Episode 2.影は姿を想いて言を紡ぐ
影は姿を想いて言を紡ぐ
ぴちちち。朝の軽やかな空気に満ちた森に、鳥のさえずりが響く。
ティシェは森を発つために荷を整理していた。
その横では、グローシャが朝飯の干し肉をあにあにと咀嚼し、味を楽しんでいる。
ティシェが水で戻してようやく口に出来るようになる干し肉を、グローシャはパンを食べるように容易く食む。その様を見ると、やはり彼女も竜なのだと実感する。
いつも傍に在るものだから、ふとした瞬間に感じる違いに寂しさを抱いてしまう。
それはどうしてなのか。仲間意識を抱くがゆえの疎外感からか。
ティシェは荷整理の手を止めた。
「……そんなこと考えたって仕方ない」
ふう、と考えを振り払うように顔を上げる。
目を閉じたところで、己の根源へと通ずる記憶は一欠片もない。
だから、常に傍に在る存在にそれを求めてしまうのだろうか。
と、その時。はたとティシェは気付く。
ぱちくりと蒼の瞳が瞬き、表情は常の乏しいままに振り向いた。
見つめる先は己から伸びる影。否、その気配。
「……カロンがいない」
グローシャの方を向くと、ちょうど干し肉を食べ終えたところだった。
「グローシャ、カロン知らない?」
問うてみるも、さあ、と彼女は首を傾げるだけ。
動かないティシェの常の表情が僅かばかりに動き、はあと小さく嘆息がもれた。
◇ ◆ ◇
人の膝くらいまでありそうな背丈のある草むらが、柔く注ぐ朝陽に照らされてうごめく。
がさごそと音が移動し、びにょんと夜色の長物が草むらから伸びた。
丸い尾先が振れる。瞬間、鋭利になったそれが横薙ぎに払われた。
すぱんと見事に草は切られ、草むらに円形の空間ができる。
見晴らしの良くなった景色に、姿を現した夜色の子竜、カロンはむふうと得意げに紅の瞳を細めた。
カロロォ――拙くて幼い声は上機嫌。
かっぽかっぽと歩く歩幅は大きくなった。
草むらを尾で薙ぎ払いながら進んでしばらく。
カロンの鼻にふと甘い香りがくすぐった。
すんすんと鼻を鳴らし、紅の瞳がるんっと嬉しげな輝きを放つ。
さわと森を吹き抜ける朝風に、揺れる木々と踊る影。
そのひとつにカロンは身を沈ませた。
影の中で気配が動く。
それは地を滑り、影から影へ、時折陽に当たって欠ける影は避けながら、まるで水の中を泳ぐように。
木に重なる影。その樹表を気配は滑り登る。枝に這い、影から紅の瞳が覗く。
ぱちくりと瞬き、やがて目当てのものを見つけると、それは嬉しさいっぱいの輝きを宿した。
キャロンッ――声が裏返る。
影が形を伴って気配が這い出ると、ややして竜の姿がくっきりと顕現した。
枝にたわわに実る果実。先程の鼻をくすぐった甘い香りはこれだった。
これは甘く、とても甘くて、そして甘い。つまりは甘いのだ。
カロロォ……――味を思い出すと声がもれる。
小さく鳴きながら、飛膜を持った前足を伸ばした。
んー、届く。あと少し。頑張る。
懸命に前足を伸ばし、ちりっと爪先に掠れ、一気に伸ばした。そして、ようやく届く。
カロロロロォカロロォ――朝の森に、はしゃぐ声が響き渡った。
カロンが抱えるに丁度よい大きさのその果実は、以前彼が口にした際、その見事な甘さに心を打ち抜かれたものだった。
早速ひとかじりしようとカロンがくわと口を開けると、並ぶ鋭利な牙が鈍く光を弾く。
その牙が表皮に突き立てられようとした、その寸前。紅の瞳が瞬く。
すっと果実から顔を離すと、しばしカロンは果実と見つめ合い、やがて決心したようにひとつ頷いた。
「ちしぇ、あえ、る」
ティシェ、あげる――舌足らずの言葉を発し、脳裏に思い描くは白銀の髪に、蒼の瞳を持つ少女の姿。
彼女にあげることに決めた。
甘味はティシェも好きだし、何より甘味を口にした彼女は、常の表情から少しだけ緩んだ顔をするのだ。
それを見るのがカロンは好きだった。
よしっと決心したところで、さあ戻ろうと踵を返そうとして、彼の身体はぴしりと固まる。
下をちらりと確認して、すぐに視線を戻す。思ったよりも高い位置まで登っていたらしい。
影に潜って降りようにも、抱えた果実は影には一緒に潜れない。
かと言って、カロンは未だグローシャのように空を翔けることは出来ないのだ。
どうしよう。完全に降りる術が絶たれてしまった。
その状況を解した途端、紅の瞳が潤む。戻れない――その事実に、ティシェ達へ助けを求める声が朝の森に響いた。
*
膝丈まである草むらを進みながら、ティシェはカロンを探していた。
