第七章 三国会談


 飛行船――といえば、もっとも有名なものは、航空の黎明期にオルセンのシュヴァーン伯爵により製作された、硬式飛行船の《白鳥号》であろう。

 筆者はいまも鮮明に記憶している。莫大な製作費をかけ、何度もの試作と失敗を重ねて完成した空の船は、オルセンやクラレンスの空をまるでクジラのような悠々とした姿で飛んでいた。飛行機の発明と完成により主役の座を奪われるまでは、飛行船こそが空での王者であったのだ。


                 リージェン・クック著『快適なる空の旅』より



 シュヴァーン伯爵の飛行船、通称白鳥号は、ルノ市の南西部、万国博覧会場から五マイルほど南下した自然公園に停泊していた。

 ふだん、クラレンスの航空クラブの人間が自作の飛行機や滑空機で実験を行うこともあるというだだっ広い草地に、伯爵ご自慢の白い硬式飛行船がどんと鎮座している。幾本もの頑丈なロープで大地に係留されたそれは、さながら海からひきあげられた巨大なクジラのようで、地上にあっても壮観な眺めだった。

 飛行船のまわりでは点検に余念がない飛行船技師たちや、荷物を運びいれる荷役たちが慌しく働き、いつでも空へ旅立てるよう準備がすすめられている。離陸の瞬間を目に出るかもしれないと思うと、いやがうえにも期待が高まる。

 実際、遠巻きにこちらを眺める観客の数は朝から減るどころか増える一方だった。日傘をさし、つき人を連れたご婦人や、通りすがりにぎょっとして自転車を停め、驚いたようにこちらを指さす配達の男、あるいはしきりに周囲の人間に話しかけ、情報を聞き出そうとする見習い記者らしい若者もいる。まさにちょっとした見世物だった。

「まあ、まるでお祭り騒ぎですわね」

 忌憚のない意見を述べたのはフィアンナだ。いかにも楽しげにレースの日傘をくるりと回し、見物人たちを逆に見物していた。

「……無理もありません。こんなに大きいものを地上で、しかも間近に見られることなんて滅多にないですもの」

 答えたのはリジーだ。つば広の帽子をかぶり、フィアンナとおなじく淑女然とした装いで、魅入られたように飛行船を間近で見あげた。

〈気に入ったかね〉

 オルセン語でリジーにそう話しかけてきたのは、立派な仕立てのスーツに身をつつんだ小柄な老爺だった。護衛か、それとも単なる付き人か、老爺はオルセンの軍服を着、軍帽を目深にかぶった浅黒い肌の男を連れていた。

〈何度見ても、そんな風にぽかんと口を開けてわしの船に注目してもらえるのは、なかなかに気分がいい。まるで聖なる日に贈り物のふたをあける子どもの顔を見るようでな。自分が聖人になったような錯覚さえするわい〉

 くわえたパイプからぷかりと煙を吐き出し、老爺は目を細めた。リジーは赤面し、開けっ放しになっていた口を慌てて手で覆う。

〈まあ、おひとが悪い。伯はいつも、ひとをあっと言わせることがお得意でいらっしゃるのに〉

 リジーがオルセン語で言い返すと、彼はほっほっと肩を揺らして笑った。

老爺の名はアルブレヒト・シュヴァーン。隣国オルセンの退役軍人にして、現在はこの巨大なクジラ――硬式飛行船の製作総指揮をつとめ、世間での注目を集めつつある人物でもある。

 白髪の目立つ茶色の髪に、同色の髭が口もとの大部分を覆っている。身長はそう高くないが、元軍人だけあって体格はがっしりしていた。腰も曲がっておらず、背筋がピンと伸びているために、小さいという印象はまったく受けない。

 リジーとフィアンナ、シュヴァーン伯爵、そして伯爵のわずかな付き人をのぞき、彼らの周囲では飛行船を離陸させるための準備がいまも着々と進んでいた。彼らは飛行船のそばでただじっと待っているのだ。風向きが変わるのを。

「あら」

 と、唐突に声をあげたのは、飛行船を見に集まって来ていた人々を眺めていたフィアンナだった。

「お待ちかねのお客さまがいらっしゃったようですわ」

 フィアンナの言葉にリジーもふり返る。競い合うようにして草地を横切ってきたのは、一台の自動車と一台の馬車だった。飛行船を見つけるなりその場に停車すると、車と馬車それぞれから数人の男たちが慌しく飛び出してきた。

「どっちが先にたどりつくかと思ってましたけど、両方いっぺんに来ましたね」

 連絡には傍受可能な無線を使ったし、この場所も相当に目立つので、どちらの到着も時間の問題だろうと思われた。こちらの迎撃準備も結局午すぎまで掛かったので、午後三時を回ってから到着してくれたのは、まったく運が良かったと言える。

「一度で迎え撃てるなら、手間がはぶけていいじゃありませんの」

 あっけらんとフィアンナが笑う。相変わらず大した胆力である。

 一団は決して走りはしないものの、ずかずかと音でもしそうな足どりで、まっすぐこちらに向かってくる。その集団の最後尾に、肩に白いヨウムを止まらせたロデリックを発見し、リジーはほっと安堵の息を吐いた。

 ――よかった、無事で。

「ほら、ですから大丈夫だと申し上げたでしょう」

 リジーの袖をひき、フィアンナがいたずらっぽく片目をつぶる。リジーははい、とうなずいた。周囲の目がなければ、駆けよって安否をたずねたいところだ。

 仕方なくロデリックにだけわかるように小さく手を振ると、彼はすぐに気づいて帽子のつばをあげて見せた。パティがやけにおとなしくしているのが意外だが、ロデリックが何か言い含めたのかもしれない。

