第六章 空中逃走劇
【オルセン】――クラレンスよりさらに東に位置する、西大洲のなかでもかなりの面積を有する国である。
中世の昔から、オルセン人はきまじめで職人肌の気質があるといわれている。現在でも工業の発達した国ではあるが、かつては軍国主義の強い風が吹き荒れていた。
人類の発展と利便性のために生み出された発明の数々は、悲しいことに、まず戦の道具として用いられることが少なくなかったのだ。
リージェン・クック著『五大陸周遊記』より
だだっ広い陸地に、巨大な風船が何本もの麻のロープでつなぎとめられていた。風船の下は籐で編んだ四角いかごがぶら下がり、そのかごの周囲を見物客である紳士淑女や子どもたちが、わらわらと大勢もの珍しげにとり囲んでいる。
見上げれば地上三階建てと五階建てほどの高度に気球がひとつずつ浮かんでおり、それぞれゆっくりと上昇と下降をつづけている。
少し離れた場所にはもうひとつ別のへしゃげた気球が横たわり、これから飛び立たんと技師たちの手で機械によって水素ガスを注入されているところだった。
気球に乗って高みから万博会場およびルノを一望できる、もはやルノ万博ではおなじみとなった人気の
「……サンテスさん!」
技師たちのなかにいたひとりがこちらに気づき、驚いたように目をみはった。周囲の人間に何かを耳打ちすると、急いでこちらに駆けよってくる。おそらく彼がサンテスのいう「航空クラブ」の仲間なのだろう。
「ルイ!」
サンテスは杖をつきながら、可能な限り早足で彼のもとに向かおうとした。そのあとにリジーとフィアンナも続く。ふたりでサンテスの体を支えようとしたが、もう大丈夫だからと断られてしまったのだ。彼の男としての矜持は理解できたので、リジーもフィアンナも何も言わずに従った。
ルイと呼ばれた二十歳前後の青年はふらつくサンテスに肩を貸すと、興奮した調子で一気にまくし立てた。
「いったいどこでどうしてたんですか! エール号が陸地に墜落して騒ぎなってるとお客さんから聞いたときは肝が冷えましたよ。異常があったときはエニス川に着水する手はずになってたし、おれたちもあっちの班に合流するかどうか今話し合ってたところで……」
「すまない。だいぶ計算が狂ってしまってな」
落ち着けというようにサンテスが手で示すと、ルイ青年はようやく冷静さをとりもどした様子で、ほっと胸をなでおろした。
「とにかく無事でよかった。みんな心配してたんですからね。……ところでこちらのお嬢さんがたは?」
ようやく気づいたようにリジーとフィアンナを見やるルイに、ふたりは淑女らしく会釈をかえした。フィアンナがにっこりほほ笑むと、ルイの顔がぽっと赤らんだ。どうやらかなり純朴な青年のようだ。
「こみいった話はあとだ。いまはとりあえずここから逃げ出す算段をせねば。飛べるかね?」
サンテスの問いに、ルイは力強くうなずいた。
「もちろん。逃走準備はいつでもできていますよ」
ゆっくりと降下してきた気球のゴンドラの底が地上に着くなり、リジーはフィアンナ、サンテスとともにさっそく気球に乗りこむことになった。順番待ちをしていたほかの客からは不満の声があがったが、「気球の安全点検もかねている」とサンテスやルイがとりなすと、次第に潮が引くようにおとなしくなった。
「なんだか気が咎めるけど……」
「仕方がありませんわ。サンテスさんの身の安全がかかっているんですもの」
ぽつりとつぶやくリジーに、意外となばさばとした返答をしたのはフィアンナだった。不測の事態にまきこまれたのはフィアンナも同じなはずなのだが、平然とするどころかむしろ状況を楽しんでいるかのようだ。ロデリックが「あいつの心臓は鋼鉄製だ」と言っていたのを思い出す。
リジー自身は冷静なのではなく、むしろ度重なる騒動の連続に感情がついていってないというほうが正しい。無意識にため息をつくと、フィアンナが耳ざとくそれに気づいた。
「ロデリックが心配ですの? それともパティのこと?」
リジーはいえ、と首をふった。
「パティは頭のいい鳥です。たぶんロデリックといっしょに居るでしょう。ロデリックのことはもちろん心配ですが……」
ただ、あの場にはエルシオン人の政府関係者たちもいた。まさか彼らも同国の人間においそれと危害はくわえまい。
