第110話 宣戦布告

 リズリー殿下の視線が、彼から少し離れたところで転がっている金色の霊具で止まった。


 霊具の周囲には誰もいない。

 近づくことで、再びソルマン王の魂が別の人間に憑依することを防ぐために、人を近づけないようにしているのだ。


 それを瞳に映しながら、リズリー殿下がまるで自分自身に言い聞かせるように呟かれる。


「……そうか。僕は、ソルマン王の魂に憑依されていたのか……そしてこんな破壊を……」


 殿下が再び俯かれる。

 そして顔を上げるとアランを真っすぐ見つめた。緑色の瞳を細め口元が笑みを形作る。


「操られていたとはいえ、申し訳ないことをした。そして、僕を解放してくれて礼を言う。本当にありがとう、アラン――」


 リズリー殿下の謝罪と感謝の言葉に、張り詰めていた周囲の気持ちが僅かに緩む。


 全てが終わったのだと――


 次の瞬間、リズリー殿下の左手が、霊具の方に向けられた。

 それとほぼ同時に霊具が浮き上がり、リズリー殿下と見えない糸で繋がっているかのように、彼の手の内に戻って来る。


 微笑みを浮かべていたリズリー殿下の瞳が見開かれ、口元に嘲笑が浮かぶ。


「――なんて、僕が言うと思ったか?」


 この場にいる全てを挑発するような声色が響くと同時に、辺り一帯が強烈な光一色に染まった。

 皆が混乱する中、


「エヴァっ‼」


 アランの声がすぐ傍で聞こえたかと思うと、私を守るように彼の腕が強くこの身を抱きしめる。


 光がおさまった。

 潰された視力が、徐々に戻ってくる。


 そこで私たちが見たものは、宙を浮き、こちらを見下ろすリズリー殿下の姿だった。


「空を飛ぶ魔法なんて、精霊魔法には存在しないはずなのに……」


 マリアが声を震わせながら呟いた。


 入国を禁じられていたリズリー殿下がここにやってこられたのは、きっとあの魔法のせいだわ。

 そう考えれば、全てにつじつまが合う。


 リズリー殿下の表情が、再び一変した。

 ソルマン王に憑依され、彼の意識が表に出てきたのだろう。


「……なるほどな。これが、貧弱なオドしかもたぬフォレスティの愚民どもの力か」


 リズリー殿下――いえ、ソルマン王が憎々しげに呟いた。しかしその表情は、私と視線が合った瞬間、出会ったときと同じ蕩け落ちるような柔らかさへとかわる。


 その豹変が恐ろしくて、私はアランの服をギュッと掴んだ。不安を感じ取ったアランが、私を抱きしめる腕に力を込める。


「エルフィーランジュ、余の元へ来るのだ」

「い、いや……」


 何とか、拒絶を言葉で示す。

 ソルマン王は少しだけ考える素振りを見せた後、何かに納得したかのように頷いた。


「そうか。この土地は三百年前、お前が蘇らせた土地。離れたくないと思うほど、愛着があるのだな」


 彼の口角が上がった。

 懐から取り出した紙切れが一枚、風にのって私とアランの足下へと落ちてきた。


「ならば、フォレスティ王国を滅ぼし、この土地全てをお前に捧げよう」


 地面の水を吸い込んだそれを見る。

 それは、バルバーリ王国からフォレスティ王国に対する、


 宣戦布告状だった。


 ソルマン王の喉の奥から、ククッと笑いを堪えるような声が聞こえ、私たちの視線がそちらを向く。


 彼の表情が、リズリー殿下のものへと戻っていた。

 緑色の瞳を意地悪く細めながら、楽しくてたまらないと言わんばかりにアランを見下す。


「アラン。僕がソルマン王に憑依されてから今まで、何も覚えていないと言ったが、あれは嘘だ。ハッキリと覚えているよ。お前の――」


 リズリー殿下の瞳が、勝ち誇ったように見開かれる。


「首を絞められ苦悶に歪む表情と、フォレスティ国王が倒れて絶叫する惨めな姿をな」

「……それがお前の選んだ道か、リズリー。後悔することになるぞ」


 今にも噴出しそうになる怒りを押し止めたようなアランの言葉に、リズリー殿下はニヤリと笑って返した。


「後悔するのは、この僕を貶め侮辱したお前だ。許しを請い、お前がもつ全てをもって贖え」


 リズリー殿下の瞳が、私に向けられる。

 ソルマン王のときとは違う、獲物を見るような目つきに鳥肌が立った。

 

 今まで私たちは、リズリー殿下はソルマン王に肉体を乗っ取られた被害者だと思っていた。

 無意識に、助けるべき存在だと思っていた。


 でも、それは大きな間違いだった。


 彼が、どのタイミングでソルマン王に協力していたかは分からない。

 だけどそれを決意するに至ったのには、以前私を連れ戻しに来た際、アランにやりくるめられたことによる屈辱が関係しているのは間違いない。

 

 次の瞬間、リズリー殿下の身体が高く舞い上がり見えなくなった。少しの間の後、辺りを照らしていた精霊魔法の光が、音もなく消えた。


 恐らく、再びソルマン王がギアスを使い、精霊を奪っていったのだろう。


 ただフリージアさんとレフリアさんが唱えた光の魔法は消えず、さらにルドルフやアランが精霊魔法で光を増やしたから、救助や復旧作業に支障は出ていない。


 ギアスで精霊が奪われた中でもアランたちが魔法を使えるのは、上位精霊が無事だったからって言っていたっけ。


(……ということは、フリージアさんもレフリアさんも、精霊魔術師なの? それも、ルドルフが知らない特別な精霊魔法の使い手ということ?)

 

 だけど私の思考は、ここで止まった。

 全身から力が抜け、目の前がグラリと揺れる。


 ノーチェ殿下が周囲に指示を飛ばす声が、まるで遠い出来事のように思える。


「エヴァっ‼」


 崩れそうになった身体を、アランの腕が抱き留める。

 温かい温もりと伝わってくる鼓動を感じながら、彼の顔を見つめた。


 朦朧としていく意識の中、遠い遠い昔の記憶が重なった。それに導かれるように名を――エルフィーランジュだった私が愛してやまなかったあの人の名を呼ぶ。


「……ルゥ?」


 すぐそばで息を飲む音が聞こえ、私を抱きしめる腕が小さく震えた。だけどすぐさま全身を包み込むように、強く強く抱きしめられる。


「ああ、だよ――」


 泣きそうな声色の中に諦めを滲ませたような声が、私の心に――今の私ではない、別の意識の中に染みこんでいった。


「フィー」


 ルゥとフィー。


 三百年前、ルヴァン王とエルフィーランジュが呼び合っていた、秘密の愛称。


 それを知っているアラン、あなたは――


 だけどそれを言葉にすることもできず、私の意識は深い闇の奥へと沈んでいった。

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