〈まったく、千客万来だなこれは〉

 面白がるようにつぶやいたのはシュヴァーン伯爵である。彼は少しも動揺せず、一直線にこちらを目指してくる男たちの到着を待った。

 先にこの場に到着したのはエルシオン政府の役人たち――アップル、ベリー、チェスナットの三人だった。彼らと同じ馬車で乗りつけてきたロデリックは歩調をゆるめ、途中で立ち止まった。少し離れた場所から全体の動向を見守るつもりのようだ。

わずかに遅れてクラレンス人のソルトとシュガーも追いついてきたが、彼らはまずエルシオン側の出方をみることに決めたらしい。一歩下がって順番待ちの体勢になった。

 エルシオン人たちは伯爵の前まで来ると、かぶっていた帽子をぬぎ、形ばかりの礼をしめした。

「失礼。オルセンのシュヴァーン伯爵でいらっしゃいますね」

 かけられた言葉はエルシオン語だった。伯爵のすぐ右にひかえたリジーは言葉を訳し、こっそりと彼に耳打ちする。

〈いかにも、わしがアルブレヒト・シュヴァーンだ〉

 と、彼はオルセン語で名乗ると、

〈すまない、わしはオルセン語以外話せんのでな。こちらの女性を『通訳』としてあいだに立てたいのだが、かまわんかね?〉

「――と、伯爵は仰っておられます」

 シュヴァーン伯爵に背中を押されるようにして、リジーが一歩前に進み出る。

 美しい発音のエルシオン語で伯爵の言葉を伝えると、目深にかぶっていた帽子のつばを上げた。エルシオン人たちが驚いたように目をみはる。

「やはりここに……」

 聴きとれるか聴きとれないかというほどの小声でチェスナットがつぶやく。彼は何か確信をもったような表情で伯爵に向き直った。

「伯爵、われわれはエルシオン政府の人間です。いま、とある人物の行方を追っております」

〈ふむ、きみたちは名乗る名前も持ち合わせがないのかね〉

と、皮肉を口にしたあと、〈とある人物というのはオルセン人なのかな?〉と続けて問うた。

 リジーはまずチェスナットの言葉をオルセン語に訳し、次に伯爵の言葉をエルシオン語に訳して双方に伝えた。いいえ、とチェスナットは首をふる。

「件の人物はエルシオン人です。正確にはエルシオンとクラレンスの混血ですが」

 言いながら、彼はちらりとソルトたちのほうに視線をやる。

〈ううむ。きみたちのような政府のお役人がわざわざその行方を追うなんぞ、その人物はよほどの重罪人か何かなのかね〉

「いえ、そうではありません。ですが、彼のもつ技術や知識はほいほいと国外へ持ち出されては困るものなのです」

〈ほほう〉

 なるほど、とシュヴァーン伯爵は目を細めた。

〈事情はわかった。それで、きみたちはなぜ揃いもそろってわしのところへ来たのだろう?〉

「それは……」

 チェスナットはわずかに言いよどみ、通訳のために彼らのあいだに立ったリジーを鋭く一瞥した。

 ぎくりとするリジーの背中に、かたわらのフィアンナが無言で手を添える。大丈夫だというように。それに励まされ、リジーは動揺をおもてに出すことなくチェスナットを見返した。

 チッスナットふくむエルシオン政府役人たちがこの場に、――シュヴァーン伯爵のもとにたどり着けたのは、ずばりリジーが一因だった。

 これは後になってロデリックとも確認しあった話だが、役人たちは万博会場でサンテスを見失ったあと、完全に手詰まりになった。サンテス・シーガルの身柄をめぐってクラレンス政府も動いていることを知った彼らは、だがしかしエルシオン人であるという理由から、目立った行動をとるのは避けたがった。

 そこで彼らはサンテスといっしょに逃げたリジーに注目し、リジーの行動を予想することにしたのだ。

 彼らはリジーがシュヴァーン伯爵とつながりがあることを知っていた。半信半疑のまま、だがほかの可能性も思い浮かばず、ルノに滞在中の伯爵のもとへやってきたのだ。サンテスと伯爵がおなじ航空の開拓者パイオニアであることも考慮にはいれたかもしれない。――つまりサンテス・シーガルはリジーを通じ、オルセン人のシュヴァーン伯爵のもとに身を寄せたのではないか、と。

 彼らの疑惑はここにリジーがいたことで、おそらく確信に変わっただろう。予断を許さぬという表情でチェスナットが伯爵につめよった。

「単刀直入に言いましょう、伯爵。われわれはあなたがその人物を匿っているのではないかと疑っています。申し訳ないが、そちらの飛行船のなかを調べる許可を頂きたい」

 許可を求めているものの、実際には命令だった。一言一句違えずにリジーは彼の言葉を通訳する。

〈ふむ。もしかすると、そちらの方々の目的も同じかね。クラレンスの人間とお見受けするが〉

 伯爵が視線を移動させると、チェスナットたちの背後に控えていたソルトとシュガーが強引に前へ進み出てきた。

『そう、私たちはクラレンス政府に属する人間だ。こちらもある人物を捜索している』

『われわれは独自の調査でここへたどり着いた。対象がここにいることはわかっているんだ。あくまで隠すというのなら、こちらにも考えがある』

 クラレンス語での強引な脅しも、リジーはひるまずに通訳した。

 ――シュガーたちの言い分は、こうだ。

 サンテスは万博会場から気球で逃走を試みたが、ルノ警察の介入により失敗し、エニス川へ墜落。その後の足取りは見失ってしまった。

だが、サンテスの逃亡に力を貸したのは、彼が所属する航空クラブの仲間である。エニス川に落ちたサンテスを救助したのも、おそらく彼らのはずだ。

 そこで彼らは航空クラブの持ち船を捜索し、今朝になってようやくエニス川河畔で船を補足した。だが、船はすでにもぬけのから、船の持ち主からサンテスがシュヴァーン伯爵と連絡をとったのを聞き出した。(実はこれは、リジーが情報を漏らしていい、とルイに伝えたためだが、役人たちはそんなことは知らない)。そこで、サンテスが合流したと思われる、この飛行船の発着所まで乗りこんできた、というわけだった。