「大丈夫ですわ。彼には後ろ盾もありますから」
にっこり笑い、フィアンナはリジーの背中を押すようにぽんと叩いた。
「さ、乗りこみますわよ」
「おちついて、籠に手をかけてゆっくり乗ってください」
先に乗りこんでいたルイとサンテスの手を借りながら、リジー、続いてフィアンナもゴンドラに乗りこむ。本来逃走するのはサンテスのみであったため、定員はそれでほぼいっぱいになった。
「係留ロープを順にはずせ!」
サンテスの指示で、気球の周囲にいる航空クラブの仲間たちが次々に気球を地上につなぎとめるロープをはずしていく。ゴンドラが徐々に地上を離れ、二階程度の高さにまであがったとき、それに気づいたのはリジーだった。
「あ、あそこ!」
黒塗りの大型自動車が二台、気球乗り場のすぐそばで停車し、中から同じ制服を着た男たちがばらばらと出てきた。彼らは上昇する気球に気づき、こちらに向かっていっせいに突撃してきた。
「あれは……まさか、警官隊?」
リジーはぽつりとつぶやいた。ルノの警察など見たことはないが、制服の雰囲気からしてそんな感じがする。帽子の形などがエルシオンのそれともよく似ていた。
リジーの隣でフィアンナがはっと息をのんだ。
「まさか、クラレンスの政府役人から通報か何かがいったのでは……」
サンテスとルイは瞬時に顔を青ざめさせ、すぐにゴンドラの外にぶら下がる砂嚢を地上に落としはじめた。
「最後のロープを切れ!」
サンテスが大声で地上に向かって怒鳴ると、下にいた仲間のひとりが大急ぎで麻のロープをナイフで切り離した。重量が減り、つなぎとめるものがなくなった気球はぐんと急激に上昇をはじめ、リジーとフィアンナは慌ててゴンドラのふちにしがみついた。
その間にも、ルノの警官隊は何事かと悲鳴をある見物客たちを押しのけるようにして迫ってくる。なかには焦ってふところから拳銃をとり出した者もいた。
「くそっ、やつら発砲許可は得てるんだろうな!」
「一応、罪状はありますからね……」
万博会場内での墜落、およびサーカステントの破壊。しかも犯人は逃走。余罪もふくめれば逮捕理由はきりがない。
「すまないが、きみたちも手伝ってくれ!」
サンテスの叫びで、リジーとフィアンナも急いで作業に加わる。リジーはオスカーの形見である小型ナイフでロープを切り、砂嚢を下に落とした。サンテスとルイは気球のロープをたくみに操り、気球は地上七階の高さで水平移動を開始した。
パン、という破裂音が響き、リジーとフィアンナは悲鳴をあげてとっさに頭を引っこめた。もはや届く距離ではないと悟った警官たちが、遠慮なく発砲してきたらしかった。
地上ではさぞかし大騒ぎになっているだろうが、こちらもそれどころではない。
「おい、こっちは水素ガスだぞわかってるのか!」
身を低くし、ゴンドラから顔だけ出したサンテスが怒鳴るが、おそらく警官たちはそんなことまで考えていないだろう。パン、パン、という発砲音が続くなか、気球は風の力も借りて発着場所をぐんぐん離れていく。リジーがおそるおそるゴンドラのふちから顔を出すと、はるか下に豆粒のような人々と、まるで立体模型のような建物群が見えた。
ゆっくり景色を楽しむ状況ではなかったが、巨人のごときリュンヌの塔が腕をのばせばつかめそうなほど近くに見え、その威容に度肝を抜かれた。
「すごい……」
「リュンヌの塔にのぼるよりも、ずっと素晴らしい眺めかもしれませんね」
隣で同じくひょっこりと顔を出したフィアンナがつぶやき、リジーに笑いかけた。
「塔から景色は見れても、塔そのものは見えませんもの」
なるほど、とリジーが納得しかけたそのときだった。頭上で、奇妙な音がした。つづいて何かが噴出すような音も。
ぎょっとして、全員が上を見る。警官隊がやぶれかぶれで撃った弾のひとつが、命中しないまでも掠っていたらしい。気嚢のどこかしらに穴が開き、そこから水素ガスが急激に漏れはじめたようだった。一〇〇フィート近くまであがっていた気球が見る見るうちに下がっていく。
「このままでは墜落します!」
言わずもがなのことを、悲鳴にも似た声でルイが叫ぶ。ガクンと大きく揺れる籠の中でバランスを崩しかけたリジーは、またもやゴンドラのふちにしがみつくことになった。
