第四章 ルノ万博にて(前)
【ルノ】――花と享楽の都、という異名をもつクラレンスの首都である。
ルノはここ数十年で都市開発が一気に推し進められた都市でもある。他国から訪れた人間はみな、その進化のはやさに目をみはるという。整備された歩道、厳しい規定により外観がそろえたそろえられた建築物、街灯ひとつとっても洗練されたデザインの意匠が用られ、旅人の感嘆を誘う。
リージェン・クック著『淑女のための旅行書』より
豪華な
ひたすら頭を下げる車掌たちに別れを告げ、鉄道警察との短いやりとりがあった後――行き先と何かわかった場合の連絡先を伝える必要があったのだ――、リジーたちは馬車を拾った。
この年ルノでは地下鉄が開通したばかりだったが、観光がてらゆっくりと馬車でルノの市街地をまわろうと、リジーが提案したのだ。御者にクラレンス語で行き先を告げ、ときおりフィアンナが気になるものを見つけると馬車を止めさせ、簡単だが観光案内もした。
建物の多くはエルシオンと同じく石造りであり、それほど目立った差異はないが、街灯や円柱型の広告塔、道の幅や交通規則など、こまごまとした違いはある。お隣ではあってもその相違を見つけることは、ふりかえれば自国を見つめなおすことにもなって、なかなかに興味深かった。
だが今回の観光の中心はなんといってもルノ万博だ。市内観光に時間を割きすぎてもいけない、とリジーたちは正午前にはルノ博覧会会場もよりの宿に向かうことにした。
「……ここが、今日の宿なのか?」
宿に到着して開口一番、ロデリックが訊ねる。
「はい」
ロデリックとフィアンナ、ふたり分の
「トーチャク、トーチャク!」
と叫び、ぱたぱたと翼を羽ばたかせ、玄関先の小さな門の上に降り立った。
ロデリックの隣で、フィアンナも「まあ」と驚嘆のつぶやきをもらす。きょろきょろと周囲を見回すが、あたりには目の前のそれとまったく同じ外観の石造りの建物が並んでいた。
「なにか、普通のホテルとはちがうようですけれど……」
「というか、ここはアパルトマンじゃないのか、リジー?」
クラレンス語でいう「アパルトマン」とは、つまりは家具つきの住居のことだ。もちろんホテルとはちがう。
「正解です、ロデリック」
最後に自分の荷物である大きなバスケットを馬車から地面に降ろし、御者に賃金を払い終えたリジーは、フィアンナとロデリック、ふたり分の荷物を抱えて建物の入り口に立った。門の表面に掲げられた番地の数字を読み、間違いないことを確認して、くるりとふたりをふり返る。
「お待たせいたしました、おふたりとも。ここが間違いなく今日の宿です」
「イラッシャイマセー!」
愛想よく合いの手を入れるのはパティである。
ぽかんとしているきょうだいを尻目にリジーがノッカーを鳴らすと、間をおかず扉が内側から開いた。現れたのは、完璧な執事姿の初老の男である。
「ようこそお越しくださいました、お客さま」
非の打ちどころのない作法で頭を下げたのは、リジーと中央ロセター駅でわかれたクレインだった。クレインは三等車両に乗りこみ、ルノの駅に到着してすぐ、先回りしてここで待っていたのだ。
「ご承知の通り、この時期、万博近くの良宿は高級ホテルもふくめてどこも予約待ち状態だったので」
と、リジー。よいしょ、よいしょと荷物を抱え、玄関前の階段をあがる。クレインがすかさずリジーの手から客ふたり分の荷物をあずかった。
「いっそのこと、ホテルじゃなく住居を借りてしまおうかと」
「それはずいぶん思いきったことを。発想は面白いと思うが、しかし……」
「ご安心ください、ホテル並みのサービスとお食事をお約束いたします。――おふたりとも、どうぞ。入って朝食を召し上がってください」
「すてきですわ!」
困惑気味のロデリックを置きざりに、さっそく瞳を輝かせたのはフィアンナである。
「高級ホテルでのおもてなしもいいですけど、お友達の家に遊びに来たようで楽しいですわ。さ、入りましょうロデリック」
「あ、ああ」
本心から楽しんでいる様子のフィアンナに、ロデリックは苦笑したようだった。石畳に置いたままだったリジーの荷物を片手で持ち上げ、はっと通りの角をふり返る。
「ロデリック、どうかなさったの?」
いや、と彼は首をふった。
「誰かがこっちを見ていた気がしたんだが、ちがったようだ。――では、お邪魔するとしようか」
「この菱形のパン、サクサクしててとてもおいしいですわね。いくつでも食べられそうですわ」
「それはよかった。クラレンス特有のパンで、伸ばした生地にバターをはさんで焼いてあるそうですよ」
「こっちのパンケーキもいけるぞ」
「あ、それは私が焼いたものです。隠し味に蜂蜜をいれてあります」
遅い朝食の感想はおおむね良好で、リジーはよかったと胸をなでおろした。クレインが台所から運んできた焼きたてのベーコンとほかほかの卵料理を、フィアンナとロデリックの皿にすばやくとりわける。
「おかわりもありますから、よかったらどうぞ」
「ありがとう。リジー、水を」
「はい」
水差しを手に、座っているロデリックの背後に回り、空になったグラスにすかさず水を注ぐ。今のリジーは添乗員ではなく、ふたりの給仕係だった。ホテル並みのサービスを約束したからには、一瞬たりとも気をぬけない。もちろん自分の食事など後回しだ。
エルシオンでは朝はきっちりと摂るのがふつうだが、クラレンス式での朝食はパンと場合によっては飲み物だけだ。ルノに来たからにはクラレンスでのやり方に従ってもよかったのだが、それではフィアンナたちが辛いだろうと、リジーはあえて母国でのやり方に沿った。なんといっても、今回の旅行の主な目的は万博観光なのである。しっかり食べて体力をつけねば、とてもまわりきれないと判断したのだ。
