終章 空の紳士



〈どうだね、リジー。空の旅は快適かね?〉

〈ええ。ええ、伯爵。もちろんです!〉

 ラウンジの窓から景色を見下ろすリジーは、伯爵の問いに興奮した声で答えた。

 シヴァーン伯爵自慢の《白鳥号》は白く優美な腹を地上の人間たちにさらし、エニス川沿いをゆっくりと――最高速度なのだが、見た目は「ゆっくりと」と形容するほかはない――北上しているところだ。クラレンスを南北に蛇行しながら流れるエニス川、噴水と緑の生い茂る公園、商店の建ち並ぶ通り、あるいは民家の煙突。聖堂の尖塔さえもはるか下に通りすぎる。この高度なら、リュンヌの塔を悠々とひとまたぎにできるのもうなずけた。

 リジーが伯爵と会話している反対側では、フィアンナが窓からの景色にはしゃいだ歓声をあげている。

 ロデリックとサンテスのふたりはラウンジのイスに腰かけ、特許についての持論を展開しているようだった。なぜかパティまでもがそれにくわわり、時おりツッコミめいた発言をしている。

〈おまけに、予想していたよりも静かです。もっと揺れるものだと思っていました〉

〈向かい風のときは揺れることもあるが、気球とは違うからな〉

 飛行船の航行は基本的におだやかで、聞こえてくるのはエンジンの音だけだ。慣性飛行する場合はエンジンも切るため、驚くほど静かになるのだと伯爵は答えた。

〈最速の豪華客船でも新大陸まで一週間近くかかるが、飛行船なら計算上ではその半分とかからない。今の段階では、そこまでの長距離飛行はまだムリだが〉

 白鳥号はこれからもまだ改良の余地がある、と伯爵は言う。

〈いずれ、飛行船が世界中の空を飛べるようになればいいですね〉

〈うむ、そうだな〉

〈シュヴァーン伯爵の《白鳥号》で世界一周旅行! その際は、ぜひマイルズ旅行社で広告をうたせてくださいね!〉

 伯爵は苦笑した。

〈相変わらずしっかりしとるのう。孫娘がこれほど商魂たくまし……、もとい、したたかに育ったと知ったら、オスカーも安心するだろう〉

〈祖父は喜んでくれるでしょうか〉

〈もちろんだとも。あのオスカーだぞ。わしが保証する〉

 リジーはほほ笑んだ。体ごときっちりシュヴァーン伯爵に向き直り、膝を折った。

〈このたび伯爵さまには、ひどくご迷惑をおかけいたしました。お借りしたアパルトマンのこともですけど、伯爵の数々のお力添えがなければ今ごろはどうなっていたか。それに、こんなすてきな船にまでご招待いただいて〉

〈いいや、オスカーがわしにしてくれたことを思えば安い礼さ。それに、住居は賃貸料もきちんと払ってもらったではないか。わしはいらんと言うたのに〉

〈そういうわけにはいきません。飛行船の開発にはお金がいくらあっても足りないぐらいなんですもの。わずかでも足しにしていただかないと。足しにしかなりませんけれど〉

 伯爵はむう、と唸った。今後発展の一途をとげる航空事業なだけに、資金に関しては頭の痛いところなのだろう。サンテスや伯爵を例に見るまでもなく、資金不足はどんな先駆者にもついてまわる命題だ。

〈ともあれ、わしがこうして元気でいるあいだにリジーをこの船に招待することができてよかった。わしの願いだったからな〉

 リジーは驚く。

〈それはおじいさまの代わりに、ということですか?〉

〈もちろんオスカーが生きていたらいっしょに招待したさ。そうではなくて、きみをこの船に乗せることはオスカーとの約束だったのだよ〉

〈おじいさまとの約束?〉

 初耳だった。

〈そうとも。彼に頼まれたんだ、飛行船を完成させた暁には、孫に空からの景色を見せてやってくれ、とね。目に見える国境線などない、どこまでも広がっている地平の景色を〉

 ――あの子はひとつところに留まっているような娘じゃない。きっと将来広い場所へ飛び出していくだろう。そのときはこの空の上から、隔たりのない世界の光景を見せてやってくれないか、と。

