第4話 人の心


「…………」


 正直、六歳のガキに子育てなんて無理なんじゃないのか?

 と、思っていた時期が俺にもありました。

 結論から言って——無理です。


「ぶるるるるるる」

「……あ、ありがとう」


 交代するよ、と、俺の顔に濡れた鼻を近づけてきたのはミホシウルフの長嫁。

 ミホシウルフとは額に三つの星柄のような模様がある狼型の魔獣。

 そう、魔獣。

 俺は今、森の中で暮らしている。

 赤子を預かって——いや、押しつけられて?——そろそろ一週間経つのだが、この子の存在をスラム街の誰にも悟らせてはいけない、という条件を突きつけられたため森の中ほどまでやってきた。

 正直、死ぬと思っていたのだ。

 最悪、この子を森の中に捨てていくしかないのかもしれないとさえ、思ってた。

 本当に最悪だが、この世界は他人を見殺しにしなければ生きられない。

 俺もいよいよ生き延びるために自分の手を汚すのかと、苦しんだけれど……。

 森に来てすぐ、このミホシウルフの群れに遭遇。

 長の番である、このでっかい狼は赤子を見て目を輝かせ、嬉々とお世話してくれるようになったのだ。

 お乳を飲ませるだけでなく、排泄は舐め取ってくれる。

 泣き出したら群れのみんなで舐めたり鼻で優しくつついてあやしてくれるし、丸まって密集して眠るからあったかい。

 雨が降ると近くの洞窟に連れて行ってくれたし、必ず誰かしらが近くにいて周囲を警戒してくれた。神か?

 俺の面倒も見てくれて、仲間がよく果物を拾ってきてくれる。

 獣の肉も分けてくれようとしたんだが、どう見ても魔獣の生肉はちょっと……。


「————」


 そして、最近群れの狼たちの言葉がなんとなーーーくわかるようになってきた。

 今のは「見張り交代するぞ」「サンキュー」って感じだ。

 知性が高いとは思っていたけど、俺たちを食べるために育ててる……って感じはしない。

 本当に、純粋に「子どもはみんなで守り、育てるもの」という共通認識があるみたいだ。

 これに気づいた時の俺の気持ちは感動と同時に失望だ。

 魔獣たちの共通認識の方が人間よりもよほど理性的なのどういうこと?

 人間、魔獣以外かよ……。


『ぼうや、あなたも寝なさい』

「え」


 ぺろ、と頬を舐められる。

 長嫁おさよめの言葉が、はっきり聴こえた?

 気のせい?


「あ、あの、おれ、イスト」

『イスト? それが名前? 私はロビン』

「ロビン?」

『あら、[魔獣語]のスキルを得たのね? 思ったより早かったわ。賢い子。いい子ね。これでたくさん話せるようになったわ』

「え、え」


 ぺろ、ぺろと顔中を舐められ、さらに俺がその[魔獣語]の“スキル”を手に入れたことを聞いていた周りの仲間たちが顔を上げる。


『おお、ガキンチョ、おれたちのことばがんかるようになったのか』

『やったぁ。意思疎通できるようになったんだな』

『お頭も喜ぶぜ』

『おいおい、みんな騒ぐんじゃないよ! 赤ちゃんが起きちまうだろ!』

『そうだった』

『俺らの声、赤子には聴こえないんじゃないのか?』

『そんなのわからねーだろー』


 …………狼、めっちゃ喋ってんじゃん……。


 いや、魔獣だけど。

 え、ええ?

 こいつらこんなに喋ってたのぉ?


『イスト、そろそろこの赤子に名前をつけてあげたらどうかしら? 私たちは“チセ”と仮の名前としてそう呼んでいたんだけど、あなたの妹でしょう?』

「え」


 妹?

 ロビンに言われてしばらく頭が真っ白になっていた。

 妹……。


『あなたたちのように、街から捨てられたり、逃げてくる人間は多い。死体を捨てに来る者までいる。世界の理として、私たちはそれらを食べることもある。でも、イスト、私たちがあなたを見つけた時、あなたはこの赤子を世話していた。私はとても嬉しかったの。人間にも子を愛する心のある者がいるのだと』

「…………」


 返す言葉も、ございません。


 あああああ、魔獣に「心がない」って思われてる人間〜〜〜〜!

 でも俺が“イスト”として出会った人間誰一人として他人を思い遣れる心を持った人間いねぇぇ〜〜〜〜!

 その通り過ぎてなんにも言い返せねー!

 それですよそれ、本当にまさにそれです!

 ……でも、そうか。

 俺は、ロビンたちに、「心がある」ように見えたのか。


「っ……」

『つらかったのに頑張ったわね』

「……うっ、うううううぅっ」


 心が——どれほど疲弊していたのか。

 すり減って、すり減って、なんの罪もない優しい人たちが無惨に殺されていくのを見ているしかできない俺は……なんて無力で無価値なのか。

 大きな獣の手に包まれて、それが今まで俺を憐れみ、泣いてくれた女性たちを彷彿とさせて堪らなくなった。

 死んでしまった、彼女たち。


「!」

「あーうー」


 地面についていた俺の手を、赤ちゃんが握る。

 きゃあ、と笑う赤ちゃんの顔を、俺はその時本当の意味で見下ろした。

 ピンク色の産毛のような髪と真紅の右目、髪と同じピンクの左目。

 なんだこの子……左右の目の色が違う。

 今まで気づかなかったほど、俺はこの子を“見て”なかった。


「…………」


 もしかしたら、この左右色の違う瞳が原因で親に捨てられたか売られたかしたのかも。

 この世界の親は簡単に子を売る。

 この子は——俺と同じ。

 頭を撫でる。


「うん……」


 そうだな。

 俺は一人で、納得して、そして、ストンと落ちたその答えと共に一つ覚悟をした。


「うん、俺の妹だ。チセっていう名前、俺もいい名前だと思う。俺もチセって呼ぶよ」

『あら、いいの?』

「うん! あのさ、言葉がわかるようになったなら俺、ロビンや長やみんなに言いたいことがあるんだけど」

『まあ、なあに?』

「……助けてくれて、ありがとう!!」


 人の心。

 それも、思い出させてくれて。

 本当にありがとう。

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