「きゃああ!」
「気嚢をどんどん捨てて高度を保たせろ! 落ちるとしても、今度こそエニス川だ!」
何が今度こそなのかわからないが、サンテスの叫びに乗員一丸となって重みを捨てていく。速度は落ちたものの、おそらく鳥の目線で見れば、ゴンドラはゆるやかに下降線を描くかたちで地上へ落下していく。
風が西向きだったのは運がよかった。風に押され、リジーたちの乗る気球はどうにかエニス川の流れる方角へ進んでいく。墜落したときに甚大な被害が出るであろう建物の並ぶ敷地上を抜け、何艘ものふねが浮かぶエニス川と、そこに架かる石橋が真下を通り過ぎたころ、気球は急激に力を失ったように降下をはじめた。
「お、落ちますううう!」
ルイの絶叫。リジーはゴンドラの内側に背中を張りつけたまま声もない。人間はあまりに恐怖すると声帯が機能しなくなるということをはじめて知った。
「し、舌を噛まないように、な、何か噛め!」
サンテスの指示に、わずかに残った理性をかき集める。リジーが袖口を噛んだ瞬間、
「リジー!」
フィアンナが両腕をひろげて抱きついてきた。恐ろしさにではなく、まるでリジーを衝撃からまもろうとするかのように、胸に頭を抱えこんだ。ふっと甘い花のにおいが鼻腔をくすぐる。
だが、リジーの意識がもったのはそこまでだった。
エニス川に盛大な水の柱が上がった瞬間、リジーの意識は真っ黒な闇の中に落ちていた。
◇
「……ジー、リジー。そろそろ起きてください」
最初に知覚したのは花のような香り。そして次に聞こえてきたのは人の声だった。
両のまぶたをふるわせ、リジーがゆっくりと目を開けると、上からのぞきこむようにしている、フィアンナの顔が見えた。
張りつめていたような表情が、リジーが気づいたとたん、ほっとゆるんだのがわかった。
「フィアンナ……?」
「よかった、目を覚まして」
低くつぶやかれたその声に、動揺のなごりがある。それだけでフィアンナがどれほど気をもんでいたのか伝わったが、現状がよく飲みこめなかった。
「えっと……ここは?」
驚きつつも上半身を起こし、あたりを見回す。リジーは簡素な寝台に寝かされていた。
低い天井。煌々と輝くランプが壁にひとつ。にもかかわらず室内はどこか薄暗く、なぜかじめじめと湿度が高い。室内にあるのは寝台とテーブル、小さなチェスト、それに椅子が二脚のみ。ひどくもののない殺風景な部屋だった。
「……?」
見慣れない部屋だということを差し引いても、違和感があった。それに、かすかに体に伝わる振動――これは。
「ここは船室です」
「ふね!?」
フィアンナの返答に、リジーは素っ頓狂な声をあげた。
「はい。この船は航空クラブの、サンテスさんのお仲間の持ち物、だそうですわ」
航空クラブ。サンテスさん。
その言葉で、リジーはようやく記憶の糸口をとりもどした。
「ああ! たしか、わたしたち気球に乗って、空から墜落――」
「そうです。気球ごとエニス川に落下したのです。気嚢にしがみついて浮かんでいたところを、川で待機していた航空クラブの方々が助けてくださって」
フィアンナはかいつまんで説明した。カンバス布でつくられた気嚢の部分は幸いなことに沈まず、それを浮き輪、もしくはボートがわりに救助されるまで凌いでいたのだという。リジーは気球が河に着水する前に気を失っていたが、それが逆にさいわいし、ほとんど水も飲まずにすんだらしい。
もともと航空クラブの人々はサンテスの飛行機が墜落したときに助ける手はずになっていたため、救助自体も迅速に、かつ手際よくすすめられた。そうでなければ、今ごろは海の藻屑ならぬ川の藻屑になっていたかもしれない。
「それじゃ、私たち本当に運がよかったんですね」
わざと明るい調子で言ったのだが、なぜかフィアンナの顔はくもったままだ。
「ええ。それで、あの、リジー。大変申しにくいことなのですけど……」
「はい?」
「あなたが眠っているあいだ、濡れた服を、その……、断りもなく勝手に脱がせてしまいました。本当にごめんなさい」
フィアンナはいかにも申し訳ない様子で目を伏せ、うなだれた。
その言葉にようやく気づく。いつの間にかリジーが着ていた服は脱がされ、別の――男物の綿のシャツを着せられている。おそらくサンテスか、航空クラブの誰かが親切にも貸してくれたのだろう。
