第五章 ルノ万博にて(後)
【ルノ万博】――一九〇〇年という、まさに世紀末に開催された万国博覧会。
世紀末であると同時に、間近にせまった新世紀の靴音も、多くの人々の耳に届きはじめた記念すべき年でもあったと筆者は記憶しています。ルノでの国際博覧会は熱狂と波乱のなかで幕を開け、新時代の幕開けというものを訪れた客にまざまざと見せつけました。
ルノ博を代表するシンボルといえばもちろん〈リュンヌの塔〉ですが、かの天まで届く鉄塔を背景に、数々の挑戦者たちが空へと挑んだのも、またひとつの時代の象徴と言えましょう。
リージェン・クック著『旅の回想録』より
「われわれはエルシオン政府のもとで働いている」
と、彼らの首謀格と思しきチェスナットは言った。リジーはそう、とうなずく。ただの政府役人とも思えなかったが、追及するのは危険な気がした。
「わたしはリージェン・クック。ロセター市にあるマイルズ旅行社の添乗員。――そしてこちらは」
「俺はロデリック・クロウ。身元は首都かロセターにあるクロウ商会にでも問い合わせてくれ。はっきりするはずだ」
チェスナットはわかった、と短くこたえた。
「さっきも言ったけど、このひとはわたしの顧客よ。彼ともうひとりのご令嬢も。疑うなら旅行社に連絡をとってみればいいわ」
「……本当なんだな」
チェスナットのつぶやきは疑問形ではなかった。疑惑は残っているものの、さきほどまでの態度とはちがう。
「この期におよんでうそなんかつかないわよ。わたしは依頼を受けて、おふたりをロセターからルノへ案内したの。目的はもちろんこの万博博覧会。ご存知の通り、ルノ博はエルシオンでいま人気の旅行スポットだから。これ、どこかおかしい話かしら?」
いや、とチェスナットは首をふった。
「つづけてくれ」
「ロセターからルノへむかうのに、いちばんてっとり早いのは鉄道よね。貴族のお客様を旅行におつれするんだから、フリュステルン社の最新豪華客室列車を利用するのも、もちろん当然のことでしょう。……まあ、あんな面倒なことに巻きこまれるとは思ってなかったけど」
「その《貴婦人》には、われわれも乗車していた」
「さっき聞いたわ。わたしたちのことを知った……というか誤解するはめになったのはそのせいなのね。まさかと思うけど、わたしたちを貨物車両に監禁したのはあなたたちなの?」
リジーの指摘に、チェスナットは顔色ひとつ変えずにうなずいた。
「――そうだ」
「なんだって?」
眉をひそめ、チェスナットを睨むようにしたのはロデリックだ。直接的な被害を受けたリジーはというと、驚きよりもそうだったのか、と腑に落ちる思いのほうが強い。
「こちらとしても予想外だったのだ。乗務員ならばともかく、まさか客が貨物車両にまで忍びこんでくるとは思っていなかった。最初は列車強盗なのかと疑ったぐらいだぞ」
それでああいう強引な手段に出たのか、とリジーは納得した。気雑させた後、彼らは大いに戸惑ったにちがいない。
リジーはいまさら怒る気になれなかったが、ロデリックはちがったらしい。彼は眉間にしわをよせ、リジーをかばうように前に出た。
「言っておくが、彼女は本当に無関係だ。たんなる好奇心で貨物車両をのぞこうとしていただけでな。鉄道警察の人間にもそう証言している。あんたたちもそれぐらいは照合しただろうが」
かばわれたことにもだが、ロデリックが本気で怒っていることに、リジーは驚いた。彼はあのとき本当にリジーやフィアンナの身を案じてくれていたのだ。
「フィアンナはエーテルを嗅がされて気を失ったと言っていた。普通の人間は、ふだんそんな薬を持ち歩いたりはしない。うしろ暗いことをしている人間ならともかくな。そして見たところ、あんたたちは医者には見えない」
チェスナットの隣にいるアップルが眉を動かした。もしかすると彼がエーテルを嗅がせた本人なのかもしれない。
「余計な詮索は身を滅ぼすぞ。そうは思わんかね、若き紳士くん」
チェスナットの皮肉を、ロデリックは鼻で笑った。
「詮索だと? 俺たちはあんたたちの身分や職務になぞ興味はない。ただ、そちらの不手際で無関係な人間をふたりも巻きこんでおいて、いまも疑惑をぬぐえないでいるのはな。巻きこまれた側としては迷惑だし、面白くもない話だ」
剣呑な口調でずけずけと彼らを非難するロデリックに、多少は思うところがあったのだろう。結局、チェスナットが折れた。
「一理あるのは認めよう。それで?」
「あんたたちの目的はなんだ? 隣国まで来て何をしている?」
核心をつく問いだったが、チェスナットは意外にもあっさりと答えた。
「われわれの目的は、ある男を見つけることだ」
「その話は……!」
アップルとベリーが色めき立つのに、チェスナットはかまわない、と片手をあげて彼らを黙らせる。
「このお嬢さんたちは十分この件に巻きこまれているし、非はわれわれにもある。へたに首をつっこまれるより、手札を見せるほうが早くすむ」
その手札は当然、「公開することができる手札」なのだろう、とリジーは思った。