『サンテス・シーガルを引き渡してもらいましょうか、伯爵。それができないというのなら、われわれに乗船許可を。こちらで勝手に調べさせていただく』

 ううむ、と伯爵は唸った。

〈どちらの言い分もわかった。が、残念なことに、わしはその人物を隠してはおらんし、異国人を匿う理由もない〉

 リジーがエルシオン語でそう訳した瞬間、チェスナットたちの顔色が変わった。ソルトとシュガーも実力行使に移るべく、身構えたのがわかる。

〈しかしながら、〉

 薄氷を踏むかのような危うい一瞬ののち、シュヴァーン伯爵はパイプの煙をぷかりと吹かし、飄々と肩をすくめた。

〈わしの自慢の船をあなたがたにおひろめするのはやぶさかではない〉

 その返答に、彼らはそれぞれ仲間同士で目配せをかわし合った。

「それでは、伯爵――」

〈ああ。わしの『白鳥号』に皆さんをご招待しよう。ご自分の目で、確認されるといい〉

 こうして総指揮者の招きにより、エルシオン・クラレンス両政府のみならず、リジーたちも飛行船伯爵自慢の船に乗りこむことになったのである。



 タラップを上がって飛行船内部に入り、通路上にある階段をのぼると、まず目の前にひらけたのは展望室兼ラウンジだ。右舷側には開閉式の大きな窓がいくつもならび、今は飛行船の外側に広がる自然公園の景色が見渡せる。空中にあってはさぞかし絶景が見られることだろうと、リジーの胸は密かに踊った。

 重量を少しでも軽減するため、装飾のたぐい――花瓶のひとつすら――ないが、それでもちょっとしたホテルのロビーなみだった。質素だが、落ち着いた雰囲気だ。

 ラウンジは円テーブルと数脚のイスが設置され、乗客が景色を見ながら歓談できるよう、窓際にソファも設けてある。十人ほどがくつろげる広さがあるが、一瞥しただけでわかるとおり、ひとが隠れるスペースなどはない。

 案の定、政府役人たちはラウンジをおざなりに一周しただけで、すぐに「他のスペースを」と言った。

「見せて頂けますか、伯爵」

 シュヴァーン伯爵は肩をすくめ、リジーに向かってうなずくと、ひと言二言注意事項をつけくわえた。

〈ご案内しよう。ただし火気はくれぐれも持ちこまぬように。ご承知のことだろうが、飛行船の気嚢に詰まっているのは水素ガスだ。火がつけばどうなるかは説明するまでもなかろう。この場にいる全員の命を失うばかりか、クラレンス史上でも類を見ない大事故を引き起こすことになる〉

 伯爵の意向をそのまま伝えると、彼らは一様に神妙な表情でうなずいた。これで彼らがふところに隠し持っているであろう、銃火器の類は意味を成さなくなった。

 外から見ると、巨大なクジラ――とでも言い表すほかない飛行船だが、内部のほとんどは気嚢部分であり、ほぼ空洞と言ってもいい。あちこちには通風孔と、ガスの入った袋を仕切る壁、ごくごく細い作業用の通路のみが甲板や船室などへ移動するために張り巡らされており、広大に見える一方で、実際に人間が安全に行動できる範囲は極めて少ない。

 作業用通路に繋がる狭い梯子を全員で――リジーとフィアンナは伯爵に制止されたが、結局強引に押し切って最後尾についた――のぼりきると、伯爵は付き人とともにその場で待機を申し出た。

〈すまないが、捜索したいなら通路上のみで行ってもらえるかね。別に隠し立てするわけではなく、それ以外は単純にきみたちの命を保証しかねるのでな〉

 エルシオン、クラレンス両政府の役人たちは、それが脅しなどではないと充分に理解しているのだろう。いやいやながらも慎重な足どりで、四方へ続く通路をそれぞれ進んでいく。

 そのあいだにリジーとフィアンナは合流したロデリックとようやく一日ぶりに互いの無事を祝うことができた。

「元気そうでよかったぞ、ふたりとも」

「ロデリックもご無事で本当に何よりでした」

 リジーたちと離れ離れになったロデリック(とパティ)は、チェスナットたちと行動をともにすることを余儀なくされた。嫌疑は晴れたものの、リジーひいてはサンテスの行方がわかるまで身柄を拘束されていたらしい。

「乱暴なことはされませんでしたか?」

「いや、それはなかった。拘束といっても、縛られもしなかったしな」

 逃亡を図ろうと思えばいつでも可能だった――つまりチェスナットたちも、本当はロデリックを泳がせたかったはずなのだ。逃げた彼のあとを追えばいいのだから。

 ロデリックがそうしなかった理由は、彼自身もどこへ行けばリジーたちと合流できるのか皆目見当がつかなかったためである。身柄を拘束されたというより、ロデリックがチェスナットたちにくっついていたと言ったほうが正しい。賢明な判断だ。

 リジーはロデリックの肩の上でおとなしくしているパティに視線を移した。離れていたのは一日だけとはいえ、リジーを見ても騒ぎもしないのは少し驚いた。

「パティ、おいで」

 腕を差し出すと、パティは素直にリジーの肩の上へ移動した。無言で頬に摺り寄せてくる頭をそっと撫でてやる。

「無事でよかった」

「リジーモ、ブジ、ヨカッタ」

「いい子にしていたでしょうね」

「パティ、イツモ、イイコ」

 本当かしら、と思いながらロデリックに向き直る。

「ロデリック、わたしがいないあいだ、この子の面倒を見てくださってありがとうございます。何かご迷惑をおかけしませんでしたか」

「いや。俺といれば合流できるとわかっていたようでな。役人たちの前で騒ぐと焼き鳥にされかねないから、俺が良いと言うまで黙っておけと釘を刺しておいたんだ。そっちこそ、フィアンナの破天荒っぷりに振り回されたりしなかったか」