〈そうだったんですか……〉

 突然知った事実に胸がつまった。それは苦しさや辛さではなく、あえて類似した言葉を当てはめるなら、とり残されたようなさびしさだった。

〈……叶うならこの景色を、祖父といっしょに並んで見たかったです〉

〈わしもだよ〉

 リジーの肩を優しく叩くと、伯爵は静かにそばを離れた。リジーがこみあげてくる感情と、ひとりで向き合うことができるように。



「……リジー」

 近づいてくる気配にふり返ると、フィアンナが微笑を浮かべ清潔そうなハンカチを差し出した。リジーは短く礼の言葉をつぶやき、受けとったハンカチで目もとを押さえた。泣くつもりなどなかったのに、気がつけば涙がこぼれていた。

 フィアンナの細やかな気遣いが、いまは素直にありがたかった。

「素晴らしい景色ですわね」

「……はい」

「リジー、わたくしはこの旅で、本当にいろいろな景色を見ましたわ」

 ふいにフィアンナがリジーの両手をとり、ぎゅっと握りしめた。

「鉄道、気球、ボート、飛行船。どれもこれもはじめて乗りました。本当に楽しかった」

 青い瞳を喜びできらきらと輝かせ、フィアンナは言った。楽しげに笑う相手に釣られ、リジーもようやく笑みを見せる。

「わたしもです。こんな騒動に巻きこまれるとは思っていませんでしたけど」

「でも、とても面白かったですわ、貴重な経験でした」

 リジーはふっと目を伏せた。

「ですが、快適で安全な旅だったとはとても言えません。一歩間違えれば、フィアンナやロデリックを危険な目にあわせるところでした。それに、伯爵の申し出がなければ約束の期日には間に合いませんでしたもの」

「危険だったのはあなたもでしょう。不可抗力だったんですもの、リジーのせいではありませんわ」

「…………」

 リジーは黙った。たとえそれが事実でも、商売人としてそこを言い訳にしてはいけない気がしたのだ。

「リジー、落ちこんでらっしゃるの?」

「いえ……、ただ自分の未熟さを痛感したというか」

 添乗員を引き受けたとき、あれだけの大言壮語を吐いたにもかかわらず。

 フィアンナもロデリックも、この旅の間中、一度もリジーを責めたりしなかった。だが彼らの優しさや強さに甘えて、仕方のないことだ、とあきらめるのは違う気がする。

 ――マイルズおじさまやダグなら、わたしよりももっとうまく立ち回れたかしら。

 女が男より劣っているとは思わない。だが、自分が男であったのならフィアンナをみすみす攫われたりしなかったのだろうか、あるいは伯爵という虎の威を借りず、役人たちと渡り合えたのだろうか、とそんなことばかり考える。

「先ほども言いましたが、ほかの誰であっても、エルシオンとクラレンス政府からサンテスさんを庇い、しかも両政府の面子をつぶさずにこの件をおさめることはできなかったと思います」

「…………」

 もちろん、とフィアンナはうなずいた。

「ほかのお客さんならあなたを責めたかもしれません。でもわたくしはこの旅のはじめに、あなたとは添乗員と顧客ではなく、姉妹のようになりたいとお願いしました。頼ってくださいとも言いました。あなたはそれを叶えてくださっただけですわ」

