真夜中に逃避行

野村絽麻子

真夜中

コトン。


 その音が鳴った時、スポンジでシンクを磨いていました。

 無音の室内にはステンレスを擦る音だけが響き、私は今にも聡一さんが帰って来るのではないかと、そしてまた何か言われてしまうのではないか、いいえ、今度こそ私を褒めて以前のように抱きしめてくれるのではないかと、なんだか言い表し難い気持ちでいて、それをごまかすようにシンクを磨いていました。

 シンクは、お義母様から教わった重曹のスプレーで念入りに磨いているのに、お義母様は我が家のシンクを目にするといつでも「まぁ!」とでも言うように眉をすいと上げます。そして聡一さんが「おやおや」と「仕方ないな」の混じったため息を吐くまでがワンセットなのです。


 コツン。


 やはり、何かが鳴っているようです。

 煌々と明るいリビングダイニングの掃き出し窓は、すっかり鏡のように室内を映していました。時計を見ると午前一時を回っています。いつの間にこんなに時間が経ったのでしょうか。だから私はいつも、聡一さんに「お前はマイペース過ぎる。もっと周りのことを考えるように」と言われてしまうのです。お義母様のように、気配りの出来る素晴らしい人間にならなければいけません。

 こんな時間になってしまっては、もう電車も動いていないでしょう。聡一さんは今晩は帰宅されないようなので、ダイニングテーブルの上にセットした食器を片付けてしまわなくてはいけません。また「これ見よがしだな、嫌味か?」と怒らせてしまうかも知れないからです。


 コンコン。


 顔を上げると、窓ガラスに映った私と目が合いました。化粧気のない、髪を括っただけの私の姿は、聡一さんの言うように「ブサイク」です。菱田家の嫁として相応しくなるように、内面から美しさが溢れるように過ごさなければ


 コンコン!


「茉莉花!」

 誰かが私の名前を呼んでいます。名前は、しばらく呼ばれた覚えがありません。聡一さんはいつも私のことを「お前」や「おい」と呼びますし、お義母様は「あなた」と呼ぶからです。

「茉莉花! 私! 開けて!」

 私は窓を見ました。窓の外はベランダです。ベランダには、私とそっくり同じ顔があります。彼女は叩いていた窓の鍵が開いていることに気づきました。カラカラと、サッシが軽やかな音をたてます。

「なんだ、開いてるじゃん! 茉莉花! 久しぶり! あんた携帯も解約しちゃうんだもん、会いに来ちゃったよ」

 霞みがかった記憶を辿ると、それは姉でした。もう何年も何年も会ってないような気がします。

 実際、私が菱田家に嫁いでから里帰りをした記憶はないので、私たちは本当にもう数年会っていないのでした。

 姉は私の手を包み込むように握りました。ふっくらとした暖かい両手。私の手は、なんて血色が悪いのでしょう。

「こんなに痩せて……。ねぇ、あの男は?」

 探るように部屋を見渡して、姉は「居ないわけか」と呟きました。「なら、ちょうどいい」とも。

 姉は、少し屈んで私の目を真っ直ぐに見つめました。

「茉莉花、ここを出るよ」

「……ここを、出る?」

 おうむ返しに口をついて出た言葉は、私を身震いさせました。何処へ行くにも聡一さんに許可を得てからでなければ駄目なのです。聡一さんに黙って外出をするのは、はしたない女のする事で、そんな事をすればまた聡一さんから「常識のない女」だと、お義母様から「躾のなってない嫁」だと言われてしまいます。

「でも聡一さんが、」

「それはもういいから!」

 姉は両手に力を込めました。

「ねぇ、目を覚まして?」


 私がぼんやりしている間に、姉はクローゼットから旅行カバンを取り出しました。姉の足元は真っ赤なスニーカーに包まれています。タンスをあちこち開けて、少しジッとしてからこちらを振り返りました。

「茉莉花の服、こんなじゃなかった」

 華美な服装は菱田家の嫁に相応しくありません。

「化粧品もない」

 お義母様のように内面からの美しさがあれば、化粧品も不要になるのです。

「集めてたアクセサリーもない」

 一人前の嫁ではない私には贅沢は必要ありません。

 何も反論出来ずに立ち尽くす私に痺れを切らしたのか、ハンドバッグにお財布を入れると私に握らせました。

「……行くよ」

 静かな、強い声でした。時計は二時を少し過ぎています。私は玄関で靴を履くと、姉に引っぱられるまま走り出しました。


 夜気はひんやりとして気持ちが良く、思わず目を細めました。夜の空気の瑞々しさを感じて、知らず、呼吸が深くなります。

 カチャン、と音がして姉が自転車を押してやって来ました。サドルに跨るとこちらを見ます。

「乗りな」

 私は言われるままに荷台に座りました。促されてハンドバッグを渡すと、姉はそれを前カゴに放り込みます。

「掴まって」

 背中の服を摘むように触れると、姉は「もう!」と一声吠えて振り返りました。

「ちゃんと!」

 抱きつくように腕を回すと頬から姉の体温が伝わります。私はもう長いこと、こうして誰かの熱を感じていなかったかも知れません。

「よし、飛ばすよ!」

 少しだけふらついた後、自転車は軽快に走り出しました。視界の中で要塞のようだったマンションのすがたが、夜の風景に溶けるように流れ出していきます。

「……おねえちゃん」

「なぁに?」

 夜風に消えてしまうかと思った声は、きちんと届いたようでした。涙が頬を伝う間もなく姉の背中に吸い込まれていきます。

「お姉ちゃん」

「なぁに、茉莉花ちゃん」

 私はぐいぐいと姉の背中に顔を擦り付けました。懐かしい、シャンプーの匂い。

「……お腹、すいた」

 姉は、くふふ、と笑いました。

「よーし! じゃあラーメン食べよう!」

 そう言うとペダルを力強く漕いで、自転車を加速させます。

「ラーメン食べて、家に帰ろう! あんな場所じゃなくって、私たちの家に」

 うん、うん、と何度も頷くと姉がまた笑って「くすぐったい」と言いましたが、それはちっとも迷惑そうではなくて、私はとてもとても久しぶりに、自分が笑顔になるのを感じたのでした。

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