「まあ、ひどいですわ、その言い草。わたくしはお兄さまの身をずっと案じておりましたのに」

 頬をふくらませて抗議するフィアンナに、ロデリックはなぜか剣呑な目を向ける。

「何が案じておりました、だ白々しい。俺が邪魔だからおとりになるよう置いていったんだろうが」

「おとりだなんて。冗談にしても面白くありませんわよ」

「そりゃこっちのセリフだ」

 ころころと笑うフィアンナと、半眼になるロデリック。互いの無事を喜ぶどころか、なぜか険悪な空気になるふたりに、リジーはとまどった。

「えーと……」

〈盛り上がっているところ悪いが、お嬢さんがた〉

 ふいにシュヴァーン伯爵がオルセン語で話しかけてきたのでリジーははっとなった。伯爵のそばに待機していた浅黒い肌の軍人が、いつの間にか姿を消していることにも気づく。

〈例の用意をはじめさせたぞ。やっこさんたちも戻ってくる頃だろうし、おまえさんたちも心の準備をしておきなさい〉

「わかりました」

 リジーはうなずき、ロデリックとフィアンナにも伯爵の言葉を小声で伝える。

「何が始まるんだ?」

 怪訝な顔で訊ねるロデリックに、いたずらっぽく答えたのはフィアンナだった。

「まあ黙ってご覧になっていてくださいな、ロデリック。ここからが本番ですのよ」

「本番?」

「とりあえずうっかり通路から落ちたりしないように、構えていて下さい。多少は揺れるらしいので」

 なんのことやらさっぱりわからん、という態のロデリックに、リジーも謎掛けのような言葉を返すしかない。そうこうするあいだに通路の奥からチェスナットたちが戻って来た。

 エルシオン政府側のアップルとベリー、そのうしろからシュガーとソルトもやってくる。先頭のチェスナットは眉間にしわをよせ、苛立ちを押し殺しような顔をしている。

〈見つかったかね、お探しの人物は〉

「……いいえ、見つかりませんでした、伯爵。案の定」

 わかりきった話だと言いたげに、チェスナットは続ける。

「こうなれば徹底的にこの船を調べさせて頂く。操舵室、機関室、それから船長室も。当然許可はいただけるのでしょうね?」

 鋭く目を眇め、チェスナットが伯爵ともども通訳のリジーを睨みつけたその瞬間、ガクンという大きな振動が飛行船全体に伝わった。同時に、足元にかすかな浮遊感を覚える。パティがばさりと羽を広げたが、飛び立つことはしなかった。前もって身構えていたリジーたちは少し体を揺らしただけですんだが、驚いたチェスナットたちは膝を大きくよろめかせた。

「な、なんだ?」

 動転した様子で周囲を見回す役人たちを尻目に、いやなに、と伯爵は笑った。

〈せっかくだから、空の旅でも楽しんで頂こうと思ってな。さきほど係留ロープを外せ、と指示を出したところさ〉

「は、伯爵!? いったいどういう……」

〈なに、ちょっと浮いているだけの状態だ。地に足がついていないからといって、怯える必要はない〉

 飄々と答えた伯爵に、役人たちはみな一様に青ざめた顔で自分の足元を見つめる。宙に浮いていると聞いて、平静ではいられないのだろう。なにせ彼らは――リジーもだが――飛行船に乗ること自体が初めての経験なのだ。

〈さて、話の続きだが、あなたがたはこの船の中核を見たいということだったな。残念ながら、それはできない相談だ〉

「……理由をお聞かせ願えるでしょうか」

 苦々しげな顔でチェスナットは問うた。

〈先刻ご承知だろうが、わしはオルセン陸軍のもと軍人だ。退役してはいるが、この船の資金がどこから出ているか、あなたがたはご存知かな〉

 伯爵の返答に、リジーとフィアンナをのぞいた一同がはっと息をのむ。

「――まさか」

〈資本はオルセン軍持ちだ。つまり、この船自体が軍事機密扱いでな〉

 エルシオン人とクラレンス人たちのあいだに動揺が走る。

 ――実は、それが伯爵のハッタリであることを、リジーだけは知っていた。

 実際にオルセン軍が資金繰りに協力したのはわずかな骨組みの一部のみで、飛行船をつくるための膨大な資金のほとんどは伯爵自身が捻出、あるいはあちこち駆けずりまわって協力をあおぎ、苦心して集めたものだ。

 そもそもシュヴァーン伯爵はオルセン本国では狂人として有名で、「空に浮かぶ船をつくる」と言い続けてきた彼を、何十年もの長いあいだ誰もまともにとりあわなかった。彼が所属していた当時のオルセン軍ですら、伯爵の考えをあざ笑い、草案を蹴りつづけてきたのだ。

〈ついでに言うなら、この飛行船の建造にはオルセンの大公殿下にも協力をあおいでおっての〉

 伯爵はあっさりともうひとつの事実をつけ加えた。王族の協力と聞いて、両国の役人たちは呻きをあげる。

 この言葉はハッタリではなかったが、多大な誇張がふくまれていた。実際にオルセン大公が協力したのは資金繰りではなく、飛行船建造のための宝くじを発行する許可を出したことだ。

