第2話 夕霧兄弟
「実はこれで結構困っているんだ。ただ、今すぐ困りごとを解決してくれるような人にも心当たりがなくてね。とりあえず話だけでも聞いてもらおうかと思ったんだ、きみに」
――霊に呪われたかもしれない、などと。
「犀樹君、呪いのビデオは知っているよね」
「うん。サダコというヒロインが活躍する邦画でしょう」
「貞子はヒロインなのかな……まあいいや、とにかくそれだよ」
雨流が引き合いに出した映画「リング」は、年代を問わず知名度が高い作品だ。公開から20年以上経った現在でも、未だJホラーの代名詞的存在である。
視聴すると7日後に死ぬとされる「呪いのビデオ」が本作のキーアイテムだが、実際は7日以内にそれを他者へ観せれば自らは死の呪いを回避できる。それが判明することで、今度は人から人へと呪いが拡大してゆく。
当初、呪いのビデオはVHSをビデオデッキで再生し視聴するものだったが、のちに制作された続編ではスマートフォンや他の液晶画面からでも「呪いの動画」として視聴できるものへと変容した。
「まあ映画と同じような話ではあるんだけど、最近配信者の間で噂になっていたんだ。呪いの動画っていうのがね。似たような話は以前から色々とありそうなものだけど……きみなら一つ二つ知ってるかな」
セージュは残念そうに首をすくめて見せる。
「僕もありそうだとは思うけど、具体的な話は今のところ手に入っていなくて。僕自身が配信者ではないからかもしれません」
「犀樹君もやったらいいよ、怪談朗読。有名な
「さすがに『リアル』や『コトリバコ』は無理だけれど、『猛スピード』や『旅館の求人』くらいなら少し頑張れば暗唱できるかも。何度も読んでいるから。でも、録音はしませんよ。僕は聞き手のほうが性に合っていますからね」
「気が変わったらいつでも言っておくれね。弟が新しい機材を買い揃えたばかりだから、あいつのおさがりでよければ必要なものは大体貸し出せるよ」
セージュは楽しそうに笑って頷きながら、顔にかかる長い髪を耳にかけた。
「さっきの呪いの話ですが、もしかして呪われたかもしれないというのは、きみじゃなくて
すぐには答えず、雨流は曖昧に笑う。セージュのほうを見るのが気まずいのか、スクエアの眼鏡を外し、曇ってもいないレンズを袖口で拭くような仕草をした。
「きみ、本題に切り込むのが巧いね。感心する」
「単なる『危険な好奇心』です」
セージュは囁くようにそう言うと、マスクを外して華奢な
セージュと知り合った頃の雨流は、実話怪談を執筆する怪談師だった。セージュは怪談奇談であれば何にでも興味を示すが、対して雨流は、自身の作品が実話であること、更にリアリティある表現であることの2点を重視している。しかしコロナ禍の影響で体験者への直接取材ができなくなり、昨年は新規作品がこれまでの4割までに激減した。
大学生の弟から動画制作をしないかと持ち掛けられたのはそんな折のことである。その頃は弟も大学が休校になるなどして暇だったらしい。「
内容は単純だ。兄の雨流が書いた怪談を、弟の
「怪談をやってる仲間内で、きみみたいに直接会って話す人は少ないからね。実は私も噂の全貌は知らないんだよ。聞いた範囲の噂話と弟の実体験を合わせてみると、ほとんど呪いのビデオと同じようだ。その怪談を聞くと呪われる」
雨流は記憶を辿るように、何度か膝の上で何度か手を握る。その間もセージュは無言のまま、ティーカップを弄んで手指を温めるようにして彼の言葉を待った。「一体どこから話したものか」と雨流は苦く笑う。
「私たちが観た動画はSNSに投稿されていたものだったと思う。弟のSNSアカウントへ届いたDMにURLだけが書いてあった。だから最初にその動画を観たのは
セージュはパーソナルチェアに座った姿勢のまま、膝の上に頬杖をついて前のめりになった。たまに舌なめずりをするように唇を舐めるのは、にやにやと笑いそうになるのを隠しているせいだろう。間近でその目付きを見れば、セージュが呪いの話を面白がっているのは一目瞭然だった。時たま気の毒そうに眉根を寄せるパフォーマンスも、雨流相手ではあまり意味がないのだが、それにはあえて触れず、雨流は話を続ける。
「もし映画と同じスタイルなら、動画のURLを拡散して他人に見せれば解決、といったところかな。だけど、なぜかそうじゃないんだよ。呪いを回避するにはまず、朗読されている怪談の内容を覚えるなり書くなりして記録する。そしてそれを新たに朗読して配信しなければならない、というんだ」