「フィアンナ……」

 ほぼ同じ目線の高さで、フィアンナと正面から向かいあう。フィアンナはふいに目を伏せ、唐突にこんなことを言った。

「……リジー。謝らなければいけないことがあります。わたくしは、あなたにずっと嘘をついていました」

 突然の告白だったが、リジーは驚かなかった。硬い表情をしたフィアンナの瞳を見て、静かにたずねた。

「あなたが本当は女性ではない、ということですか? ――フレッド・アイビス」

 リジーがその名前を口にした瞬間、フィアンナはポカンと口をあけた。まるで、知らない土地ではじめて聞く言語を耳にしたように、とっさの反応が返せないようだった。

 驚きのあまりか、相手はしばし放心していたが、ややあってぽつりとこぼした。

「……まいったな」

 見目麗しい少女としか言いようのない外見の彼は、さきほどまでよりもわずかに低い声で負けを宣言した。

「きみには何度も驚かされてるけど、今のがいちばん驚いたよリジー。どうしてわかっ……いや、いつからわかってたんだい?」

 苦笑を浮かべ、フィアンナ――否、フィアンナの兄であるフレッドは、長い金髪のかつらを頭からむしりとり、首に巻いていたレースのチョーカーを外した。

 短い金髪と、よく見ればそれとわかる喉仏がレースの下からあらわれる。美少女が美少年に変わった瞬間だった。

「確信を持ったのは昨日ですが、疑ったのは何度か。たとえばあなたが……、『フィアンナ』がお兄さんがふたりいると話をしてくれたときも。だけど、『もしかしたら』と思ったのは、実を言うと最初からです」

「最初から!? 最初って旅行社で会ったときかい?」

「はい。ええと、こうなるとこっちがだましていたようで申し訳ないのですけど、パティって、実は女嫌いなんです。わたし以外の、ですけど」

「おっ……!」

 フレッドは言葉をつまらせた。まさかそんな、と言いたげだ。

「わたしの前にパティを飼っていた婦人があの子を虐待していたらしくて、いまだに女性――特に派手な飾りのついた帽子や、装飾の多い服を着ている女性には強い拒否反応を示すんです。あなたがはじめて旅行社に来たとき、パティが何も反応をしなかったので、もしかしたらと思いました。そのときはまだ確信を持てなかったんですけど」

 気球ごと墜落したとき、フレッドに抱きつかれた。あるいは鉄道の貨物車両のなかでも。密着すればさすがに体形の違いがわかる。頭から女だと信じていたら、さすがに気づけなかったかもしれないが。

 リジーがそう説明すると、彼はさもおかしそうに笑った。

「あっはは、さすがにそれは想定外だったな! まさかパティに見破られてたとはね!」

「ええと、その、ごめんなさい」

 リジーが思わず謝ると、フレッドは「どうして謝るの」と苦笑した。

「でも、本当にそんな最初っから疑ってたんなら、どうして何も言わなかったの? ぼく、ずっときみを騙してたんだよ?」

「それは……だって、お客さまの趣味嗜好に口を出すようなことはしません。たとえば道ならぬ恋をしているとか、そういう事情もあるかもしれないですし」

「道ならぬこっ……!?」

 フレッドは素っ頓狂な声をあげてのけぞった。フィアンナでいたときよりも、ずいぶんと大仰な身ぶりである。こちらが彼の素なのだろう。

「や、やめてくれよ! 女装癖があると思われるのは仕方ないけど、別に男が好きだから女性の格好をしているとか、そういうのじゃないからね!」

「そうなんですか?」

「あたり前じゃないか! あと、誤解のないように言っておくけど、これは『女装』じゃなくて『妹の変装』なんだよ。その証拠に、女物のドレスとカツラをかぶってるときは、感覚も完璧にフィアンナに切りかわるしね。自分でもふしぎなんだけど実際に体力も落ちるし、趣味嗜好も変化する。ぼくが唯一妹とちがって食べられないかぼちゃも――妹は好物なんだけど――変装してるときは食べられるようになるんだ。類まれなる演技力のなせる業かな」

「はあ」

 そこまでいくと演技というより、むしろ二重人格に近い気もするが。

「だいたい、ぼくは女の子が好きなんだ。それも、聡明で機転がきいて、行動力のある女の子がね」

 リジーの手をとり、フレッドは茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せた。リジーは困って、かすかに頬を赤らめる。

「わたしが気づいていないと思っていたなら、どうして教えたんです? 最後まで隠し通してもよかったのではないですか」

「なんとなく、きみに嘘をついたままなのがいやになったんだ」

 真顔でそう言うと、フレッドはぱっとリジーの手を解放した。

「……なーんてね。そうだなあ、ぼくが女なら、きみはずっと世間慣れしてない貴族のお嬢さんを危険な目に合わせてしまったんじゃないかと気に病むだろう。ぼくが男だと知れば、少しはその負担が軽くなるんじゃないかと思ったのさ。きみが気づいてたんなら結局無意味だったけど」

