第61話 婚約者の証

 部屋に逃げ帰った私は、しばらく放心状態のまま椅子に座っていた。

 せっかく気分転換に外に出たのに、逆に気力を奪われてしまうなんて本末転倒だわ。


 その時、侍女からアランの訪問が伝えられた。


 部屋に入ってきた彼の姿を見た瞬間、視線が吸い寄せられ、反らせなくなった。


(アランが正装してるっ!)


 いつものジャケットにベストという服装ではなく、黒を基調とした軍服だ。

 着丈が腿上まであるジャケットの両肩には金色の肩章が揺れ、さらに右肩から首元に繋がっている飾緒が目を引く。腰には太めのベルトが巻かれていて、スラッとして見える。


 いつもラフな格好をしている彼とは違い、凜々しい。

 クロージック家で使用人として働いていたアラン・ルネ・エスタの面影は、どこにもない。


 ああ、私の大好きな人は今日も素敵です。

 リズリー殿下と遭遇し疲弊した心に、トキメキという名の癒やしが注がれる。


 ただ詰め襟が苦しいのか、時々顔を顰めながら首元を引っ張っているのが、アランらしいといえばアランらしい。こんな格好、不本意なんだけど、という彼の心の声が聞こえてきそう。


 アランはというと、私の姿を一目見るなり、微動だにしなくなった。ただ大きく見開いた瞳は私を凝視したまま、激しく瞬いている。


「えっと……アラン、どうしたの?」

「ご、ごめん、最高の出来――じゃなくて! い、いつもと雰囲気が違うから、少し驚いちゃって……髪型、変えたんだね。凄く似合ってるよ」

「あ、ありがとう……あなたの婚約者として、相応しい格好になってるかしら?」


 アランは私の問いに答える代わりに、編み下ろされた髪に触れた。瞳を細めながら、髪と一緒に編まれた髪飾りを指先でなぞると、口元を緩め、そっと手を離す。


「もちろん。逆に俺なんかの横に立って貰うのが申し訳ないくらいだよ」

 

 どこか熱の籠もった返答に、一瞬息が止まり心臓が激しく脈打った。

 手を繋ぐのには慣れたけれど、未だに面と向かって褒められたり微笑みかけられたりすると、恥ずかしい気持ちが身体に表れてしまう。


 何か言いたいけれど、喉が詰まって声が出ない。

 そんな私を不思議そうに見つめていたアランだったけれど、


「そうだ。今日はエヴァに渡したい物があったんだ」


と唐突に手を打ち、そばに控えていた侍女を呼んだ。


 彼に呼ばれてやってきた侍女が赤いクッション型の台座を差し出すと、上に乗っている物に視線を向けながら、アランがどこか誇らしげに口を開いた。

 

「エヴァ、今日はこれを着けていて欲しいんだ」

「これって……指輪とネックレス?」

「ああ。<フォレスティの星>と呼ばれる宝石を使った指輪とネックレスで、婚約した証として贈られる物なんだ」


 そう言ってアランは、透明な輝きを放つ宝石がふんだんにちりばめられたネックレスを手に取った。少しネックレスが揺れただけで、眩しいほどの輝きが目に飛び込んでくる。


「さ、着けてあげるから、後ろを向いて?」

「だ、大丈夫だから! ネックレスぐらい、一人で着けられるわ!」

「駄目駄目。これらの装飾品を着けるのは、婚約者の役目だと決まってるからね。諦めて俺に着けさせて」


 彼の手が、私を後ろに向かせた。

 うなじが見えるよう編み下ろされた髪を私の肩にかけると、程なくしてひんやりとした感覚が鎖骨辺りと首回りに走り、ずしっとした重さが乗った。


 お互いが向き合う形に戻ると、首元で輝くネックレスを前にしてアランの表情が綻んだ。


「ああ、想像以上に素敵だ。とても良く似合ってる」

「ありがとう、アラン。でもこんな豪華なネックレスだから、私なんて霞んで見えそうね?」

「……俺からしたら、霞んで見えるのはネックレスの方だけどね。さ、今度は指輪を着けるから手を出して?」


 ……ん?

 何か引っかかる発言があった気がするのだけれど……まあ、いいか!


