第9話/一章-⑧

 寝ぐせと見紛うほどクリクリと跳ね回る栗毛のショートヘアに、緋色の瞳。

 半分閉じかけた目蓋が、眠そうにこちらを見つめている。小柄な痩躯をぐったりと折り曲げて、猫背気味に体育座りするその姿からは一切のヤル気を感じさせない。


「ユピさんって呼ばれてたけど、それが君の名前?」

 無言でコクリとうなづくその姿は、まるで西洋人形のようで可愛らしい。


「ユピさんはMMORPG系ライトノベルを執筆してます」

 口数の少なさを響が補足する。


「MMORPG?」

 聞き慣れない言葉だ。


「大規模多人数同時参加型オンラインRPG……つまり、多くのプレイヤーが同じ世界に集まって、一緒に攻略していくゲームです。その世界観をモデルにした物語は、ライトノベルでも人気のジャンルなんです」

 腰を屈めた響は、ユピテルの頭を慈しむように丁寧に撫でる。


「じゃ、さっきからこの娘がやっていたのは……」


「ゲームです。そして、ゲームと並行して執筆してるんですよ、ねぇ?」

 同意を促されたユピテルは、響の声からワンテンポ遅れてコクリと頷いた。


「はぁ?」

 理解が追いつかない。そんな事……可能なのか?


「ユピさんは三つの出版社から既に三十冊以上の本を出している大人気作家ですよ! ライトノベルだけに留まらず、ゲームの体験記やコラムのライターもやってますし。累計発行部数でいうと……二百万部は超えてると思います」

 我が事のように絶賛しつつ、両手の指を駆使して計算した響が驚きの数字を呆気なく告げる。


「二百万……」


 もはや自分と比べるのはやめた。悲しくなる。


 ユピテルの寝転がっていた長椅子に目をやると、タブレットやヘッドセット、VRゴーグルが散乱し、パソコンから延長されたコントローラーとキーボードが丁度手元に来るようにセッティングされている。なるほど、長椅子に横たわったまま全ての作業ができる環境らしい。この部内において、極上の待遇でもてなされていると言っていい。


「……イエローブル……」

 おもむろにポケットから取り出した小銭を、ユピテルは俺の手にそっと握らせる。


「イエロー、なんだって?」


「……イエローブル……エナジードリンク……買ってきて……」

まさか……


「パシらせようってか⁉」


「……雑用……命令……」

 感情を推し量りづらい半眼だが、俺を舐めきっている事だけはハッキリとわかる。


「ふざけ――」


「――ここでは」

 俺の怒気を遮るように一歩踏み出した紗里緒が、ゆっくりと述べ立てた。


「この三十二平米の部室の中では、面白いものを書けるヤツが一番! 偉いの!」


 その眼光は有無を言わせぬ鋭さで煌めいている。


「それが総合文芸部、通称『ラノベ窟』の絶対ルール……従えないのなら……」

 またしても扉が指し示される。


「出ていきなさい」

 冷淡な紗里緒の言葉にも動作にも、今は絶望を感じない。そうだ……この部室において、俺は教師ではない。一人の部員なのだ。


「……雑用なら……」

 土下座した時から、覚悟は決まっていた。


「ここにいてもいいってことだよな?」

 紗里緒の頬筋が僅かに引きつる。響がクスリと笑った。


「イエローブル、一丁! 入ります!」

 小銭を握り締めた俺は、力強く扉を開く。

 それは新しい未来への扉に違いなかった。




「……いい子……」

 汗だくで戻ってきた俺に、ユピテルは一言だけ呟き、のそのそと長椅子へ戻っていった。


「お疲れさま」

 手を止め、パソコンから視線を外した響が笑顔で労を労ってくれる。


 一方の紗里緒は、相変わらずの憮然とした表情でキーボードを叩き続けていた。それにしても暑い……。この時期に、スーツでコンビニ往復ダッシュはキツすぎる。腰を下ろすべく、辺りを見回す。


 部室の一番奥にはユピテルの居場所らしきぬいぐるみ型クッションが満載された長椅子。その手前に紗里緒の座る卓があり、それを挟み込むように長机が二本並べられている。扉側には響が座り、その向かい側にはモニターとキーボードが置かれているものの、人の気配はない。


「他にも部員がいるのか?」


「えぇ。もう一人。彼女は気紛れですから……」

 響はニコリと微笑む。その笑顔に含みがあるように捉えてしまうのは、今日一日で捻じ曲がった俺の精神のせいだろうか? しかし、今までのメンバー紹介を鑑みるに、不安しか浮かばない……。今はただ、変人でないことを神へ祈らずにはいられなかった。


「……来ていないなら、この席を借りるぞ。続きが読みたい」


「読み専ならうちにはいらないんですけど?」

 モニターと睨めっこしたまま、紗里緒のドスの利いた声が響く。


「書くよ! 書くって!」


 散々挑発されて、扱き下ろされて、書きたい衝動が猛然と心の奥底を突き上げる。しかし、ここは『ラノベ窟』だ。いきなりライトノベルと言われても、イメージなんて湧かない。


「はてさて純文学のプロ作家さんは、どんな作品を生みだすのやら……さぞや崇高な物語を紡ぐのでしょうね……楽しみ……楽しみ……」

 モニターから顔を上げた紗里緒の目は、嘲笑に満ちている。


「ううっ……プレッシャーをかけるな……ライトノベルを読むのも書くのも初めてなんだ……」


「では、私の本を読んでみて下さい!」

 軽く両手を合わせた響が、さも名案といった風に提案する。

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