 なぜリジーがそんな事情を知っているのかというと、ほかならぬ祖父オスカーが伯爵の飛行船事業に協力していたからである。伯爵の技術に投資し、決して少なくない資金をタダ同然に渡した祖父は、結果的にリジーの一族からつまはじきにされることになった。伯爵はいまでもの恩義を忘れず、オスカーの血縁者であるリジーのことも、本当の孫のようにかわいがってくれている。困ったときは、彼は惜しみなく協力してくれるのだ。

〈もちろん、しかるべき手続きを踏んでいただけるなら、この船の中核をお見せすることも可能かもしれん。実際、再来月にはエルシオンの王族の方々を国賓としてこの船に招待することも考えておる〉

「……!」

 国賓と聞いてチェスナットは苦虫を噛み潰したような顔になった。一介の政府役人に、いまこの場でそれだけの権限が行使できようはずもない。ましてやここは異国クラレンスだ、強硬な手段をとれば国際問題にまで発展しかねない。

 エルシオン役人たちの腰が引けたのを見、好機と考えたか、進み出てきたのはクラレンス人のソルトとシュガーだった。

『伯爵、あなたは今回ルノ博の特別ゲストとして我が国に招かれた。われわれには視察という名目であなたの船を調査することができる』

『おとなしくシーガルをこちらに引き渡せ。あなたも、オルセンの軍事機密をわれわれに漏らしたくはないだろう』

 脅迫には脅迫を、ということらしい。シュヴァーンはしばし思案するようにあごの髭を撫でさすると、同時通訳しているリジーに小さく目配せを送った。

〈……たしかに、わしはルノ博のためにクラレンス政府から招待された立場だ。だが、招かれた人間として、老婆心ながらわしもひとつだけきみたちに忠告しよう〉

『なんです?』

 怪訝な表情で訊きかえすクラレンス人たち。ここだ、とリジーは息を吸いこんだ。


 ――バルテシオン。


 シュヴァーン伯爵とリジーの声がほぼ同時に重なり、クラレンス人たちは言葉を失った。

〈国を挙げての祭典で恥をさらすような真似はやめたほうがいい。そちらも、痛くない腹を探られるのは本意ではあるまい〉

『な、……なに言っておられるのか、わかりかねます』

 一瞬の動揺を押し隠し、ソルトがごまかそうと試みるが、遅かった。

 伯爵は早口のオルセン語でリジーに耳打ちする。リジーはそれに対してうなずくと、シュガーの腕をひき、耳元にクラレンス語ですばやく伝言をささやいた。わざわざ耳打ちしたのは、エルシオン政府側――すなわちチェスナットたち――にクラレンスが不利になる情報を渡さないためだった。

『オルセン軍の情報部なら、不正の疑惑でさえのどから手が出るほど欲しがるだろう、と伯爵は仰ってるわ』

 シュガーは目を剥き、ぐっと唇をかんだ。

 サンテスを引き渡せと強引に迫る彼らに、伯爵が突きつけたのは「バルテス文字を用いたコンクールの不正」のカードである。この情報はリジーから伯爵に伝えたものだが、もちろん物的証拠などは何もない。シュガーたちが即座に笑い飛ばしていれば、切り札にはなりえなかったのだ。

 だが、オルセン人であり、軍とのつながりがある伯爵が「ルノ万博で何か後ろ暗い不正が行われているらしい」という疑惑をオルセン軍の情報部に流す、とほのめかすだけで効果は充分だった。

 オルセンは軍事国家であり、平穏な時代であっても国境をまたいだクラレンスとはつねに緊張状態がつづいている。真実コンクールで不正があるにせよないにせよ、オルセンに対し、クラレンスは自国が不利になる弱味をひとつでも渡したくないというのが現状だ。

 はたして彼らの狼狽を見るに、シロなのかどうかも微妙なところだが。

 ガクン、とふたたび強い揺れが起こり、役人たちは不安げに周囲を見渡した。精神的にも実際的にも足場が心もとないのだ。こんな不安定な場所でさえなければ、彼らもこれほどの失態は見せなかっただろう。

〈――さて〉

 と、場の空気を変えるように伯爵がぽんと手を叩き、全員に通路の下を見るように示した。

 伯爵が下方に向けて手を振ると、通風口のそばに立つ男も片手をあげて合図を返した。男――浅黒い肌をしたオルセンの軍人は、何やら重そうな砂袋を両腕で抱え、これ見よがしに通風口から袋を外へ投げ捨てた。

〈おとなしくお帰りいただけるなら、よし。それでも強硬に出る、というのであれば、残念ながらあなたがたにも砂嚢バラストになって頂くが、どうするね〉

 その言葉が意味するところは明白だった。役人たちは未だかつて経験したことのない高さから、落下するところを想像せずにはいられなかっただろう。

 両政府の役人たちは、全員青ざめた顔で息をのんだ。

〈このまま舵を外洋に向ければ死体遺棄の手間も省けようが、今ならあなたがたも、オルセンの最新飛行船について見聞きした情報を持ち帰ることはできる。人間ひとりの身柄となら、悪くない取引だと思うがね。ここらを落としどころにしてはどうかな〉

 ダメ押しのひと言に、最初に屈服したのはクラレンス人のシュガーだった。

『……い、いいだろう。われわれはこの件から手を引くことにする』

〈ふむ。クラレンス国王の名に誓えるかね?〉

『ち、誓おう』

 伯爵はよしとうなずき、次にチェスナットに向き直った。

〈クラレンスの方々はこう言っておられるが、エルシオン政府の皆さんはどうかね。オルセン人のわしとしては、エルシオン人だけ特別扱いするわけにはいかん。それはご理解いただけんかな?〉