「その男性の名前が『サンテス・シーガル』なのね?」
「そうだ。シーガルはエルシオン人だ。われわれはシーガルと、彼の持つあるものを探している。われわれが貨物車両をあらためていたのは、その『あるもの』を見つけるためだった」
「そのシーガルという男は何者だ? 国家反逆の重罪人かなにかか」
「罪を犯したわけではないが、あえてそういう表現をするなら詐欺師に近いな」
「詐欺師ですって?」
リジーが訊ねるのに、チェスナットはうなずく。
「現時点では、大ボラ吹きのとるに足らない人間だといってもいい」
「その『とるに足らない人間』とやらを、あんたたちは血眼になって捜しているのか?」
「現時点では、と言っただろう。だが」
「だが?」
「まかり間違えば、歴史を変えてしまうかもしれない男でもある」
リジーは思わずロデリックと顔を見合わせた。エルシオン政府下で動くチェスナットたちが、それほどまでに警戒を抱く男。歴史を変えてしまうとは、いったいどのようなことなのか。
「あの男がどんな可能性を秘めているのか、まだ誰にもわからん。たとえばあれのようにな」
チェスナットが右手の人さし指を天にむけた。つられたリジーが仰いだ空に、浮かんでいるのは飛行船だ。
リジーたちを驚かせ、また同時に救世主にもなった飛行船は地上の騒動などそ知らぬ顔で、いまものんびりと空に浮かんでいる。その威容を万博会場にいる衆目に見せつけようと、ゆっくり時間をかけて会場を旋回飛行している。
飛行船それ自体が見事な広告塔だった。
「きみたちは、あの巨大な気嚢の中に何がつまっているか知っているかね?」
「水素ガスだろう」
唐突な質問に眉をひそめながら、こたえたのはロデリックだ。
「そうだ。では、水素は引火するとどうなる?」
「――――」
こたえかけたロデリックが何かに気づいて口をつぐむ。チェスナットは皮肉げにくちびるを吊り上げた。
「言うまでもないな。爆発炎上するんだ」
不穏な言葉にいやな予感をおぼえながら、リジーは問いただした。
「さっきから、あなたはいったい何が言いたいの?」
「たとえばの話だ、お嬢さん。あれに火薬をつめこめるだけ積載して敵のもとへ、……いや、敵国の市街地へでも送りこんだとしたらどうなると思う」
リジーは言葉をうしなった。無意識に、かたわらにいたロデリックの服の袖をつかむ。青ざめた顔で、リジーはチェスナットを睨みつけた。
「伯はそんな方じゃないわ!」
ロデリックが驚いたようにリジーを見やり、チェスナットは皮肉げに片方の眉を吊り上げた。
「その可能性を否定できない、という話をしているのだ。いま現在のあれは、ようやく人間を乗せて飛べるようになった、ただの乗り物にすぎん。だがどんな発明も、まずは軍事利用されることを考慮せねばならん。わがエルシオンが、抜け目ないクラレンスや軍事国であるオルセンと渡りあっていくためにはな」
空の分野では、たしかにエルシオンはオルセンやクラレンスに一歩も二歩も遅れている。彼らの懸念がはわからないでもない。マイルズですら、飛行船が軍事利用される可能性を指摘していた。
「でも、使うのは人間だわ」
顔をあげ、昂然とリジーは言った。「――どんなものも」
リジーの言葉に、チェスナットは嘆息し、目をそらした。
「そうだな」
「それで、あんたたちの追っているサンテス・シーガルがその話とどう関係する? シーガルは飛行船技術者かなにかなのか?」
ロデリックの質問に、アップルたちがさっと一種目線を交し合ったのがわかった。
「それは――」
チェスナットが言いかけた、そのときだった。
大勢の人間のどよめきのようなものが、遠くから聞こえてきた。どこかで騒ぎが起きたことに気づき、リジーたちは驚いて周囲に視線をめぐらせる。
「何かあったのかしら」
「あっ、あそこだ!」
ベリーが大きな声を上げ、空のある一点を指差した。全員がそろってそちらに視線を動かす。いくつものパヴィリオンが建ち並び、散策のための庭園や林が設けられている樹上の上――高さは約十五フィートほどだろうか――をすべるようにして、見たこともないものが空を飛んでいた。
否、翼を持ってはいるものの、それは生物ではなかった。大きさからして鳥やコウモリではなく、また形状からして気球でも飛行船でもない。
リジーは声もなくそれに魅入った。あれは――。
「――まさか、
驚きを抑えきれない様子でロデリックが呻いた。
後年、正式に「航空機」と呼ばれることになる乗り物と、このときリジーたちが目にした飛行機械は明らかにちがっていた。鳥やコウモリとすら、似ても似つかない。
正方形のハコをいくつも横に連結させたようなかたちは、それが「翼」だと説明されなければとてもそうとは見えなかった。翼といっても羽ばたくためのものではなく、役割としてはむしろ凧に近い。奇怪な翼の後ろから細長い胴体とおもちゃのような車輪が見え、翼と同じく箱の形をした尾翼が、申し訳程度にその役目を果たしている。