「ごはんを食べたら、すぐに博覧会会場へむかいましょう。ここから目と鼻の先ですからね、歩いてでも行ける距離です」
明るくはずんだ声でリジーが言うと、黙々と料理を口に運んでいたロデリックがふいに手をとめた。
「ホテルが満室なのは仕方ないとしても、こんなアパルトマンもよく借りられたな」
「ええまあ。持つべきものは祖父のツテというか人脈というか……」
「は?」
「ああいえ、なんでもありません」
にっこりと笑って、リジーは盆を手に壁際に下がった。同じく給仕として控えているクレインにそっと耳打ちする。
「ねえ、伯爵にはお礼をつたえてくれた?」
「はい。『もともと資金繰りに賃貸に出す別荘だったから気にするな』という返信を頂きました。それから『たまには昔話につきあえ』という追伸も」
「相変わらず苦労なさっているみたいね。お金のかかる事業だから仕方ないとはいえ」
「退役されてもお忙しいようですね。今回の博覧会にも特別招待されていらっしゃるそうです。さし出がましいようですが、一度顔を見せに行かれては?」
リジーはうなずいた。
「そうね、近いうちに必ず伺うわ」
ロデリックとフィアンナが食後の茶を飲んでいるあいだ、リジーはふたりの世話をクレインに任せ、食堂を出た。調べたいことがあったのだ。
借り受けたアパルトマンには書斎もあると家主から聞いていた。リジーは書斎に入ると、さっそく書棚に並んだ分厚い本のなかから百科事典をとり出し、求めていた記述を探しはじめた。
◇
クラレンスの首都であり、花と享楽の都という異名で呼ばれる、ルノ。
ルノはここ数十年で都市開発が一気に進められた都市だ。他国から訪れた人間はみな、その進化の速度に目をみはるという。
現為政者がクラレンスの威容を世界に見せつけるため、可能な限りの財を投じて開催された万博会場はその粋を集めたようなものだった。来場者は歩く歩道や会場をぐるりと一周できるちいさな蒸気機関車など、その革新的な開発の数々を目の当たりにできる。
「すごいですわ。リジー、見てください!」
そびえたつ建造物をひと目見るなり、フィアンナは歓声をあげた。彼女が指さすものを見て、同感だというしるしにリジーはうなずいた。
新聞記事などの写真で目にしてはいたが、実物を見るのはリジーもはじめてだった。
「あれがリュンヌの塔なのですね!」
「はい。第一回ルノ博の目玉としてつくられた、錬鉄製で高さ約千フィート、現在も世界一の高さを誇る建造物です」
「わたくし、あんなに高いものをはじめて見ましたわ」
リジーはくすっとほほ笑んだ。胸の前で手を組み、瞳をきらきらさせて興奮するフィアンナの様子はまるきり子どものようで、なんとも愛らしい。だがたしかに、彼女が興奮する理由もリジーにはわかる。
ルノの万国会場はリュンヌの塔を中心として、放射状――くもの巣に似たかたちにひろがっている。
前回のルノ博覧会の目玉であり、いまも大シンボルである塔は、少し近づいただけでも視界に全容が入りきらないほどだ。
そのさまはまさに聳え立つ巨人のようであり、天にむかって伸びゆく大樹のようでもある。名前の由来であるリュンヌ――クラレンス語で「月」を意味する――は、月まで手が届くようにという願いをこめてつけられたものらしい。たしかに最上階にある展望台にのぼれば、それも可能に思える気がした。
「さっそくのぼってみますか?」
少し考えたのち、フィアンナは首をふった。
「ひとが多すぎます」
物珍しい水圧式エレベーターや、各階に設置された電話、三つの展望台にのぼれば会場のみならずルノを一望できるとあって、リュンヌの塔は一番人気だった。
おかげで塔の周辺には、まるで砂糖に群がる蟻のように無数のひとの姿がある。
日傘をさしたご婦人や淑女、ステッキを手にした紳士、あるいはごく普通の労働者や小さな子ども。塔それ自体ひとつの見世物、あるいは
「それよりも、先にほかのパヴィリオンを見てまわりたいですわ。他国の文化館なんかもあるんでしょう?」
リジーはうなずいた。出発前に同僚のダグラスに資料を借り、会場のことはすでに勉強済みだ。
大小あわせて百以上もの
エルシオンをふくむ、この博覧会に参加を表明している各国が威信をかけて最新の流行や先端技術を惜しみなく披露している一方、新進気鋭のブランドが自社名を掲げ、館を建て、革製品や陶器、アクセサリーなどの小展示を行っていたりもする。その広さたるや、一日や二日ではとてもすべて見てまわることなど不可能だ。
「はい。東海域の文化や最先端の科学技術も見ることができますよ」
「目移りしてしまいそうですわ。どこから行きましょう?」
「……ところで」
と、唐突に低い声でつぶやいたのはロデリックだった。
「これはどういうことだ?」
「パティ、『コレ』ジャナイ」
すかさず返したのはロデリックの右肩にでんと居座った白いヨウム――パティだった。
「すみません。すっかりそこが気に入ったみたいで」
リジーは恐縮して謝罪した。本当は鳥を肩の上に乗せる行為はあまり推奨されることではないのだが――鳥の目線が人間のそれよりも高い位置になってしまうため、鳥が人間を文字通り下に見てしまうのだ――、リジーはロデリックの名誉を損なうまいと黙っていた。
「いや、気にいったとか気にいらないとかじゃなくてな……」
ロデリックは渋い顔だ。