グローシャは万一カロンが自ら戻って来た時のために残してきた。
万一のためだ。彼が自力で戻って来たことは今の所ない。
腰にはつなぎにベルトを通し、そこに一応の護身用にと短剣を帯剣。
付近に熊や狼といった大型の獣が居るという話は聞いていないが、この森に居るとは聞いている。
万が一に遭遇してしまった時の護身にはなるだろう。
そもそもが竜の気配どころか、たっぷりと匂いまで染み込んでいるティシェの前に、のこのこと出てくる獣もそうは居ないだろうけれども。
竜の気配に獣は敏感に反応するのだ。
ややして、ふうと軽く息をついたティシェは歩みの足を止めた。
彼女の前には円形に刈り取られた草むら。屈み、その切り口に触れる。
そっと指先でなぞり、これはカロンの仕業だと判ずるなり、すっくと立ち上がった彼女は、首から提げて服下に忍ばせている笛を取り出した。
小さな笛は彼女の髪と同じ白銀に陽を弾く。
それを口にあてがうと。
「――――」
息を吹き込んだ。
音が森を走る。だが、その音は人の耳では拾えない周波の音である。しかし、敏感な竜の耳は拾う音。そして。
「……カロンはあっちか」
遠くから微かに聞こえる応えの声。
耳に意識を集中させていたティシェが再び歩き出す。
その先も乱雑に刈り取られた草むらの道が続く。
これを辿っていけばいいだろう。
ややして、木の上で情けなく鳴く子竜を見つけた。
カロカロと鳴く声が、悲壮感を持ってティシェへ必死に助けを求める。
常の表情で嘆息ひとつ。
「……カロン、影を伝って降りてきな」
このくらいの高さ、カロンならば造作もないはずだ。
なのに、当の彼は嫌々とそれを拒む。
どうしてだと蒼の瞳を凝らせば、カロンは何かを抱えている様子だった。
なるほど。それで影に潜れないのか。
ふむ。どうしようか。
動かぬ表情下で顎に手を添えて考える。
木を登れないこともないけれども、カロンを抱えて降りられるだろうか。それはちょっと厳しいか。
ならば、グローシャを呼んで手伝ってもらおうか。
そうだな。そうしよう。
そう決めて、ティシェはカロンを見上げた。
「カロン。グローシャを呼びに一度戻る。だから、もう少しだけ待ってて」
途端。カロンの紅の瞳が大きく潤んだ。
嫌々と激しく首を横に振る。
そして、ティシェの態度に煮え切らなかったのか、そこから飛び降りて――。
◇ ◆ ◇
温度の上がり始めた朝の空気。
カロンを探しに森奥へ消えたティシェはまだ戻らない。
あくびついでに口から飛び出た灯で遊んでいたグローシャは、さすがに退屈を極めてきたところだ。
遊んでいた灯が彼女の気持ちを察したのか、光を散らして空気に溶けてしまう。
ふすっとつまらなさそうに息を落とすと、ぺたんと地に腹を付けて伏せた。
早く戻って来ないのかな。
遠く、目覚めた鳥が森を飛び立つ翼の音が聞こえた。
自分も飛んで空から探しに行こうか。
でも、ここで待っていてと言われたしなあとぼんやり考えていた時。
土を踏む音を耳が拾い、グローシャは伏せていた顔を上げた。
やがて朝風に揺れる木々の合間から姿を見せたのは。
「……遅くなった」
果実を抱えるカロンを抱えたティシェだった。
だが、そのティシェの額が赤くなっており、その様はまるで何かにぶつかった痕のよう。
グローシャの視線に気付いたのだろうティシェが、彼女にしては珍しく、恨めしげな表情でカロンを見やった。
「……この、石頭」
ティシェの呻く声に、カロンは顔だけで彼女を見上げ、不思議そうに首を傾げた。
「……離れるのが嫌だからと、飛び降りて来る奴があるか」
そんな苦言をもらす彼女の顔へ、カロンは抱えた果実を彼女に差し出す。
蒼の瞳が果実とカロンの顔を何度か往復した。
「……これ、私に?」
「ちしぇ、あまい、すき」
拙い声で舌っ足らずに言葉を発し、紅の瞳が笑う。
驚いたように瞠る蒼の瞳に、グローシャも同じように驚きで瞳を瞠った。
「カロン、言葉を扱えたのか……?」
唖然としたように呟かれた言葉、カロンは悪戯に成功した幼子みたいに顔をほころばせる。
「えんしゅー、いっあい、した」
カロロロロ――驚いた様子を見せるティシェとグローシャを見回し、カロンは楽しそうに鳴く。
その後。果実を均等に丁寧に三等分したのち、一人と二頭はそれを美味しくいただいたのだった。
共に旅をする少女と竜。
これは、そんな彼らに小さな変化が訪れたひとこま――旅の一頁だ。
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