お世辞にも、うつくしい飛び方だとは言えなかった。飛行というより、よたよたとおぼつかなく風に乗っていると表現するほうが近い。
不恰好で、飛び方も不器用で、地上のどんな生きものともちがう。繊細や優美といった言葉とはほど遠い――だが、見つめているとどうしようもなく心が沸き立つような、固唾をのんで見守りたいような、そんな気持ちを掻きたてられる。
「ひとが乗ってる!」
「本当だ!」
興奮した声を上げたのは、手をひさしにしたアップルとベリーだ。自然の生きものではないのだから人間が乗っていて当然なのだが、そんなことはどうでもいい。
リジーはといえば、今日だけでもう何度目かわからない衝撃で、呆然としていた。ロデリックも、顔色こそ平静だが、見入っているのはリジーとおなじだ。
ひとり冷静なチェスナットが懐から携帯式の小さな双眼鏡をとりだし、レンズを覗きこむ。そして、驚いたようにつぶやいた。
「……シーガル……!」
「! ちょっと貸してっ」
リジーは背伸びして、チェスナットの手から双眼鏡を奪いとった。おい、と抗議の声をあげるチェスナットに、
「十秒だけ!」
と告げて、リジーはすぐさま双眼鏡に目を当てた。のぞきこむと、たしかに胴の部分にひとが乗っているのがわかる。――それも、ずいぶんと奇抜な格好をした。
リジーの脳裏に、あるひとりの人物の顔が浮かぶ。
「まさか……」
まちがいない、と思った。黒いシルクハットに、舞台役者の扮する怪人かなにかのような黒いマント。あんな妙な格好で、奇抜な乗りもので登場するような変人はエルシオン・クラレンス両国合わせてもなかなかいまい。
「十秒経ったぞ」
と、チェスナットがリジーの手から双眼鏡を奪い返すのと、空を飛ぶ飛行機の片翼がカクンと落ちたのはほぼ同時だった。
「翼が!」
アップルの叫びにリジーの意識が現実に引きもどされる。
翼に負荷がかかったのか、機体がぐらりとななめに傾いだ。ただでさえ覚束なかった飛行がさらにお粗末なものになり、高度が見る見るうちに下がっていく。
「おい、あのままじゃ……」
「落ちるぞ!」
言わずもがなのことを誰かが指摘したときには、リジーはもう走り出していた。あとになって考えてみても、なぜこのときそうしたのか、リジーにもわからなかった。いままさに墜落せんとする飛行機を追ったところで、できることなど何もない。ましてやロデリックをその場に残し、ぽかんとするチェスナットたちを置き去りに、自分だけが真っ先に飛び出していくなど。
「リジー!?」
「なっ、待て……追え!」
ロデリックの名を呼ぶ声と、チェスナットの焦ったような叫びが聞こえた。リジーはスカートをからげて全力疾走しながら、ピュィーッと甲高い指笛を響かせる。パヴィリオンの入り口付近の植木に残してきたパティを呼んだのだ。ほどなしくしてリジーのすぐ頭上に、白い翼を持った鳥の影が舞い降りてきた。
「リジー!」
走りながら差し出した腕にパティを止まらせ、リジーは二言三言すばやく言いつける。飛行機を指で示し、「頼んだわよ!」と叫ぶと、パティはすぐさま翼を広げ、了承の返事をよこした。
「マカセテ!」
羽ばたきの音を残し、パティはふたたびリジーのすぐ頭上に舞いもどる。そこへ、ロデリックも追いついてきた。
「リジー!」
「ロデリックっ」
「まったく、きみは足がはやいな!」
「す、すみません!」
いまごろ我に返ってリジーは謝った。客を置き去りにしていくなど、言語道断のふるまいである。ひとりだけで逃走したと思われても仕方なかった。
リジーは足には自信がある。祖父に冒険かになるなら足腰だけは鍛えておけと、子どものころから叩きこまれていたのだ。同年代で、リジーより早く走れる女性にはいまだにお目にかかったことがない。
「しかし、どうしたんだ急に!」
「わかりません、でも、どうしても行かなくちゃいけない気がするんです!」
あの男がきっと、すべての鍵をにぎっている。おそらく、いなくなったフィアンナに関してのことも。
「チェス……じゃない、あのひとたちはっ?」
「彼らもあとを追ってきてるはずだ!」
リジーとロデリックが言葉をかわすあいだに、なんだなんだと飛行機に見入っていた群集からもようやく騒ぎがおこりはじめ、遅れて走り出す人間もいた。怒号、悲鳴、逃げろと叫ぶ金切り声。気の弱そうな婦人がへたへたと腰を抜かし、そばにいた紳士が彼女を支え、大声で泣き出した子どもを近くにいた大人が慌てて抱きかかえ、なだめながら走り出す。
チェスナットたちはそれらの騒ぎのなかで足止めを食らったらしかった。彼らに追いつかれては不都合なので、幸運だと言えるかもしれない。
混乱は徐々に広がっていた。
騒ぎに気づいてパヴィリオンから飛び出してくる人々、小銭を稼いでいた大道芸がばらばらと手に持った商売道具をとり落とし、屋台のおじさんが慌てて荷台をたたみはじめる。事故を予測して、救助隊を呼んで来い、と叫ぶ警邏らしき男の声もあった。
