“跳び越えた少女”の正体
彼女が何を考えてネオセキガハラの壁を飛び越えたのか、僕にはまだ分からない。それはこれから訊くことになる。
徳川エーコ、“
(……やってしまおう)
見逃すわけにはいかない。どれだけ好みのネコミミ美少女でも、祖国から標的と定められたのなら僕は実行する。……それがMI3だ。
当の標的は僕の思惑も知らず、澄まし顔で横を歩いていた。
(ここでエーコさんを誘拐するのは非常に目立つ。場所に問題がなくても、僕一人で安全に実行できる気もしない)
こういう場合のための“ネイキッド”だ。本部の用意した協力員に“跳び越えた少女”判明の連絡を行い、人員と拉致のためのルートを提供させる。そのためにはまず、
(彼女の顔写真を“ネイキッド”に)
僕はペン型カメラをさりげなく取り出し、エーコの顔に向けた。
ペン型カメラはスパイ七つ道具のうちの一つだ。他にペン型通信機、ペン型録音機、ペン型スタンガン、ペン型拳銃、ペン型指圧器、ペン型ペンなどがあり、僕は今いずれも隠し持っている。
(顔を向けた瞬間にシャッターを押す。……今だ!)
ペン型カメラがエーコのクールビューティーを捉えた――かに思えたが、
(不発? いや――)
「はい、こちらウシミミ人妻派遣センター『ママミルク』ですが」
「? なんですか、この声?」
僕は覚えの無いウシミミ人妻派遣センターに繋がった『ペン型通信機』を切り、ポケットの中に隠した。
当然のごとく疑問の声を上げたエーコに、僕は愛想笑いでごまかす。
「ははは、外でアハンなお店が客引きをしているみたいだ。こんな真昼間からけしからんね?」
「アハンなお店?」
エーコはそれ以上僕を追及するでもなく、聞き慣れない単語に小首をかしげていた。アハンなお店もまだ知らない、純真で穢れなき顔だ。正直この表情こそフィルムに焼き付けたいほどのネコミミ美少女アワード金賞な可憐さだった。
僕の個人的趣味嗜好はさて置いて、
(ちくしょう、どういうことだ!? ペン型通信機とカメラの芯が入れ替わっていたのか!?)
だとすれば、あれを寄越したMI3、渡した“ネイキッド”、そして確認もせずに使った僕の全員がとんだマヌケ野郎ということになる。……“ネイキッド”の素性こそ知らねど、上記全員、世界トップクラスのプロフェッショナルのはずだ。そんな馬鹿みたいなミスを犯す確率はどれだけだろうか。とにかく、他のスパイ七つ道具も全部点検の必要があるだろう。
ウシミミ人妻派遣センターの呪縛から解き放たれたのか、エーコは僕に対し、
「ところでエーチさん。あなたは普段どんな音楽を聴くのですか?」
思いもよらないことを言った。
普段聞く音楽とはまた、月並みな話題だ。“跳び越えた少女”の正体も判明し、いざ壁を越えた拉致の算段を付けている状況にそぐわない。
僕は、
「国民歌謡とかよく聴くね。合衆国にいても、やっぱ聴くのはこっちの曲だよ」
政治委員長のエーコさんに対し、東側独特の軍国主義全開な歌謡曲を推しておいた。
半分くらいは事実だ。バキバキ敵性音楽の上、肝心の音楽性も単調なので、自由主義の西側でも国民歌謡の入手は難しい。それでも溢れ出るケモミミ美少女への情熱で、東側のレコードやビデオテープを買い漁るのが僕の趣味だった。
おかげでこっちの女性歌手ならそこそこ詳しい。鳥居チガエなど、国選歌手の有名どころは大体おさえている。男性歌手は知らん。
エーコは僕の返答を聞くと、ふいと顔を背けて、
「そう」
とだけ言った。
何が気に食わなかったのだろうか。まさかロリポップスみたいな西側の流行曲について語るわけにもいかないだろうに。
エーコはヴァルヒコとは違う。党幹部の娘で、思想統制派の先鋒である政治委員長なのだ。国民歌謡の話題くらい少しは乗っていいとは思うが。
そんな場合でもないのに、僕は女子とのコミュニケーションについて悩んだ。
(僕らしいといえばらしいが……まあいい)
僕は胸ポケットから二本目のペンを取り出した。
ペン型通信機……のガワだけ。よく見れば中身はペン型カメラのそれだ。もう間違えようがない。
僕は彼女の横顔に向け、レンズを向けた。
手慰みにペンをいじくる気軽さで、ノックと一体化したシャッターを切る。
(!?)