 肩をすくめ、フレッドはへらりと軽薄な笑みを見せた。フィアンナの花のような笑みとはずいぶんちがう。あれが演技だというなら、彼は本当に大した役者だ。

「でもね、ぼくだって情けなく思ってるよ。エルシオン紳士ともあろうものが、女の子に守られっぱなしなんてね」

 そんなこと、と否定しようとしたリジーを、フレッドは首をふって黙らせた。

「ぼくは紳士として淑女を守れなくて恥ずかしい。きみは添乗員としてお客を危険な目にあわせてしまったのが恥ずかしい。だからさ、おあいこってことにしない?」

「……むりです」

 リジーは固い顔で肩を落とした。あっけらかんとフレッドは同意する。

「うん、きみならそう言うと思ったよ」

「今回の旅行費、報酬は頂きません」

「うーん、そこまでいっちゃうのか。本当にリジーらしいな」

 困ったようにフレッドは笑う。彼の背後から、別の人間がぬっと現れた。

「何を話してるんだ」

 パティをつれたロデリックである。サンテスとの話は終わったらしい。パティは話しつかれたのか、ロデリックの肩の上でこくりこくりと舟をこいでいる。

「あ、ロデリック。サンテスさんは?」

「飛行船伯爵のところへ話をしにいった。ところで、おまえがその格好になったということは、やっと打ち明けたんだな」

「うん、でも無意味だったよ。リジーにはぼくがフレッド・アイビスだって、とっくにばれてた」

「なんだって?」

 ロデリックまでもが意外な様子でリジーを見る。当然彼も「フィアンナ」がフレッドであることを知っていた。リジーが《貴婦人号》で聞いた、「おまえは妹じゃない」という発言からも明らかだ。

「驚いたな。おまえの変装……女装を見破れる人間がいるとは思わなかった」

「わざわざ言い直さなくていいよ。ぼくも驚いた。いままでにぼくの変装を一発で見破れたのは母上だけだからね。ロデリックも最初まんまと引っかかったし」

「うるさい」

 ばしんと音をさせてロデリックがフレッドの頭をはたいた。女のふりをやめたので、遠慮がなくなったのだろう。

「しかし女装はともかく、よくアイビス家の人間だとわかったな」

「それは、フレッドが何度かご自分で口にされてましたから」

「え、そうだっけ?」

 きょとんとして聞き返すフレッドに、リジーはうなずいた。

「それにアイビス家といえば、失礼ですけど一年前のご再婚騒動で有名ですから……。ロデリックが新大陸東部のお生まれだと仰ったでしょう。お父さまがそちらのご出身だと。なので結びついたんです」

「ははあ、なるほどな。つまり全部ばれてたわけか。俺とフレッドが実の兄弟じゃなく、親の再婚による義理の兄弟だってことも」

 はい、とリジーはうなずいた。第一このふたり、見た目も性格も似ているところがほとんどない。

「でも、なぜ女装する必要があったんです? 『フレッド』のままでは何か不都合があったんですか?」

 リジーの質問に、フレッドはばつの悪そうな顔になり、ロデリックと目線を交わした。

「言わなきゃだめかなー、やっぱり」

「ふつうはそうじゃないのか」

 フレッドはため息をついた。

「うーん。その理由はね、妹のためだったんだ」

「フィアンナさまの?」

 ロデリックがうなずいた。

「ああ。もともとこの旅行は、俺とフレッドからフィアンナへ贈り物として渡す予定だったんだ」

「旅行をですか?」

「うん。最初に依頼したとき、エルシオンの建国記念日までに帰れる日程で、ってお願いしたよね」

「え、ええ」

「なぜかというと、明日がぼくとフィアンナの誕生日だからなんだ」

「まあ。それじゃあ、妹さんへのお誕生日のプレゼントに?」

 うん、とフレッドはあっさりうなずいた。さすがは上流階級、ずいぶんと太っ腹なことをする。

「前にちらっと話したけど、妹は幼いころずっと病弱でさ。いまはだいぶ元気になったんだけど、屋敷からあんまり出たことがないんだ。けど、本人はずっと外に出たがってて……、特に母上が再婚してからは、『旅』ってものに強い憧れをもったみたいでね。ひとり旅がしたい、ってずっと言い続けてるんだ。だけどぼくは妹が心配で、最初は反対してたんだ」