ルノ万博会場は一瞬にして混乱の渦に陥り、そんななかリジーたちはリュンヌの塔から放射状に伸びている目抜き通りを一気に駆けぬけた。飛行機はどんどん高度を下げ、その軌道上にいた人々が次々と悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすような勢いで逃げだす。
「飛行機が!」
リジーの目には、飛行機がわずかに方向転換したように見えた。向かう先にあるのは――白と赤の縞模様をした屋根、サーカスの巨大なテントだ。
「サーカス……そうか、いまなら人が少ない!」
ロデリックが気づいて叫ぶのに、リジーもはっとする。
客の入る夕方ではなく、昼日中のいまなら、地面や建物の上に墜落するよりは被害が抑えられると操縦者が考えたのだ。だがそれでも、少なくともサーカスの準備をしている人間は中にいるはずだ。
「……っ、逃げて――!」
全速力で駆けながら、リジーは絶叫した。
あっけにとられて空を見上げていたテント付近の人々は我に返り、口々に悲鳴をあげながら身を翻す。そのなかにはサーカス団員と思われる衣装を着た人間も大勢いた。
「! だめだ、これ以上は危ない!」
立ち止まったロデリックがリジーの腕をつかみ、強引にひきよせる。そのまま自分を盾にするかたちで、リジーの身をかばった。
高度を落とした飛行機が、ちょうど頭を下げてケープに飛びこんでいく闘牛のように、激しい勢いでテントへ突っこんでいく。バリバリという凄まじい轟音とともにテントがなぎ倒され、衝撃で折れたらしい支柱がななめに傾ぐ。支柱を失ったサーカスの巨大なテントが自重を支えきれずに崩れ落ちると、もうもうと大量の土煙があがった。
「…………!」
ロデリックにしがみつくようにして、リジーは目の前の光景に息をのんだ。おおおお、という人々の悲鳴ともどよめきともつかぬ振動が空気をふるわせる。
土煙が完全におさまるまでには、かなりの時間が必要だった。ほこりを吸いこんだロデリックがごほごほと咳きこむのを聞き、リジーは慌ててハンカチをとりだして彼に差し出す。
「だいじょうぶですか?」
「な、なんとかな。きみは飛行機の下敷きにでもなるつもりかと思ったぞ。けがはなかったか?」
ロデリックの気づかいにあふれた問いに、リジーはきゅっと心臓が縮むような思いがした。
「ありがとうございます。かばってくださったので、わたしは平気です。ロデリックこそ、どこかけがは?」
「俺もなんともない。……それより」
見通しの悪い視界の中で目を凝らす。赤と白の巨大な天幕はあちこちが大きく破れ、無残にも下から支柱が飛び出していた。どこからか動物や猛獣たちの鳴き声や吠える声が聞こえてくるが、人間の姿はない。
リジーは息をのんだ。
テント自体惨憺たる有様だが、そこに無理やり不時着陸した飛行機も、胴のところで真っ二つに折れていた。ほぼ木製のようだが、大破しなかったのがふしぎなくらいだ。丈夫な天幕がクッションの役目を果たし、衝撃をやわらげたのはまちがいない。まっすぐ地面に墜落していたら、おそらくこの程度ではすまなかっただろう。
しかし、人間が座っていたと思しき操縦席にはだれの姿もなかった。まるで抜け殻のような黒いマントとシルクハットが、なぜか大破した飛行機のそばに残されている。
「おい、どうなったんだ!?」
「事故だ! 人間が乗っていたぞ!」
あっという間に周囲には野次馬が集まり、ざわざわとした人垣がつくられはじめた。ひとびとの合間を縫うようにして、万博で救助活にあたる男たちが続々と姿を現す。火事を恐れたのかバケツを手にしたものや、担架をかついできた大男もいる。
「みなさん、危険ですから離れてください!」
「見世物じゃありません、はやく下がって!」
彼らは統率がとれているとはお世辞にもいえない動きで、野次馬たちを追い立てた。だが万博の主催側も、まさか空から飛行機が降ってくるとは想定もしていなかっただろう。
リジーは空を見上げた。どこかに白いヨウムの姿が見えないものか。
「まずい、人が集まってきた。いったん離れたほうがよさそうだ」
ロデリックの言葉にリジーはうなずき、彼の腕をつかんでひっぱった。
「こっちへ」
無理やり追い立てられる前にふたりは人垣のなかを抜け出し、ひと気のないほうへ移動した。遠目に騒ぎを見守りながら、リジーとロデリックは言葉をかわす。
「まったく、とんだ騒ぎになったな」
「ええ。でも、巻きこまれてけがをした人はいないみたいでよかった」
とは言うものの、リジーをかばったために、ロデリックの服の背中は土ぼこりですっかり汚れてしまっている。可能なかぎり手ではたき落としたが、洗濯屋に出さなければきれいにはならないだろう。高価な召し物をだめにしてしまい、リジーはいたたまれない気持ちになる。
――わたしは、なにをやっているのだろう。
情けない思いがこみ上げてきて、リジーはぐっと手を握りしめた。
「偶然だが、やつらをうまく撒けたのは幸運だったな」
ロデリックが言及したのはチェスナットたちのことだ。騒ぎに乗じて、厄介な人間たちから逃げられたのはまだしも運がよかった。
