第59話 逃げ帰ったアラン(第三者視点)
自室に戻ったアランはベッドの前に立つと、力なくうつ伏せに倒れ込んだ。
ポスッという軽い音が、部屋に響き渡ると同時に、
「あ――……もうっ……」
じれったさと呆れが混じったような声を喉の奥から絞り出しながら、ゆっくりと仰向けになった。
視線の先にはベッドの天蓋が映っているが、彼の意識はそこにはない。
『せっかくお膳立てしてやったんだから、上手くやれよ?』
先ほどエヴァに聞こえないように言ってきた兄の言葉を思い出す。
(婚約者のフリをするなんて話……全く聞いていないんだけどっ! 兄さんのやつ……)
イグニスとは、バルバーリ王国からのエヴァの引き渡しの件で、何度も顔を合わせて話をしている。にもかかわらず婚約者の件は初耳だった。
寝ているところに水をぶっかけられたような、いや、それ以上の衝撃があった。
だがそれを告げたときの兄の表情を思い出す限り、意図して黙っていたに違いない。
事前に告げることによって、アランがヘタレ――いや、拒否しないように。
(兄さんのお膳立てがなくても、大丈夫だってのっ!)
腹立たしい気持ちを胸中で呟いてはみたが、しばしの沈黙後、
(……たぶん)
と、気弱な発言が付け加えられる。次の瞬間、アランは特大のため息をつくと右手首で目元を覆った。
(ああ、そうだよっ! 全然大丈夫じゃないよっ! まんまと兄さんの策略にはまったのにも気付かず、健気に婚約者の練習をするエヴァが可愛すぎて耐えられず、逃げ出してきた男だよっ、俺は!)
婚約者の話がでたとき、戸惑いつつも心の中では、良い仕事をしてくれたと喜んでいたとか、バルバーリ王国との一件が解決したら解消される婚約を、どうやって継続させるかを真剣に考えていたなど、あのおせっかいな兄には口が裂けても言えない。
手を握るだけで過度に緊張していたエヴァ。
いくらエヴァが婚約者のフリをすることを了承してくれたとはいえ、理性と感情は別物だ。
友人とはいっても異性のアランと手を繋ぐだけでも緊張もするだろう。
まあ普通に考えて、他人と肌が触れあうなど、たまたまであっても不快感を抱くに充分なのだから。
だけどこの調子だと、リズリーたちにバレてしまう。
せめて手を繋ぐくらいは自然に見せたい。
そう思ったアランはエヴァの予想通り、今以上に緊張することを彼女に経験させ、手を繋ぐハードルを下げようとしたのだ。
頬に触れ、ギリギリまで顔を近づけ、徹底的に彼女のパーソナルスペースに侵入した。
もちろん拒絶されたらすぐに身を引くつもりだったし、十中八九、拒絶されると思っていた。
だが、彼女は自分の手を振り払わなかった。
それどころか、瞳を閉じてジッとしていたのだ。
まるで、その先を望むかのように――
(いやいやいやいやっ! それは違うっ! エヴァが待ってるわけがないっ‼ 絶対、俺の主観と願望が入りまくってるだろっ‼)
ブンブンと頭を振ると、アランは思い浮かんだ妄想を振り払った。
好きな相手の行動の意味を、自分が見たいように受け取るのは愚かな行為だ。
あの時、もしかして待ってる? という願望の混じった主観と、それが間違いだったときに失うものの大きさを考え、後者を選んで身を離したのは、苦渋の決断――ではなく、正しい判断だった。
その判断を下すまでにかなりのメンタルが削られることにはなったが、男として、人として、大切なものを失わなくて良かったと心底思い、自分を褒め称えた。
彼女のことだ。
あまりにも自分が近付きすぎてどうすればいいのか分からず、咄嗟に目を閉じて固まってしまったのだろう。
エヴァが自分からの口づけを待っていた、と考えるよりもよほど自然な行動だ。
まあ結果的に、自然に手を繋げるようにもなったし良しとしよう。
だが、
(手を繋ぐだけでもあれだけ緊張していたエヴァが、腕を組んでくるなんて……)