「配信?」
セージュは思わず声を上げたが、すぐに口元を隠すように紅茶のカップに口づけた。
雨流としては、若干気落ちしつつここまでやって来たのだ。弟が呪われたという話を披露してここまで興奮されるとは思わなかったから、なんだかこちらまで面白くなってしまった。カップを口に咥えたままのセージュから目線で話の続きを促され、雨流は若干笑いを堪えながら話を続ける。
「ええと、怪談のことだけど。内容……というかあらすじだろうか。それを大きく改変しなければ、朗読では違う言い回しをしたり細部が抜けたりするのは構わないらしい。まあ実際に呪われた人は必死なはずだからね、そんなお粗末なことはしないと思うし、どこが細部かなんてわからないから、大幅な改変はしないと思うけど」
「アメルくんはその噂を以前から知っていたんですか」
「確か、先月の怪談イベントで耳にしたんだと思う。雑談でだよ。そのときは眉唾だと思ったし興味が無くて、誰が言っていたかも忘れたんだけどね」
「では、怪談の配信者の間でも有名な噂ではない?」
「どうだろうか。私は本業が怪談師だから、配信者としては横の繋がりが弱くてね。でも、ごく少数の配信者しかこの噂を知らないのは、呪いの回避方法が特殊だからなのかもしれない。私の周りだけかもしれないけど、案外怪談をやる人って怖がりでね。動画を制作する手段のない視聴者へ無闇にリスクを負わせたがらない感じがするな」
雨流はそこまで説明を終えると、小休憩とばかりに再び紅茶を口に含んだ。
セージュが雨流に用意したのは、セイロンティーの一種であるルフナだった。鼻腔に抜ける、まろやかでスモーキーな香りが愉しい。捉えどころのない甘味を内包したようなその風味は、セージュにもこの部屋にもよく似合う気がする。
カップをソーサーの上に戻すと、両手で着物の襟を正しながら再び雨流は口を開いた。
「私たちが例の動画を見たときの話に戻るけど、雨蕾々はいつも朗読専門で、怪談を書けないからね。自分が再生してしまったものが噂に聞く呪いの動画だと気づいたとき、わざわざ私を呼びに来てその動画を観せたんだ。なんてことをしてくれたんだと真っ青になったけど、もし噂通りの手順で呪いを解くとしたら、確かにその怪談を書き起こす必要があるから、あまり怒れなかったよ。もちろん、メモでも取りながら一人でやってくれとは思ったけど、いつも二人でやっているからそれには思い至らなかったらしい。なんにせよ後の祭りだ」
「呪いの怪談をブラッシュアップするの?」
目を輝かせてそう問うセージュに、雨流は思わず声をあげて笑った。
「そうか。呪いの主はそうしてほしいのかもしれないね。私はそういうふうに考えたことはなかったけど」
セージュはずっと両手で包んでいたカップをようやくソーサーの上に戻した。ふと、思い出したように人差し指を上げて見せた。
「そう。呪いのビデオとは異なるけれど、手間のかかる回避方法という点では『不幸の手紙』に似ていますね」
「ああ、なるほどな」
雨流は思案するように眼鏡の
「そういえばそうだね。あれも送られてきた手紙を書き写して郵送するんだっけ」
「何日以内に、何人に、という2点の指定があるものが一般的だったようです」
『不幸の手紙』というもののルーツは知らないが、おそらくその最盛期は1970~80年代だろう。27歳の雨流にとっては大昔に流行ったものという印象が強い。若干20歳の雨蕾々などは、ともすれば存在自体を知らない可能性もある。
「先ほどアメルくんは、配信者が視聴者に対し無闇に呪いを撒き散らさないと言ったけれど……性善説や性悪説は関係なく、僕はごく自然な選択だと思います。少なくともオカルト好きにとっては」
セージュは少し尖った八重歯を光らせてにやりと笑う。柔和な声に似つかわしくない、どこか不穏な笑顔である。
「なにしろ呪物を取り扱うわけですから、これは僕らにとっては大変なことです。人を呪わば穴二つ、というのは洒落怖でも一種の定石だし、そういったセオリーの怪談は世に溢れています。僕は配信者ではないけれど、もし自分が呪いを撒き散らしたら、なにかしらの見返りがあることは懸念すると思う」
「見返りというのは、悪い意味だね」
「とても悪いもの。もともと千年以上前から、日本人は呪物と神仏を同一視する傾向があるし、オカルトの知識があればあるだけリターン……いわゆる『祟り』を恐れる。怪談を扱う配信者が他人に呪いをなすりつけることを忌避するのは、無意識的な自己防衛でもあるかもしれません」