「……申し訳ありません。勝手なまねをしました」
しおらしく謝罪するリジーに、ロデリックはむしろ可笑しそうな表情になった。
「落ちこまなくていい。きみに何かあったら、俺はきっと一生あいつに恨まれる。そんな顔をさせたと知られても怒られるだろうが」
ロデリックが手を伸ばし、リジーの目元に指でふれる。どきりとした。
「あ、あの、これはっ」
慌ててうつむく。不甲斐なさでにじんだ涙は、土ぼこりのせいにしてしまいたかった。
「フィアンナなら無事だ。あいつのことは俺がいちばんよく知ってる。あんな見た目だが、あいつの心臓は毛が生えているどころか鋼鉄製だ。しかも、どんな守護天使がついているのかと思うほどの強運の持ち主でもある」
「…………」
「あいつをつれ出したというクラレンス人には自分からほいほいついていったんだろう。賭けてもいいが、フィアンナは今ごろ状況を楽しんでるはずだ」
それでも。
リジーはきゅっとくちびるを引き結んだ。たとえそうだとしても、はやく探し出さなければ。フィアンナに何かあったら、きっと自分は二度と旅になど出ないだろう。
――どうか無事でいて。
「さて、添乗員さん。俺たちはこれからどうする?」
ぽんぽんと励ますように頭を軽くたたかれ、リジーはぐいっと乱暴に目元をぬぐった。
「騒ぎの渦中にいる人物を探し出しましょう。そうすればきっと、フィアンナにも辿りつけます。『彼』がきっと、すべての鍵をにぎっているでしょうから」
◇
その男は、奇妙な歩き方をしていた。
片足を少し引きずるようにして前へ前へ進んでいるのだ。だが彼が携帯用の伸縮可能な杖を手にしていたために、足が不自由な人間なのだろうと、道行くひとびとはだれも気に留めなかった。
年齢は二十代後半といったところか。茶褐色の髪はきっちりと撫でつけられ、口元にはわずかばかりの髭をたくわえている。その裕福そうな身なりも、充分「紳士然とした」と表現してもよかったが、まるで何かから逃れているかのようなせかせかとした足どりが、妙といえば妙だった。
歩きにくそうに、だが可能なかぎり急いだ様子で、男は南国の物珍しい植物が集められた庭園に入っていった。彼は庭園入り口にある噴水の横にベンチを見つけ、腰を下ろした。背丈のある樹木の庭園は、もしかすると身を隠すには最適だと彼は考えたのかもしれない。だがそれは、上からの追跡にはまるで意味を成さなかった。
そこへ――。
ばさばさという羽音とともに、突然上空から白い鳥が男の目の前に降りてきたのだ。
「見ツケタ!」
突如叫びをあげた白いヨウムに、男はぎょっとした様子でベンチから立ち上がる。
「ココニイル! ココ、ココ!」
鳥はわめきながら彼の頭上をくるくると旋回する。庭を見学していた客が、何かの余興かと好奇の目を向ける。衆目を集めてはかなわんと、男は慌てて鳥を捕まえようとした。
「こ、こら黙れ! 静かにしろ!」
杖を地面に放り出し、両手を伸ばしてヨウムの足をつかもうとする。その手をかいくぐって、ヨウムはふわりと上空へ逃れた。男をばかにするかのように頭上でおおきく旋回すると、あるじのさしだした腕に優雅に降り立った。
男はその場に立ち尽くした。腕に白いヨウムを止まらせ、こちらの真正面に対峙する相手は赤毛の娘だ。気の強そうなきりりとした眉に、気合をみなぎらせたはしばみ色の瞳。彼女は罪を負った人間を裁きに光臨した天使のように、凛とした声で言い放った。
「見つけたわよ、サンテス・シーガル!」
リジーがその名を口にしたときの、相手の反応こそ見物だった。男はうろたえたように左右を見渡し、慌ててきびすを返して逃げようとしたのだ。
だが、庭園の奥から黒髪の青年――ロデリックが姿を現し、男の行く手をさえぎるように立ちふさがった。
「逃げるとは、ずいぶん卑怯なまねをするな」
「し、知らん。なんのことだ?」
ロデリックの詰問に、リジーたちがシーガルと呼んだ男は動揺した様子で立ち止まる。その背中に向けて、リジーは言った。
「とぼけたってむだよ。あなたのことはずっとこの子に上から見張らせてたんだから」
男は観念したようにふり返り、リジーと正面から向かい合った。
「鳥に見張りをさせていたのか」
「そうよ。この子には、『あの大きな翼に乗った人間から目を離さないように』と頼んでおいたの」
「パティ、ズット見張ッテタ!」
リジーが腕を掲げると、パティは高らかに断言した。えっへんと胸をそらすかのようにして、かなり自慢げだ。
「飛行機に乗っていたときはかなり目立つ格好をしていたわね。あんなに派手な格好で派手な乗り物に乗って、派手な登場の仕方をしたんだもの。さぞかしたくさんの人目についたでしょうね」
男は黙したまま何も答えない。
「だけど、どんなに妙な見かけでも、それを脱いでしまえば人目にはつかない。むしろ外側が派手であればあるほど、地味な内側の印象と結びつきにくくなる。飛行機のそばにはマントが脱ぎ捨ててあったわ。――最初から逃げる気だったのね?」
