第5話 生まれたという罪と傷

 あきらは事務所兼従業員室へと向かった。

扉を開けると、笙鈴しょうりんが膝を抱えてしゃがみこんでいた。

 「大丈夫?大変だったね。」

 笙鈴は顔を伏せたまま反応しない。

 「ごめんね、フォローできなくて。時々怖いお客さんもいるんだよね。

  いつもはみんないいお客さんばかりだから。

  もうさっきのお客さんも帰ったし大丈夫だよ。」

 翠はなんとか笙鈴を慰めようとした。まだ反応がない。

翠はそっと笙鈴の肩に触れた。

 「…南京大虐殺!」

 笙鈴は叫んでパッと顔を上げた。

潤んだその目は力強く翠を睨みつけた。

 「…へ?」

 翠は間の抜けた声を出した。

 「ワタシタチ中国人は、ヤバンな日本人によって虐殺されたのヨ。

  国土を踏みにじりワタシのマチ南京では何十万と殺された。」

 翠は硬直した。

 「そのせいで、うちは貧乏、

  それでもかせぎたくて日本の短大まで留学して卒業シタ。

  ナノニ、どこの会社も中国人要らない言う。

  昔の戦争のせいで中国をめちゃくちゃにしたのにひどすぎる。」

 笙鈴は更に翠を睨みつけた。

翠は言葉を失い身体が寒くなるのを感じた。

 「ごめん、ごめんなさい。過去の戦争、僕たちは悪かったと思ってる。」

 僕が声を絞り出すように言った。

笙鈴は吊り上げた目を元に戻し、何の表情も無くなったようになり、タイムカードをきった。そしてそのままユニフォームを脱ぎ荷物を持って出て行った。


 翠は仕事を片付け、次のシフトの人に引き継ぎをし、帰宅した。

家に着き食事を終え家事を片付けて座布団の上に座った。

 “ワタシタチ中国人は、ヤバンな日本人によって虐殺されたのよ“

笙鈴の言葉が耳鳴りのように頭の中でぐるぐると回っていた。

スマホを取り出し、”南京大虐殺“と検索した。

それは、今では“南京事件”と呼ばれていた。そして犠牲者数は諸説あり、実際はもっと少なかったと述べる意見もあった。

翠の中では、第二次世界大戦は白黒の映像とともに回想された。

義務教育の授業でも、家のテレビでも時々第二次世界大戦を取り上げられ白黒の戦争の映像も見た。

人道とも思えない戦車や爆弾による攻撃、倒れている人、人。

また沖縄戦のひめゆり学徒隊が米兵から逃れ崖から飛び降りる映像も見た。

翠は、そうした戦争の惨さとそれを日本人が起こしたことについて深く傷ついていた。

(何で僕が生まれる前にこんな戦争を?)

翠が生まれてから、生活に困ることはなかった。いつも朝から夜まで灯るお店に行けば欲しいものを買えた。

世界では未だに紛争も絶えない中で、過去に戦争を引き起こした国、日本の僕たちは何事もなかったように平和に過ごせていた。そのせいか、第二次世界大戦の話題があがる度に胸がチクリチクリと針で刺される痛みを感じた。

翠は、財布からカードケースを取り出した。

“日本大学 文理学部 史学科

石見(いわみ)翠“

それは翠の証明書だった。


 次の日、講義後、翠はバイト先に来ていた。

笙鈴もシフトの日で、その日はもう事務所兼従業員室にいた。

ユニフォームは少し皺がより、ぼーっと壁を見つめていた。

 「昨日はほんとうにごめん。僕の話を聞いてくれませんか?」

 笙鈴は返事をしない。

 「日本は五・一五事件や、二・二六事件といった軍事クーデターが

  立て続けに起こり

  政党内閣は廃止され軍部による支配が強まってしまったんだ。

  これは本当なのです。

  善良な市民では手の及ばない軍に支配されてしまったんです。

  本当にごめんなさい。」

 笙鈴は口を開いた。

 「ワタシ、辞めます。」

 「え?」

 翠はすっとんきょうな声をあげた。

 「今日、これで辞める。さよなら。」

 「え、大丈夫なの?」

 翠は動揺した。

笙鈴はユニフォームを脱ぎ始めてそして鞄を手に取った。

翠は驚いたが、そろそろ勤務開始時間でレジが気になり、扉の方を見た。

 「ねぇ。」

 振り向くと笙鈴の顔が近づいてきていた。

そして右手からスマホを見せられた。

 「番号交換しヨ。」

 笙鈴は静かにそういった。仕事の引継ぎについて気にしていた翠は、突然のことに胸がざわついた。

 「ねぇ。」

 笙鈴は翠を急かした。

翠は急いで机に合ったメモ用紙を拝借し電話番号を書くと笙鈴に渡した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る