第81話 婚約者の練習ってことで……いいのよね?
私は、フォレスティ城内にある庭園の一つに来ていた。あの婚約者の練習と称して頬にキスされた後、私はアランに誘われてここにやってきたのだ。
辺りはもう薄暗くなってきていて、すぐそばに夜の気配が感じられる。
アランは私の隣を歩いているけれど、お互い会話はない。
私の場合は、彼の顔が恥ずかしくて見られないからっていうのが理由なのだけど。
でも、
(アランは……何を考えているの?)
頬に触れた唇の感覚が、生々しく蘇る。
温かくて、少し柔らかくて、耳のすぐ傍でリップ音が聞こえて。
そして大好きな人の体温が、いつになく近くて。
って、そんなに鮮明に思い出しては駄目!
今何考えているか、アランにバレちゃうっ!
とにかく、アランは婚約者の練習だって先に断りを入れていた。ならあのキスは、彼にとって練習の一つのはず。
それを勘違いしてしまったら、迷惑をかけてしまうわ。
ただでさえ、私のために婚約者の役なんてして貰っているのに……
婚約指輪に触れると、心が少しだけ痛む。
美しく剪定された茂みを通り過ぎ、庭園の一番奥にやってくると、人目を避けるように建てられた休憩用の建物が見えてくる。精霊魔法で灯された柔らかな明かりが、周囲を照らしている。
建物と言っても、屋根と柱だけという開放的な作りだ。中には休憩をとるための白い横長のイスと丸テーブルが置かれている。
恐らくこの場所は、数ある庭園の中でも、親しい間柄の相手と利用する場所みたい。
だって椅子の形が明らかに、横に並んで座るタイプだもの。
ということは、
「エヴァ、ここに座って?」
「あ、ありがとう……」
声を上ずらせながらお礼を伝えて座ると、当然のごとく、アランが私の隣に腰をかけた。
で、ですよねー!
やっぱり隣に来ちゃいますよねー!
ただでさえ、先ほどの婚約者の練習の一件で頭の中が一杯なのに、こんなに近い距離にいられたら、考えごともまとまらない。
できるだけ椅子の端っこに寄ってはみたけれど、
「寒くない?」
アランが私の顔を覗きこんできた。せっかく離れていた距離を詰められ、慌てて返答する。
「だ、大丈夫!」
「本当に? 日も陰ってきたし、それに……」
「それに……なに?」
アランが私の首元を一瞥した。すぐさまフイッと視線を外し、大きくため息をつくと、着ていた上着をおもむろに脱ぎだす。
「やっぱり駄目駄目。ただでさえ首元が大きく開いた服を着ているんだから。さっ、これを着て?」
「アランの上着を⁉ いいって! 寒いっていう季節じゃないでしょ?」
「いいから!」
半分押しつけられる形で、上着を羽織らされてしまった。
アランはアランで、私が上着を羽織ったのを見て満足にしつつも、
「……よく考えたら、この姿をあの男に見せたなんて……一生の不覚だ」
とブツブツ呟いている。
肌が露出していた部分に彼の上着が触れると、さっきまでこの服を着ていたアランの体温が伝わってくる。
寒くは無かったはずだけど、包み込まれるような温かさを感じると、気付かないうちに自分の身体が冷えていたのだと思い知らされる。
意外にも、恥ずかしさよりも、守られているかのような安心感で心が一杯になった。
布地も厚く、たくさん飾りがついているせいか全体的に重い。
ズシッとした重量が肩を圧迫する。
(こんな服を着て、アランは頑張ってくれたのね)
いつもの彼は、一応王弟という立場を考慮しつつも、楽な服装をしていることが多い。今日だって会った時、詰め襟が苦しそうな様子を見せていたっけ。
今日一日、窮屈だったに違いない。
それなのに、リズリー殿下やマルティ相手に、アランは隙を見せることなく、ずっと戦い続けていたのね。
「……アラン、ありがとう。今日は本当に……ありがとう。あなたのお陰で……大好きなこの国に留まれた」
お礼はさっき言ったけれど、溢れ出た気持ちを、心に押し止めておくことはできなかった。
アランが小さく笑う。
「エヴァが頑張ったからだよ」
「そんなことない! 私、本当は怖かったの。あれだけ威勢の良いことを言っておいて、いざ殿下を前にすると、怖くて堪らなかった」
嫌なことをたくさん思い出して、戦う前から負けそうだった。
だけど乗り越えられたのは、この手を包み込んでいた大きな手と温かさ、そしてすぐ傍にあった大好きな人の存在だ。
青い瞳を真っ直ぐ見つめると、アランの片手を両手で握る。
「アランがそばにいてくれたから、私は負けずに最後まで頑張れたの。だから……ありがとう」
彼は瞳を瞠った。
しかし瞳はすぐさま嬉しそうに細められ、握った手の上に、アランの手が重なる。重なっていた彼の手が、そっと私の手を撫でた。
「どう……いたしまして」
視線が合うと、何だか可笑しくなって、どちらからともなく笑い出していた。
もうすっかり周囲が闇に包まれ、精霊魔法の暖かな光に照らされた空間に、私たちの笑い声が響き渡る。
だけどお互い、握った手を離すことは無かった。
ふと、笑いが途切れた。
静寂が訪れる。
今なら……聞けるかもしれない。
「あのっ……アラン? えっと……さ、さっきのこと……なんだけど……」
「え?」
「私の頬っぺたに……き、キスした……こと」
アランの手が小さく震えた。
私が一人で盛り上がっているだけかもしれない。
壮大な勘違いかもしれない。
だけど、これ以上『かも』を増やしたくない。
「こ、婚約者の練習ってことで……いいのよね?」
それ以上でも、それ以下でもないの……よね?
お前の自意識過剰なだけだ、と私の理性が叫んでいる。その通りだ、と賛同するたびに、心が下を向いていくのが分かる。
私、ただの練習だと自分で言っておきながら、実は心のどこかで期待しているんだわ。
もうっ! 勘違いして期待するのは止めなさい、エヴァ!
これじゃ、本当にアランに迷惑をかけて――
「エヴァは、どっちがいい?」
「……え? どっちって?」
突然質問され、私は反射的に尋ね返した。
私の手を撫でていたアランの動きが止まる。
「さっきのこと。ただの練習にしておいた方がいい? それなら練習だったって答えるよ。だけど本当は……」
真剣な眼差しが私を射貫く。
「練習という言葉は、キスするための建前だったって言ったら……どうする?」
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