彼女も婚約者らしい振る舞いが出来るよう、一生懸命だったのは分かる。
だが普通に腕を組む、というよりも、腕に縋り付いているに近かった。アランの腕を両手で抱きしめるように組み、かなり身体を密着させてきたのだ。
となると、嫌というほど彼女の柔らかさが伝わってくるわけで。
ゴロッと体勢を仰向けから横向きに転がると、エヴァに縋り付かれた方の腕をジッと見る。
(……柔らかかった。ただただ、柔らかかった……それに、いい匂いも……)
クッと声を漏らすと、アランは見つめていた腕を曲げ、胸の前で強く拳を握った。
奇跡的にアランは耐えた。
途中、エヴァが勘違いし腕を解こうとするトラブルもありつつも、必死で耐えた。
二人で腕を組んで立っている間、できる限りエヴァの柔らかさから意識を遮断し、頭の中で数を数え、心を無にすることに成功した。
だが、
『これから……二人で頑張ろうね?』
これがいただけなかった。
非常に、非常にいただけなかった。
頬は恥ずかしさからか紅潮していたが、エヴァは満足そうに笑っていた。紫色の澄んだ瞳をひときわ輝かせながら、純粋無垢という言葉が相応しい笑顔を浮かべ、あの言葉を発したのだ。
下心を抱く邪な自分にとって、エヴァの無雑な笑顔は眩しすぎた。
もちろん、『これから』という言葉が、リズリーやマルティとの対面を指していることは分かっている。
分かっていたのだが、
(ま、まるで……俺の告白に答えてくれたように聞こえてしまって……)
そこからさらに、肩に頭コツンというコンボを受けたことで、理性がエヴァの可愛さに耐えられなくなり、もう頑張れなくなり、適当な言い訳をして逃げ出してしまったのだ。
どれだけ都合よく解釈する耳と頭をしているのだろうか、と呆れを通り越して落ち込んでしまう。
でも、無自覚に可愛いを振りまくエヴァが悪いのだ。
そのたびに暴走しそうになる恋心を抑える身にもなって欲しい、と切に思う。
(……エヴァは俺のこと、どう思っているんだろうな)
少なくとも、好感度が高い友人男性の中では上位にいるだろうという希望的観測はある。
だが異性としてどうなのか、と問われると疑問符しか生まれない。
先日、告白寸前までいったはずなのに、エヴァの様子に変化はない。
少しでも、『アランってもしかして私のことを?』って意識して貰えたかと期待したが、残念ながら効果はなかったようだ。
彼女はいつも笑顔だし誰にでも優しい。
いくらアプローチをかけても、自分はその『誰にでも』の中の一人を逸脱することができない。
(まあその優しさも、今は問題ではあるんだけど……)
今まで恥ずかしさから緩んでいたアランの表情が、真剣なものへと変わる。
彼が考えるエヴァの優しさの問題。それは、バルバーリ王国のことだ。エヴァが出した提案を思い出すと、暗雲とした気持ちが胸中に立ちこめる。
(あんな国……放っておけばいいのに)
アランは今でも、バルバーリ王国が自滅するまで待つことが、エヴァにとって一番良いと思っている。だが彼女はそれを良しとしなかった。
自分が憎むのはあくまで王家とクロージック家であり、何も知らない国民にとばっちりがいくのは問題だと考えている。
確かにそうかもしれないが、バルバーリ王国の国民はギアスを使うのだ。
あれだけ国内で精霊の悲鳴が聞こえるというのに、誰一人気にも留めないような心の人間たちが集まっている国だ。
正直、王家も国民も同罪だと思っている。
もし自分が精霊女王だったなら、今すぐバルバーリ王国から自然の恵みを奪うだろう。
そして彼らが苦しみもがく姿を、笑って見ているだろう。
「……滅んでしまえ。エヴァを苦しめた国など」
”……滅んでしまえ。私から彼女を奪ったあの男の国など”
そう呟いたアランの脳内で、別の男の声が重なった。
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