「…………」
「幸いなことに、墜落事故に巻きこまれてけがをした人間はいなかったそうよ。ただサーカスのそばにいた動物たちが驚いて、逃げようとしたときにひと悶着はあったみたい」
「…………」
「あなたの目的はなに? ただ目立ちたかっただけ? もしかしたら、たくさんのひとをひどい事故に巻きこんだかもしれなかったのに」
「……墜落は、計算外だった」
男がようやくしぼり出した言葉に、リジーは肩をすくめた。たしかに、誰も好きこのんで落ちたいわけではないだろう。
「そりゃそうでしょうね。でも、最悪の可能性を考慮していなかったとは言わせないわよ」
敗北を認めたように、男は重い息を吐き出した。
「ある意味ではいまきみが言ったとおりだ。私は見せつけたかった。というより、知らしめたかったのだ」
「知らしめたかった? なにを」
怪訝な表情になるリジーに、男は昂然と言い放った。
「人類の不変の夢であり、いまだ誰もなしえていない飛行機という発明の成功を、だ」
彼の返答に、リジーは呆気にとられた。ロデリックが嫌悪感をにじませ、眉をひそめる。
「まさか、ただの虚栄心であんなことをしたのか?」
「虚栄心ではない! 逃げる算段をしていたのは、事故の責任逃れをするためでもない」
否定すると、男は怒りもあらわにロデリックを睨んだ。ロデリックにそんなつもりはなかっただろうが、虚栄心と断言されて、いたく誇りを傷つけられたらしい。
だがそんな激した様子を恥じ入ったのか、男は深い息をつき、肩を落とした。
「とはいえ、いまさら何を言ってもいい訳にしか聞こえないだろうな」
「……変装は、あなたを追うひとたちから逃げるため? そうでしょう、ジョン・ドゥ?」
リジーが別の名前を口にしても、相手は驚かなかった。ロデリックも予想はついていたらしく、眉も動かさずに男を見つめる。
男は――サンテス・シーガルでありジョン・ドゥでもある人間は、ようやく肩から力をぬくと、深いため息をついた。
「まったく、あのときも只者ではない娘だとは思ったが、なかなかどうして大した人間だな、リジー嬢」
そして、なにもかも諦めたような笑みを、口の端に浮かべたのだった。
正体を認めたジョン・ドゥ――否、サンテス・シーガルは、リジーとロデリックに座ってもかまわないか、と訊ねた。
「さきほどの墜落で足を挫いてしまってな」
と、杖でみずからの足を指す。〈貴婦人〉号のときと似た状況に既視感をおぼえながら、リジーはどうぞとベンチのいすをすすめた。
「墜落してその程度ですんだんだから、運がよかったわよ。サーカスの人たちには感謝と謝罪をするべきね。あのテントが設営されてなければ、足だけではすまなかったわよ」
まったくだ、とサンテスは肩をすくめた。手を貸そうとしたリジーを制止し、ロデリックがサンテスの動きを補助してやる。
「やあ。きみともまた会うことになるとはな、紳士くん」
「ロデリック・クロウだ」
差し出されたサンテスの手を、ロデリックはにぎり返す。さきほど激昂したことに対する遠まわしな詫びであり、ロデリックもごく自然にそれを受け入れたのが、リジーにも理解できた。
「石橋から飛び降りたときは無事だったんだな」
「あいにくと落下することには慣れているのでね」
自嘲なのか皮肉なのか判断が難しいことを言って、サンテスはふたたびベンチに腰を下ろした。
「つくづく悪運の強い星に生まれついたと思っているよ。だがその前に、父母には感謝するべきだろうな。何度失敗しても挫けない強い精神力と丈夫な体を授けてくれた」
「エルシオン人とクラレンス人のご両親ね?」
リジーの問いに、サンテスはうなずいた。奇抜な格好と色眼鏡がないだけで、彼はずいぶんとまともな人間に見える。それに、リジーが最初に抱いていた印象よりも、かなり若いようだ。
「ええと、ジョン・ドゥ……じゃなくてサンテスさんと呼ぶべきかしら」
「なんでも好きなように呼ぶといい」
「じゃあ、サンテスさん。あなたの行方を追っているという人たちと会ったわ」
サンテスはふん、と鼻を鳴らした。
「エルシオン政府の狗だな」
「いぬ……というか、ええと、役人よ」
「やつら、今ごろになって慌てて私を捜索しておるんだろう」
「追われている理由は、あの『飛行機械』か?」
ロデリックが横から訊ねるのに、サンテスはうなずく。
「そうだ。隣国オルセンが着々と『人を乗せて空を飛ぶ乗り物』の開発を進めているからな。どこの国の航空業界も焦っているのは同じだが、エルシオンも例外じゃない。有人気球をはじめて空に浮かべたのはクラレンス人だ。飛行船に関する技術はきみらも見ただろう、オルセンが最先端。ここに来て飛行機までも『世界初』のお株をとられるわけにはいかない、と焦るのも無理はない」
「チェス……じゃない、役人たちは飛行船が軍事利用されることを危ぶんでたみたいだったわ」
「それを危ぶまない国の高官などいないだろうな」
ロデリックがつぶやくと、サンテスはばかばかしい、と首をふった。
