Episode.2 死霊のセオリー
第1話 訪問客
少し離れた通りから眺めても、その洋館の表構えはさぞ立派なものだろうとわかる。まさしく「屋敷」や「館」と呼ぶに相応しい貫禄だ。私はそれほど建築に明るくはないが、都内でこれほど古めかしい西洋風の個人邸を見かけることは少ない気がする。山手西洋館の観光リーフレットに平邸の写真を紛れ込ませたとしても、おそらく違和感はないだろう。
どうやら地元では多少有名な邸宅らしい。私が生まれる遥か以前には、吸血鬼の棲み家だとかお化け屋敷だとか面白おかしく呼ばれていた、と祖父からも聞いた。東京大空襲の戦火を免れた築100年だか80年だかの建築物であるこの平邸については、横浜出身の私より世田谷や調布で育った祖父のほうが詳しい。
何も考えず和装で来てしまったが、余所様には張り切ってめかし込んで来たように見えるかもしれない。まあ、たとえ私が最高級の
間近で見るといよいよ旧貴族的な趣を感じたが、意外にもその門戸は来る者拒まず、とばかりに開け放たれていた。しかも、中からは楽しげな女性たちの笑い声が聞こえてくる。
郵便受けの傍らにはカメラ付きインターフォンが設置されていて、これには思わず苦笑が漏れた。なんだか吸血鬼城の風情が台無しだ。私が小学生であったら少しがっかりしたかもしれない。
それに、この大きな郵便受けは宅配ボックスではないだろうか。そう思うと、ようやくこの屋敷が犀樹君の家らしく見えてきた。
時刻は約束の正午ちょうど、よりも15分ほど早いが、まあいいだろう。チャイムを鳴らしてみると、すぐに「ポラリスの平です」と応答があった。気持ちの良い男性の声だが犀樹君ではない。私が名を告げると、正面に見える玄関ドアではなく外階段を使い2階から入るよう指示された。
「あら、若様のお友達」
「いらっしゃいませ」
くすくすと笑う声のほうへ顔を向けると、玄関扉から女性グループが出てくるところだった。皆私の両親と同年代か、少しばかり若い人も混じっている。2人は私服、あとの2名は揃いの作業着姿で、額にはゴーグルを付けていた。
なるほど、彼女らが犀樹君の言う「メイド達」か。私は得心し、極力愛想の良い顔で軽く会釈をする。わざわざ2階から入れと言うのだから、もしかすると1階は彼女達のテリトリーなのかもしれない。
それにしても「若様」という呼び方はいささか時代錯誤な気がする。そういえば先ほどインターフォンで対応してくれた男性も、犀樹くんを指して「若」とか「若旦那」とか言っていた。
小洒落た外階段を昇ってゆくと、私がフロアにたどり着くより先に、長身の男性がドアを開いてこちら側へ出てきた。
互いにマスクをしているので当然と言えば当然なのだが、私の視線は自然と彼の黒い瞳に吸い寄せられる。
つるりとした
彼は律儀に私のほうへ身体を向けて、大きな体躯を折り曲げるように一礼した。
「
「いや、
「あっ、そうでした。大変失礼しました。わたくし、従業員の
そう言いながら、なかば押し込まれる形で私は屋内へと促された。履物はそのままで構わないと言われたので少し驚いたが、冬の
犀樹くんの部屋は3階らしい。私は曇った眼鏡を襟巻で拭くふりをしながら、不躾にきょろきょろと洋館の中を見回した。1階へ至る広い降り階段と、いたく質素な昇り階段とを見比べてみるに、犀樹君の自室というのは屋根裏ではないだろうか。昔は使用人部屋として使われていたスペースかもしれない。和洋を問わず古い屋敷に女中部屋は付き物だ。
「一応確認してきますので、このまま少々お待ちください」
伊勢谷氏はそう言うと、階段脇の壁をバンバンと叩きながら、一歩で二、三段を跨ぎ、あっという間に上の階へと昇っていった。
「若! お友達がいらっしゃいましたよ。御支度は? サンドウィッチは何個食べますか?」
彼の口ぶりは、なんだか無性に実家の母や祖母らを想起させる。
伊勢谷氏は先ほどのメイド達と違い、私服と思われるカジュアルなパーカーを羽織っているが、中途半端に開いたファスナーの隙間から薄い色のネクタイを締めているのが見えた。案外、彼も犀樹君の専属メイドか執事のような存在なのかもしれない。なにしろ犀樹君が代表を務める「ポラリス」の事業内容は派遣メイドによる家事代行であり、この屋敷はその事務所をも兼ねているのだ。伊勢谷氏がこの平邸で主夫の役割を担っている可能性はままある。
「伊勢谷くん、社長はいけません。さっき下から聞こえましたよ」
「すいません。私もまた言っちゃったなぁ、とは思ったんですが。お客様はすぐにお通ししても? サンドウィッチは何個食べますか」
階上ではしばらくそんな調子の会話がなされていたが、私はすぐに伊勢谷氏から3階へ上がるよう声をかけられ、ようやく犀樹君と対面した。
私を出迎えた犀樹君は、伊勢谷氏と同じく不織布の白いマスクを着用していた。地毛なのか染めているのかよくわからないセピア色の長髪を垂らし、もはや見慣れた
「ようこそ、アメルくん。きみに訪ねてきてもらえるなんて光栄です。どうぞお寛ぎください。楽しいものはあまりないけれどね」
あくまで私の名は「
3階はやはり屋根裏的な造りで、廊下を除けば20帖はありそうな細長い形状の部屋がひとつあるのみだった。ドア向かいの壁は屋根に沿って傾斜がついており、何箇所か穴を開けたような小さな窓がある。
見ようによってはだだ広い独房のようだが、床から天井までの高さが4mほどもあるためか、圧迫感や狭苦しさはあまりない。
入口から見て左の端にはマホガニー製と思しきデスクやカフェテーブル、対する右端にはベッドがぽつんと置かれている。衝立などはないが、プライベートとそれ以外とを一応分けているのかもしれない。
デスク前のソファへ座るよう私を促しながら、犀樹くんは重たそうなペットボトルを取り出し、ガラス製の電子ケトルへ水を注いだ。
クラシックなデザインのソファは、三人掛けと思しき広々した造りだった。家具はどれもヴィンテージ風で、どことなく統一感がある。私の斜め前にはゆったりとしたパーソナルチェアが置かれていたが、これはファブリックの色模様がソファと揃いだった。
私は犀樹君に、部屋の中に香りの出るものを置いていないかと尋ねた。というのも、私はアレルギーの類で香水やアロマオイルといったものが苦手なのだ。犀樹君は特にないと応えながら、繊細な模様が描かれたティーカップを2つ3つ手に取り見繕っている。
確かに不快感はなく、今にも咳やくしゃみが出そうだ、という気配もない。そもそも彼の部屋は家具が立派なことを除けばあまり飾り気のないほうで、小洒落たアロマディフューザーはおろか、花瓶のひとつさえ見当たらなかった。
おかげで私は惨めに鼻をティッシュで覆わずに済んだし、他人の部屋に対して文句を言う筋合いもない。が、それならば、と、私は落ち着きなく周囲を見回した。
この部屋中に充ちている花やハーブのような匂いは一体何なのだろう。実に些細なことだが、なぜだか私はほんの僅か、それが奇妙に感じられてならなかった。
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