確信めいていて、私は全身の血の気が引く音を聞いた。孫の手を持っていられないほど、恐怖で身体全体がぶるぶると震える。


「なくすな」


 突然、耳に息が掛かるほどの距離で、誰かが抑揚のない低い声でそう言った。



 その後の記憶はない。おそらく失神したのだと思う。

 次に私が目覚めたのは昼近くだったが、従兄も起き抜けの様子で缶コーヒーを飲んでいた。

 私が「大丈夫か」と聞くと、従兄は不思議そうに「なにが」と言う。私は早朝の出来事を説明したが、女が家の中に入ってきて……と話した辺りで、だんだん馬鹿らしくなってきた。ただ悪夢を見たか、寝ぼけていただけかもしれない。


 しかし従兄は馬鹿にするでもなく「ふうん」と頷き、どこか得心行かないような、複雑そうな顔をしている。


「怖がらせるわけじゃないけど、前に親父から聞いた話を思い出したからさ。ちょっと気になるんだよな」


 少し遠慮がちに、従兄は次のような話を私に語った。


 従兄の父は祖父の次男、私から見れば父の次兄で伯父にあたる。長兄という人は私が生まれる以前に亡くなったらしい。

 従兄の父「Y」が高校生のときのことだ。ある夏の日、Yは寝苦しさから深夜に目を覚ました。当時Yが寝ていた2階の部屋にはエアコンがなかったらしい。とても寝付けそうになかったので、居間の扇風機を持ってこようと階段を降りた。


 階段から居間へ向かうのにはトイレの前を通る。当時は汲み取り式だ。トイレの横には奇妙な、というか、普通は室内で使われるようなデザインの木製ドアがあった。他所から貰ってきた戸を適当に嵌めたようなちぐはぐな様相だったらしい。そこは貯槽タンク清掃のときに使う出入口で、水洗式にリフォームした今はもうない。


 その夜、その場所は普段と少しばかり様子が違った。

 ドアが僅かに開いていたのだ。日中は風通しを良くするため全開にしているが、蛙や虫が入って来るからと、夕方には閉めているのに。もしただの閉め忘れなら、いつもドアストッパーにしているバケツも置きっぱなしになっているはずだ。


 本来閉ざされているはずのドアが中途半端に開いている光景は、深夜であることも相まって気味が悪い。

 しかしそのままにしておくわけにもいかず、Yはレバー状のドアノブを掴んでドアをカチャンと閉め、ついでにじょうのつまみもカチンと回して施錠した。そのときだった。


 ガッ

 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャッ


 Yはびくっと手を震わせ、思わず後ずさった。けたたましい金属音を立て、Yがたった今まで握っていたドアハンドルが上下に激しく揺れている。おそらく外側に誰かがいて、ドアを無理やり開けようとしているのだ。強盗か何かわからないが、Yはすっかり怯えて逃げるように両親の寝ている和室へ駆け込んだ。


 その後、Yの父と長男の「X」が家の付近を1時間ほど見回ったが、不審者を見つけることはできなかった。


 ただ、それから数日後、Xが妙なことをYにぼやいた。


「なんだか、近頃いつも近くに赤い女がいる気がする」


 しかしYが「何が赤いのか、赤い服を着ているのか」と尋ねても、Xは「よくわからない」としか言わず、次第にX本人も「気のせいかもしれない」と言い始めたので、その話はすぐに忘れられた。


 だが、それまで特に信心深くもなかったXが、その頃から徐々に神棚や仏壇に菓子やら酒やらを供えるようになったという。

 その後、Yからすれば特に何事もなく4年が過ぎた。が、Xはもともと患っていた腎臓の病が悪化し、27歳という若さで急逝してしまった。Yが結婚した直後だったらしい。


 私の祖母はXが亡くなった後、Yの嫁、つまり従兄の母にこう語った。


「これは墓まで持っていくつもりの話だったけど、これから先何があるかわからないからね。あなたにだけは言っておきます。Xは貰い子でね、私の妹の子だったの。私にとっては嫁に行った妹も義兄も親戚同然だけど、わっかべ様がXを守ってくれなかったのは、妹がよそに嫁いでA西から出てしまったせいなのかね」