 フレッドは肩を落とす。妹のふりをしていたとき、フレッド自身も「兄は過保護」と言っていたので、本人にも多少の自覚はあるのだろう。

「さすがにひとり旅はむりだが、専属の添乗員をつけてお隣クラレンスまでなら許可できるだろう、と俺が提案したんだ。ちょうどルノでは博覧会をやっているし」

 そこで、ロデリックがふさわしい添乗員をさがしてマイルズ旅行社まで訪ねてきた。

「……ああ、なるほど。だから『わたし』だったんですね」

 リジーはようやく納得した。今回の旅の添乗員が、なぜリジーでなくてはならなかったのか。話は簡単、リジーが「女性の添乗員」だからだ。過保護な兄としては、大事な嫁入り前の妹を、男の添乗員にあずける気にはとてもならなかったのだろう。

「本当なら俺が依頼して終わりのはずだったんだが、こいつが急に勝手なことを言いはじめたから話がややこしくなった」

「そう。だからロデリックまでいっしょに行くなんて言い出したんだよね。ロデリックが心配だったのはぼくじゃなくて、リジーのほうだったんだよ」

「……おまえが何をしでかすかわからんからだ」

 からかうようなフレッドに、むっつりとロデリックが答える。あのとき彼が不機嫌そうにしていたわけがやっとわかった。

「ぼくが妹のふりをしたのはね、実際に本物のフィアンナが旅行をするとき、リジーがどういう対応をしてくれるのか知りたかったからさ。宿泊先とか経路とか、困ったことがおきたときとかに」

 リジーは目を伏せた。

「つまり、わたしは試されたってことなんですね」

「ごめん。そういうふうに言われたら謝罪の言葉もない。妹のためとはいえ、ずるいやりかたをしたのはよくわかってる」

「俺は最初に全部説明しておくべきだと言ったんだがな」

 ため息をついたのはロデリックだ。女装までしてリジーを欺いたりせず、こういう事情なので自分を女性としてあつかって欲しいと説明されれば、リジーもきちんとそのように対応しただろう。

「ぬきうちで試すようなことをしなくても、きみがいいかげんな仕事をするひとじゃないことはすぐにわかったよ。だけどぼくも、……その、女の子としてきみと接するのがだんだん楽しくなってきて、ずっと『フィアンナ』のままでいたくなっちゃったんだ。でも、結果的にリジーの誇りを傷つけるようなことをしてしまった。本当に、ごめん」

「こいつの女装ははんぶん趣味みたいなものだ。きみには怒る権利があるぞ、リジー」

 いいえ、とリジーは首をふった。

「フィアンナさまのためだとお聞きして、怒る気持ちにはとてもなれません。それに、今回の旅が及第点だったとはわたしにもとても言えませんもの」

「ねえリジー、きみはこの旅行が『失敗』だったと思ってるの?」

 リジーはくちびるを噛んだ。

「――はい」

 失敗、ではない。客の身の安全を守ると言う点では、添乗員失格だ。

 これに関しては、一歩もひくつもりはない。譲らないリジーに、フレッドはとうとう根負けしたように金髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。

「あーもう、わかった。いいよ、今回の報酬はきみ、ひいてはマイルズ旅行社にはいっさい支払わないことにする」

「はい。それで結構です」

 こころのなかでマイルズに深く詫びる。もちろん責任も負うつもりだ。何ヶ月かかるかわからないが、リジーの今回の負債はすべて自力でとりもどさなければ。

 決意したリジーに、そのかわり、とフレッドは指を突きつけた。

「ぼくは本物のフィアンナへの旅行の企画プロデュースをきみに依頼する!」

 フレッドの宣言に、リジーは顔をあげた。

「えっ?」

「きみに、ぼくの大事な大事な妹をあずけるよ。楽しい旅につれてってあげてくれ。ついでにぼくもいっしょについていくけど。了承してくれるよね?」

 にっこりと笑うフレッドに、リジーが返事できないでいると、ロデリックまでもがこんなことを言いはじめた。

「俺もきみに通訳を頼みたい。前に少し話したと思うが、俺はいずれ自分の窯を持つつもりだ。他国に交渉へ行くこともあるだろうし、その際は優秀な通訳が必要になる。ぜひ同行してくれないか」

