第101話 それ以上思い出しちゃ駄目だ

「エヴァ⁉︎」


 突然後ろから名を呼ばれ、私は振り返った。

 入り口の扉が開かれ、精霊魔法の光が駆け寄ってくる人物を映し出す。


「アラン? どうしてここに……」

「エヴァが一人で散歩に出たって報告を受けたから、ちょっと気になって……」


 やって来たのは、もうすでに自室で休んでいるはずのアランだった。


 さっきの護衛騎士の方が、アランに報告したのね?

 逆に心配をかけてしまって申し訳なかったかも……


 服装がおやすみの挨拶をした時と変わっていないところを見る限り、今の今まで起きていたみたい。安全な城内なはずなのに、彼が帯刀しているのが少しだけ気になった。


 私の前に立ち、すぐさま腰を落として視線を同じにしたアランの瞳が大きく見開かれた。

 伸ばされた彼の指が、スッと私の頬をなぞる。


「……泣いてたの?」

「あっ、えっと……」


 慌てて両手の甲を使って涙を拭うと、心配そうに私を見つめるアランを安心させるために笑った。


「ちょっと眠れなくて、散歩しようと思ってここに……今日は座学ばっかりだったから、頭の中が変に冴えちゃっているのかも、ふふっ」


 泣いた理由をごまかすためにおちゃらけて笑って見たけれど、アランの表情は硬いままだった。


 私の手を取って立ち上がり、肩からずり落ちそうになっていたショールを整えながら、もう一度アランは尋ねた。

 まるで理由を隠すなというように、その声色は恐ろしくかたい。


「どうして……泣いていたの?」


 正直、私にも良く分かっていない。

 だけど一つ分かるのは……先ほどの悲しみは全て、前世にまつわるものだということ。


 私には、何一つ前世の記憶なんてないはず――いいえ、今、一つだけ思い出した。


 さっき呟いた、『ルゥ』という名前は私が……いえ、エルフィーランジュが呼んでいたルヴァン王の愛称。


(そう……そうだったわ)


 懐かしい気持ちが湧き上がる。


 ルヴァン王と出会った頃のエルフィーランジュは、彼の名を上手く発音出来なかった。だからルヴァン王は、彼女が呼びやすいようにと『ルゥ』という愛称で呼ぶことを許した。


 そして彼も、エルフィーランジュを愛称で呼んでいた。


 偉大なる精霊の母を、人前で愛称で呼ぶなど不敬に当たると言って、二人っきりのときしか呼ばなかった秘密の愛称を――


「アラン、わたし……」

「……だめ、だ……駄目だ、エヴァ」


 アランの青い瞳が、精霊魔法の光で揺れる。

 戸惑いと恐れ、苦悶を瞳に宿しながら、小さく首を横に振った。


 そして私の身体を強く抱きしめる。


「エヴァ、君は君だ! だから思い出さなくていい。それ以上……思い出しちゃ駄目だ!」


 彼の肩越しに見えるのは精霊女王像、そして彼女を見下ろすように掲げられた、初代国王の肖像画。


 決して似ていないはずなのに、ルヴァン王とアランの顔が重なる。


 私が口を開こうとした次の瞬間、精霊宮の扉が大きく開かれた。扉が吹き飛ぶような勢いで開かれ、大きな音が建物の中に鳴り響く。


「誰だっ‼」


 私を守るように強く抱きしめながら、アランは精霊宮に足音なく入ってきた人物に鋭い声を投げかけた。明らかに、フォレスティ城で勤める者たちの行動とは思えなかったからだ。


 精霊魔法の光によって照らされた侵入者の顔を見て、私たちは目を瞠った。

 

「リズリー・ティエリ・ド・バルバーリ……何故お前がここにっ‼」


 今もバルバーリ王国にいるはずのリズリー殿下の姿が、私たちの前にあった。アランの驚きの声と怒りの入り交じった声が、精霊宮内に響き渡る。


 確かリズリー殿下は、マルティの行動を止められなかったとして、フォレスティ王国への入国を禁止されていた。もし彼がヌークルバ関所を超えようとすれば、フォレスティ側で止められて入国できないはず。

 

 なのに、どうしてここに……いえそれもそうだけど、誰にも気付かれずにどうやって精霊宮に来ることが出来たの?


 僅かに俯いていた殿下の緑色の瞳が、私の方を向いた。

 みるみるうちに彼の口元が緩み、ああっというため息のような声が洩れる。その表情は、殿下の顔をしているのに、全く別人のように見えた。


「会いたかったぞ、エルフィーランジュ。余はこの時を三百年間ずっと待っていた」

 

 彼の声を、表情を見た私の全身にゾクリとした寒気が走った。身体が小刻みに震え出す。自分の意思で止めることはできない。


 確かにリズリー殿下には悪い印象しかない。以前再会したときも怖くてたまらなかった。


 だけど今感じているものは、その時と次元が違う。


 身体の震えが止まらない。

 呼吸が浅くなり、心臓が今までに無いくらい激しく脈打っている。

 喉の奥から、熱いものがせり上げてくる。


 心だけじゃなく、身体すべてが今の殿下を拒絶している。

 それなのに、


(知ってる気がする……この顔を……この雰囲気を……)


 人が変わったようなリズリー殿下の表情を、彼が纏う異質な雰囲気を、どこかで見たことがある気がする。

 その記憶は、私が今まで生きてきた二十二年間の中に保管されているのではなく、全く別の場所から呼び起こされているような……


 記憶にはないはずなのに、さっきから鳥肌が止まらない。ゾクゾクとした寒気が背筋を走り、膝が僅かに震えていて気を抜けばバランスを崩して倒れてしまいそうになる。


 まるで……まるで、目の前のリズリー殿下に別に誰かを重ね、恐怖しているかのように――


 変化があったのは私だけじゃなかった。


「うそ、だ……なぜ……ここに……あ、ありえない、そんなこと、ありえるわけが……」


 アランの掠れた声が私のすぐ傍で聞こえた。私を抱きしめる彼の腕が僅かに震えている。


 ギリッと歯ぎしりの音とともに、今まで聞いたことのない低く、今にも噴出しそうな憎悪を押し殺したようなアランの声色が鼓膜を震わせた。


「ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリ……なの、か……?」

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