「……わかりました」

 青ざめた顔をしたアップルとベリーを一瞥し、チェスナットは絞り出すような声で答えた。その表情が物語っているのは、落胆というより諦観だった。

「シーガルの件はあきらめましょう。仰るとおり、飛行船伯爵の最新鋭の船となら引き換えにしても釣りがくる」

〈エルシオン女王の名に誓えますかな〉

「……誓いましょう」

 言質をとった伯爵はひとつうなずくと、もう一度下方へ向けて合図を送った。下にいた軍服の男は軍帽のつばを軽く上げて返答とし、すぐに乗組員たちのいる操舵室のほうへ姿を消した。

 彼が軍帽を持ち上げた瞬間、こちらに向けて小さく片目を瞑って見せたのを、リジーだけは見逃さなかった。


        ◇


「……なるほど、そういうことか」

 ラウンジに戻るなり、ロデリックがぼそりとつぶやいた。ラウンジの両側面にある窓からは、広々とした青い草原と、飛行船を大地に縫いとめている何本もの係留ロープが見える。外に広がる光景は、決して雲の浮かぶ青空などではなかった。

「つまり、われわれは見事に担がれていたというわけだな」

 チェスナットが、いっそ可笑しいとでも言いたげに口元をゆがめる。クラレンス人たちに至っては、呆気にとられた表情をしていた。

 実際に外されたロープもある。飛行船がわずかに浮いた気がしたのはそのためだ。政府の人間たちは飛行船の重量制限までは知らなかっただろう、これだけの人数を載せて上空高くまで浮かぶには、圧倒的に浮力が足りないのだ。

 エルシオン、クラレンス両政府ともに恥をさらしたかたちになり、彼らは疲れた様子でタラップを降りていく。実際、心身ともにかなり疲弊したのだろう、ソルトとシュガーはものも言わず早々に去っていった。

「ちょっと卑怯な手だったかしら」

 飛行船から降りて緑の草地に立つと、リジーはばつが悪くなってつぶやいた。それを耳聡く聞きとめたチェスナットが、驚くべきことにゆるりと首を振った。

「いや、引っかかった我々が愚鈍だったのだろう。我々は飛行船の構造についてさえ、よく理解してはいなかった」

 リジーはそうね、と肩をすくめるだけにとどめた。他国の新しい技術を脅威だと騒ぐ前に、まずはその構造を理解せねば追いつくこともままならない。

「しかし残念です、伯爵。捜索人のことを横においても、わたし個人として飛行船というものを、もっと純粋に楽しみたかった」

 口にしたのは皮肉ではあったが、本音のようにも聞こえた。少し驚きながらも、リジーはオルセン語でそっくりそのまま伯爵に伝える。

 シュヴァーン伯爵は苦笑し、彼に右手を差し出した。チェスナットは一瞬迷ったようだったが、すぐに真顔になり、その手を握り返した。

〈いまは無理かもしれんが、この先いつか。そうだな、世界中の船が国境関係なく空を行きかうような時代が来れば、あなたがたをわしの船に招待すると約束しよう〉

「楽しみにしておりますよ、飛行船伯爵どの」

 まんざらおべっかではない証明に、チェスナットはかすかな微笑を浮かべてそれに答えたのだった。



 アップルとベリー――ついに彼らの名も訊けなかったが――彼らはシュヴァーン伯爵に帽子を脱いで礼を示すと、飛行船に背を向け去っていく。おなじく立ち去ろうとしたチェスナットがふいに足を止め、リジーのもとまで引き返してきた。

「リジー・クック嬢、だったかなきみは」

「え、ええ」

 なんとはなしにぎくりとする。いったい何を言われるのかとリジーは身構えた。事態をさんざん引っかきまわしたことへの文句だろうか。だが予想に反し、彼は突然かぶっていた帽子を脱いだ。

「数々の非礼を詫びよう。きみはまったく大した女性だ」

 リジーは目をみはった。まさか謝罪されたうえに誉められるとは思わなかった。礼を言うべきか迷ってると、彼はリジーを見下ろし、目を鋭く眇めた。

「乗り物であろうと兵器であろうと、扱うのは人間だときみは言ったが」

 リジーはうなずいた。「ええ」

「道具を生み出すのも人間だ。そして人間は国に属している。個人の利益と国の利益が相反する、あるいは相容れない場合、きみならどうするね」

「なぜ利益でしか物事をはかれないの?」

 怒りをこめて、リジーは切り返した。

「水は高いところから低いところへ流れるものよ。新しい発想や発明は、個人の利潤だけで終わるわけではないわ。国の益にならないからといって、個人の持つ可能性に足枷をはめるなんてばかげてるとは思わないの? 女も男も、国籍だって関係ないわ。人間はだれしも、行きたい場所へ行けばいいのよ。責任を放棄するんじゃなく、ひとは望む場所へ行くために責任を負うの」

 強い瞳でリジーは言い切る。チェスナットは皮肉げな笑いを口もとに刷いた。

「学があり、大胆で、しかも国やひとを選ばない。そんな女性は、いまのエルシオンではいささか窮屈なのかもしれんな」

「――いいえ」

 きっぱりとした否定の声は、リジーのすぐうしろから返された。

「聡明で行動力があり、しかも先見の明がある。そんな女性こそ、これからのエルシオンには必要な人材ですわ」

 そう言ってリジーの前に進み出たのはフィアンナだ。凛とした表情で見あげる相手に、チェスナットの顔にはじめて驚愕が浮かぶ。

「……! まさか――」

「彼女のそばにはアイビスの雛がおります。上に報告するならその点を留意なさい」

 フィアンナが厳かに命じると、チェスナットは目を泳がせた。リジーを見つめ、動揺を押し隠すようにくちびるを結ぶと、一礼したのちに背を向けた。足早に去っていく男を見送っていると、少し距離をおいて立っていたロデリックがフィアンナの隣に並んだ。