「なぜ翼を手に入れる前から争いのことなど考える? 私からすれば、エルシオンだのクラレンスだの国の違いすらも無意味だ、理解に苦しむ。われわれはいまに、国の境を飛び越えてあちこちを行き来できる手段を手に入れるのに」
憤慨した様子のサンテスに、リジーはロデリックと顔を見合わせた。サンテスの柔軟な発想は、彼がクラレンスとエルシオンという、ふたつの国の血を併せ持っているために生まれたものだろうか。
「どんな発明も乗り物も、結局は使い方次第だ。いつか軍事利用されるのだとしても、それを恐れて何もしないのでは発展もありえない。現代のことを考えてみろ、百年、いや五十年前の人間にすら想像もつかなかった世の中に変わっている。ほんの数十年でエルシオンには鉄道網が敷かれ、ガス灯にかわって電燈が使用され、馬車にかわってガソリンエンジン車が公道を走るようになった。つねに変わってきたのだ。いまさらそれを止められるものか」
「だからこそ、他国に先手をとられるわけにはいかないと躍起になるんじゃないのか?」
ロデリックの指摘は決して政府の役人を慮ったものではないが、サンテスよりは公平だった。
「その点はわからんでもない」
しぶしぶといった様子でサンテスも認める。
「たとえば、気球も飛行船も私が今完成を目指している『飛行機』も、戦のために使われない保証はそれこそどこにもない。殺人兵器が空からくると考えるのはたしかに脅威だろう。制空権や外交上の力関係が変わるというのも理解はできる」
「でも、あなたは飛行機を兵器として発明したわけではないんでしょ?」
「当たり前だ。だが残念ながら、歴史が証明している通り、発明品が発明家が望んだとおりの使い方をされるとはかぎらない。場合によっては世の平和を脅かすことになる。兵器になるかもしれないとわかっていても、私たちはつくることを止められない」
そんな、とリジーは首をふった。重い鉛のようなものがずしんと胃に落ちたような気がした。
「少なくとも、伯はそんなことを――」
リジーがそう言いかけたときだった。
『――見つけたぞ、サンテス・シーガル』
クラレンス語での呼びかけとともに、望まぬ第三者がその場に現れた。
リジー、ロデリック、サンテスの三人ははっとしてふり向いた。
果樹園の入り口に見たことにないふたり組の男と、彼らに拘束されているフィアンナの姿があった。
「フィアンナ!」
「リジー!」
その顔を見るなり、リジーは驚きと喜びが入り混じった声をあげた。フィアンナも顔を輝かせ、こちらに駆けよろうという動きを見せたが、男に後ろ手を押さえられ、あえなく引きもどされる。
帽子をかぶり、長いコートを着たクラレンス男性のふたり組。ひとりは金髪で、ひとりは鼻の下にちょび髭を生やしている。彼らがチェスナットの言っていたフィアンナをパヴィリオンから連れ出したやつらなのだろう。チェスナットはでたらめを言っていたわけではないらしい。
このふたりを便宜上、「シュガー」と「ソルト」と呼びわけることにする。金髪がシュガーで、ちょび髭がソルトだ。
『動くな。――勝手なまねをされては困るよ、お嬢さん』
フィアンナを押さえていないソルトが呆れ半分にクラレンス語でつぶやき、ふところから出した黒い拳銃を彼女につきつける。
それを見たリジーとロデリックに、はっと緊張が走る。サンテスだけは唯一平然としていたが、彼の顔が一瞬怒りにこわばったのをリジーは見逃さなかった。凶器をつきつけられた当のフィアンナは青ざめた顔をしたものの、悲鳴をあげたりはしなかった。
『おっと、そこのお三人方も動かないように。うっかり手がすべって引き金をひいては大変だからな』
こちらの反応をあざ笑うように、ソルトがなおも強くフィアンナのこめかみに銃口を押し当てる。
『やめて、そのひとを離して! あなたたち、何が目的なの?』
リジーが思わず声をあげると、男たちは目線を交し合い、こちらを睨んだ。
『われわれの目的はその男だ。その男をこちらに渡してもらおう』
シュガーがあごでサンテスを示す。指名を受けたサンテスはやれやれとため息をつきながら、杖に体重をかけてベンチから立ち上がった。
『女性をそのように手荒に扱うとは、紳士の風上にもおけんな。クラレンス人のマナーも地に落ちたことだ』
『黙れ、シーガル。おまえの隠れ家はすでに当局が押さえている。舌先三寸で煙に巻こうとしたところでムダだぞ』
『……ふん』
『交換条件だ。この娘を無事にかえして欲しければ、おとなしくわれわれとともに来い。従わないなら――』
「申し訳ないが、その男はこちらが先約だ」
きびきびとした発音のエルシオン語を発したのは、クラレンス人たちの背後から現れたチェスナットだった。銃口をクラレンス人たちに定めたアップルとベリーも続いて現れる。
――まずいわ。
リジーは内心舌打ちしそうになった。
よくもまあ、あの混乱の中を抜け出し、こちらを見つけたものだ。まさかと思うが――泳がされていたのだろうか?