「…………っ!」
動揺と羞恥で血が頬にのぼったが、それでも命が助かったことを思えば安いものだ。たとえエルシオン人の未婚女性が、夫以外の人間にはおいそれと肌を見せない貞淑さを求められているにしろ。
「いいいえあの、あああ謝らないでフィアンナ。無事だったんだからこのくらいなんともありません。風邪をひくよりマシだし、何より添乗員の私が気を失って助けてもらうなんて、むしろお礼を言わなきゃならないぐらいで……」
焦ってばたばたと手をふると、フィアンナはようやく安堵したように目元をやわらげた。そういうフィアンナは、彼女自身の服のままだ。ご丁寧にも首にはお気に入りのチョーカーまで巻かれている。濡れてないところを見ると、きっちり拭いたのか、もしくは乾かしたのだろう。
こうなると、フィアンナが淑女らしい装いをしているのがリジーには余計に恥ずかしかった。
「よかった。わたくしリジーに嫌われてしまうかと思いました」
「そ、そんなこと」
赤い顔でわたわたと首をふっていると、コンコン、という遠慮がちなノックの音が響いた。フィアンナが気づき、船室の小さな扉を開きに行く。ドアが開き、姿を現したのは、盆を持ったサンテスだった。
「やあ、ようやくお目覚めかね、リジー嬢」
「ようやく……って、いま何時?」
「いまは夜中の十時を回ったところだ」
「十っ……!?」
リジーは耳を疑った。万博会場でドタバタしているあいだ、つねに正確な時間を把握していたわけではないが、それでも気球が墜落したとき、まだ午後を少し回っていた程度だったはずだ。
いったい何時間眠っていたのか。どうりで周囲が暗いわけだ。
「無理もありませんわ。一日中ずっと気を張り通しでしたでしょう」
フィアンナの気遣いが胸につき刺さる。巻きこまれて大変だったのはフィアンナも同じはずだ。
「ルイさんは?」
とほほという気分でいっしょに気球に乗っていた人間の安否をたずねると、彼も無事だった。航空クラブの仲間といっしょに、いまは甲板で船を動かすほうに加わっているらしい。自分だけずっと寝ていたと知って、大変に情けない。
「さすがに空腹だろうと思って飯を運んできた。食べなさい」
サンテスが差し出した盆には、あたためたミルクとハムと野菜をはさんだパン、小さなチーズののった皿が置かれていた。
そういえば朝から何も口にしていない、と気づいた瞬間、お腹がぐううっと鳴った。恥の上塗りとはこのことか。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
ばつが悪い思いをしながら、それでも厚意を無碍にはできず、リジーは赤い顔でもそもそと食事をすすめる。塩気の強いチーズとハムは舌にしょっぱかったが、疲労した体にはありがたかった。
「この船、動いてるわよね。いまはどこに向かってるの?」
「エニス川をゆっくり南下しているところだ。ルノ警察をまく必要があったからな。万博会場からはだいぶ離れてしまった」
部屋にもうひとつあったイスに腰かけ、サンテスが答える。そういえば足をけがしていたはずだと思い、具合をたずねたが、彼は問題ないと首をふった。
「軽い捻挫だ。冷やしたので少しは楽になったよ」
「そう、よかった」
全員無事だとわかってほっとすると同時に、この場にいないロデリックとパティのことが気がかりだった。クレインもきっとひどく心配しているだろう。本当なら今ごろは、全員がリジーの借りたアパルトマンで一泊しているはずだったのだから。
「しかし、これからさき行くあてがなくてな。政府の役人どもが言っていた通り、私の家や航空クラブの仲間たちにはすでに手が回っているだろうし……、かといってエルシオンに逃げても同じことだろう。どうしたものか」
万事休す、というように珍しくサンテスが物憂げな表情を見せた。リジーは顔をあげた。
「提案があるんだけど」
「なんだと? どんな提案だ」
サンテスと、フィアンナまでもが驚いたようにリジーを見た。
「その前にサンテスさん、あなたにいくつか確認したいことがあるの」
「なんだね?」
「あなたはクラレンスとエルシオン、どちらか一方に肩入れする気はないのね?」