そもそもパティはクレインとともにアパルトマンで留守番をさせる予定だったのだが、リジーたちが出る段になってどうしてもついていくと騒ぎ出したのだ。リジー自身、さすがに仕事なのだから、と喚くパティを鳥かごに押しこめようとしたが、フィアンナの、
「いいんじゃありませんの。万博は屋外ですし、誰も気にしませんわ」
という鶴の一言で同行が許された。そのかわり、騒ぐのは絶対禁止、と厳しく言いつけてある。
ときおり通行人の好奇の目が向けられることがあるが、万博にはサーカスやサルをつれた大道芸人の姿もあるので、特に目立つこともなかった。
「なんですの、パティに肩を貸すぐらい。大した重さでもないでしょうに」
フィアンナはツンとあごをそびやかす。万博に向かうまでの道すがら、さんざん「ロデリックばかり懐かれてずるいですわ」と拗ねていたのだ。
「だから、重さの話でもなくてだな……」
「そんなことよりも、ねえリジー、あれは『気球』というのでしょう?」
ロデリックの嘆息を華麗に無視し、フィアンナははしゃいだ様子でリュンヌの塔を背景に浮かぶ色鮮やかな浮遊物を指さした。丸いもので、遠目には巨大な風船に籠がぶら下がっているように見える。
「はい。運賃を払えば乗せてもらえますよ。会場を上から俯瞰で眺められるとか」
「でも、少し怖いですわ。風で落ちたりしませんの?」
「大丈夫です。あのふくらんだ風船の部分――気嚢というのですが、あそこに空気じゃなく……ええと」
一瞬記憶が飛んで、リジーは言葉をつまらせる。すぐうしろにいたロデリックがぼそりと指摘した。
「水素」
「そうそう、水素! その水素から作られたガスがつまってるんです。水素は空気よりも軽い気体だから宙に浮くんです」
「なるほど、そういう原理なのですね」
フィアンナは物珍しいものを見つけては次々と質問し、リジーはもてる知識を総動員して律儀にそれに答えた。専門外のことを訊ねられたときは、ロデリックがそれとなく助け舟を出してくれることもあった。
フィアンナの好奇心は大したものだ。おおきな瞳をくるくると動かし、気になることを見つけてはリジーやロデリックを質問攻めにする。まるで、見聞きしたことをひとつもとりこぼすまいとするかのように。
「リジー、サーカスのテントが出てますわ! もしかしてトラやゾウも見られますの?」
「ええ。でも、サーカスは夕方からです。いまは準備中」
「残念ですわ」
そのとき、ロデリックの肩の上で突然パティがギャアと奇声を上げ、威嚇するかのようにバサバサと羽を広げた。
「うわっ、なんだ急に。どうした」
パティが反応したのは、ちょうど真向かいから歩いてきた淑女たちの集団だった。流行の派手な飾りのついた帽子に、手には日傘。強い香水をまとわりつかせ、まるで蝶が舞うような足どりの彼女らと、一瞬すれ違う。
「パティ、ダメよ! 騒がないって約束したでしょ!」
リジーが慌てて叱りつけると、パティはようやく羽をたたんでおとなしくなった。拗ねたようにしゅんとうつむく姿を哀れんだのか、ロデリックが左手でパティを撫でた。
「いったいどうしたんだ?」
「ええと……たぶん、あの羽飾りのついた帽子が気に入らなかったんじゃないかと」
ロデリックの問いに、リジーはしどろもどろに答えた。パティにも苦手なものがあり、いまの瞬間に、それがよみがえったようだった。
「いまの女性のみなさん、とてもお洒落でしたわね。さすが、ルノ女性のファッションは流行の最先端をゆくと言われるだけありますわ」
クラレンス女性たちを眺め、うっとりとした顔でフィアンナが言う。
「エルシオンの社交界ですら、クラレンス産の帽子や香水を好む婦人がいるぐらいですもんね」
「エルシオン人としては悔しいですわ。負けていられません」
フィアンナの反応に、リジーはくすくす笑った。
「では、研究のために服飾関係の館へ行きますか?」
「うーん、迷いますわね。わたくしは全部観てまわりたいですもの」
「ロデリックはどこか希望がありますか?」
彼は肩をすくめてこたえた。
「俺はもともとつき添いのつもりなんだが」
「まあ、気が利かないことを。かまいませんわよ、好きなところを仰って。このままだといつまでたっても決まりませんもの」
「じゃあ、そうだな……」
ロデリックは周囲を見渡したあと、こじんまりした〈館〉を指さした。
「あそこでいいんじゃないか。ここから歩いて近いし」
いささか投げやりな返答だったが、リジーは逆に驚いた。
「あら、さすがですね」
万博会場の地図はきっちりと頭に入れてある。記憶のそれと照らし合わせ、大した勘だと感心する。
「なにか面白いものでもあるんですの?」
リジーはにっこりと笑ってこたえた。
「他国の美術品から新興ブランドの窯まで、多数展示されているそうですよ。――陶磁器の数々がね」
◇
東西に両翼を持ち、上から見ると凸型をしたその〈館〉には、西大州および東海域からありとあらゆる陶磁器が持ちこまれていた。
皿、器、花瓶、水差し、洗面器、壷――おとながふたりがかりで持ち上げるような大きさのものもあれば、東海域でつかわれている「ハシオキ」などという子どもの手のひらに乗るようなちいさなものまで、展示されているものは様々だった。
共通しているのは「陶器製」というただ一点のみである。
大人気というわけではないが、そこそこの集客率を誇っており、館内にはおもに上流階級の紳士淑女を中心とした来館者でざわついている。
リジーはフィアンナ、ロデリックとともに、どうにか並ばずになかへ入ることができた。さすがにパティは館内へは入れないので、パヴィリオンのそばの植木にこっそり止まらせてきた。パヴィリオンを出たら迎えに行くのでじっとしているように伝えてある。
