願い、それは過去


 ちゃふん。水音が反響する。

 白く濁った湯を手ですくい、肩にかけた。

 ふぅうと湯の温かさに抜けるような息をもらし、ティシェは湯船に浸かる。

 その側では、ぬるま湯を張った桶にカロンが浸かっており、ティシェと同じように、鼻から抜けるような息をもらしていた。

 その様子にくすりと笑みをこぼす。湯に浸かると、温かさに筋肉も緩むのか、常よりも表情が感情に付いてくるなと密かに思う。

 部屋の隣室は浴室になっており、少し値は張るが、ティシェが宿を取る際に浴室付きを選ぶ理由の一つが、カロンである。

 さすがに共用浴室に竜を持ち込む度胸もないし、持ち込むわけにもいかない。

 ちなみにグローシャは、竜舎まで様子を見に行った際に、被膜を広げて何処かへ飛んでいってしまった。

 朝までには戻って来るだろう。

 普段はティシェと共に在ってくれる彼女なのだから、こうして時たまは羽伸ばし――被膜伸ばしとも言う――も必要だろう。

 立ち上る湯気が、高い位置に造られた窓から抜けていく。そこから除く夜空に、星の瞬きを見た。


 ――きみは、何か叶えて欲しい願い事でもあるの?


 昼間に出会った旅人の言葉を思い出す。

 ちゃふん。両手で湯をすくい、顔にかけた。


「願い事は……確かにあるな」


 けれども。顎から滴る雫がつくる波紋に視線を落とす。


「私の願いは、願いに対する願い出――やめなければ」


 あの願いは、誰も笑顔にならない。願ってはいけなかった願い。

 あの頃の己は幼かったから。それでも、それは言い訳にはならない。

 目を閉じれば、思い出せる。幼いながらに、強烈で鮮やかに刻まれたそれ。

 星が出ずるように、眼前に現れた竜――たぶん、本当に偶々だったのだと思う。

 だから、手を伸ばしてしまった。願ってしまった。

 そしてまた、かの竜も気紛れだったのかもしれない。

 幼き願いを、かの竜は――。


 ――がらごんっ。ばしゃんっ。


 突として響いた。浴室内に反響したその音に、ティシェはふける思考から覚めた。

 はっとして見やれば、桶を頭から被ったカロンが転がっていた。

 張っていたぬるま湯を頭から被り、とどめに桶を被ったカロンが、ぱちくりと紅の瞳を瞬かせている。

 驚きで固まったのち、その驚きを徐々に解し、紅の瞳が潤み出す。

 何をしたらこうなるのだろうかと胸中で思いながら、ティシェは手を伸ばして――引きつる僅かな感覚に、一瞬手を止めた。

 自信の胸元に視線を落とす。左胸の上、白く濁った湯から覗く爛れ――火傷痕。

 鎖骨よりは下にあるため、普段は衣服で隠れる箇所だ。

 引きつる感覚は、衣服が肌に触れる感覚で常は隠れるため、今のようなふとした瞬間に感ずる。

 日常動作に障ることはない、それ。けれども、一目でただの火傷痕にも見えぬだろう、それ。

 色濃く残ってしまったその痕は、形がまるで佇む竜の姿にも見えて――。


 ――がらごんっ。


 再度の音。桶の転がる音が浴室内に反響した。

 カロンの方へ視線を向ければ、起き上がろうとして足を滑らせたらしい彼の姿。桶はあらぬ方へ転がって行く。

 カロォォ。情けない声をもらすカロンに苦笑をもらしながら、彼を抱き起こすべく、ティシェは手を伸ばした。

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