第4話 ルヴナンもどき


「ごめんください」


 明らかに自分へかけられたとわかる女の声に、雨蕾々はびくりと肩を震わせた。

 しかし慎重な兄とは対照的に、無謀なほど大胆な性質たちの雨蕾々である。裸足のまま冷たい三和土ドマへ降りて玄関戸をガラリと開けるまで、数秒の躊躇もなかった。


「どうも」


 マスクをしているのでわかりづらいが、おそらく無表情のまま、女は首を竦めるような仕草をして見せる。会釈のつもりかもしれない。パタンと赤い傘を畳むと、億劫そうに長いウェーブヘアをかき上げた。雨蕾々はちらりと外の様子を窺ったが、雨も雪も降っていないように見える。どうやら女が手にしているのは日傘らしい。


「いまどきは幽霊もマスクするんだ」

 じとりとした目付きで女を観察しながら雨蕾々が呟くと、それが面白かったのか、女はへっへとおどけたような笑い声をあげた。


 墨のように深い黒髪と相反する、どこにいても見つけられそうなほど派手な模様の長羽織。その中には画学生が使うようなチャコールグレーのつなぎを着ている。寒々しい裸足のつま先をつっこんでいるバブーシュも黒革で、赤いのは傘だけらしい。


「お宅にタイラーいる?」

 唐突に、女はそう問うた。


「タイラー?」

「この辺にさァ、フワフワでクルクルのかわいこちゃんがぶっ倒れてんじゃないかと思って、迎えに来たんだけど」

「もしかして犀樹くんのこと? どうして知ってるの」

「そりゃァ、少し前に電話があって駆り出されたもんで。あたしも川崎住みだからおあつらえ向きでね」


 女はまたへっへと小さく笑う。雨蕾々は再び何かを尋ねようとしたが、玄関へ駆けつけた雨流が慌てて二人の間に割って入った。


「ちょっと待って、待って! どちら様です?」

 ほとんど叫び声に近い声音だったが、女は怖気づく様子もない。その視線を雨流に向けると、焦点を合わせるようにすっと目を細めた。


「あんたがアメルくん? どーも、お控えなすって」

雨流うりゅうです」

「ウリューくんよ。あいつ持って帰るからさァ、赤の他人の不審な女じゃぁございますが、ちょいと上がらせてもらうよ」


 彼女の口ぶりから、車でも持って来たのだろうか、と雨蕾々は再度外を見遣ったが、乗用車やバイクもなければタクシーの姿もない。


 女は雨蕾々の作業部屋を覗き込むと、歓声のような高い声を上げながら、横たわるセージュの傍に片膝をついた。


「おいおい、マジかタイラー」

 女は笑いを含んだ声でそう囁くと、意識のないセージュをひょいと背負った。セージュはさほど大柄ではないが、それを差し引いても、自分より大きな身体の男性を持ち上げる彼女が、雨流にはどうにも異様に感じられる。


 雨流は迷った。女への恐れからセージュに近づくことは憚られたが、かといってこのまま友人を連れて行かせて良いものかわからない。


「あの、そう、連絡先を! いや、電話番号と名前、あと身分証か何か……」


 咄嗟にそう口走ったが、雨流の言葉は徐々に尻すぼみになる。イレギュラーな事態に陥り真っ先に思いついたものが、どれも事務的で些末すぎはしないかと、我ながら恥ずかしくなってきた。己の画一的な発想力がなんだか情けない。


 だが、意外にも女は協力的な姿勢を見せた。


「あー、免許証は持ってきてないんだけど、身元確認なら会社の連中に頼む。超絶美人ワイフのダリマって言ったらわかる」

 女はセージュを背負ったまま器用に彼のポケットから名刺を取り出し、雨流の兵児帯へこおびの間にすいとそれを挿した。


「超絶?」

 雨流の後ろから顔を覗かせ、雨蕾々が怪訝そうに聞き返すと、ダリマはマスクを外し、初めてにっこりと品良く微笑んで見せた。


「美人ワイフ。いや、ハスバンドかも。どっちか忘れたけど、名前はダリマ。あたしオクサン。で、こいつダーリン。じゃ、あたしたち愛の巣に帰るんで。失礼しやっす」


「えっ」


 思わず、兄弟の口から間の抜けた声が漏れた。セージュが妻帯者だという話は、これまで一度も聞いたことがない。だがよくよく思い起こせば、既婚であるわけがないと、ろくに尋ねもせず思い込んでいた節はある。


 ダリマは沈黙してしまった二人の間をすっとすり抜けた。人ひとり背負っているとは思えないほど足取りが軽い。


「……あっ、待って。犀樹くんの帽子」


 雨蕾々は少し遅れてダリマの後を追ったが、家の中には既に影も形もない。ダリマが持って行ったのか、セージュが履いてきたはずのオックスフォードシューズも消えている。雨蕾々は狭い庭先を抜けて道路まで出て行き、360度を見渡して二人のシルエットを探した。しかし、静かな住宅街にはただ赤みを帯びた陽光が射すばかりで、寂しいほどに人の気配がない。


 ――なんだか怪談みたいだ。

 雨蕾々には、セージュが帽子だけを残して消えてしまったように感じられた。



  * * *



 どの路線の電車を使っても駅から遠い。そんなロケーションのためか、ダリマが棲み家にしている古びたガレージは格安で貸しに出されていた。広さだけは申し分ないが、いかにも零細企業用の倉庫という風体で、もちろん冷暖房など付いていない。貸したほうもまさか借主がここで寝起きをしているとは思ってもいないだろう。