入館してすぐの大ホールには、陶器でつくられた噴水があり、その上部にはこれまた陶器製のおおきな天井画が装飾されている。天井画はある宗教の一場面を描いたもので、その周辺を花や植物が描かれたタイルが華やかに彩っていた。
ほとんどの客はまずこのホールのうつくしさに足をとめ、天井をぽかんと見上げながら感嘆のため息をつくのである。
「きれいですわねえ」
例に漏れず、うっとりとした表情で感想を述べたのはフィアンナだ。その隣でリジーも大きくうなずいた。ロデリックは上部の陶製画よりも噴水のほうが気になるようで、水が波紋を描く巨大な水盆のふちをじっと眺めていた。
白磁に彩色はされていないが、蔓草がからみついたデザインの細かな装飾がされ、職人の手による繊細な仕事ぶりをうかがわせる。ロワルか、とふいにロデリックがつぶやいた。『ロワル』はクラレンスに古くからある名高い陶磁メーカーだ。
「すごいですね。ひと目見ただけでどこのものかわかるなんて」
リジーが素直に感心すると、フィアンナがふふっといたずらっぽくほほ笑んだ。
「リジーが『耳がいい』のと同じで、ロデリックは『目がいい』のですわ」
「いわゆる『目利き』ですね」
「ええ。特に陶磁器に関しては専門家も舌を巻くほどですのよ」
「いや、そこまで凄くはない」
フィアンナは絶賛するが、ほめられたほうは謙遜した。
「独学だし、たんなる趣味だ」
それだけ言い残して、ロデリックはひとりでさっさと歩き出してしまった。ほんの少し早口になっていたので、もしかしたら照れ隠しなのかもしれない。
リジーとフィアンナは一瞬だけ共犯者のように目線をかわし、ふふっと笑ってすぐに彼の後を追った。
ロデリックを真ん中に、その両脇をリジーとフィアンナがエスコートされるかたちで歩く。
外観の印象はこじんまりしたものだったが、内部は三階建てで階層ごとに地域・年代と分類してあった。館内には順路の看板が立てられ、客たちはそれに逆流しないように、ほぼ一方通行のゆるい流れを作って歩いている。もちろん途中で引き返してもう一度同じ展示物を見ることは可能だが、てんでばらばらに規則性もなく動いている客は少ない。
展示されている品が壊れ物なので、大声を出したり走り回ったりする客もおらず、落ち着いた雰囲気で見てまわれるのはありがたかった。
なかでもリジーたちが思わず驚嘆の声をもらしたのは、東海域の陶磁器が並べられた部屋だった。
エルシオンやクラレンスから見て、大陸と海を二つ隔てたさらに果てに、東海域と呼ばれている地域圏がある。両者のあいだには途方もない距離があり、その文化は成り立ちから形態まで西大州とはまったくちがう。
同じ磁器とはいえ、基本的な土に水、窯、製造方法の差。そしてできあがった器は、当然のことながら色も形もさまざまだ。
人がひとり入るのではないかと思うほどに巨大な花瓶や砂時計のようなくびれのある壷、ただ丸いのではなく花びらの形を模した大皿。そのどれもに、気が狂うかと思われるほど精緻で細やかな彩色が施されている。花に植物、鳥に虫、人物、神、想像上の生物。その多様さには素人のリジーも目をみはるばかりだ。難しいことは何もわからないが、その創造性や技術力の高さは理解できる。
「なんてすばらしいのかしら」
うっとりとフィアンナがつぶやき、リジーはうなずいた。ロデリックにいたっては声もなく見入っている。
「まさに異文化との出会いですね」
異国とはいうものの、世界の裏側にある東海域の文化は、リジーには夢物語も同然だ。
――いつか、この目で見ることができれば。
だが、海と陸をいくつも越えなければたどりつけないはるか彼方の文化や芸術を、こうして間近で目の当たりにできる。万国博覧会とはよくいったものだ。
「東海域の陶磁器が万博ではじめて大々的に展示されたのは二十年前のことだ」
「二十年前というと、エウラ博ですか?」
リジーの問いに、ロデリックはうなずいた。エウラはオルセンの首都だ。
「
宣伝方法が新聞や広告、ポスターしかない現在、「実物を実際に目にできる」万博の宣伝効果は絶大である。万博は入場料さえ払えば誰でも見学できるため、上流階級から一般庶民まで幅広い層に認知されることになる。
「つまり、国単位での物流も変えてしまうほど、影響力があるということですね」
「そう。万国博覧会が国を挙げての大事業なのは、そういう側面もあるからだ。万博にはほとんどの部門にコンクールがあるし、金賞をとればこれ以上ないお墨つきが手に入る。知名度があがるのは言うまでもない。国だけではなく、どんな企業も利用しない手はないだろうな」
ロデリックの講義をふむふむと聞いていたリジーだったが、ふいにあるものを見つけ、目が釘づけになった。
それは、ガラスケースに入ったそろいのティーポットセットだった。物それ自体にはなんの変哲もないが、展示された
――これ、バルテス数字だわ。
ジョン・ドゥの紙片に残されていたそれとは違うが、間違いない。あれは『一』だったが、ここに記されているのは「十」と「三」の組み合わさった、『十三』だ。
紙片に書かれていた謎の言葉は『ルノ』『博覧会』『陶磁器』、そしてバルテス数字の『一』。
もしや単なるいたずらではと半分疑ってはいたが(そうだとしても、リジーがジョン・ドゥにかつがれる理由がわからないのだが)、ここに来て謎の三つがそろってしまった。
冗談やからかいなら一発殴ってやる、と思っていたのに、どうやらそうではないらしい。だが、彼はいったいなにを伝えたかったのか。
――十三? 一を探せってこと?
