第126話 決意

 どのくらい泣いていたのか時間の感覚がない。

 だけどアランは、ずっと黙って私の背中を撫でてくれていた。


 昂ぶっていた気持ちが、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


 遠い記憶の向こう――閉じ込められた部屋から見た、仲の良い夫婦と男の子と歩くティオナの姿を思い出した。


 きっとあの人たちが、ティオナを大切に育ててくれたのね。


(ありがとう……)


 記憶の中の家族に心の中で感謝を伝えると、鳩尾の奥にあったしこりのようなものが、スッと軽くなった気がした。


 エルフィーランジュが、最期まで抱え続けた未練がなくなったのね。もうこれで、オルジュ姫殿下を胸に抱き、涙を流すこともないわ。


 なら残りは、アラン――いえ、ルヴァン王。

 今度は私が、あなたを苦しめる後悔の呪縛から、解き放ってあげる。


 私は涙を服の裾で拭うと双眸を閉じた。心の奥底で、前世の記憶にずっと反応し、私の感情を揺さぶっていたものに意識を集中する。


 エルフィーランジュの人格に――


 そして、


「ルゥ、伝えたいことがあるの」

                          

 私であって私でないものが、ゆっくりと言葉を発した。


 操られているわけじゃない。心に思い浮かんだ言葉が、自然と口から出ている感じ。


 ただそこに私――エヴァの意思がないのが、不思議な感覚だった。


 アランが目を瞠った。


 だけどすぐさま彼も瞳を閉じる。ゆっくりと開いたときには、アランにはない影のある表情へと変わっていた。


 ルヴァン王の人格だわ。

 アランとルヴァン王の顔はあまり似ていないけれど、彼が纏う雰囲気にエルフィーランジュの心が大きく反応しているから。


 ルヴァン王の緊張と恐れが伝わってくる。


 彼はずっと後悔し、自分を責め続けた。

 その自念は自死へと繋がり、転生後はアランを苦しめ続けた。


 だから、エルフィーランジュ。

 彼に伝えてあげて、あなたの気持ちを――


 どんな想いで彼を待ち続け、どんな想いで彼の手で最期を迎えたかを。


「ルゥ、私は……幸せだった」


 静寂の中に息を飲む音が響いたかと思うと、強い力で両肩を掴まれた。


「そんなことないはずだっ! 私は……私は君を歪めたっ‼ 愛したなどというくだらない理由で現世に引き留めた挙げ句、君を守れず、辛い思いをさせることになった‼」


 眉根を寄せ、縋り付くかのような瞳で私を見つめる。言葉を発するたびに、自分の心を傷つけているみたい。


 かつてルヴァン王はエルフィーランジュに、言葉の裏にある意味を読みとるのが下手だと笑ったことがあった。


 でもあなたも同じみたい。


 いいえ。

 大切なことは、ちゃんと言葉にしないといけないんだわ。


「私を歪めた? 意味が分からない。あのとき、消滅ではなく存続を望んだのは、私の意思。あなたが気に病む理由は何一つない」

「だが、私に殺してくれと頼むほど、この世界に絶望したはずだ……」

「私は絶望してあなたに殺してとお願いしたんじゃない」


 ルヴァン王は虚を突かれたように、言葉を失った。激しく瞳を瞬かせながら、私を見つめている。


 そんな彼に、優しく語りかける。


「あのまま死ねば、ソルマンに殺されたも同義。私の死まで、あの男が関わってくるのが許せなかった。だから同じ最期を迎えるなら、あなたの手で送って欲しかった。あなたは救ったの、私を」


 とはいえ、彼には辛く残酷な役目をお願いしてしまった。だけど悲しいことに、人間として未熟だったエルフィーランジュは、ルヴァン王が自死を選ぶほど思いつめるとは、予想できなかった。


 だから謝るのは、彼女の方。


「ごめんなさい、ルゥ。ずっと、ずっとずっと辛い思いをさせてしまった。あなたが死ぬ必要は、どこにもなかったのに……」

「……恨んで……いないのか? 私を……」

「恨む? あなたには感謝しかない。からっぽだった私に、たくさんのものを与えてくれた。人々の優しさが詰まった穏やかな生活も、ティオナという血を分けた子の存在も……」


