ぬくもり


 トールはティシェに掴み返された感触に、先に照れが走って口を引き結んでいたが、彼女のこぼした声は確かに拾った。

 ――火が、怖い。

 けれども、共に過ごした時間の中で、彼女が火を怖がった素振りを見せた覚えはない。


「でも、ティシェさんと初めて会ったあの夜は――」


 火を熾していたではないか。そう言いかけて、口をつぐんだ。

 互いに掴んだ――否、握り合ったままのティシェの手が、こころなしか心細く感じたから。

 同時にティシェのうつむいた視線が、トールの手元に向けられていることに気付く。火熾しの道具だ。

 そこでトールの心は決まる。

 言いかけていた言葉は改めて飲み込んだ。


「――わかった。別の方法をとろう」


 トールがティシェの手をそっと離す。火熾しの道具を荷へ戻すため、ティシェに背を向ける――が、服を引っ張られる感覚に動きを止める。

 それは小さな力だった。それでも、トールを振り向かせる効力は充分に持っていて。


「……あ」


 ティシェから小さな声がもれる。少しばかり驚きをはらんだ声だった。

 咄嗟にトールの服を掴んでしまったことに気付いたティシェが、すぐにその手を離す。


「すまない」


 謝を口にした彼女は、蒼の瞳を小さく震わせた。

 その小さな動きに、トールの目は自然と穴口へと向いた。

 外は変わらず降りしきる雨。雨音がうろ内を満たす。

 雨音はトールの心をざらつかせるから苦手だ。と、そこでトールは茶の瞳を瞬かせた。そして思い至る。

 これは、ティシェも同じなのではないかと。

 ティシェと初めて会った、あの雨夜を思い出す。

 トールとティシェは同じ寂寥を知る者。

 心のざらつきは不安を呼び、やがて寂寥を運ぶ。

 トールは何かを振り払うように頭を振った。

 雨音に身を浸し続けるのはよくない。心を絡め取られてしまうから。

 荷へ火熾しの道具を戻すと、垂幕用の布を取り出す――前に、掛布を引っ張りだした。

 それを未だ立ったままのティシェへ差し出す。


「これ、羽織って待ってて」


 ティシェは差し出された掛布を見つめたあと、ゆっくりとトールを見やる。

 その蒼の瞳が揺れる様は頼りなく、どこか拠り所を探しているようにも見えて、トールの心はさらにざらついた。

 ティシェの瞳に滲む色――それを、自分も知っている気がした。


「今夜はここで明かそう。夜が明けたらグローシャを探しに行こう、一緒に」 


 一緒に。その言葉で伝わっただろうか。少なくとも、今は独りじゃないと。

 トールの言葉に、ティシェは蒼の瞳を瞬かせると、うん、と小さく頷いた。


「……ありがと」


 トールから掛布を受け取ったティシェは、それを肩に羽織るとまた岩に腰を下ろす。カロンは彼女の傍に寄り添うような形で身を丸めた。

 トールは荷から垂幕を引っ張り出す。穴口まで歩を進め、そこに幕を垂らした。

 雨音が遮られる。遠ざかった音に、ほっと息を緩めた。

 そんな彼の背を誰かが突く。思わずよろめきそうになり、非難めいた目で突いた主を振り返る。


「アーリィ……」


 だが、アーリィはトールの様子には意を介さず、彼の肩におとがい乗せた。フルゥ、と短な声をもらし、頬に頬を寄せて重ねる。

 柔らかなアーリィの羽毛の感触と、その奥からじんわりと伝わる体温に、トールは満たされた心地に包まれた。

 アーリィの天色の瞳が傍に在る。そこに存在を感じ、トールは茶の瞳を柔らかに細めた。そして、はっとして見開いた。

 ちらりとティシェを振り返る。

 肩に羽織った掛布を引き寄せて身体を丸める様は、何かから身を護っているようにも見えた。

 あの雨夜を思い出す。身を丸める彼女に寄り添う灯竜の姿を見た。けれども、瞬き一つでその姿は掻き消えてしまう。

 トールには今、アーリィが居る。だから、苦手な雨夜でもまだ平静を装えている。

 だが、ティシェはどうだろうか。彼女の傍に今、グローシャは居ない。

 火が怖いと言ったティシェ。初めて会ったあの雨夜では、彼女は火を熾していた。その傍にはグローシャの姿も在って。

 ティシェにとってのグローシャは、トールにとってのアーリィなのかもしれない。

 そんなことを、身を寄せてくれるアーリィを撫でながら、トールは静かに思った。

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