自問の末、いや違う、と否定した。バルテス数字はただ数を示すだけでなく、数自体に複数の意味を含んでいる。たとえば「一」は「有」と「はじまり」を意味し、「三」なら「均衡」や「家庭」を示すのだという。
つまりあれは一と言う数字ではなく、「バルテス数字そのもの」を示していたのではないか。
――これが十三ってことは、少なくともあと十二個、数字のふられている展示品があるということよね。
「リジー、どうしたんだ?」
ロデリックに声をかけられ、はっと我に返った。
「え? どう、ですか?」
長身の彼の向こうから、フィアンナがひょこっと顔を出し、こちらをのぞきこむ。
「なんだかすごく険悪な表情でポットを睨んでいらっしゃるから、よほどその柄が気に入らないのかと」
「あ、いえ、そういうわけじゃ……」
慌てて首をふる。適当にうそをついてごまかそうとしたが、なにかを口にする前に、フィアンナはが怒ったように頬をふくらませた。
「もう、リジーったらいつもそう! 責任感がありすぎるのも問題ですわ、なんでもひとりでやろうとするんですもの。ロデリックもそう思うでしょう?」
「ああ、まあ」
苦笑した様子でうなずくロデリック。ふたりそろっての指摘に、リジーは驚いて目を丸くした。
「なんのお話ですか?」
「リジーは耳がよくて、ロデリックは目利き。わたくしは鼻が利くと前に言いましたわね?」
「え、ええ」
貨物車両に閉じこめられたときのことを思い出しながら、リジーはうなずいた。
「だからリジーが何か思い悩んでることくらい、お見通しですわ。話してくださいません?」
「え、でも」
「わたくしを客だと思うから難しいのであれば、妹だと思ってください。わたくし、この旅のはじめにそう言いましたわね?」
「…………」
「リジー?」
フィアンナが優しく訊ねながら顔をのぞきこんできた。リジーはフィアンナの顔を見、次にロデリックの顔を見た。ロデリックがこくりとうなずく。
「……わかりました。たしかめたいことがあるんです、おふたりにも協力をお願いしていいですか?」
「もちろんですわ!」
ぱちんと手を叩き、フィアンナが興奮した顔で請け負った。心なしかうれしそうだ。
リジーは展示物の横にある小さな札を指さし、ここを、と示した。
「見てください。銘柄の横にかなり小さいですが、記号のようなものが印字されています」
人さし指の示すものを見て、フィアンナがまあ、と声を上げた。すぐに思い至ったらしい。
「これって……?」
「バルテス数字、だったか」
リジーはうなずいた。スカートのポケットから小さな手帳をとり出し、文字の書きこまれたページを広げる。ここに来る前、アパルトマンの書斎で調べておいたものだ。幸いなことに百科事典には記述が載っていた。
手帳に写してきた数字を示し、リジーはフィアンナとロデリックに説明した。
「この記号は『十』と『三』の組み合わせ、つまり『十三』です。なので、おそらく――」
「少なくともあと十二個、同じ印のついた札がある、ということだな」
「はい。このバルテス数字の印字してある展示物が、この建物のなかにどれくらいあるのか調べたいんです」
「わかった」
ロデリックは了承し、懐から手帳と小さな万年筆をとり出した。余白にすばやく記号を書き写し、ページを破ってフィアンナに渡す。
「ありがとう、ロデリック」
「あなたは?」
リジーがメモしたページを破ろうとすると、彼は「俺は覚えた」とあっさりこたえた。
「では、手分けして確認に当たりましょう。リジーは南翼、わたくしは西翼、ロデリックは東翼。半刻後に入り口のホールで合流しましょう。よろしいですわね?」
「それでかまわない」
「ええ」
リジーももちろん異存はない。フィアンナの提案を受け、リジーたち三人はそれぞれ会場のあちこちを見てまわるため、その場で解散した。
◇
ガラスのショーケースには、うっすらと自分の顔が映っている。
金色の髪に薄い青の瞳。血をわけたきょうだいとよく似た面差し。
展示物を凝視するあまり、鼻をガラスにくっつけそうになって、フィアンナは慌てて顔を離した。うーん、とつぶやく。
「どうやらこれには印字されてないようですわね……」
銘柄が記された名札を確認し、次の展示ケースへ向かう。はたから見れば、やけに熱心に展示物を見る一方、あわただしく移動する様子が、多少ひと目をひく行動だったかもしれない。
すれ違った妙齢の貴婦人に、まあなにかしら、と眉をひそめられ、フィアンナはごまかすように歩幅を小さくした。
いけない、いけない。ここで目立つ行動をとると不審の目を向けられる。ここにロデリックがいれば、まじめにやれ、と怒られただろう。
ほかならぬリジーのお願いだから、真剣に探してはいるのだが、どこか宝探しをしているような、わくわくした気分もあった。単純に、頼られてうれしいという思いもある。
まったくリジーは想像以上だ。やはり、自分の鼻に狂いはなかった。リジーといっしょにいると、思いもかけぬことばかりが起こる。自分でもかなり好奇心旺盛だという自覚はあるが、それを満足に満たしてくれる人材は、かなり貴重だった。
「これもありませんわね。ええと、次は……」
ぽつりとつぶやき、ロデリックから渡されたメモ用紙をもう一度確認しようと、視線を落としたそのときだった。
『失礼、お嬢さん』
クラレンス語で話しかけられた。リジーのように外国語が堪能でなくとも、その呼びかけが自分に向けられたものであることぐらいはわかる。
フィアンナが顔をあげると、背の高い男がふたり、こちらを見下ろすようにしてかたわらに佇んでいた。
黒っぽい服装なのが気になったが、身なりは少なくとも真っ当だ。クラレンス人の、おそらく中産階級以上の人間だろう。
むかって左側の男がクラレンス語で何かを言ったが、さすがにそれはなんと言ったのかわからなかった。聴きとれなかった意を示すため、ことんと首をかしげる。