だがしかしエルシオン政府役人である彼らがこの場に登場してきたところで、事態が好転したとは言えなかった。むしろひどくややこしいことになった。
クラレンス人たちは苦々しげな表情になったが、手の内にフィアンナがいる以上、彼らの優位は変わらない。丸腰のリジーとロデリックは動けず、人質になっているのがエルシオン貴族の娘とあっては、チェスナットたちも思いきった真似はできないはずだ。
肝心のサンテスも沈黙を守ったままである。その横顔に焦りが見えるが、どう動けばいいのか彼も迷っているのだろう。自身が切り札であるだけに、下手なことを言えばこの場の全員が危機にさらされることになるのを、彼もわかっているのだ。
完全な膠着状態だった。
互いに油断なく目線で牽制しあい、だが誰ひとり身動きがとれず、事態が急変するのを待つ。リジーはとっさに視線を空中に走らせ、意を決した。
――一か八か。
リジーは指笛をつくり、空に向かって強く音を吹き鳴らした。ピーッという高い音色に、男たちがぎくりと体をこわばらせ、いっせいにこちらに銃口を向けようとした。
『動くな、こむす――』
そこへ弾丸のような勢いで、空から白い羽毛のかたまりが場に飛びこんで来た。
「リジー!」
主人の名を呼びながら、舞い降りてきたのは白いヨウムだ。その瞬間、膠着していた事態が一気に動いた。
何事だと仰天したクラレンス人たちがパティに銃を向け、拘束がゆるんだと見るやフィアンナが身をよじって抜け出し、ついでに鮮やかなうしろ回し蹴りを決めてシュガーを昏倒させた。
『こ、この女!』
ソルトがフィアンナを撃とうとした瞬間、アップルの持つ銃が火を噴いた。
『……ぐぁっ!』
弾は手首をかすめ、ソルトは手から拳銃をとり落とす。ベリーはフィアンナに一蹴されたシュガーを羽交い絞めにしようとして飛びかかり、思わぬ反撃にあって顔にパンチを食らう。
その一方、乱闘になった直後にチェスナットがサンテスを捕らえようと動いたが、足の不自由な彼をかばい、ロデリックがそれを阻んだ。
「貴様、エルシオン人だろう。なぜわれわれの邪魔をする?」
「俺からすればあんたらもクラレンス人と同じだ。無理やりなんて紳士のすることじゃない」
「ばかなことを!」
両国の男たちがもめている隙にリジーとフィアンナは合流し、お互いに抱きついて再会を喜んだ。
「リジー、無事でよかった!」
「フィアンナこそ、何事もなくてほっとしました。怖い目にはあいませんでしたか?」
「わたくしは大丈夫です。それより、今すぐここから逃げますわよ」
「えっ、でもロデリックが」
「ロデリックなら平気ですわ!」
リジーの言葉をさえぎるようにしてフィアンナがリジーの手をつかみ、事態についていけず呆然としていたサンテスに鋭い忠告を投げた。
「あなたもここにいては危険です。早く!」
「……それが賢明のようだ」
足を痛めているサンテスに両側から肩を貸し、リジーとフィアンナはなかば彼を抱えるようにしてその場から逃走した。果樹園を抜け出し、何事かと驚く万博のほかの客たちの好機の目線にさらされながら、リジーは焦って聞く。
「でも、逃げるといってもどこへ?」
「――あっちだ」
答えたのはサンテスだった。空を彩る気球があがっている方向を指で示す。ひとまず彼の指さす方向へ、リジーたちは方向転換した。
「気球の発着場所を目指せ。あちらに私の同志たちがいる」
「同志って、あなたの?」
「そうだ。クラレンスにある航空クラブのひとつ――私の飛行機仲間だ」
早足で進みながら、リジーはサンテス越しにフィアンナと顔を見合わせた。「飛行機仲間?」
「ああ。飛行機をひとりで組み立てるのは困難だし、騒ぎになるのは目に見えていたからな。逃走の準備を頼んである」
つまり、もともと追われる身になることは織りこみ済みだったのだ。
「そこまで手回ししていたのなら、どうして墜落したときのことまで考えておかなかったの?」
「危険が生じた場合はエニス川へ落ちる手はずになっていた。間に合わなかったが」
エニス川とは万博会場である広大な公園のすぐ横を流れる河川だ。クラレンス第二位の流域をほこり、川幅も遊覧船が何台も行き来できるほど広い。木と皮でできたサンテスの飛行機が落ちたところで、大した被害にはならなかっただろう。
「そもそも先日の試験飛行ではうまくいったんだ……」
がっくりと消沈した様子のサンテスに、なんてお騒がせな、とリジーは呆れてため息をついた。
「関係ないきみたちまで巻きこんでしまったのはすまなく思う。だが私は警察に捕まる覚悟はあっても、『国』に利用される気は毛頭ない。エルシオンとクラレンス、両国の血が流れているからこそ、私はどちらかに肩入れするのは嫌なんだ」
もし万が一、自分の持つ技術がどちらか一方の国にわたり、軍事利用されることになったとしたら、父の国と母の国のあいだで戦が起きるかもしれない。どちらも『母国』であるサンテスにとって、これほど恐ろしいことはないのだろう。
「ご両親の仲は、とてもよかった?」
リジーの質問に、サンテスはまじめな顔でうなずいた。
「もちろんだとも。私の父と母は深く愛しあっていた。きみらの想像もつかないほどにね。なにせ、国の垣根を乗り越えても結ばれたふたりだ。国籍のちがいなど瑣末な話だよ」
リジーはぐっとくちびるを噛みしめ、肩に回したサンテスの腕を強くつかんだ。フィアンナと目線をかわし、示し合わせたようにうんとうなずく。
目ざといフィアンナがさっと手をあげ、万博会場内を流して走っている小型の馬車を呼びつけた。
「とっとと逃げましょう。あいつらの手が届かないうちに」
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