「通訳……?」

 それはリジーも考えたことのない、思いもかけない提案だった。

 ――そうか。そんな道もあるのだ。

 ぱあっと、いきなり目の前に光がさしこみ、いくつもの扉がリジーの前で音を立てて開いた気がした。

 女冒険家でも、添乗員でも、あるいはだれかの通訳でも。窮屈な場所から世界に出て行く方法は、きっといまのリジーが考えもつかないほどにたくさんある。

「ずるいぞ、ロデリック。ぬけがけする気かい!」

「何がずるいんだ。依頼だと言っているだろう。きちんと旅行社は通すぞ」

「なんだよ、リジーを専属の通訳にって。ホントやらしいなー!」

「おい。専属の通訳なんてひと言も言ってないだろうが」

「いいよ、じゃあぼくは会社を通さずに直接リジーに依頼するから。個人的にね。支払いはぼくのポケットマネーで」

「フレッド!」

 新たな道が開き、感動にうちふるえるリジーの隣で、なぜか義理の兄弟が不毛な争いを展開していた。

「あの、本当にわたしに……、じゃなくて、わたしでいいんですか」

「リジーでじゃなく、リジーが、いいんだよ」

 と、笑いながらフレッド。

「正確に言うならきみの腕を見こんで、だが」

 とまじめな顔でロデリック。

「リジーはあっちこっちから騒動を招くひとみたいだけど、ぼくはそういうのも大好きだからね」

「そ、騒動を招く……?」

「そうだよ。気づいてなかったの? きみ、へたしたらエルシオン政府のお役人に要注意人物って目をつけられてたかもしれないんだから」

 フレッドの言葉にリジーは声をつまらせた。彼が言っているのはチェスナットのことだ。

「ぼくがお役人たちに言ったことは本心だよ。聡明で行動力があり、しかも先見の明がある。そんな女性こそ、これからのエルシオンには必要な人材だってね。無鉄砲なところも魅力だけど、ぼくとしては少し心配かなー」

「おまえはその過保護すぎるのをなんとかしろ。鳥かごを持って追いまわされては、相手はみんな辟易するぞ」

「そう? 束縛されたいって女の子、結構いるものだけどね」

「いるかもしれんがリジーはそうじゃないだろう。妹にも煙たがられているくせに、本当に懲りんやつだな」

「うわあ、耳が痛い。でも、そうだね。鳥は自由に羽ばたいてこそだもんね。とりあえずこの旅から無事に帰国したら、ぼくたちがきみの後ろ盾になることを約束しよう。これからもよろしくね、リジー」

 リジーはきゅっとくちびるを結んだ。旅の終わりまでとっておこうと思っていた言葉だが、いまここでつたえるべき心がある。

 気持ちをこめて、リジーは頭を下げた。

「――ありがとうございます。フレッド、ロデリック」

「ああ。だがまだ、礼には早いな」

「そうそう。まだ終わってないからね、この旅は。無事に家に帰るまでが旅行だからさ。でしょ!」

 はい、とリジーが答えたその瞬間、ロデリックの肩の上でおとなしく眠っていたパティがぱっちりと目を覚まし、寝覚めのけたたましい一声をあたりに響かせた。

「旅ハ道ヅレ、人生運マカセ!」

 いつか聞いた、祖父の格言。

パティの言葉に、三人は一瞬顔を見合わせ、同時に吹き出した。ようやく笑顔になったリジーの背後には、晴れた空の青がどこまでも広がっていた。



         ◇



 翌朝、エルシオン建国記念日。リジーたちは無事エルシオン国ロセター市に帰還した。

 シュヴァーン伯とサンテスとはルノで別れたが、その後のサンテスの行き先は訊かなかった。彼が道をあきらめなければ、いつかどこかでシーガルの名を耳にすることもあるだろう。彼の自慢の翼とともに。

 行きの事件がうそのように、帰路は何事もなく《空飛ぶ貴婦人》はホームに停車した。

 リジーはフレッド(女装した今はまた「フィアンナ」だが)とロデリックといっしょに、荷運び人から荷物を受けとる。パティはクレインに預け、先に帰宅するよう頼んである。

 たくさんのひとでにぎわう朝のロセター駅では、とある人物がリジーたちの帰りを待っていた。

「リジー!」

「お、おじさま?」

 混雑したひとのなかに見知った顔を見つけ、リジーは驚いた。帰りの鉄道の時刻はあらかじめマイルズにつたえてあったので、彼がここにいてもふしぎではないが、まさかわざわざ迎えに来るとは思わなかった。

