少女と竜は今日も空へと飛び立つ


 ――ピルルルゥ……


 意識を揺り動かすような、身体に優しく響く声にティシェは目を開けた。


「……悪い。寝てしまっていたか」


 身を起こし、軽くかぶりを振る。

 瞬かせる視界が少しだけ滲んでいた。

 と。その目尻に生暖かな何かが触れ、ピルゥと声にティシェは顔を上げた。

 グローシャがちろりと舌を出してティシェを見下ろしていた。

 目が合えば、彼女はこつりと額に額をぶつけ、額を擦り合わせ、ピルルゥと声をもらす。

 橙と蒼の瞳の視線が交じり合った。


「……私は、泣いていたのか?」


 ぽつりと問えば、グローシャは額を押し付けてきて応える。

 何をしょぼくれているのか。ふすうとグローシャが落とした嘆息は、竜独特の息の匂いと、先程咀嚼していた種子の匂いとが混ざり合い、臭かった。

 そっと身を離し、ティシェは僅かにくしゃりと笑った。

 すると、グローシャが首をもたげて視線を投じる。

 ティシェもその視線を追――う前に、カロロォと鳴く声が一つ。

 視線を投げると、黒い塊がティシェを目掛けて、勢いよく駆けてくるところだった。

 それはその勢いのままに、ティシェの胸へと飛び込んでくる。

 胸を押され、一瞬だけ息が詰まった。

 だが、飛び込んできた塊はその様子に気付かず、カロカロとあわてた声をもらしながら、顔を上げてティシェを覗き込む。

 見上げる紅色の瞳が心配そうで、ティシェは思わず瞳を瞬かせる。

 ふんふんと鼻を鳴らすのは、何かを嗅ぎ取っているのか。

 カロンはティシェの身体に前足を付き、身丈を伸ばして、さらに彼女の顔を覗き込もうとする。

 そして、その目尻に涙の痕を見つけると、グローシャがしたそれを真似るように、カロンも小さな舌で舐め取った。

 が、思ったような味を感じ取れなかったらしく、カロンは訝しげな色を瞳にはらませながら首を傾げた。

 しばしその様を眺めていたティシェが、今度は大きく表情を動かして笑った。


「もう泣いてはいないよ。だから、しょっぱい味も感じないよ」


 あははと笑うティシェに、カロンは大きく紅色の瞳を見開かせてから、喜色に染める。

 キャロンキャロンと常の声を上擦らせながら、嬉しそうに笑い声をたてた。


「……駆け寄ってくれるくらい、心配してくれたんだ」


 ティシェはカロンを抱き寄せると、視界がまた滲んだ気がした。

 腕の中では、カロンがキャロキャロンと嬉しげに声を上げる。

 そんなとき、ティシェはふと視線を感じて顔を上げた。

 ハルルルルゥ。春告げの声がする。

 こちらの様子を見やる二頭の花竜。

 ティシェの視線を受けたそのうちの一頭が、のっそのっそと歩み寄って来る。

 そして、ティシェとカロンの前まで歩み来ると、花竜はカロンの方へと顔を近付ける。

 鼻先をカロンに押し付け、花竜がハルルゥと鳴くと、カロンもカロロォと応えた。

 やり取りはたったそれだけ。それだけだったけれども、竜達はそれで満足したようで、花竜が今度はティシェへ顔を寄せる。

 鼻先をティシェの顔へ軽く押し付ける。

 やはり、触れ合いはそれだけ。それだけだった。

 けれども、花竜は満足した様子でくるりと踵を返し、相方の元へと戻って行く。


「土臭い……」


 残それたのはそんな匂い。

 花竜の息はどうしてか土の匂いがする。

 それは最後まで解らずじまいだったなと思いながら、常の動かぬ表情でその背を見つめた。

 花竜は互いに身体を擦り寄せたあと、一頭が被膜を広げて飛び立つと、残る一頭も被膜を広げて飛び立つ。

 ふわりと華やかでいて穏やかな香りが広がり、花弁が舞い落ちた。

 ひらり、ふわり。舞い落ちる花弁。その向こうで小さくなっていく、二頭の竜。

 飛び去っていく花竜を見上げながら、ティシェはぽつりと呟いた。


「カロンは、私と一緒でいいのか……?」


 暫しの間が落ちた。

 そして、突として腕の中で黒い塊が跳ねた。

 ごんっとその頭がティシェの顎を殴打し、彼女はあまりの強さに後ろへ倒れ込む。

 別の意味で蒼の瞳を潤ませていると、カロンがその顔を覗き込んでくる。


「ちしぇ、いっしょ」


 拙い声。舌っ足らずな言葉。

 紅の瞳がじぃーとティシェを見下ろす。

 それだけで、十分だった。十分な気がした。

 ティシェは起き上がると、カロンをもう一度強く抱きしめる。

 グローシャはふうと呆れたように息を落としながら、ティシェに抱かれるカロンを見た。

 その顔がとてもご満悦そうだったので、グローシャはもう一度息を落とした。

 やれやれ、と気持ちを込めて。




 それから間もなく、ティシェとカロンを背に乗せたグローシャは、被膜を広げて今日も空へと飛び立った。

 さて、次に降り立つ場には何が待っているのか。

 これは少女と竜が、互いの在り方を想ゆるほんのひとこま――旅の一頁だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る