「ない。前にも言ったが、どちらも私の父と母の生まれた国だ」
「ルノ万博で飛行機を飛ばそうと思ったのは、たんにそれがいちばん注目を集める方法だったから。それで合ってる?」
そうだ、とサンテスはうなずいた。
「でも、万博にはコンクールもあるわ。機械部門か工業製品の分野で正規に申しこめば、合法的に発表の場を設けられたでしょう。こんな危ない橋を渡らなくても」
「だが、正規のルートで申しこんだ時点で、私はクラレンスの政府にも目をつけられていたかもしれない」
「…………」
「もちろんたんなるほら吹きだと、詐欺師として見向きもされない可能性もあっただろうがね。実際、エルシオン政府のほうはそうだった。以前、母のツテで援助を頼ろうとしたときに、すげなく断られたことがある。実際、私のように張りぼての翼をつくり、飛行機による『人類初飛行』を目指す人間は少なくない。国が援助を渋るのはわかるがね」
その後、サンテスが友人知人やほうぼうの援助を借り、エルシオン国内でどうにか試作飛行機を完成させた。一号、二号とたてつづけに失敗したが、徐々に精度はあがり、航空クラブ内でもサンテスは注目されるようになった。だが、六号目が完成しようかというころ、政府はどこからかそれを嗅ぎつけ、急にサンテスの身辺をうろつきはじめたのだ。
おそらく、サンテスの成功を見届けた瞬間、「エルシオン政府」の名のもとに、それを大々的に発表、利用するために。
リジーはチェスナットがサンテスを称して「とるに足らない人間」と言っていたのを思い出した。「まかり間違えば、世界をひっくり返すかもしれない男でもある」とも。
「まあ、それで私はエルシオン政府――『国』ではないよ、あくまで『政府』だ――にすっかり嫌気がさしてしまってね。父の国であるクラレンスに移動したのさ。さいわい、クラレンスにも航空クラブはたくさんある」
「……そうだったの」
「しかし、私はもう政府がらみで利用されるのも監視されるのもまっぴらごめんだった。飛行機を飛ばすのは国ではない、私個人だ。私個人としてコンクールに申しこむのはもちろん可能だっただろう。だが、私がそうしなかった理由がある」
サンテスはここで言葉を切り、一息ついた。
「私が残したメモには気づいたか?」
リジーはフィアンナと目配せしあい、うなずいた。
「見ましたわ。陶磁器の品名のプレートに、バルテス数字が目立たないように印字されていたのも」
「あなたは、万博コンクールで不正が行われているのではと疑ったのね。もしそうなら公正な評価が得られないと」
「そうだ。確証はないが、気づいたからには無視できなかった。お祭りはみなが楽しむものであって、国力をひけらかすものではない。私はもう、ほとほと嫌気がさした。国自体は愛していても、政府や政治がらみのしがらみにはうんざりだ。なぜ、たんなるサンテス・シーガルという一個人が飛行機を飛ばしてはいけない? 国の外にはまた別の国がどこまでも広がっているんだぞ。人間が陸の上に、勝手に目に見えない線を引いただけではないか!」
話しているうちに興奮してきたのか、サンテスはわずかに声を荒げる。
リジーは目を閉じた。暗闇のなかに、彼の飛行機がどこまでも飛んでいく光景が見えた。国の線も、海も山も、どこまでも越えて空のかなたへ。
遠い遠い、まだ見たことのない東の果ての国の人が、彼の翼にむかって手をふっている。リジーの知らない言語で、「ようこそ」と。
ようこそ、いらっしゃい、西のひと。すてきな旅路を!
そんな空想に、ふっと淡い微笑がリジーの口もとを彩った。冒険家であった祖父なら、どんなにか目を輝かせたことだろう。だがそれは、リジーの夢でもある。
――おとなになったら、おじいさまみたいなボーケンカになる!
リジーは目を開けた。そして言った。
「サンテスさん、この船に無線はある? ないなら電報でもいいんだけど」
「あるが……、どこかに連絡をとりたいのか?」
「ええ。いまからわたしがいう住所と、それからもうひとつ、ルノに滞在中のオルセン国退役軍人シュヴァーン伯爵に」
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