「どうしてここに……」

 マイルズがいたことにもだが、リジーが驚いたのは彼の後ろにもうひとり、美しい少女がいたことだった。ひと目見て、彼女が本物の「フィアンナ」であることがわかった。

 金髪に淡い緑の目。ミルク色の肌にただひとつ、特徴として左目の下に小さな泣きボクロがある。リジーの横にいるフレッドと、服以外はまるで鏡でも見ているかのようにそっくりだ。身長もほとんど変わらない。――双子だったのだ。

「フレディお兄さま、ロディお義兄さま!」

 こちらの姿を見とめるなり、フィアンナがドレスの裾をひるがえし、フレッドに抱きついた。フレッドが女装しているため、服装の色――ちなみにフレッドが水色、フィアンナが薄桃だ――が違わなければ、どちらがどちらなのか本当にわからなくなっただろう。

「わあっ、フィアンナ!?」

「お兄さまたちったらずるい! わたくしだけ仲間はずれなんて」

 飛びついてきた妹を抱きとめ、フレッドがうろたえた声をあげた。不意打ちだったせいか、声が少しだけ素の状態フレッドに戻っている。

「ひどいですわ、わたくしもいっしょにつれて行ってくださればよかったのに」

「何を言ってるんだ。ついこのあいだも熱を出したばっかりで――」

「あれはただの風邪です! もう、フレディお兄さまったら本当に過保護すぎます」

 ぷんぷんと音がしそうなほど憤慨しきりの妹に、双子の兄もたじたじだ。まあまあと苦笑しつつ、彼らの義理の兄であるロデリックがフィアンナをいさめにかかる。

「土産はちゃんと買ってきた。プレゼントも用意してある。それで許してやれ」

「またキャンディですの? いつもそれでわたくしがなだめられるとお思いなのね!」

 可憐な顔に似合わず、フィアンナはすっぱりとロデリックの懐柔策を叩き落とした。

「ロディお兄さまもフレディお兄さまを甘やかすのはおやめになってください。まったく、いつもふたりしてわたくしを仲間はずれにして!」

 まあまあ、どうどうと、憤慨する末の妹をなだめる兄たちである。この三きょうだいの力関係は説明されずとも丸わかりだった。

「リジー、よく無事で帰ってくれた」

 さすがに抱きつきはしなかったが、近よってきたマイルズも心配そうな顔でリジーの肩をたたいた。

「マイルズおじさま?」

「おとといワーナーの鉄道警察からわが社に連絡が入ったんだよ。きみたちが行きの列車で事件に巻きこまれたと聞いて、ずっと心配していたんだ。連絡もないし、私は生きた心地がしなかった」

「あっ」

 そういえば、すっかり忘れていた。リジーたちは行きの《空飛ぶ貴婦人》で貨物車両に閉じこめられたのだ。事情聴取を受けたのだから、マイルズ旅行社のほうに連絡があって当然だった。

「安心して、おじさま。ひとまずみんなこうして無事に帰って来れましたし」

「ならいいが……」

 リジーが細かい事情をのぞき、あらましを簡単に話すと、マイルズは難しい顔になった。

「おじさま、わたし今回の旅行費は――」

「いや、いい。わかってる。それが正しいよ。お客さまにはすぐに返金の手続きをとろう」

「本当にごめんなさい……」

「いいんだ。私はリジーが無事に帰ってきてくれただけで充分だ。きみに何かあったら、わたしはご両親に顔向けができないよ」

 マイルズはリジーの頭を抱き、ぽんぽんと後頭部を優しく叩いた。

「誰にでもはじめてはある。私もはじめて添乗員としてお客さんの旅に同行したときは焦って失敗もしたよ。でも今回のこれで、きみは『はじめて』を終えたんだ。『次』はもっと、がんばればいい」