またも撮影は失敗した。
あろうことか、支離滅裂な偶然で。
逆さまになったエーコの、腰のあたりがレンズに入った。
エーコは逆さまになっていた。空中で後方に一回転して、いわゆるバク宙の状態だ。
なぜ彼女がそんなことになったのか?
バナナだった。
たまたま廊下に落ちていたバナナでたまたま滑り、たまたま僕の盗撮から逃れた。――ミサイル着弾の、あの日と同じように。
(ええ……)
ネコミミ人特有のバランス感覚で危うげもなく着地するエーコに、僕はドン引きした。
これはもう、狙ってやったものじゃない。
偶然そこにあったバナナで、偶然にもアクロバティックな滑り方をして、偶然僕の盗撮を回避した。
馬鹿馬鹿しいほどの偶然は、奇跡と呼んでもいい。
その後も僕は折に触れてエーコの盗撮を続けた。
偶然逆光が差したり、偶然スケパン仮面が通り過ぎたり、あるいは偶然現れた日本最大の蝶類ヨナグニサンをエーコが追いかけ始め、偶然そのヨナグニサンが彼女の顔に被さった。
これでもう分かった。“跳び越えた少女”の顔が西側の監視カメラに映らなかったのは、彼女が意図してのものではない。
(全部偶然……!)
奇跡が、彼女の正体を西側の機関から守った。
僕はフィルム切れで役立たずになったペン型カメラをポケットへねじ込み、恐怖とともにエーコを見る。
「何か私の顔に付いていますか、エーチさん?」
「バナナの皮が」
エーコは顔にべったり張り付いたバナナの皮を、『今気づきました』とばかりにゴミ箱へポイした。そのまま再び、澄まし顔で生徒会室に歩き出す。
「……」
不意にエーコが立ち止まった。
まさか、僕の行動がとうとう不審がられたか?
違った。
「エーチさんはあのディスコで……」
非合法ディスコでの僕の行動を咎めるのかと思い身構えた僕に、エーコは被せる。
「ロリポップスの曲を踊っていたのですか?」
「……は?」
急に何を言い出すのだろう、彼女は。
「……やっぱり、この人にアレを見せなきゃ。夢のためだもの。怖がってちゃいられない」
僕の返答も待たず、ブツブツと独り言を呟くエーコ。呆気にとられる僕から目を背け、彼女は元来た廊下を戻り始めた。
僕は意を決し、その背中に声を掛ける。――見えてきたのだ。この事件の全容が。
「ロリポップスって西側の音楽だよね? エーコさんは西側に行ったことが?」
腹芸も何も無いストレートな質問。スパイとしてはあるまじき遣り口だが、
「はい」
“跳び越えた少女”はいとも簡単に認めた。
僕は質問を続ける。
「どうやって?」
「正式に西側へ入国するには飛行機を使う必要があるとのことなので、空軍基地に行きました。よく西の方へ飛んでいくのを見ていたので。――そうしたらいつの間にか西側に着いていました。『飛行機』は落ちてしまいましたが」
その『飛行機』は細長くて主翼が無くてケツから火を噴かなかっただろうか?
「……なんのために入国を?」
「ロリポップスの公開オーディションがあるというので、どうしても西側へ行きたくて」
あの日、何がどうやって徳川エーコが壁を超えるに至ったか。もう少し詳しく訊いてみなければ分からないが、とにかく彼女と核ミサイル(飛行機)の因果関係は分かってきた。
計画性などまるで無い。
意図などせずとも、家柄と顔の良さで周りが勝手に能力を見積もってしまう。僕がそうだったように。
氷の政治委員長、静謐なる優等生というステータスは、全部偶然による誤認。彼女の周辺では有り得ない確率の奇跡が連発し、なぜかとんでもない結果になる。
つまり、徳川エーコは――
「小早川エーチさん」
更衣室に戻ったエーコは、自分のボストンバッグを漁りあるものを取り出した。……ロリポップスのレコードだった。
それを僕にずいっと差し出し、紅潮した顔で言い放つ。
「私をアイドルにしてください!」
つまり、徳川エーコは、ただの馬鹿だ。
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