「……ごめんなさい。わたくし、クラレンス語は堪能ではなくて」
少なくとも意思は伝わったはずだが、ふたり組の男は無表情のまま、二言三言なにか言葉をかわしあう。右の男が身ぶりで示した。どうやらついて来い、と言っているようだ。
困ったフィアンナは首をふった。
「申し訳ありませんが、わたくし、つれがおりますの」
フィアンナがそう答えると、とたんに男たちの表情が険しいものになった。左の男がフィアンナの細い手首をつかみ、いいから来い、というように強く引く。右の男が早口で何か言った。
意味はわからないが意図はわかる。おそらく、手荒なことはしたくないからおとなしくついて来い、というような台詞を口にしたのだろう。
見知らぬ男に突然身柄を拘束され、ふつうの淑女なら怯えて気を失うか、もしくは悲鳴をあげて助けを呼ぶところだ。だが、あいにくと自分はそのどちらでもなかった。もしこのときのフィアンナの心境を、たとえばロデリックあたりが聞いていれば、さもありなんと首をふったことだろう。
フィアンナはつかまれた手首をぱっと振りほどいた。まさか反抗されるとは思っていなかったのだろう、男たちは色めき立った。
だが逆らうつもりも、逃げるつもりも、はじめからフィアンナにはない。
にっこりと笑い、男たちに向かってレースの手袋につつまれた白い手を差し出す。
「わたくし、こう見えて公爵家の淑女ですの。殿方ならやさしくエスコートしてくださいません?」
◇
「――ロデリック!」
半刻後。パヴィリオンの南翼を足早に見てまわり、リジーが示し合わせていた通りに玄関ホールへもどってくると、そこにはすでにロデリックの姿があった。
「どうだった?」
「ありました。複数の品名プレートにバルテス文字が」
「俺も見つけた」
手帳を広げ、見つけた数字と陶磁器メーカーの名前を示して見せた。ロデリックも同じように記録した紙を見せる。照合してみると、リジーが見つけたバルテス数字の数は全部で六つ、ロデリックが見つけたのは四つだった。
「わたしが見つけた最大の数字は十五でした。つまり、おそらく十五のバルテス数字があるということですね」
「俺たちが見落としていなければ、だが。あとはフィアンナがいくつ見つけてくるかだな」
リジーの手帳をのぞきこみ、ロデリックがかすかに唸る。
「ひとつ気づいたことがある」
「なんですか?」
「数字のついていたメーカーはほとんどが新興のメーカー、かつその大多数はクラレンスのものだった。全部ではないが」
「本当ですか?」
ああ、とロデリックはうなずく。
「俺の知らない窯もいくつかあった。西大州だけじゃない、新大陸側もだ」
新興メーカー、とリジーはくり返すようにし、考えこんだ。新興メーカーの出展している品の品名にだけバルテス数字が印字されている。その理由とは、なにか。
「……まさか、コンクールの不正?」
ぽつりとつぶやいたリジーに、ロデリックが苦い顔つきになった。
「俺もそう思った」
万国博覧会とはあくまで「博覧会」であって、即売会ではない。販売用としてみやげ物屋に並んでいる商品は別として、展示される品々は当然非売品である。
展示物は部門ごとにわけられ、主催者によって金賞――つまり一等から三等までの順位が決定される。入賞すればこの上もない名誉となるし、新興ブランドが一気に知名度を上げる千載一遇の機会ともなる。
実際、前回のルノ万博以前に一位を賜り、地元の人間しか知らなかった片田舎のちいさな窯が、一足飛びに高級メーカーとしてのし上がった例もある。
つまりそれだけの格式と、品物に対する公正な判断が認められているということだ。それは絶大なる信頼のうえに成り立つのであって、もし主催者側が不正を行っていたとしたら、その権威は文字通り失墜する。
賄賂や買収が横行し、優劣が曖昧になり、栄誉が本当に優れたものに与えられるものではなくなってしまう。
「……そんなの、だめだわ」
苦虫を噛みつぶしたような表情でロデリックがうなずいた。
「俺も気に入らない。コンクールは公正だからこそ意味がある。万博金賞というお墨つきが金で買えるなら、良いものを作ろうと苦心する職人の意思はどうなるんだ」
「不正に関わっていない人間に対しても、こんな失礼な話はありませんね」
「そもそも万国博覧会を世界ではじめて開催したのはわがエルシオンだ。その誇りを汚されるのは腹立たしい」
「ロデリック。このことを早くだれかに知らせないと」
「待て。不正はあくまで俺たちの推測だ、まだそうと決まったわけじゃない。よしんば裏で何かが行われているのだとしても、俺たちに対処できることじゃない」
「それは、そうですけど……!」
興奮したリジーがさらに言い募ろうとしたが、ロデリックはやんわりと押しとどめた。
「落ちつけ。話はフィアンナと合流してからだ。そういえばあいつ、やけに遅――」
周囲を見渡すように首をめぐらせた直後、男が三人、リジーとロデリックを取り囲むようにして背後から迫ってきた。
『失礼』
声とともに背中に硬い金属製のものが押しつけられ、リジーは息をのんだ。おそらく同じようにされたロデリックも眉根をよせる。
『静かにしてもらおうか』
クラレンス語でそう言ったのは、リジーとロデリックを拘束していない残りのひとりだ。高価な丸眼鏡をかけているのがリジーの気を引いた。
「両手を挙げたほうがいいのか?」
ロデリックは皮肉げに口もとをゆがませる。なかなかの胆力だ。
ここで大声をあげたらどうなるのかしら、とリジーもこっそり周辺に視線を走らせるが、それに気づいた眼鏡の男はふんと鼻で笑った。
『きみたちが周囲を巻きこみたいならそうしてもらってもいいが』
冷徹な物言いに、リジーはぐっとつまる。相手が飛び道具を持っている以上、やはり軽はずみなまねはできなかった。クラレンス語でリジーは訊ねた。
