炎と雨音


 谷間から外れた路。地表から覗く岩肌、その間にぽっかりとできた岩のうろにティシェの姿はあった。

 脱いだ飛行帽とゴーグルは足下に置き、穴口近くの小岩に腰を下ろす。

 入り込む風が首元を撫でた。少しだけ肌寒さを感じ、肩を縮める。

 耐寒効果もあるつなぎを着ているとはいえ、服の隙間から入り込む風の冷たさは防げない。

 岩に狭められた空を見上げる。暮れの色が強くなっていた。

 夏の訪れを感じ始める時期とはいえ、夜の山は冷え込む。夜に染まって今よりも冷え込む前に、なんとか暖を取る方法を考えねばならない。

 この場にグローシャは居ない。他に暖を取れるものは、グローシャの背に荷として積んだままだ。


「手っ取り早く暖を取るならば、火を熾すことなのだろうが――」


 自嘲が口の端にのる。


「生憎と、火熾しの類は持っていないしな」


 ティシェは火がだめだから――胸中に気泡の如く何かが沸き上がる。吐息が一つ、こぼれた。

 胸がざわつく。脳裏に過るのは、燃え盛る――あれ。

 ティシェは過るそれを振り払うように頭を振った。けれども、一度思い起こすとだめだった。

 思い出す。あの情景を思い出す。迫り来るようなその衝動に、息を吐きだしてやり過ごそうとした。

 だが、瞬いたまぶたの裏に浮かび上がってしまう。

 浮かび上がったそれは、貼り付いてこびりついたように剥がれない。

 白銀の髪の幼子と、その目の前に広がる炎の海。時折爆ぜては火の粉を舞い上げる。

 炎は全てを呑み込んだ。ティシェの全てを呑み込んだ。

 残されたのは、幼子ただ一人。やがて、終わりを告げる雨音が聴こえ始めて――。


「――ティシェ」


 突として呼ばれた名に、ティシェははっと現実に引き戻された。

 のろのろと視線を落とすと、気づかう色をはらんだ紅の瞳と合った。カロンだ。

 随分と流暢に人の言葉を操るようになったなと、どこか感心しながらカロンの頭を一つ撫でる。


「匂い付けは終わったのか?」


「終わった。獣、寄って来ない」


 カロンが自らを差し出し、撫でろと強要する。

 それに苦笑しながらティシェが撫でてやると、カロンは満足そうに息をもらした。

 ここにティシェを残したカロンは、先程まで周辺に自身の匂いを付けて周っていた。

 獣は竜を恐れる。竜の匂いがする場は本能的に避けてくれるだろう。


「ありがとな」


 自然と口をついてでた礼は、何に対しての礼なのか。

 匂い付けか、はたまた、引き戻してくれたことか。

 蒼の瞳を伏せたティシェは、生き物のぬくもりを求めてカロンの頭を抱き寄せると、そっと身を寄せた。

 目を閉じれば、まだあの情景がこびりついていた。

 ああ、まぶたの裏に、全てを呑み込んだあの炎が揺らめいている――心が追想に絡め取られる。

 耳奥で、雨音が聴こえた気がした。あの日、終わりを告げた雨音が。


「――って、雨が降り始めていたのか」


 本当に聞こえていた雨音に、ティシェは顔を上げた。

 穴口から空を見上げる。暮れの色は厚い雲に隠され、大粒の雨を落としている。

 辺りは薄暗がりが広がり、その中で爛とカロンの紅の瞳が浮かび上がった。

 そろそろ夜の頃合い。カロンが得意な時間帯だ。

 どこかはりきった様子のカロンに、ティシェは仄かに笑みを浮かべて撫でる。


「頼りにしているよ」


 カロンの紅の瞳がさらに爛と輝いた。

 ティシェは笑みをほんの少しだけ深め、最後に彼の頭を一撫ですると顔を上げた。


「さて、本当に暖をどうにかしなければ」


 吹き付ける風が雨の冷たさもはらませ、ティシェはふるりと身を震わせる。

 グローシャと離れてしまう場面が今までにもなかったわけではない。

 だから、そのためのものもあるにはあったが、グローシャと共に荷とも離れてしまう想定はしていなかった。

 見通しが甘かった。ふう、と短く息を落とし、気持ちを切り替える。

 今は嘆いていても仕方ない。のちに荷物の小分けを検討するとして、今のことを考えねば。


「……せめて、明かりだけでも」


 なんとかならないか、そう思った時だった。

 カロンが薄暗がりの中で紅の瞳に鋭さを滲ませた。

 彼に警戒の色を見、走った緊張にティシェは腰を浮かせる。

 カロンが穴口、さらにその外へと視線を投じる。

 雨で煙る中に、ぽぉ、と灯りが浮かび上がり、ゆらりゆらと揺れていた。

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