 そして誰かを愛する気持ちも――


 泣きそうな表情で私を見つめる彼の身体を、そっと両腕で包み込む。

 幸せだった日々の記憶が、彼を包み込んだ腕を伝って蘇る。


「精霊女王として産まれてから今まで、あなたと過ごした日々だけが『生きた』と言える時間だった」


 彼の唇から小さな声が洩れた。

 それは次第に大きくなり、嗚咽となって声を震わせる。青い瞳がみるみるうちに潤み、堪えきれなくなった滴がぽつりを私の肩を濡らした。 


「フィー……フィー……っ‼ すまない……本当に、ほんとう、に……君を守れなかった無力な私を、許して、くれ……」


 唇から零れ続ける後悔と懺悔の言葉に時折頷きながら、私は黒髪を撫で続けた。


 もう苦しむ必要はないのだと、

 あなたに罪はないのだと、


 心に刻み込むために。

  

 懺悔の声が小さくなっていく。ルヴァン王の心が、落ち着いてきたのね。


 私は両手で彼の頬を包み込むと、こちらに向かせた。たくさんの涙で濡れた彼の瞳が、視界一杯に飛び込んでくる。


 愛おしさが心から溢れて止まらない。

 からっぽだったエルフィーランジュの心を満たしてくれたのは、間違いなく、あなたの想い――


「ルゥ、私もあなたを愛してる。あなただけをずっと愛してる。これから先も、ずっとずっと愛してる」


 彼の瞳が見開かれた。だけどその表情は、嬉しさと恥ずかしさが入り交じったような微笑みへと変わる。


「初めてだな。フィーが『愛してる』と言ってくれたのは」

「愛するって気持ち、やっと分かった。あなたの存在が、教えてくれたの」


 エルフィーランジュはルヴァン王への好意を示すのに、愛しているという言葉は使わなかった。愛するという感情が分からず、彼に伝える資格がないと思っていたからだ。


 だけど、今なら言える。

 ううん、言わなきゃいけないの。


 抱きしめられていた彼がゆっくりと身を離し、私と真っ直ぐ向き直った。

 こちらに向かって伸ばされた指先が、私の前髪を優しく整えると、頬の輪郭をなぞりながら下りていく。


 もっと触れて欲しくて、彼の手に私の手を重ねると、頬を擦り寄せ瞳を閉じた。


 すぐ近くに気配を感じ、瞳を開くと、息がかりそうなほど近付いた彼の顔があった。目が合うと、彼の唇が嬉しそうに緩む。


「私もだ、フィー。君を……君だけを愛している。ずっと……そしてこれから先も――」


 途切れた言葉の続きを、重なった唇が伝えてくれる。


 愛おしくて、

 切なくて、

 苦しいのに幸せで。


 自分の中にあった別の何かが――エルフィーランジュの想いが、私の想いと重なった。


 エルフィーランジュはルヴァン王を。

 エヴァはアランを。


 愛する気持ちが溶け合っていく。


 そして同時に思う。


 私が――エヴァ・フォン・クロージックが、どれだけ辛い境遇にあっても、憎しみによって家を国を滅ぼさずにいられたのは、エルフィーランジュのお陰なのだと。


 彼女がどれだけ辛くても、心の自由を守り続けてきた強さが今世にも引き継がれていたからこそ、私は前を向いていられたのだと。


 その強さは私だけでなく、アランをも救った。


 もし私がクロージック家を滅ぼしていたなら、きっと彼は私を愛さず、ルヴァン王の呪縛からも抜け出すことができなかったはずだから。


(ありがとう……)


 心の中で感謝を告げると脳裏で銀色の影が揺れ、エルフィーランジュが抱き続けたたくさんの感情――愛する気持ちや喜び、怒りや悲しみ全てが流れ込んで消えていった。


 いいえ、消えたんじゃない、一つになったんだわ。


 エルフィーランジュと私が――


 触れあっていた唇が離れた。

 遠ざかる温もりを追うように、閉じていた瞳を開く。


 視界に映るのは、真剣な表情を浮かべるアランの姿だった。


「エヴァの身は何があっても守る。あの男には絶対に渡さない、絶対に……」

「ありがとう、アラン」


 彼の想いに喜びを感じ、口元が僅かに緩む。

 だけど、


「私も戦うわ」


 青い瞳を真っ直ぐ見つめ返しながら、自分の意思を口にした。


 アランは驚かなかった。

 代わりに覚悟が決めた様子で、大きく頷いた。


「ああ、ともに戦おう。本当の自由を手に入れるため。そして――」

「あなたと幸せになるために――」


 見つめ合う瞳に、決意が満ちた。

 発された互いの言葉が、私たちの想いのようにピッタリと重なる。


「「今度こそ」」

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