無重力猫

 僕はレポートの締め切りに追われていた。明日提出なのに半分も書いていない。どうしよう。僕は焦っていた。コーヒーや栄養ドリンクを飲み、寝ずにレポートを書き続けた。

 それでも眠気はやってくる。四畳半の部屋で僕はため息をつき、そして、眠ってしまった。

 起きた時、もう陽は昇りかけていた。急いで時計を見ると、締め切りまであと3時間もなかった。何とか間に合うか?いや、しかし、資料が足りない。今から図書館に行くわけにも行かない。どうしよう。

 猫の手でも借りたい。本当にそう思った。

 そう思った時に鈴の音が鳴った。 

 鈴?

 どこから聞こえてきたのだろう。外からだろうか。それともとうとう頭がおかしくなって幻聴が聞こえ出したのか。

 そんなことより、とにかく今はレポートを書かなければ。僕は水をコップに注ぎ飲むと、パソコンを起動させた。

 しかしどれだけ待ってもパソコンは起動しなかった。

 僕は焦った。とにかく焦った。どうしたんだ。嘘だろう?

 どうやらパソコンは壊れたみたいだ。

 僕は絶望し、煙草を吸った。普段は吸わないから咳き込んだ。何をしているんだ俺は。

 自己嫌悪と怒りと後悔で頭が混乱した。

 その時、また鈴の音がした。

 おい何だってんだ。俺は今苛立っているんだ。

 そんなことを言おうとした。でも誰に言おうとしたんだろう。

 ふと天井を見上げる。

 猫がいた。

 猫?

 天井に猫が張り付いていた。重力を無視して天井を優雅に歩いていた。少し歩くと、天井を蹴って宙に浮いた。そこで二回くるりと回転し、床にふわりと着地した。スロー再生で飛び込みを見ているみたいだった。

 しかしこの猫は何だ?どこから入ってきた?そしてどうして重力を無視して動ける?

 僕は本当に狂ってしまったのか?

 猫が床を蹴り、椅子に腰掛ける僕と同じ目線まで浮いた。

「お前は本当に俺の手を借りたいのか?」

 少ししゃがれた声でそう言われた。でも猫にレポートが書けるのか?

「猫を舐めるなよ。猫はレポートくらいかけるし、何なら本の要約をしてやることもできる。何でもいいぞ。俺は何でもできる」

 かなり自信のある猫のようだった。何でも、か。頼んでみる価値はあるかもしれないな。

「じゃあ、このパソコンを直してくれるか?」

「お安い御用さ」

 猫が手を触れると、たちまちパソコンは起動した。

「どうやったんだ?」

 思わず僕はそう言った。

「猫は何でもできるのさ」

 僕は素直にすごいと思った。猫を侮っていた。

「じゃあレポートを書き上げることもできるの?」

「勿論できる」

 猫はキーボードに手を置いた。すると、ディスプレイに文字が打ち出されていった。僕の文体で、僕が書くであろう文章が、書かれていった。

「すごいな。本当にすごい」

 とうとうレポートが書き上がった。

「ありがとう。レポート提出に間に合うよ。この講義の単位だけは落とせなかったんだ。必修だからね」

 猫は誇らしげに鼻を鳴らした。そして言った。

「では、俺の願いも聞いてくれるな?」

「願い?俺にできることなら何でもやるけど」

 猫はちょっと黙った。髭を揺らし、こう言った。


「死んでくれ」


「死んでくれ?」

 僕は猫の言葉を繰り返した。死んでくれ?どういうことだ?冗談だろうか。冗談にしてはあまりセンスがないけれど。

「字義通りの意味だよ。死んでくれ。俺は全人類に対し死を望んでいる。はっきり言って迷惑なのだ。俺たち猫もお前らと共生する道を探った。お前ら人類が俺たちに寄り添えば、共生の道もあるのだろうと思った。しかし、結局人類は猫を利用するだけ利用し、省みることがなかった」

 猫はそこで言葉を切った。

「そんなことはない。僕らは猫に対してそんなに悪いことをしてきたかな?一部の人は猫を畜生のように扱ったかもしれない。でも大多数の人は猫を可愛がっていたはずだよ」

「猫という表現がまずかったかな?俺が言っているのは、無重力猫についての話だ」

「無重力猫?」

「ああ。無重力猫はあらゆる問題を解決するための言わば最終手段だ。第三次世界大戦中に製造され、現在では敵を脅かすための道具になっている」

 無重力猫。そうか、この猫は反生物のことを言っているのか。あの噂は本当だったのか。

 反生物。生物の姿をしながら、生物とは異なる存在。科学的に遺伝子を組み替え、様々な化学物質を投入された、生物を超えた生物。超能力と知恵を持つ存在。ただし、人間ほどの知能は持っていないはずだ。俺のレポートを書けたのは、こいつの知能ではなく、プログラムされた能力を使っただけなのだろう。

 実在したのか。

「どうして僕を直接殺さない?」

「自由意志を尊重しているからだ。できれば自死を選んでくれると助かるんだよ。僕だって人道的な考えを持っているのだ。だからまずお前の頼みを聞き、次にお前にこうして俺の願いを伝えている」

 反生物は人を殺せない。あらかじめそうプログラムされているはずだ。だから、今俺に直接手出しをしない。その方が簡単なはずなのに。

 かといってこの猫を捕まえるには、多少知恵が必要だな。どうするか。

 そうだ。

「わかった。死ぬよ。でも死に場所くらい選ばせてくれ。崖からの転落死。どうだ?」

「お前の死に方はどうでもいい。死んでくれさえすれば」

 このやり方で全人類を倒せると思っている点で、お前たちは負けているよ。そう言ってやりたかったが、堪えた。

「車で崖から飛び降りる。どうだ?一緒にドライブしないか?」

「ああ。俺はお前の死を見届けないといけないからな」

 俺は猫と車に乗り込んだ。そして車を発進させた。

 車を走らせていく。反生物か。本当にいるとは思わなかったな。でも何故か冷静な自分がいる。あまり眠っていないからだろうか。

 信号が赤になる。ブレーキを踏む。停止線の手前で止まる。

「なあ、お前らは人類のいない世界で何をする気なんだ?」

「さあ。お前らがいなくなってから決めるさ」

 信号が青に変わる。アクセルを踏み込む。

「ちゃんと崖に向かっているのだろうな?」

 猫が聞いてきた。

「もちろん。でもその前に寄りたい場所がある」

「寄りたい場所?まあ、良いだろう」

 俺は町外れにある使われなくなった古びたコテージに行った。

「何だここは?」

「コテージさ。今は貸主が行方不明になって使われていない」

「ここに入るのか?」

「ああ。お前も入ってくれ。ただ、中を片付けたいから、一旦外で待っていてくれるか?」

「パーティーでもするのか?」

「そんなところだ」

 俺は中に入った。家具もカーペットも、何もかもが古びている。木造のコテージのため、古びた木の匂いがする。独特な匂いだ。

 俺はこのコテージに何度も入っている。友達と遊ぶには良い場所なのだ。騒いでも、近所に住宅がないため、通報されたりしない。

「入ってもいいぞ」

 俺は猫に言った。

 猫が入ってきた。いや、猫ではない。反生物。猫と似て非なる存在。

「何だ?奇妙な匂いがするな」

 反生物は言う。

「ちょっと俺は車に荷物を取りに行くから、くつろいでいてくれ」

「荷物?荷物なんて」

 俺は急いで外に出た。コテージのドアを閉め、鍵をかけた。車に乗り込み、発進させた。そして、スイッチを押した。

 コテージは爆発した。

 それほど大規模な爆発ではない。せいぜい一階が吹き飛ぶ程度だ。でも、あの反生物は吹き飛んでくれただろう。

 友達とコテージを爆発する計画が、早まってしまったな。大学卒業まで取っておくつもりで、コテージに爆弾を設置しておいたのに。

 俺は大声で笑いながら、車を走らせる。

 バックミラーを見る。コテージは炎に包まれ、煙を吐き出していた。まるで悪魔のように見えた。火山の悪魔みたいだ。

 笑っていると、助手席から肩を叩かれた。

 横を見ると、あいつだった。

「猫を舐めるな、と言ったろう。確かに俺はお前を殺せない。でもお前も俺を殺せない」

「どういうことだ?どうしてあのコテージから脱出できた?」

「君は俺たちを殺せないようにプログラムされているんだ。君はちゃんと俺を抱えてコテージを出たよ。記憶が消去されているようだがね」

 頭が混乱した。何を言っている?

「俺は全人類に死んでほしいと言ったが、それは正確な表現ではない。俺はお前みたいな改造人間に消えてほしいと思っているのだ」

「改造、人間」

「ああ。お前は第三次世界大戦の負の遺産なのだよ。改造人間にも人権があると戦後になって大衆が主張したため、お前は大学に通えているわけだが、実際はお前の中にプログラムされた凶暴性が暴走しかけている。コテージを爆破したのが良い例だ」

 猫はそこで言葉を区切った。

「お前はきっと記憶の消去を要求したのだろう。嫌な記憶を封じるよう、プログラミングしてくれと、技術者に頼み、それは実行された。その結果、君は自分が戦争に従軍した記憶も、そもそも自分が改造された人間であるということも、忘れてしまっているのだ。

 でも君は紛れもなく改造人間だ。肩を見ると、番号が書かれている。君はシステム上、その番号を視認できないけどね。

 俺とお前は戦争中には仲間だった。だからお前は俺を殺せないし、俺もお前を殺せない。

 プログラムの穴はただ一つ、頼む形でお前に自死を要求することだけなのだ」

 俺が、改造人間?そんな馬鹿な。

「三つ。お前は俺に負い目がある。

 一つ、パソコンを直させた。二つ、レポートを書かせた。三つ、コテージで殺そうとした。

 さて、お前はこれだけのことをしたのだ。特に最後の一つは重大なものだ。どうか、自死を選んではくれまいか」

 頭が痛くなってきた。畜生、こうなったら。

 俺はアクセルを強く踏む。

 ぐんぐんスピードは上がっていく。メーターは振り切れた。エンジンが唸り、タイヤは地面を焼き尽くさんばかりに摩擦熱を帯び、やがて発火した。風は皮膚を切り裂くほどの鋭さを持って俺たちを迎えた。

「何をしている!」

 反生物は言う。

「自死さ。一緒にどうだい?」

 俺の狙いに気づいたみたいだ。でももう遅い。

 もう俺は全て思い出していた。戦争で多くの人を殺したことも、反生物と協力して敵の軍基地を襲ったことも、記憶の消去を願ったことも、何もかも。

 アクセルを強く踏み込む。

 崖が見えてきた。

「やめろ!」

「負の遺産・・・それを言うなら、お前らもそうだろう?」

 崖から車が飛び出した。自死なら反生物を殺せる。これもプログラムの穴だ。

 車がゆっくりと水面に向かっていく。

 水面に落ちた時、俺はスイッチを押して、車を爆破させた。

 

 

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フィクション 春雷 @syunrai3333

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