 採光窓はすべてベニヤ板で塞がれており、裸電球が2つ3つ灯るだけの内部は常に薄暗い。ひんやりとした隙間風に撫でられて目を覚ましたセージュは、ポケットから取り出したスマートフォンの液晶画面を見た。17時を少し過ぎている。


「ダリマ」


 セージュがその名を呼ぶと、少し離れたところで「おーう」と声がした。


「タイラー! 言い忘れてた! 金貸してェ」


 ガレージの中で木製スツールを数脚重ねて運びながら、ダリマは大声を張り上げる。

 彼女の生業は家具職人だ。このだだ広いガレージはダリマの住居であると同時にアトリエでもある。


 セージュはポケットに手を入れ、財布の代わりに再度スマートフォンを取り出した。

「いま千円しか持ってない。アプリに送金するのでもいい?」

「出た~、QRコード決済。現代版胡蝶の夢」

 ダリマは苦々しい顔をする。


「タイラー。アプリとか電子マネーばっかり使ってるとあたしみたいになるよ。ネットバンクの口座のほうに送金って今できる?」

 セージュはダリマに指示されるがまま、スマートフォンで都市銀行の口座番号を入力した。


「きみだって作品を売るのにアプリを使ってるのに、よく言う……大体、どうしてお金がないの。先月は大口の注文で忙しいって言ってた」


 セージュが入金操作をしているのを横から眺めがら、ダリマは忌々しそうに顔を歪めて腕を組んだ。


「それがさぁ、参ったわ。愛しのクレジットカード様が凍結しちゃったもんで。カードの影響であちこち支払いが滞ってんだよ。だけど月末まで現金ないし、支払う手段もないし、超詰んでる。あんたも気を付けなァ。あと、今日はセージュ君にかなりガッカリなお知らせがもうひとつあります」


「やだ。聞きたくない」

「そう言いなさんな」


 不審そうに眉根を寄せるセージュの胸元に、ダリマは小さなカードを押し付ける。無理やり押し付けられたそれを手に取りよく見てみると、ダリマの運転免許証のようだった。


「きみって写真だけ見ると白雪姫みたい」

「その感想は気に入った。でもタイラー、問題は写真じゃなくて、上だな」


 上、と言われてセージュが目で追うと、交付日と住所がある。彼女の住所は書類の上ではセージュと同じで、見間違えようがない。


「もっと上、そんで右」

「……たいらダリマ。昭和46年10月……」

 音読しながら、セージュははっとしたように目をみはった。


「後生だよタイラー、これの更新頼むー! 試しに西暦で数えてみたらさ、この免許証のあたしって50歳なんだわ。カード会社も、わーフィフティーじゃん? って気づいちゃって、天命を知るイヤーのお祝いも兼ねてご親切に凍結してくれたってわけだわ。あんたも替え時だろ、ついでに頼むよ。オナシャス!」


 セージュは軽くため息をつくと、ダリマを黙らせるようにその口の中へ免許証を差し込んだ。

「もう1月だよ。青の季節ブルーセゾンなのに。そんなんじゃ一緒に戦えない」

 セージュは拗ねたようにダリマに背を向けたが、ダリマもすぐには挫けない。


「だから頼んでんだよ。むしろこれからが正念場だろ。今あたしがあんたの足引っ張ってるのはよーくよーくわかってる。だから、代わりと言っちゃァなんだけど、良いこと教えてやるよ。ベイビー」


 セージュはどこか物憂げな表情のまま、静かにダリマを振り返った。


「そのルヴナンみたいなのさァ」

 ダリマは両の手を使ってセージュの肩を指さしている。


「なんか変だな。ルヴナンもどきっつーか……張りぼて……てわけでもないが。何だろうな……ちょっと『着ぐるみ』っぽいか?」


 セージュは口の中で「着ぐるみ」という言葉を転がしながら、片方の眉を吊り上げた。

「ダリマの目には、僕がどう見える?」

「あー、お清楚な黒髪ロングヘアのギャルにべったり抱きしめられちゃってる。最初にあの兄弟の家で視たときは赤い浴衣を着た女だと思ったけど、別に和装ってわけでもないのか……その辺はブレブレだ。怒ってんのかなァ、超わかりづらいけど。愛ある抱擁よりかベア・ハグって感じ」


 セージュは埃を払うようにバーガンディのジャケットを手のひらで撫でた。

「実はちょっと変なんだ。珍しいことに、僕にもほんの少し視えている。もちろんきみほどはっきりとではないけれど」

「マジか。じゃあそんなに悪いもんでもないのかねェ。……まぁ、あたしには素敵で可愛いモンみたいにゃァ思えないけどな」


 セージュは顎に指を当てた姿勢のまましばし思案に耽る。


 セージュが意識を無くしたのは、雨蕾々の朗読を聞き終えた直後だった。その怪談の内容は締めくくりの一文までしっかりと記憶している。印象に残ったシーンはいくつかあるが、それとは別に気になる箇所もあった。


 洒落怖としては、それほど良く出来ているとは思わない。しかし何かが引っかかる。シンプルに表すならば「変な怪談」だ。それがセージュの抱いた率直な感想である。

 ただ、どこかが妙だと感じた原因について、今はまだ見落としている点が多いだろう。


 ――少し整理する必要がある。

 現時点では、ルヴナンが何処に潜んでいるのか、セージュには見当もつかない。だがそれを見つけ出すにはダリマに事の経緯を伝えるのが得策に違いなかった。


「ダリマ、場所を変えよう」

「かしこまりーィ」


 鼻歌を歌うような調子で応えながら、ダリマはお気に入りのバブーシュをつっかけた。


「よし、現金問題解決。ハンバーガー食べに行こうぜタイラー」



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