「今回の計画、まさか発案はおまえじゃないだろうな」

「まあ、人聞きの悪い。わたくしは少々口添えしただけですわ。原案はリジー、協力は伯爵、そして改訂案を出したのは――」

 言いかけたフィアンナを遮るように、飛行船のタラップに足を乗せたシュヴァーン伯爵がリジーたちをふり向いた。

〈おい、おまえさんがた〉

 来い来いとこちらを手招く。

〈早く来なさい、彼も中で首を長くして待っているぞ〉


        ◇


 リジーたちがふたたび飛行船のラウンジに入っていくと、ソファに腰かけていた人物がばっと勢いよく立ち上がり、こちらに向かって突進してきた。オルセンの軍服を着た、浅黒い肌の男である。

「リジー!」

「ギャっ!?」

 驚いて身をひくリジーの肩の上からパティが逃げ出し、ばさばさと羽ばたいてロデリックの肩に落ち着いた。ずいぶんそこが気に入ったらしい。

「私はきみに感謝する!」

 がばっとリジーに勢いよく抱きつき、その男――サンテス・シーガルは感極まった声をあげた。

「きみは恩人だ! そのうえまさか、かの飛行船伯爵の船にこうして乗船できる日がこようとは! おなじ空の探求者として、これ以上ない栄誉だよ!」

 これほど興奮したサンテスははじめてだが、ぎゅうぎゅうと抱きすくめられるリジーのほうはたまったものではない。折れる折れる背骨が折れる、と目を白黒させながら、ばしばしとサンテスのわき腹を手で叩いた。

「……おっと、失礼」

 気づいたサンテスが慌てて腕をゆるめると、べりっと音のしそうなほどの勢いで彼の体がひき離された。リジーの腰をフィアンナが、サンテスの肩をロデリックがつかみ、同時に引っぱったようだ。

「ことわりもなしに淑女に抱きつくなどと、紳士の風上にもおけないぞ」

「同感ですわ。それにサンテスさん、そろそろその化粧、落としたほうがいいんじゃありません?」

 ふたりの冷たい視線を受け、サンテスはさすがにばつの悪い顔ですまないと謝った。ふところからとり出したハンカチで彼がゴシゴシと顔をこすると、浅黒い肌の下から本来の白い肌色がのぞく。

 オルセンの軍服および軍帽は借り物、そして浅黒い肌は化粧である。なんのことはない、サンテスは隠れるどころか役人たちの前に堂々と姿を晒していたのだ。

「いかに先入観と見た目で人が騙されるか、よね。肌の色を変えるだけでごまかされるとは思わなかった」

 リジーは笑う。ちなみに、化粧で肌の色を黒くしてはどうか、と提案してくれたのはフィアンナだ。

「最初に会ったとき、あなたが珍妙な格好をしていたのもよくわかるわ」

「珍妙ではない。趣味だと言っただろう。……ところで、その役人たちは? 諦めて帰ったかね」

 リジーがうなずくと、サンテスはそうか、とため息をつくようにつぶやいた。

「シュヴァーン伯爵にはどうお礼を言えばいいか……、そうだ、伯爵は私に亡命をすすめて下さったよ」

「亡命? オルセンに?」

「オルセンだけでなく新大陸に渡るという手もある、とね。私もまだ決めかねているが、どちらにせよクラレンスからは出国するつもりだ。航空クラブの仲間たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかんからな」

「そうね」

 たしかに、彼が仕出かした罪状を思えば、いまごろルノの警察に指名手配されていてもおかしくはない。

「選択肢が増えるのは悪いことじゃないわ。この飛行船やあなたの飛行機が当たり前のように空を行き来する日がきたら、新大陸もきっとそう遠い国ではなくなるもの」

「そうだな」

 サンテスはじっとリジーを見つめ、うなずいた。そして唐突にリジーの手をとると、彼は至極まじめな表情でこう言った。

「――リジー。私は、きみに深く感謝している」

 ありがとう、と折り目正しく膝を折ろうとした彼を、リジーは慌てて止めた。

「待って、わたしは何もしてないわ。矢面に立って下さったのは伯爵で、わたしは通訳しただけよ」

「そんなことはない。今回の計画を立てたのはすべてきみではないか。きみは私を伯爵にひき会わせ、異国人の私を救うよう頼みこんでくれた。そのうえ、両政府役人との仲立ちを伯爵に依頼し、彼らとひるまずに渡り合い、どの国にも肩入れすることなく私を窮地から救ってくれた。いくら感謝しても足りないほどだ」

「大げさよ、わたしはできる範囲のことをしただけ。だまし討ちの計画だって、穴だらけだったのをあなたやフィアンナや伯爵が協力してくれたからできたのだし」

「もう、リジーったら!」

 とまどうリジーの背中を、怒ったように叩いたのはフィアンナである。

「あなたは本当に、自分がどんな人間なのかちっともわかってらっしゃらないのね」

「まったくだ。謙遜は美徳だが、きみはもう少し自分の評価を見直したほうがいいぞ」

 フィアンナに続きロデリックにまで諭され、リジーは目をぱちぱちと瞬いた。

「でも……」

「あなたが他人の威を借りているだけと思うなら、それはとんでもない思い違いですわ。あなた以外の誰に、ここにいる人間全員の力を束ねることが出来たと思ってらっしゃるの?」

