第3話
俺は、自分の部屋のベッドに寝っ転がりながら、そんなことを考えていた。今は、小休憩中だ。疲れた体を、しっかりと休ませる。
今日の日課は、まだ終わっていない。当然、戦闘服は着たままだし、何か有事があればすぐに行動できるよう、準備はしっかりと整えている。
わが軍は基本、兵士一人に部屋一つ。広さにして四畳半が宛がわれている。
部屋自体は広くないが、まあ、ほとんどの軍隊が、数名で一室を共用していることを考えれば、破格の待遇なのかもしれない。
ベッドと、装備一式を保管するためのロッカーが、二畳程度の面積を占領して、存在感を放ちながら鎮座している。
その陰に潜むように、銃などの整備を行ったり、兵法について勉強するための机と、私物である小さな本棚が一畳程度の空間を占領している。
まだ占領されていない。つまり、人が歩ける場所なんて、一畳ちょっとしか残らない。そんな小さな部屋だ。
だが、それで困ったことはないし、今後も困ることはないだろう。
部屋には、というか基地には、娯楽らしい娯楽がほとんどない。
机の横に置かれた本棚には、擦り切れるほど読んだ作戦、狙撃、部隊編成、階級などの教科書で埋まっている。
もちろん、国民の血税によって出版された、支給品だ。その有り難い教科書たちのせいで、私物の本を入れる隙間なんて、ほとんどない。
私物の本なんて、軍の推薦図書である『兵士の心得』というものぐらいだ。
酒保とは、分かり易く言うと、
この本には助けられたと思っている。
歩兵を数ヶ月経験して、狙撃手になりたての頃。
歩兵が行う戦闘は、遠くにいる敵に銃弾を撃ちまくったりなど、物量によって押し切る戦い方が多い。
そのため、自分が誰を殺したかなんて分からないし、たとえ死んだとしても、誰に殺されたかなんて分からない。誰が仲間を殺したかも分からない。
感覚が薄れ、怖いような、酔っぱらっているような、ふわふわするような、そういう感覚に陥る。殺すという恐怖すら薄れる。
そして、同じ地獄を乗り越えたもの同士、味方とはもちろん、敵とも、不思議と、堅い絆が結ばれる。戦場とは理性では理解できない空間なのだ。
だが、狙撃手は違う。敵兵に見つかれば話は別だが、大抵は弾丸の飛んでこない場所で、冷静にスコープに敵の急所を入れて、引き金を引く。
相手を殺すという感覚をはっきり覚え、自分が殺した相手の最後を、燃えるような猩々緋の花を、スコープから見届ける。
初めて狙撃をしたとき。俺はその時のことを今でも夢に見る。悪夢だとは感じないが、少なくとも、幸せな夢ではない
森の木の上で、汗のにおいがするカモフラージュネットをかぶり、一キロ離れた丘に、的のように立っていた敵兵を、スコープで捉えたとき。
俺は、初めて誰かを殺すという感覚を知った。確かに、歩兵でも多くの兵士をライフルで撃ってきた。否、殺してきた。
迫りくる敵兵を迫撃砲で吹き飛ばし、戦車は、携行対戦車ミサイルで乗員ごと炎に包んだ。
だが、そのどれも、この衝撃というべき心の波には及ばないだろう。撃たねばならないのに撃てない。引き金がひけない。
あの時は、呼吸が荒くなり、足元がふわふわしてきた。
だが、俺は兵士だ。俺の狙撃には、少なくない命がかかっている。俺の後ろには、銃を持てない民間人がいる。
いつまでもそうしているわけにはいかない。数分か、数秒か、俺が腹を括って引き金を引いたとき、俺の心は先ほどまでの、荒波が嘘だと思えるほどに、凪いでいた。
誰かを思いやるように引いた引き金。俺の銃弾は敵兵の頭に直撃し、その兵士は空に血で花の絵を描いて死んだ。
たとえ腹を括ったとしても、罪悪感が、苦いものを齧った様に、後に残った。そこに、飲み込まれてしまいそうだった。
だが『兵士の心得』という本を読んでから考えが変わった。罪悪感や、ストレスから心を守る鎧は、信念だ。
信念で心を覆うことで、外からのいかなる攻撃にも揺るがず、苦しまない、強靭な心を持つことができる。
その戦場から、俺のスポッターをやっていた氷室は、俺の初仕事の結果を、俺の隣で、フィールドスコープを通して見ていた。
氷室は、無表情だった。
その時に思い出したことがある。
俺には先生がいた。俺に狙撃を教え、名もない戦場で、狙撃手同士の苛烈な撃ち合いで戦死した一人の狙撃手だ。
俺に軍学校を紹介して、兵士という道を与えてくれた、張本人でもある。俺の恩人だ。
氷室は、彼と同じ、死に慣れた顔をしていた。そういう人たちは皆、信念という名の鎧を持っていた。
そして、死に屈しない強靭な精神と信念を手に入れるためには、少なくない数の修羅場が必要だ。
氷室が俺のスポッターになる前に、何処で戦っていたかは知らない。
だが、その場所が、相当過酷な環境であったことは、間違いないだろう。
俺は今まで、自分自身はほとんど被弾することなく、七百人以上の兵士を殺してきた。
今俺は、先生や氷室と同じ顔で仕事をしているだろう。いや、だが、鏡に映る俺は、いつでも、普通の青年だ。どうやら、まだ足りないらしい。
どんな甘ったれも、戦場に立てば、考えが変わる。殺さなければ守れないし、何も手に入らない。それが現実だ。
俺は体の向きを変えて、壁にかけられた時計を見た。そろそろ夕食の時間だ。食堂に行った方がいいだろう。
俺は布団から降りると、雑念を払うがごとく、服についたしわを整えた。
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