『わたしたちをどうするつもり?』
『黙って我々にご同行願いたい。きみたちの仲間である令嬢についても、いろいろと聞きたいことがある』
フィアンナのことだ。リジーの背中に冷たい汗が流れる。
『まさか、彼女になにかしたのっ?』
『それを知りたいのならおとなしくわれわれに従うことだ』
「……!」
――なんて卑怯な。
リジーは相手をにらみつけた。だが、フィアンナを盾にとられてはどうしようもない。
くちびるを噛んだリジーを見て、男は溜飲を下げたらしい。ついて来い、と顎をしゃくった。リジーはロデリックと目線をかわし、口をつぐんで歩き出した。
リジーとロデリックはパヴィリオンの外へとつれ出された。決してひとの目がなかったわけではないのに、誰もふたりが背中を銃で脅され、無理やりに連行されているとは気づかなかった。敷地内は目をひくものがありすぎて、いちいち通行人の様子など注目しないのだろう。
リジーはひとまずおとなしくしていた。大声を上げれば一瞬だけでも注意を引けるかもしれないが、その後の危険を考えると実行にはうつせなかった。内心どうなのかは謎だが、ロデリックが平然としているのは心強い。彼が黙って従っているのは、フィアンナの安否が気がかりだからだろう。
リジーはといえば、銃口を突きつけられているというのに、恐ろしいという感情はあまりなかった。ここにいないフィアンナのことが心配なのもあるが、非現実的すぎる現状に、感覚が麻痺しているのかもしれない。
ふつうの令嬢だったら、銃を突きつけられた時点で悲鳴をあげて気絶しているだろう。
パヴィリオンの外においてきたパティのことも頭の隅にあったが、こんな事態にひとまず巻きこまずにすんでよかった。
――ただ、わかってることがひとつだけある。
自分たちを拘束している男たちは
彼らはなぜか全員似通っていた。容姿が似ているというのではなく、雰囲気が似ているのだ。
おなじような背格好に目立たない服装。顔にもこれといった特徴はなく、極力ひとの記憶に残るまいとするかのように、ひっそりと音も立てずに動く。だが、裏社会に属する人間にも思えない。言葉づかいも粗野ではないし、何より発音が高等教育――少なくとも大学を出ているもののそれだ。
――エルシオン人がわざわざクラレンス人のふりをする理由はなに?
リジーは頭をひねった。
万博の警備員や警察関係者なら堂々と名乗るだろうし、なにも自分たちをこんなふうに銃で脅して連行する必要はない。せめて相手の立場がわかれば交渉の余地もあるのだが。
そもそもなぜ、自分とロデリックがこんな目にあうのか。思いつく節といえばおそらく万博で行われている不正に気づいたことだが、それもただの推論であって確たる証拠はない。リジーたちはあくまで見学者としてパヴィリオン内を見てまわっていたのだし、目立つようなまねは決してしていなかった。少なくとも自分は。
――ああもう、なにがなんだか混乱してきちゃった。
内心頭を抱えるリジーをよそに、一行は陶磁器館の裏手にまわった。あたりにひと気はない。
リジーとロデリックの動きを背後から制限するのにひとりずつ、残りのひとりが先ほどと同じく、こちらを尋問するつもりのようだ。名前を訊いたところで答えはしないだろうから、リジーは頭の中で「アップル」「ベリー」「チェスナット」と彼らに便宜上のあだ名をつけることにした。
リジーの背中に銃口を押しつけているのがアップル、ロデリックの背後にいるのがベリー、そして残る眼鏡の男――おそらく頭目格だろう――がチェスナットだ。
そのチェスナットは無表情でこちらと対峙した。彼が口を開く前に、リジーはすかさず口火を切った。先手必勝だ。
「あなたたちはエルシオン人ね。クラレンス語を使ってごまかそうとしたってだまされないわよ。いったい、なんのつもり?」
エルシオン語で問いただすと、チェスナットも即座に母国語に切りかえた。
「それはこちらのセリフだ。あちこちうろうろと嗅ぎまわって……貴様らはクラレンス、あるいはオルセンの間諜か?」
「間諜?」
リジーは驚き、なんのこと、と眉をひそめた。
聞き役に徹するつもりなのか、ロデリックは一言も口をはさまなかった。何か考えがあるのかもしれないが、表情からはうかがえない。
「わたしたちはただの旅行者よ」
「旅行者だと? 見え透いたうそを」
「うそじゃないわ。わたしはロセター市にある旅行社の添乗員で、このひとはわたしの顧客。もうひとりのご令嬢もよ」
「……なに?」
相手は目を眇めた。
「ならばなぜ、会場内をこそこそと嗅ぎまわっている。サンテス・シーガルのことも――」
「サンテス・シーガル?」
聞き覚えのない人名に、リジーが聞き返すと、男はしまった、という顔になった。こちらにはそのつもりもなかったのに、相手に鎌をかけたようになってしまった。
「とぼけるな。貴様らが間諜ならすべて説明がつくのだ。《貴婦人》でのことも、シーガルのことも、エルシオン人の女が流暢に外国語を操ることも、すべてな」
――この男は《空飛ぶ貴婦人》号での一件を知っている。
驚くより先に、リジーは怒りをおぼえて言い返していた。
「添乗員だと言ったでしょう。今日び、ちょっとぐらい学のある人間なら隣国の言葉ぐらい話せるわよ。あなた、女をバカにしすぎじゃないの?」
「しらを切る気か? では貴様らが寝泊りするつもりだろう、あの家はどう説明する?」
「!」
リジーは目をみはった。尾行されていたのだ。
「あの家についても調べさせたぞ。あそこは名の知れたオルセンの軍人の別宅だそうだな」
勝ち誇ったように男が問う。
「軍人……?」
ロデリックがふしぎそうな表情でこちらを見る。リジーはしまった、と天を仰ぎたくなった。
まさか知人に家を借りたことがこんなところで危機に繋がるとは思わなかった。そのオルセンの退役軍人がリジーの祖父のふるい馴染みであったなどと、ここで説明しても冗談だと思われるのがオチだ。