 フィアンナの言葉で、ふいによみがえったのは祖父の格言だった。クレインも好きだと言った、あの言葉だ。

 すなわち、「人間ひとりの力など高が知れている。大きなことを成し遂げるには、恐れず、他人の力を借りればいい」。

「うむ、フィアンナ嬢の言うとおりだ。私の台詞ではないかもしれんが」

 こほん、と小さく咳払いして、サンテスが続けた。

「ふさわしい人材に頼ることは何も恥ではなかろう。実際に私もひとの力を借りどおしだしな。だがそれを適材適所と呼ぶのではないかね」

「ひとの力を借りるのだって、誰にでもできることじゃない」

 とロデリックが締めくくった。

「役者がおれたちなら、脚本を書いたのはきみだろう。その手柄はきみだけのものだ、リジー」

 リジーはこころを打たれ、この場にそろった顔ぶれを見回した。いま初めて、祖父の残した言葉が実感とともに胸に落ちて来たのだ。

「……みなさん」

 何か言おうとして、だが何も言えず、リジーは声をつまらせる。その肩を長年の友のように、サンテスが叩いた。

「いつか、私の名を冠した飛行機が空を飛ぶ日が来る。そうすれば、きみが『世界』にどれほどの貢献をしたのかきっとわかるだろう」

 えへんと芝居がかった仕草で胸をはり、サンテスは楽しげにこう宣言した。

「ぜひその日を楽しみに待っていてくれたまえ、リジー」


 その日を楽しみに――、リジーはその瞬間、かっと目を見開いた。


「……ああああっ!」

 突然声を荒げたリジーに、その場に居た全員が――パティまでもが――ぎょっとして飛び上がった。

「ど、どうした急に」

「何かありましたの、リジー」

「時間っ! いま何時ですかっ!」

 リジーの剣幕に押され、ロデリックがふところから懐中時計を取り出した。

「いまは、……そうだな、五時前というところだが」

「そんな! ぎりぎりすぎる!」

 悲鳴のようなリジーの言葉に、一同は動揺した様子で視線を交わす。

「ぎ、ぎりぎりって何が……」

「鉄道です!」

 間髪入れずにリジーは答えた。

「ルノ駅十九時ちょうどに出発予定の《貴婦人号》に乗車しなければ、明日の朝までにロセターに帰れません!」

 フィアンナとロデリックが同時にあっ、と声をそろえた。

 この旅はもともと三泊三日の予定だったが、うち二泊は車中泊――つまり行きと帰りを《空飛ぶ貴婦人号》に乗車し、エルシオンに帰国する予定だったのだ。はじめから強行軍になることは予想済みだったとはいえ、さすがに予定日までに帰れないことまでは想定していなかった。

「馬車か、あるいはどこかで船を調達するにしても、今から二時間でルノ駅まで着けるかどうか、か。難しいな」

 絶望的だと言いたげに、ロデリックは嘆息した。フィアンナも諦観をにじませ、かすかにほほ笑む。

「……仕方ありませんわ。こんな面倒事に巻きこまれるなんて予想できなかったんですもの。誰の責任でもありませんし、帰国を遅らせましょう」

「切符の手配だけならなんとかなるだろう。行きにあんな事件があったんだ、鉄道会社に事情を説明して、後発の列車に振り替えてもらおう。すぐにでも電報を打てば……」

 リジーは首をふった。気がかりなのはそういうことではないのだ。

「けれど、明日はエルシオンの建国記念日です。おふたりとも、どうしても帰らなければならない理由があったのではないんですか?」

「…………」

 フィアンナとロデリックは同時に黙りこんでしまった。彼らはこの旅に出る前から、建国記念日までに帰ることを条件に提示していた。何かそうしなければならない事情があるのだろうとリジーは推察していた。

「すまない。話が見えないんだが」

 事情がわからず、ひとり放置状態のサンテスが恐る恐る手を挙げたので、リジーは説明しようと彼のほうを向いた。そのとき。

〈何を心配しておるのだね。交通手段なら、きみたちのすぐ足元にあるではないか〉

 飛行船の乗船員を従えたシュヴァーン伯爵がラウンジに姿を現し、一同を見渡して鷹揚に笑った。

〈は、伯爵……!? どういう意味ですか、まさか〉

〈まあまあ、落ちつきたまえ〉

 興奮し、つめ寄るリジーを押しとどめ、彼はうしろに控えているのがこの飛行船の船長だと紹介した。

〈いま、彼に燃料や器材を確認していたんだが、特に問題はないようだ。もし紳士淑女であるきみたちに体重を聞く無礼をお許し願えるなら、どうかね。試作船で申し訳ないが、乗合馬車がわりに乗っていかんかね〉

 リジーが急いで伯爵の言葉を全員に通訳すると、彼らはいっせいにお互いの顔を見合わせた。隠しようもない歓喜がそれぞれの瞳に浮かんでいる。

〈は、伯爵さま、それじゃあ――〉

〈うむ。バラストの調整をせねばならんし、重量超過するようなら誰かに降りてもらわねばならんが、まあ問題はなかろうよ。お嬢さんふたり分でわしひとり分くらいだろうしな〉

 もちろん冗談だが、リジーは顔を赤らめた。さすがに羽のように軽いとは言えないので、その部分は意図的に通訳しないでおく。

〈どうせなら国境を越えてエルシオンまで直接送っていってやってもいいんだがね〉

 リジーは慌てて首をふった。

「いえ、伯爵。いくらなんでもそこまでは……」

〈そうだな。これ以上目立った騒ぎはおまえさんたちも困るだろうし、わしもエルシオン政府に目をつけられたいわけではないしな。とはいえルノの市街地のど真ん中に降りるわけにもいかんから、どこかに船を下ろせる野原でもあれば良いんだが〉

「ああ、それなら、私たち飛行クラブが使用していたちょうどいい丘があります。すぐに無線で仲間たちに連絡をとりましょう」

 サンテスが手を挙げ、伯爵はうなずいた。

「そうだ、忘れてた。サンテスさん、ついでにもう一か所連絡をとりたいところがあるんだけど……」

〈おまえさんの忠実な執事にはわしから一報打っておこう。とりあえず乗船の準備を進めたいのでな、先に体重を打ち明けてくれんかね。ほかの人間に聞かれて困るようなら、わしか船長にこっそり耳打ちしたまえ。さあ、誰から来るかね?〉

 そう言って、シュヴァーン伯爵は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたのだった。



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