「一理あるかもしれない。確かに好き好んで怪談朗読なんてやっている人間には、そういう躊躇があってもおかしくはないね。もしかすると不幸の手紙の怖さの本質も、手紙が届くことや不幸が降りかかること自体ではなくて、手紙を送ることに対するリターンのほうだったのかな。私なんかは小心者だから、他人に不幸の手紙を送る状況に陥ったら、どうしよう、ばちが当たるだろうかって、しばらくは悩むと思うだろうし」
セージュは脚を組み直し、再びその上に頬杖をついた。
「ところで肝心なことをまだ聞いていません。呪いってなに? 観たら死ぬんですか」
「しれっと物騒なことを言うなあ。さすがにそこまで悲劇的な話は聞いたことがないよ」
雨流は再び紅茶を手に取りながら首を振る。
「件の動画で語られる怪談は、殺された女の霊の話なんだけどね。その霊と思しき女に纏わりつかれるのが『呪い』だ」
「例えば?」
「目の端に一瞬人影が入る、一人しかいないはずの部屋で誰かの気配がする、夜道で誰かにつけられている感じがする。で、雨蕾々はというと、寝ているとき冷たい手に撫でられた気がすると言っていた。女の霊の具体的な特徴についてはさすがに例の怪談を聞いて貰わないと説明が難しいけど。雨蕾々と一緒に呪われてみたいなら、私が書いた原稿を読んでいいよ」
「それは良いな。僕は前から一度呪われてみたいと思っていたから」
「なんで? それじゃあさっきの話と真逆じゃないか。オカルトマニアは呪物の扱いに慎重なんじゃなかったの」
セージュは心外だと言わんばかりに両手を軽く振って見せる。
「他人を呪うかどうかという話とは別ですよ。僕自身がぜひ呪われてみたいというだけ。真性のオカルトマニアならごく自然な欲求です。そうだ、僕が雨蕾々くんのところへ行って直接話を聞いても構わない?」
これには雨流も頷くしかない。むしろ、可能ならばそうして欲しいと思っていた。面と向かっては言い難いが、セージュの積極性に甘えてしまいたい程度には、雨流も雨蕾々も呪いだの女の霊だのの存在に参ってしまっている。
ビスク・ドールのように無邪気な微笑みをたたえたまま、セージュは壁に掛けていた黒いフェルトの帽子を手に取った。
「きみは電車で先に行っていて。住所はメールか何かで送ってください。僕は赤いモンスターの卵を孵化させたいので歩いて行きます。きみの家がここから12kmくらい離れていればちょうど良いな」
* * *
来訪者の気配に玄関の戸を引いた
そんな雨蕾々の様子につられてか、セージュも同じように小首を傾げた。開け放たれた引き分け戸のガラスが寒々しい音をかき鳴らすのと同時に、セージュの長い髪が雨蕾々の頬を掠めるほど高く舞い上がる。
「犀樹くん、歩いてきたわりに随分早いね。兄さんもさっき帰ってきたばかりだよ」
「僕は健脚なんです。これでも戦いながら来たんですよ」
「戦うって? ひったくりか痴漢でもいたの?」
「ううん、ディアマント団の工作員。野生のモンスターを乱獲して改造する悪の組織です。道すがら3人倒しました」
「へえ、そんな人が近所に何人もいるんだ。知らなかった。すごいね犀樹くん、倒しちゃうなんて。おれだったら逃げるよ」
「そこの二人。玄関先でぽやぽやしてないで早く
居間のほうから雨流に声をかけられ、セージュは白いマスクを付けたままにこりと微笑んだ。
「お邪魔いたします」
雨蕾々が都内の大学へ進学した年、兄弟はそれぞれ横浜から上京したのだが、近頃は家賃の安い川崎で平屋を借りてシェアしている。
最寄駅からは徒歩15分、その上かなり年季の入った古民家だが、集合住宅は雨蕾々が録音作業をするのに不便だった。飲食店が立ち並ぶ大通りやマンションが多い駅前から離れているのも、その点ではかえって都合が良い。
「きみがコートを着てるところを見たことがないかも」
「カーディガンを着ていますし、歩くと熱くなりますから。高校生も制服の上にコートを着ないで歩いているでしょう」
怪訝な表情の雨流からハンガーを受け取ると、セージュは帽子についていたリボンを結びつけて返した。雨流はジャケットを掛けるために渡したつもりだったのだが、まあいい。
「犀樹くん、実家から貰ってきた紅茶があるんだけど飲む?」
「ありがとう。頂戴します」
「おれも兄さんも淹れ方がわかんないから開けてもないんだ。こっちで淹れてもらっていい?」