 そう言って、涙を流したそうだ。

 祖母が「祖父の元婚約者の娘」が訪れた話を溢したのはそのときだったらしい。Xが赤い女の話を祖母にしたのは亡くなる直前だった。祖母は赤い女と聞いて、どうしてかすぐにその女性と、昔祖父の婚約者だった女性のことを思い浮かべたそうだ。


 しかし祖母も亡くなり、その祖父の娘を名乗る人物が訪れたのが具体的にいつのことなのか、祖父の元婚約者はどうなったのかさえ、今では誰も知らないという。


 以上が数年前に私の体験した出来事だ。

 余談かもしれないが、実は先月、件の従兄が急逝した。運転操作を誤りバックしてきた軽トラに偶々ぶつかってしまったらしい。


 まったく理路整然としておらず、とっ散らかった座りの悪い話だと自分でも思う。怪談としても地味な部類かもしれない。


 だが、赤い傘の女は今でもときどき私の前に現れる。必ず後ろ向きで、長い黒髪しか見えないが、もしかすると不意に見えることがあるだけで、本当はいつでも私のすぐ近くに存在しているのかもしれない。

 かつてXが見たという赤い女や元婚約者の娘を名乗る女性、そして赤い傘の女は同一人物なのだろうか。


 あのとき田舎の家で聞いた抑揚のない声を、私は今でも忘れられずにいる――



  * * *



 雨蕾々うららは息を止め、慎重に録音停止ボタンをクリックした。ふう、と、こんどは安堵のため息が漏れる。普段はこれほど長い話を通しで読むことはまずない。


 ふと気になって、雨流と並び部屋の端で佇んでいるセージュのほうを見た。が、姿がない。雨流うりゅうがただ一人、呆気に取られたような表情で床を見つめていた。


「え、犀樹くんどうしたの」

 よく見れば畳の上には、落ちて壊れたマリオネットのようにセージュが転がっていた。倒れるような音はしなかったが、いや、朗読に集中していて気づかなかっただけかもしれない。


 予想外の事態を目の当たりにし、数秒のあいだほうけていた雨流と雨蕾々だったが、徐々に我に返った雨流は、おぼつかない手つきでひとまずセージュを仰向けに起こした。


「犀樹くん、大丈夫? 貧血かな」

「脈もあるし息もしてるけど……音もなく倒れたな」


 兄弟はセージュの肩や頬を叩きながら声をかけてみたが、反応はない。手指は冷え切り顔色も悪いが、心臓が止まっているわけではなかった。朗読を聞いている最中、何か不調をきたしてうずくまり、そのまま気を失ったのかもしれない。

「万が一脳の問題だったらまずいな。えっと、一応救急車を……スマホどこだっけ?」


 ひどく狼狽した雨流が慌ただしく部屋を出ようとしたそのときだった。


 ピン ポーン


 ピン ポピン ポーピン ピン ピンポーピン ピン ポーン


 兄弟は硬直した。誰かが玄関のインターフォンを連打しているらしい。


「ごめんください」


 どこか無機質に感じる女性の声が家の中に響く。セールスの類にしては無愛想な声だ。かといってこの家を訪ねてくる女性は限られている。心当たりのない、知らない声だった。


 雨蕾々は雨流の身体を強引に押し退ける。


「おれが玄関を見てくる。兄さんは救急車呼んでよ」

「ちょっと雨蕾々、待ちなさい」


 兄の静止を無視し、雨蕾々は小走りで玄関へ向かう。そして目の前の光景を前にひゅっと呼吸が止まった。

 引き分け戸のガラス越しでは、ぼんやりとしたシルエットしかわからない。


 しかし、玄関の前に佇むその人が赤い傘を差しているのは間違いなかった。


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