#3 失ったもの
今朝、彼女の母親が朝食を持ってきた時、ナノの様子が明らかにおかしかった。
まず、母親がベッドの付近にくるまで、部屋に入ってきていたことに気が付いていない様子だった。寝転がっていたとはいえ、普通ならばドアが開いた音が聞こえて気がつくはずだ。それなのに、ナノは驚いた顔で母親のことをみていた。
そしてその後、母親に声をかけられている時は困った顔をしていた。
多分ナノは耳が聞こえなくなってしまったのだろう。
それだけではない。
母親が置いていった朝食を食べている時も、不思議そうな顔をしていた。
一口食べたと思ったら、直後に二口、三口と、ご飯を口いっぱいに頬ばって。
それからゆっくりと味わって飲み込んだかと思えば、彼女は静かに涙を零し、小さく震えた声で
「ごめんなさい」
と何度も繰り返し呟いた。
--ナノは今日、聴覚と味覚を失った。
そう確信に変わったのは、ナノとその主治医がやりとりしている様子を目の前でみてのことだった。
「全く聞こえてなさそうですね」
そういうと医者は紙とペンを取り出し、ナノに他におかしな様子はないかを尋ねていた。
「味覚も、多分……」
「味覚も……思ったより進行が早いかもしれないですね。
〔また明日も様子を見に来ますので、他の症状が出たり悪化したりした場合は教えてください〕っと。」
「わかりました。ありがとうございます」
ナノがお礼をいうと、医者は紙とペンをその場において、笑みを浮かべながら会釈をして立ち去っていく。
その後、母親が部屋を立ち去る様子を見た後、ナノが口を開いた。
「トワの声は、聞こえるのかな」
『聞こえる?』
そう尋ねると、彼女は安心したのかふんわりとした笑みを浮かべる。
思わず見とれてしまいそうになったが、彼女の声で我に返る。
「私、もうトワの声しか聞こえないんだ」
『怖くない?』
「さっきまでは正直、怖かった。私の世界から音が消えて、大好きな母の手料理の味も感じられなくて、本当にもうすぐ死ぬんだなって思ったら……でも、トワの声を聞いたら一人じゃないんだなって思えて、凄く、安心した」
『ボクはナノの傍にいるよ』
「……そういえば、彼も似たようなこと言ってたっけ」
彼、というのは昨日話していた初恋の相手のことだろうか?
……何故だかわからないが、この話を聞くと胸のあたりがざわざわするような、そんな感覚に襲われる。
でも、彼女の言葉を無視することはできなかった。
「初めて会ったあの日に、彼は約束してくれた。最後まで見守る、その時がくるまで私の傍にいるって。なのに」
彼女はそこで言葉を詰まらせた。
表情からは読み取ることのできない感情をかかえて、何も言えなくなってしまったもだろう。
……。
その、何とも言えない顔を、ボクは昔見た気がする。
あの湖で、あの日--
そう思った直後、また頭がズキズキと悲鳴をあげ、映像が流れだす。
そうだ、確か肩下まで伸びた金髪に近い綺麗な髪色をした少女が……あそこで何をしていたんだっけ?
そもそもボクはどうしてそこにいたのだろうか。
あともう少しで思い出せそうなのに、まだピースが足りないとでもいうのか?
『ねえ、ナノ』
「何?」
『ナノのいう彼がどんな人だったのかはわからないけれど、それがボクだったら……いや、何でもない』
「……。逆に聞いてもいい?」
『うん?』
「トワは、私のこと見捨てないでくれる?」
もちろん!
そう口にしようとした瞬間、言葉が詰まる。
傍にいる、といったのは本心だったし、見捨てるつもりなんてないのに、言葉にしようとすると辛い気持ちになる。
……ボクはナノと出会ってまだ3日しか経っていないのに、誰よりも彼女の死を受け入れたくないと思っているような、そんな感覚もあった。
ボクがしばらく黙り込んでいると彼女は静かに笑った。
困らせてごめんね、と優しく呟くと、ベッドの中に潜り込んでしまう。
その様子を見たら、このまま会話を終わらせてはいけないような気がして、咄嗟に声をかけてしまった。
『ナノ』
『そのままでいいから、聞いて』
今の彼女に対して何を言うべきなのか、正解がわからないまま、ただ思っていることを素直に伝えようとした。
言葉が詰まっても、できるだけ。
……ボクはただ、彼女を安心させたかった。
『見捨てたり、しないよ。ナノが……これは口にしたくないから言わないでおくね。でも、傍にいるから』
『今度こそ。……?』
今度こそ
自然と出た言葉に、自分自身が驚きを隠せなかった。
先程の記憶とリンクしたのかもしれない。ということは、あの時ボクは誰かを……?
そこまで考えると、意識が少し朦朧とし始めた。
まだ、完全には思い出せないけれど、きっとボクは誰かを、
……ナノを守りたかったんだと思う。
「トワ、ありがとう。……私はもう休むけど、好きにしてていいからね。あまり話せてないのはごめんね」
『大丈夫、ナノは自分のことを優先して』
数分後、ベッドからちらりとみえたナノの寝顔が安堵しきった様子だったのを確認した後、ボクは再び湖へと向かうことを決意した。
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