 さらりと告げられた「次」という言葉に、リジーは顔をあげた。

「……次?」

「そうだよ、次だ。忘れたのかね、カモ、違ったカネ持ちのお貴族さまたちを大勢旅行へ送り出して、いつかはマイルズ社を首都ワーナーに進出させるんだろう? あの自信たっぷりのリジーはどこへ行ったんだ?」

 リジーはもともと、マイルズ社のタイピストだった。言いよどんだリジーに、マイルズはにっこりとほほ笑んだ。

「言っただろう。きみは我が社でも一、二を誇る優秀な添乗員だとね。これからさき、きみにもお客さんがどんどん来るようになるよ」

 ただ泣き笑いのような顔で、リジーはうなずくしかなかった。

「ありがとう、マイルズおじさま。でもね、安心して」

「安心?」

「次の旅行の依頼、もう決まってるの」

「?」

 きょとんとするマイルズに、リジーはふふっといたずらっぽく笑った。

「――リジー」

 名を呼ぶ声にふりかえる。フレッドがおいでおいでをするようにリジーを手招く。リジーはマイルズに先に帰社するよう伝え、すぐに彼らのほうへ走りよった。

「ぼくの妹を紹介するよ。彼女が正真正銘の『フィアンナ』だ」

「リジーです。はじめまして、フィアンナさま」

 膝を折るリジーを、フィアンナはきらきらと好奇心に輝く瞳で見上げて来た。本当に双子の兄とそっくりだ。

「はじめまして。あなたがあのリジーさんなのですね! お会いできて光栄ですわ」

「あの?」

「ええ。旅行社をおたずねしてから、お兄さまたちはあなたのことばかり話題にしてらしたのよ。妬けてしまうくらい。若い女性なのにとても頭の回転が早いとか、革新的だとか、赤毛が素晴らしいとか――」

「えっ?」

「こら、フィアンナ!」

 フレッドとロデリックが慌ててフィアンナの口をふさぎにかかろうとしたが、彼女はひらりとそれをかわし、リジーの腕にぎゅっと抱きついた。

「ですからわたくし、ぜひともあなたにお会いしてみたかったの」

 人形のような愛らしい娘にすり寄られ、リジーはなんとなく顔を赤らめた。おなじ顔はすでに見慣れているはずなのに、ついついひきこまれてしまうふしぎな魅力がある。

「こ、光栄です」

 なぜかフレッド相手のときよりもどきまぎしながら礼を言うリジーに、フィアンナはにっこりとほほ笑んだ。

「リジーさん。なにせ双子の兄妹ですから、わたくしとフレッドは好きなものがとてもよく似ていますの。かぼちゃ以外の、ですけど」

「は、はいっ?」

「なので、次はぜひ、わたくしとの女ふたり旅につきあってくださいませ。もちろんお兄さまたち抜きで」

「え……」

「こ、こら、フィアンナ!」

 背後からフレッドやロデリックの「ずるいぞ!」「ぬけがけだっ」という抗議の声が聞こえてくるが、フィアンナはどこ吹く風だ。

「豪華客船で新大陸への船旅や、オルセンの空飛ぶ船で優雅に空の旅もすてきですわね。わたくし、これからの時代は女性も広く世界を見聞するべきだと思っておりますの! ね、そう思わないこと、リジーさん?」

「え、ええ。もちろん」

「あなたならそう言って下さると思ってましたわ! では、次はぜひこのアイビス公爵家令嬢、フィアンナ・アイビスによる企画を聞いてくださいませ。よろしいですわね、リジーさん?」

 にっこりと。バラの妖精も恥ずかしがって姿を隠してしまいそうな大輪の笑顔の前には、リジーもうろたえつつ、ただうなずくしかなかった。

「……はい」

 高らかに音をたて、可能性の扉は世界へと広がっていく。この先に待ち受ける未知の国や未知の出会いは、リジーの人生に一体どんな彩りをもたらすのだろうか。




 ――のちの時代、おもに女性のためにさまざまな旅行書を記し、世界中にその足跡をのこしたと言われる女性添乗員リージェン・クックの波乱の旅は、ここにようやくその第一歩を踏み出したのだった。


                                   (完)







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ツーリズム!‐空飛ぶ貴婦人と雲の紳士‐ 朝羽 @asaba202109

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