「うん、もちろん。急須はありますか?」
本来なら客人に茶を淹れさせる弟の無作法を叱るべきであり、また他人にお見せするような綺麗な台所でもないのだが、雨流は好きにさせることにした。
起業家で、若くして人を雇う身である平犀樹を世間知らず呼ばわりすることは憚られるが、彼の生来の性質はおそらく弟の雨蕾々に似ている、と雨流は確信している。
そういえば平邸で伊勢谷から「決して悪い人ではないから」と念を押されたばかりだが、要するにセージュも雨蕾々も独特な感性でもって生きているのだ。伊勢谷はセージュがまるで変人のように疎まれ、勘違いされはしないかと心配しているのだろう。
個性は異なるものの、セージュと似たような性質の弟を長年見てきた雨流にとって、伊勢谷の憂う気持ちはわからないでもない。
「ああ、これはハーブティーですね。淹れ方が3ヶ国語で書いてあるから、ヨーロッパのお土産かも。そちらの缶のほうはアールグレイティーです。どちらにしますか?」
「おれはどっちでもいいな。兄さんはなんとかグレイが好きらしいからグレイにしようか」
「アメルくんは宇宙人にも興味が? 僕は怪談奇談の類は好きだけれど、あまり詳しくないジャンルだな」
そういう名のアーティストがいるのだ、と台所へ向かって叫ぶのは野暮な気がして、雨流は無言のまま蜜柑の皮を剥く。
「これなんて書いてあるの?」
「簡単に言うと、ティーバッグをお湯に入れて10分から15分蒸らしてください、と」
「ハーブティーってそんなに待たないといけないんだ。待ってる間に水にならないかな」
「入っているハーブの名称が見当たらないけれど、喉に良いそうですよ。炎症を起こしている喉を傷めないようにわざと冷まして飲むのかもしれない。声を使う雨蕾々くんにはぴったりですね」
「その下に書いてある文は? 7って書いてある」
「7日以上咳が続くようなら病院へ行きなさい、と」
「へえ、優しい感じがしていいな」
外国製品とはいえ、本当にそんなことが書いてあるのだろうか。あとで確かめてみよう、と思いつつ、雨流は2つ目の蜜柑を剥く。
「僕の目分量ですが、この湯呑が大体200ml、こちらのマグカップなら250mlくらいが適量です。湯呑にはもっと沢山入れたくなるでしょうけれど、熱くて持てなくなるのでこれくらいの量に留めてください。紅茶はなるべく100℃に近い温度で淹れて蒸らしますから、本当は
ずっと耳をそばだてていたものの、雨流には犀樹がどのスプーンやマグカップを使っているのかが見えない。だんだん弟よりも自分のほうが彼のレクチャーを受けるべきなのではないか、と思えてきて、3つ目の蜜柑を放り投げて雨流は炬燵を出た。
「兄さん、録音してるところを犀樹くんに見てもらうの?」
台所へ入った雨流の顔を見るなり、雨蕾々は突拍子のないことを尋ねる。
「うん? そうしたいなら、そうしてもらったら」
セージュが自ら雨蕾々に話を聞きたいと志願してきたこと雨流にとっては計算外で、彼がここにいるのはただの成り行きだ。セージュにどれほど霊感的な能力があるのか雨流は知らないが、霊感があろうがなかろうが、霊媒師の類ではないだろう。だから彼に何かをしてもらおうという算段を、雨流は用意していなかった。
が、雨蕾々は少しばかり勘違いをしていたらしい。
「違うの? 例の、呪いの怪談を書き終えたって言ってたから、てっきり生贄かと思った。じゃあ、犀樹くんがおれの朗読を聞いて、代わりに呪われてくれるわけじゃないんだ」
常であれば、なんてことを言うんだ、と声をあげるところだが、雨流は思わず唖然としてしまった。
仮に噂通りであれば。リターンの有無はともかくとして、雨蕾々が件の怪談を朗読し、犀樹が呪いを
――うっかりして、友人を生贄代わりに連れてきてしまった。
雨流は一瞬血の気が引いたが、それでもやはりセージュは機嫌良く笑んでいる。
「その通りですよ、雨蕾々くん。きみの録音風景を見られるなら一石二鳥というものです。僕も早く呪われてみたい」
柔らかな甘みを含んだセージュの声音は、昂ぶる期待をはらんでか、普段よりも更に更に甘い。呪われることに対する彼の執着は、なんだか我儘な子どものようだ。
女の霊とオカルトマニアの好奇心を戦わせたら、案外オカルトマニアのほうが強いのではないか。と、雨流はくだらない妄想に耽った。
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