「……伯爵はわたしの祖父の友人よ」
「ずいぶんと苦しい言い訳に聞こえるな」
案の定、鼻で笑われた。頭からこちらをクロと決めつけている人間に、何を言ってもむだだろう。
マイルズの名前を出さなかったのはいざというとき巻きこまないためだったが、こうとなれば最初から旅行社の名前を出しておけばよかった。
「本当のことよ。うそならもっとマシなうそをつくわ」
「まったく強情な……」
呆れたような言葉に、リジーはむっとなる。
「そっちこそ何よ。ひとを勝手に間諜だなんて決めつけてるけど、なにか明確な根拠でもあるっていうの? むしろ、そうやってわたしたちを間諜扱いする、あなたたちこそが間諜じゃないの?」
勢いまかせだったが、言った瞬間、まずいと後悔した。チェスナットの眉がぴくりと動き、自分が核心に触れてしまったことに気づいたのだ。
背中の銃がよりいっそう強く押しつけられ、リジーが息をのんだ、その瞬間。
ふっと突然、彼らの頭上がくもった。広範囲に影が広がり、リジーたちは驚いて頭上を仰ぐ。太陽の光をさえぎったのは、雲などではなかった。
空に、巨大な船が浮かんでいた。白で塗装したアルミニウムの外装に、まるで悠々と波間を泳ぐクジラのような流線型の姿かたち。――飛行船だ。
空気よりも軽い気体である水素を、エンベロープと呼ばれる気嚢部分につめ、その浮力でもって空を飛ぶ。気球とちがうのは、完全な風まかせではなく、舵やプロペラを使って、ある程度任意での操縦が可能であること。
人間を乗せて自由に空を航行する乗り物は古来より人類共通の夢である。つい先日、オルセンのある人物の尽力によってそれが実現可能となった折に、新聞でも大々的に報道されていた。
「あれはオルセンの――」
「飛行船伯爵の船……!」
実物をはじめて目にしてリジーも驚いたが、男たちも度肝を抜かれたようだ。まさに巨大なクジラのようなそれが、現実に空に浮かんでいるのだ。
人類のほとんど誰も、こんな光景をまだ観たことなどないだろう。見世物といえば、これほどこころを奪われる見世物もない。ひどく非現実的な、それはまさに絶景だった。
そのとき、リジーのすぐ隣で「うぐっ」という低いうめき声のようなものが聞こえた。はっとして見ると、ロデリックを脅していたはずのベリーが体を折り曲げて悶絶していた。飛行船に気をとられた隙を突き、ロデリックがベリーに反撃したのだ。
「こいつ!」
リジーの背後にいたアップルが、背中に押しつけていた銃口をロデリックのほうへ向ける。安全装置をはずす前に、リジーはすかさずその足の甲を思いきり踏みつけた。
「……ッ!」
人体の急所に痛手を受け、アップルは声も出せずにその場にうずくまる。チェスナットが顔色を変え、ふところに手をつっこんだ瞬間、リジーの手にした小銃が、彼の心臓に向けてぴたりと定まった。形勢逆転。
「動かないで! 両手を挙げなさい!」
安全装置をはずして叫ぶ。チェスナットは苦々しげな表情になったが、それでもおとなしくその言葉に従った。
リジーは内心、冷や汗ものだったのだ。冷静な目でじっくり見れば、リジーが手にしたものが精巧なニセモノだと気づかれたはずだ。だが、ハッタリには勢いが肝心だ。
「教えて。フィアンナはどこ!」
「……知らん」
「知らないですって? あなたたちが誘拐したんでしょう!?」
「ちがう。われわれではない」
「今度とぼけるのはそっちってわけ?」
「本当だ。あのお嬢さんなら、われわれがどうこうする前につれ出された」
リジーはぽかんとした。
「つれ出され……ってどういうこと?」
「言葉通りだよ。きみたちを拘束する前に、彼女がふたり組のクラレンス人につれられて館を出て行くのを目にした。だからわれわれは、早急にきみたちふたりの身柄だけでも押さえようと動いたんだ」
「フィアンナがクラレンス人に?」
ますます困惑した。ベリーの肩を押さえつけているロデリックも眉根をよせている。
「怖がっているとか、嫌がっているそぶりはなかったの?」
「いいや、おびえたふうではなかった。むしろクラレンス人たちを堂々と従えているように見えたぞ」
リジーは口をつぐんだ。たしかにフィアンナは、可憐な見た目に反してなかなかに気骨がある人間だ。くわえて面白そうなことにはなんでも興味を示し、首をつっこみたがるところがある。
――とりあえずは無事でいるってこと……なのかしら?
「貴様らはクラレンスとつながりがあるのではないのか?」
チェスナットの問いに、リジーはロデリックと目線をかわしあった。少なくともリジーにクラレンス人の知り合いはいないが、ロデリックやフィアンナの交友関係までは把握していない。
「なあ、俺たちはお互いになにか盛大な勘ちがいをしてるんじゃないか?」
「わたしもそんな気がするわ」
ロデリックに同意したリジーは、銃口を向けたまま、チェスナットを睨んだ。
「冷静になって話しあう気はない? わたしたちがわかる範囲のことは正直に話すから」
「――いいだろう」
チェスナットが両手を挙げたまま、右手の手首をさっと動かす。ベリーが観念したようにおとなしくなり、ロデリックがその拘束を解いた。
「少し頭を冷やそう。だからその物騒なしろものを下げてくれないかね、お嬢さん」
「ああ、これなら大丈夫よ」
リジーはおもちゃの銃口を下に向け、引き金をひいた。ぽん、という間の抜けた音とともに国旗が飛び出す。まさかこんなところで、ジョン・ドゥの置き土産が役に立つとは夢にも思わなかった。
三人組ばかりかロデリックまでもがあっけにとられてこちらを見返すのに、リジーはにっこりと笑いかけた。
「見かけは精巧だけど、ただのおもちゃだから」
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