桜と雨
恋は突発的なものだ。
恋は、何の準備も用意もできないまま、唐突に訪れる。
そして、唐突に終わる。
まるで、驟雨のように。
あれは桜舞い散る四月の頃の話だ。僕らは出会い、そして別れた。それは素敵な時間で、僕はきっと一生忘れることはない。
四月に始まり、四月に終わる物語だ。
だから、僕は桜を見るたび彼女を思い出す。
四月。僕は大学生になり、漠然とした不安を胸に入学式を終えた。僕は志望校に受からず、滑り止めで受けた大学に行くことになっていた。僕は浪人することを希望したのだが、両親が許してくれなかった。僕は仕方なく、地元の私立大に通うことになった。
僕には夢があった。人に話すと笑われるような夢が。その夢を叶えるためにはある大学に通うことが必要だった。大学に通わずとも夢は叶えられるのだが、僕は大学で学んで夢を追いかけたいと思っていた。しかし、結果的にその計画は頓挫することになった。もっと勉強しておけばよかった。月並みな後悔だけれど、本当にそう思った。
気分を一新して、今日からまたこの大学で頑張って夢を追いかけよう。僕はそう思う必要があった。でもどうしてもそんな気分になれなかった。希望した大学に受からなかったというショックがまだ続いていた。
僕はいつもそうだ。
希望しても叶うことはない。何かを強く願ってもそれは潰えてしまう。どうしてだろう。僕は自分が不幸だとは思わない。僕より不幸な人はたくさんいる。夢を見ることさえできない人は大勢いる。だから僕はきっと不幸ではないのだろう。夢を見ることができるのだから。でも、僕の夢はことごとく叶っていない。いや、僕は我慢が足りないのかもしれない。あるいは気持ちの強さが。
たかだか十九歳の僕が叶えられる夢など現実的には多くない。周りを見渡しても、夢を叶えるどころか、自分が何をしたいのかすらわかっていない人が多い。僕はやりたいことがあるだけ、まだ人生の向かうべき方向性が定まっているという点でましな方なのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は大学生一年生になった。
僕の家の近所に公園がある。公園には桜の木があって、僕は春に公園を訪れるのが好きだった。風で桜の花が散る。その情景はどんな風景も敵わないほどの美しさで、僕は思わず息をのむ。入学式を終えて、人に話しかける勇気もなく家路についてしまった僕は、自分を慰めようと、この公園に来ていた。
スーツ姿でベンチに腰掛ける。自販機で買っておいた缶コーヒーを飲みながら、桜を眺める。平日の昼間だし、この公園はさほど広くもなく、また遊具も少ない上に年季のあるものばかりなので、公園には誰もいなかった。僕は気の済むまでこのベンチに座り桜を見ようと思った。
ピンクが時々空を舞う。僕の心はどこへ行く?
こんなのは全然辛いことではない。世の中に辛いことはたくさんある。過去の名作にはさまざまな悲劇が描かれている。僕の状況は過去の悲劇に比べれば、大したことはない。志望校に落ちて、夢を諦めるかどうか迷っている。ただそれだけだ。そもそも夢を諦めようかと悩んでいる時点で、僕の夢への思いはそこまで熱いものではなかったのかもしれない。
これからどうしようか。
僕は悩むのにも疲れ、桜をぼんやりと眺めていた。
その時、雨が降った。天気雨だ。小雨だったので、雨宿りする必要はなかった。雨はすぐに止んだ。僕は傘を持っていなかったので、すぐに止んでよかったなと思った。
もう一度桜の方を見た。
桜は消えていた。
代わりに、女の人が立っていた。
僕は目を擦り、しっかりと何度も桜を見ようとしたが、何度見ても桜は無くなっていた。そして僕と同い年くらいの女性が桜の木があった場所に立っていた。
僕はおかしくなったのか?