 私は言われるがまま右手を差し出した。

 だけどアランは私の右手を見つめたまま、何故か呆れたように大きくため息をつくと両手を組んだ。


「さて、問題です。今のエヴァにとって、俺との関係って何?」

「え? えっと……今だったら、婚約者?」

「だったら、婚約指輪を着ける手はそっちで合ってる?」

「……違います」

「よろしい」


 アランは満足げに笑うと、私の左手をとってそっと指輪を着けた。


 左手の薬指に、親指の爪ほどもある大きな透明な輝きが宿る。それは部屋の照明の光に反射して、ネックレス同様キラキラと眩しすぎる光を放っている。


 これで、婚約者の準備は本当の意味で完了した。


 首に乗る重さと左手の薬指の輝きを見ると、フリとはいえ、今私は彼の婚約者なのだというドキドキと、この幻想も今回の一件が解決すれば終わってしまうという寂しさで、心が揺れる。


 私はあくまで婚約者のフリをしているだけ。

 本来、この指輪もネックレスも着ける資格は私にはない……のだから。


 思わず下唇を噛むと、指輪の上に右手を置いてギュッと握った。


 その時、私の両肩にアランの手が置かれた。彼の顔がかなり近くまで近付く。


「もう一度聞くけど、エヴァと俺の関係は何?」

「こ、婚約者……です」


 真っ直ぐ過ぎる彼の視線から目を逸らしながら、小さな声で答えた。


 な、何でそんなわかりきったことを聞くのかしら?


 さっき指輪を着ける手を間違ったことで、まだまだ私が彼の婚約者になりきれてないと心配になったから、再度関係を確認したのかもしれない。


 ……と思っていたんだけど、


「もう一度聞くけど、エヴァは俺の何?」

「え? さっきも言ったけれど、あなたの婚約者……」

「うん、念のためにもう一度聞くよ? 俺はエヴァの何?」

「わ、私の婚約者……」

「じゃあ、左手薬指に指輪を着けた理由は?」

「そ、それは、私があなたの婚約者であることを、リズリー殿下たちに見せつけるため……」

「そうだね。じゃあ改めて確認するけど、エヴァは――」

「ちょっ、ちょっと待って! さっきから同じような質問ばかりなんだけどっ‼」


 っていうか、何で答えが『婚約者』としかならない質問しか出てこないの⁉


 指輪を着ける手を間違えた件って、そこまでして私の心に婚約者であることを刻み込まなければならないレベルの失敗だったの⁉


 私の制止を聞いたアランが、何かに気付かされたように目を見張った。そして視線を泳がせながら、右手で額を押さえた。


「……ご、ごめん。エヴァの口から発されるとある単語が幸せすぎたから、何度も聞きたくなって……」


 何度も聞きたくなるとある単語って、何のこと⁉ 

 もしかして、


「……アラン、緊張してる?」

「え? そ、そうかな。自覚なかったけど……対面前に変に気持ちが昂ぶってるのかも……」


 アランがシュンッとした。


 リズリー殿下との対面を前に、緊張しているのは私だけじゃないと気付かされ、申し訳ない気持ちが湧き上がる。


 元はと言えば、私の問題なのだから。


「じゃあ、その『とある単語』っていうのを私がたくさん言ったら、アランの気持ち、少しは落ち着くかしら?」


 私のせいで大変なことに巻き込まれた彼の気持ちを、少しでも軽くしたい。そのためなら、どんな労力も惜しまないわ。


 さあ、その『とある単語』とやらを、私に教えて?


 そう心の中で息巻く私とは正反対に、アランは困惑した様子で視線を反らした。


「も、申し出はありがたいんだけど……今度は幸せの過剰摂取になって心臓がもたないと思うから……さっきので充分だよ」


 幸せの過剰摂取って、どういうこと⁉


 私の疑問は、突然彼が表情を引き締めたことでうやむやになってしまった。部屋に入ってきた時と同じ凜々しさに、目が惹きつけられる。


「それじゃ行って来るよ。エヴァは俺からの呼び出しがあるまで、この部屋にいて?」

「うん、分かったわ。くれぐれも気をつけて……」

「大丈夫だよ。今はむしろ、あの王太子と会うのが楽しみなぐらいだ」

「え、楽しみ?」


 今日の話し合いの内容のどこに楽しみだと感じる部分があるっていうの?


 不思議に思っている私の頬に、アランの指が触れた。そのままツツッと頬から首筋を通り、ネックレスにまで指を滑らせる。


「見たいんだよ。エヴァに恥辱を与えたあの馬鹿な王太子が、自身の愚かな行為を悔やむ瞬間を、ね」


 そう呟くアランの瞳は、ゾクリとするほどの憎しみを孕んでいた。

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