僕は自問してみた。でも答えは返ってこなかった。
その女性の姿を見てみた。
彼女は淡いピンクがかった黒髪をしていた。基調は黒なのだが、太陽に当たると所々ピンク色が透けて見える。不思議な髪だ。格好は、白いブラウスに黒のパンツで、彼女も僕と同じ新入生なのかもしれないと一瞬思った。
「ねえ、ここで何をしていたの?」
彼女は僕にそう問いかけた。彼女の声は少しハスキーで、また甘ったるい感じでもあり、とても魅力的だった。
「いや、ただ考えごとをしてただけだよ」
彼女が現れたのがあまりに突然だったこともあり、僕はぶっきらぼうな口調になってしまった。そんなつもりはなかったのだが。
沈黙が降りた。それはまるで世界中に広がっていくような沈黙で、僕は狼狽した。言葉を必死で探した。何か良い話題はないか頭の引き出しを探った。でもそれは徒労に終わった。
彼女の目を見た。黒い瞳だが、やはり淡いピンクが光の加減で見えたり見えなかったりした。まるで宝石のような瞳だ。素敵だな、と思った。
「君はどこから来たの?」
僕はそう言った。
「わからないの」
彼女はそう答えた。彼女がそう言うのだから、本当にわからないのだろうなと思った。
「君の名前は?」
続けて質問した。でも自分も名乗ってないのに人に名前を尋ねるのも失礼かと思い直し、僕は自分の名前とこれから通うことになる大学、趣味を言った。彼女は黙って聞いていた。
「名前もわからないの」
彼女は申し訳なさそうにそう言った。
「それなら僕は君のことをどう呼べば良いのだろう?」
「サクラ」
「え?」
「サクラって呼んで」
彼女は今日からサクラになった。
それから僕はこの公園に通うようになった。僕の他に人がいる時はサクラは現れなかった。けれど、僕しかいない場合には、その可憐な姿を僕に見せてくれた。
「ねえ、君はどうして自分に関する記憶がないの?」
「わからない」
彼女はいつもそう答えた。
ある日、いつものように公園に行くと、サクラが泣いていた。桜の木がある場所で泣いていた。
僕は彼女に駆け寄り、尋ねた。
「どうしたの?」
彼女が泣いている姿を見るのは初めてだった。
「悲しいの」
「どうして」
「私、行かないといけないから」
「行かないといけない?」
「うん」
彼女はそこで言葉を区切った。僕にとっては永遠にも思えるほどの時間が過ぎた。
「私、四月が終わればここを去らなければならないの」
「どうして」
「そういう決まりなの」
「決まりってなんだよ」
「決まりは決まりよ」
僕には納得できなかった。ようやくできた心の拠り所なのだ。今さらお別れなんてあんまりだ。
「僕はいやだ」
僕はそう言った。正直な気持ちだった。
「仕方がないのよ。世の中にはどうしようもないことってあるのよ」
「そんなの」
僕はそんな一般論を、大人のような正論を聞きたいわけではなかった。世の中はそう楽しいことばかりあるわけではない。そんなことはわかっている。でも、僕は今だけは、この公園では、そんな世界の法則から逸脱した存在でありたかった。
僕にとってこの公園は、絶対的な楽園だった。神聖な僕らだけの領域だった。誰にも触れることのできない、認識することもできない、そんな僕らだけの遊び場だった。外界から隔絶されたユートピアだった。それが今崩れ去ろうとしている。
僕は目の前が真っ暗になった。
眼前の運命を呪い、一直線に延びた僕と彼女の未来を憎んだ。
桜の花びらが散り、僕と君とはお別れだ。そんな馬鹿げた運命など陳腐でつまらない。そんな三文小説のような展開、僕は許すことはできない。
「そんな決まり、逆らえば良い」
僕は言った。
「そんなの無理よ。決まりを破ることはできない」
「何故」
「それが世界の法則だから」
僕は彼女の瞳を見て、次に自分の手を見た。彼女は話を続けた。彼女は詩を朗読するように、
「太陽が沈み、そして昇るように。海が蒸発し、やがて雨となるように」
そこで一旦呼吸を整えた。
「人が生まれ、死ぬように。星が生まれ、死ぬように。
世界は一定の法則で動いている。あの太陽も月もやがて死ぬ。花もいつかは枯れる。
でも大丈夫。桜はまた来年咲くから。私たちはきっとまた会えるから。
だから今は、お別れしましょう」
僕らは泣きながら抱き合った。僕はこれからひとりで生きていかなくてはならない。彼女なしで生きなければならない。自分で考え、選択しなければならない。彼女のいない世界。僕にはまだ現実味がなく、想像もできなかった。
街灯が僕らを照らす頃、最後のキスをして、僕らは別れた。
夜桜が、散った。
僕は空を眺めた。こんな綺麗な月の日。僕はひとりぼっちになってしまった。
待ち受けていたように、雨が降った。こんなに夜空がよく見えるのに。にわか雨はしばらく続いた。
僕は自分は本当にひとりになってしまったということを、雨の冷ややかさとともに実感した。
でもきっと何とかなる。
桜の花はまた咲く。
僕らの道が続く限り、僕らはきっとまた出会う。
桜の木を見た。
さよなら、また会おう。
公園を出た時、僕はちょっとだけ強くなれた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます