第三章 空飛ぶ貴婦人(後)



「まったく、どこへ行ったんだ?」

 リジーの部屋の前で、ロデリックは苛立ちをおさえられずにつぶやいた。

 昼食の時間はとっくに過ぎている。客たちはおおかた食堂車に移動したらしく、一等客室はがらんとしてひと気がなかった。

 フィアンナの部屋の扉をノックしても反応がなかったので、はじめは拗ねているのかと思った。ちょっとした口論のあとだったので、その意趣返しだろうと。だが二等客室のリジーの部屋を訪ねても返事がないとなれば、ふたりで先に行ったのだろうと普通は考える。

 が、食堂車をのぞいても、どちらの姿も見当たらない。そもそも、フィアンナはともかくとして、あの職務熱心なリジーが客であるロデリックを置いて先に昼食をとりに行くとは考え難い。

 結局、ひとのいない展望車両まで足を伸ばし、入れ違いになったのかもしれない、と客室にもどってきたところだった。

「お客さま、どうされました?」

 不審に思ったのか、若い客室乗務員がリジーの部屋の前をうろうろするロデリックにひかえめな声をかけてきた。簡単に事情を説明すると、彼は助力を申し出てきた。

「私もお連れさまをお探しいたしましょうか?」

「ああ、頼む。きみはもう一度展望車両を確認しに行ってくれ。俺は念のため三等車両のほうを見てくる」

「かしこまりました」

 指示を出し、二等客室車両から三等車両へ移動する。扉を開けてデッキに出た瞬間、バサバサという羽音とともに、ななめ上から灰白のかたまりが顔面にむかって飛んできた。

「……!」

 眼前にせまる灰白のそれを、反射的とはいえ両手ではっしとつかまえられたのは、まったく奇跡としか言いようがなかった。危うく顔面で受け止めるところだ。

「な、なんだこのふかふかした羽毛のかたま……羽毛?」

 両手の中にあるそれがもぞもぞと動き、ロデリックはぎょっとして手を離す。するととたんに、

「リジー、リジー!」

 羽毛のかたまり――否、よく見るとそれは尾羽だけが赤い、灰白のヨウムだった――がうるさく喚き出した。

「! おまえ、まさかマイルズ社にいたあの鳥か?」

「リジー、ドコ!」

 よく似た別の鳥かとも思ったが、主人の名前を叫んだところをみると、やはり他鳥の空似ではなさそうだ。

「まさか、リジーがこっそり連れこんだのか? で、そのリジーはどうした」

「リジー、ドコ! リジー、イナイ!」

「わかってる。だからこっちもおまえのご主人さまを探して……」

「リジー、ドコニイル? ツレテケ!」

「叫ぶなわめくな手をつつくな! 羽をむしって焼き鳥にするぞ!」

 ロデリックが紳士にあるまじき罵倒を吐くと、ヨウムはふいに騒ぐのをやめておとなしくなった。

 誰がわめくですって? とでも言いたげな涼しい顔で首をかしげ、こちらを見上げる。しかし残念ながら、ロデリックには鳥の表情など読めない。

「たしかパティとかいったな? 俺のことがわかるのか?」

 ヨウムはいかにも興味がないとばかりにプイとそっぽをむいた。

「シラナイ」

「まあ一度しか会っていない人間のことを覚えているわけがないか……」

 そういえば、人見知りする鳥だとリジーが言っていた気がする。

「ん? おまえ、足になにを巻いてるんだ?」

 ヨウムの細い足首をまじまじと眺める。

 はじめは布のきれはじでも巻きついているのかと思ったが、よく見ると違った。薄い紙をこより状にして結びつけてあるのだ。

「メモ……?」

 まさか、リジーが伝書鳩がわりにヨウムに伝言を託したわけではないだろうな、とロデリックは不審に思った。

「ソレ、ジャマ。トッテ」

「命令かよ」

 どことなく憐れっぽい響きの懇願に、だがしかし同情心がわいた。たかが紙のメモとはいえ、足首に巻かれては鳥にとってはさぞかし邪魔だろう。おかしな飛び方をしていたのはそのせいか。

 破らないように紙をほどこうとしたが、びゅうびゅうと走行風が吹きつけてくるこの場所では難しかった。ロデリックはパティをつれ、風よけのためにひとまず一等客室車両にもどることにする。

 慣れない人間に長時間触られるのは落ち着かないだろうと思い、廊下側の窓の桟にパティを降ろしてやった。

「ほどいてやるから少しの間じっとしてろ」

「ワカッタ」

 作業中につつかれてはたまらないと断りを入れると、鳥はしおらしくうなずいた。慎重にこよりをほどいて広げると、そこには雑な走り書きで、なにかが記されていた。

 三つの単語と、末尾に奇妙なマーク。単語はクラレンス語のようだが、恐ろしく達筆でなんと書いてあるのかよくわからない。

「ルノ……これは地名だな。それに万博、か? だめだ、字が汚すぎて読めない」

 ロデリックはしばし思考したのち、ばかばかしいと思いながらも紙をパティに見せた。

「おい、これはリジーが書いたのか?」

「ジャナイ。リジー、カカナイ」

「じゃあ誰が?」

 訊ねるが、またもやプイとそっぽを向く。この態度は返事をする気がないのか、誰がやったかわからないかのいったいどっちだ?

 ふいに、大まじめに鳥と会話している自分に気づき、急に気恥ずかしくなったロデリックはこほんと咳払いした。

 パティのちいさなまるい目がきょろと動いて見上げてくる。

「な、なんだ?」

「ベツニ」

 別に、ときた。あきらめのため息をつき、ロデリックはとりあえずその紙をたたんで上着の胸ポケットにしまった。

 ともあれ、このヨウムが人間の言葉を理解し、応答できる程度に利口なことはたしかだ。根気よく接すれば、わずかでも情報を引き出すことは可能だろう。

「おい。おまえはずっと部屋にいたのか?」

「パティ、ルスバン。オイダサレタ」

「留守番してたのに、追い出された? リジーにか?」

「チガウ。デカイメ、オトコ」

「でかい目の男?」

 なんのことだ、と思う。だが男というからにはリジーではないのだろう。

「リジーも追い出されたのか?」

 再びチガウ、という返答。

「リジー、デタ。パティ、ルスバン、タノム」

「あーつまり、おまえに留守番をさせてリジーは出ていったということか。それで、留守番してたらでかい目の男に部屋から追い出された、のか?」

「ソウ」

「窓からか?」

「ソウ」

「なるほど、それであんなところから飛んできたのか。というか、走行中の列車によくもどろうとしたな……」

 下手をすればいまごろ列車の壁に激突して即死だっただろう。

 ともあれ、ようやく事情が飲みこめてきた。リジーの不在がしばらく前からなら、やはり彼女はフィアンナと行動をともにしていると思っていいはずだ。

 ――いや、待て。

 そこまで考え、ハタと気づく。ということは、今現在、リジーのいない部屋に「でかい目の男」とやらが侵入していることになる。先刻リジーの部屋をノックしたときはなんの反応もなかったが、実はあのとき、室内にそいつがいたとしたら?

 部屋主の不在を狙って忍びこんだのなら、目的は強盗だ。ロデリックは急いできびすを返した。肩越しにふり返りながら、「おまえも来い!」とパティに叫ぶ。

「リジーの部屋にもどる。ついて来い!」

 主人以外の命令など無視されるかと思ったが、幸いにも通じたらしい。ヨウムは白い羽をひろげて桟を蹴り、すぐにロデリックを追いかけてきた。



 リジーの部屋のノブを掴んでまわしたが、やはり開かない。鍵がかかっているようだ。

「おい、そのでか目男とやらは本当にいたんだろうな?」

 ロデリックの問いに、肩にとまったパティが「イル」と肯定する。わずかに見下ろされて不快だったが、頭を止まり木にされなかっただけましか、と思うことにした。

 ロデリックはこぶしでドンドンと扉を叩く。

「リジー、いるのか? ロデリックだ」

 そこへ、一等車両を探しに行っていた客室乗務員がもどってきた。

「お客さま。やはりお連れのお客さまたちはいらっしゃいませんで――」

「きみ、すまないが、この扉を開けてくれないか。いますぐに」

 ふりむいたロデリックの剣幕にか、それとも彼が肩に乗せたヨウムに驚いたのか、乗務員は目を丸くした。

「は、え? ですがお客さま、宿泊されているご当人さまの了承なしに扉を開けることはできかねま……」

「いいから頼む! 大きな物音がしたんだ。室内でなにかあったのかも知れない!」

 とっさに口からでまかせを吐く。ロデリックの勢いにのまれ、乗務員はあわてて腰から鍵束を引っぱりだした。

 鍵穴に親鍵マスターキーがさしこまれ、扉が開く。扉が開いたとたん、顔に風が吹きつけてくる。室内は無人だった。

「イナイ、イナイ! アイツ、イナイ!」

 パティが叫び、ぐるぐると天井近くを旋回した。

 おおきく開かれた窓から外の風が吹きこみ、カーテンをばたばたと激しくはためかせている。ロデリックは全開になった窓から顔だけを出し、列車の上部を見た。が、屋根の上に誰かが乗っている気配はない。

 多少曲芸じみた体勢をとらねばならないだろうが、窓から直接屋根にあがることは、運動神経の優れた人間なら可能だろうと思われた。

 ――逃げられたか。

 ロデリックは内心で舌打った。

「お、お客さま、いったい……?」

「他の乗務員、それと車掌を呼んで来てくれ」

 窓を閉め、動揺する客室乗務員をふり向き、ロデリックはきっぱりと告げた。

「どうやら、つれになにかあったようだ。事件に巻きこまれたのかもしれない」


        ◇


 目を覚ましたときは、暗闇のなかだった。

「……っ?」

 状況を把握する前に鋭い痛みが後頭部に走り、リジーは顔をしかめる。反射的に手で頭をおさえようとして――身体の自由が利かないことに気づいた。両手首を縄らしきもので後ろ手に縛られ、足首も同じように拘束されている。右側面を下に、固い床の上に寝転んでいる状態だ。

 ――どういう状況?

 ずっと気絶していたおかげか、目はすぐに闇に慣れた。周囲を見わたしてみると、積まれた木箱や麻袋があるのがわかる。どうやら貨物車両のようだ。床からは、ガタタンガタタンという強い振動がつたわってくる。つまり、ここはまだ列車の中なのだ。

 意識をうしなってからどれくらい経ったのかはわからないが、せいぜい小一時間ほどだろう。腹のすき具合から、リジーはそう推察した。

「……目が覚めまして、リジー?」

 聞き覚えのある少女の声が自分の名を呼んだ。リジーが麻袋か何かだと思ったのは人間だったのだ。

「まさか、フィアンナっ? 大丈夫ですかっ!」

 ぎょっとして、どうにか上半身を起こそうとしたが叶わなかった。肩から上を動かすだけでせいいっぱいだ。

 ええ、とくぐもった声で返答がある。言葉が少し聞きとりづらいのは、彼女がこちらに背をむけた状態だからのようだ。

「わたくしはなんともありませんわ。リジーは無事ですか?」

「ええと、後頭部が少しズキズキしますけど、それ以外は特になんとも」

 まあ、と途方にくれたような声が聞こえる。ここからでは見えないが、あの愛らしい顔を悲嘆にくもらせているのだろうか。余計な心配をかけてどうする、とあわててつけたした。

「がまんできないほどの痛みじゃないから大丈夫です。それよりも、まずは落ちついて状況を整理しましょう。一体なぜこんなことになったのか?」

 ええ、と今度は比較的しっかりとした声で返答がある。

「わたしたちが今いるここは、《空飛ぶ貴婦人》号の貨物車両です。それはまちがいありませんね?」

「はい。そう思いますわ」

「わたしたち、列車のなかを探検していましたよね。展望車両までのことははっきり覚えてるんですが……」

 そこから先のことがどうにもぼんやりして、とリジーは続けた。

「そのあとは機関室を見学させてもらおうと思って、つづきの貨物車両に移動しました」

「そう、そうでした。で、貨物車両で誰かに見つかって――わたしはうしろからガツン、と」

「わたくしは、逃げようとしたのですけど口を押さえられて……気を失ってしまいました。薬を嗅がされたのだと思います。強い薬品のにおい――あれは」

 フィアンナは何かを思い出すかのように言葉を切り、

「覚えのあるにおいです。おそらく、麻酔にも利用されるエーテルのたぐいですわ」

 きっぱりと言い放った。令嬢らしからぬフィアンナの知識にリジーは目をみはった。

「エーテル?」

「ええ。わたくし、鼻にだけは自信がありますの。リジー、あなたの耳が優れているように」

 暗闇のなかにあって、なぜかフィアンナがにっこりと微笑んだのがわかった。

「ともあれ、わたしたちふたりとも犯人の顔は見ていない、ということですね」

 運がよかった、とリジーは暗闇を睨みながら思う。顔を見ていたら気絶ではすまなかったかもしれない。いまはお互いが無事であったことを喜ぶべきなのだろう。

「こんな状況ですが、けがもなくてよかったと思いましょう」

「はい」

 うなずく声にほっとする。こんな状況に陥ったというのに、とり乱した様子もない。おかげでリジーも、混乱はしているが比較的冷静でいられた。

 大事な顧客であるフィアンナまで危険に晒されることになってしまったが、本音を言えばひとりでないのがありがたかった。おかげで、「あきらめる」という選択肢だけは最初から除外できる。

「どうやらわたしたち、何者かに閉じこめられたようです」

おそらく三つあった貨物室のうちどれかに、だ。そして幸いなことに――と言っていいだろうが、リジーとフィアンナをここに閉じこめたやつらの姿は今はない。

「経緯は思い出しましたけど、でもわたくしたち、なぜ閉じこめられることになったんでしょう?」

 フィアンナの質問に、リジーは言葉につまる。それは、とこたえかけて口ごもった。

 推測はできるが有力な根拠はない。何よりフィアンナをいたずらに恐がらせたくはなかった。リジーの沈黙をどう感じたのか、フィアンナが訊ねた。

「まさか、身代金目的の誘拐でしょうか?」

「……ええと」

 フィアンナの身なりを見れば、ひと目で裕福な人間だとわかる。しかも彼女は一等客室の客だ。その可能性はゼロではない。

「もしくは人身売買とか?」

 リジーはともかくとして、フィアンナは見目麗しい令嬢だ。絶対にない、とも言い切れない。

 ただしどちらも、列車のような閉鎖空間で行うにはふさわしくない気がする。線路上を走っているあいだ、犯人にはどこにも逃げ場がないのだから。

「まさか、わたくしがアイビスの人間だと知っての狼藉なのかしら。父はあちこちに事業の手をのばしているから、敵も多いとロデリックが言っていました。もしそうならわたくし……!」

 悪い想像ばかりふくらませるフィアンナの暴走を、リジーはあわてて止めた。

「落ちついてください、フィアンナ。まだどれも、そうと決まったわけではありません。原因究明はあとまわしにしましょう」

「ごめんなさい、リジー。わたくしのせいで……」

 ついにその声が涙声になったので、リジーはぎょっとなった。

「どうしてフィアンナのせいになるんですか!?」

「だって、もとはといえば、わたくしが機関室を見てみたいなどと言ったせいですもの。あんなわがままを言わなければ、今ごろわたくしたち――」

「それを言うなら、止めなかったわたしも同罪です。むしろお客さまをこんな事態に巻きこむなんて、添乗員失格だわ!」

 むん、と気合を入れ、リジーは闇の中で憤然と身を起こした。両手足をしばられているが、腹筋の要領だ。体を動かしたのが気配でつたわったのだろう、フィアンナも身じろぎしたのがわかった。

「でも――」

 ああもう、とリジーはかぶりをふった。

「いまは落ちこんでいる場合じゃありません! とりあえずここから脱出することを考えるんです!」

 怒っているわけではなく、気合をいれるためにリジーは叫んだ。なにもしないであきらめるのは、リジーがもっとも嫌いなことだ。

「けれど、わたくしたちは手足をしばられてますわ。いったい、どうやって?」

 そう、まずはこの忌々しい縄だか紐だかを切るところからだ。

 リジーは今の自分の手持ちのものを頭の中でおさらいした。幸いにして、ピン、と閃くものがあった。

「大丈夫。打つ手はあります」


        ◇


 パティを肩に乗せたまま、ロデリックは足早に客室車両を通りぬける。その途中の通路で、クラレンス語で怒鳴りあっているふたり組の男とすれちがった。

『どういうことだ、まだ見つからんとは』

『これだけ探してもいないということは、乗っていないのではないか?』

『ありえん。あの人間が乗りこんだのはまちがいない。仲間が確認している』

『まさかとは思うが、……列車から飛び降りたなどということは』

『ばかを言うな!』

 早口で聞きとりがたかったが、どうやら自分のほかにもだれかを探している人間がいるらしい、ということはわかった。失礼、と母国エルシオン語で声をかけ、男たちの横をすり抜ける。

 ロデリックが目指しているのは展望車両だった。展望車両はなかから景色を観られるのはもちろん、設計上、車体の屋根にのぼって景色を眺められるようにもつくられている(列車が通常の走行速度で走っている場合、使用されることはまずないが)。

 食堂車両のドアを開け、デッキに立ったロデリックは、視界の端に妙なものをとらえ、眉をひそめた。

「ん?」

 展望車両の屋根に、なにかが――否、だれかが、いる?

 まさかと思いつつ、吹きつける走行風に注意しながら、車体の外側にとりつけられたはしごを急いで登った。

 顔を屋根上に出した瞬間見えたものに、ロデリックは息を飲んだ。

 屋根の上に、奇妙な人間が立っていたのだ。走行列車の上にあがろうというだけでもずいぶんな酔狂だが、その人物は風体からして珍妙のきわみだった。

 なにより度肝をぬかれたのは、男が背負った巨大な風船のようなものだ。

 風船といってもゴム製ではなく、かなり丈夫な――たとえばキャンバス地とかそういった布地でつくられているらしい。布風船にはベルトがついており、男はそれを背嚢か何かのように背中にしょいこんでいた。風船は縫い目のせいか多少いびつな球体で、大きさは人間の背中からはみ出すほどである。

 ロデリックは謎の男の足もとに、蓋の開いた巨大なトランクが置かれてあるのに気がついた。推測だが、おそらく男が背負っている風船こそがそのトランクの中身だったのだろう。

「イタ、アイツ! デカメオトコ!」

 突然パティに耳元で喚かれ、ロデリックは仰天した。危うくはしごから手をすべらせるところだ。

「でかい目の男って、こいつのことか!」

 たしかに、色のついたガラス眼鏡が、鳥には大きな目に思えたのかもしれない。

 その目でか男は、パティの喚きにびくりとし、背中を猫背のように丸めてこちらをふり向いた。

「そこのきみ、驚かすのはなしにしてくれたまえ。足をすべらせて落ちてしまったらどうするのだ」

 そんなことは知るか、と思った。だいたい驚かせたのはロデリックではなくパティである。

 はずみをつけ、ロデリックは一気に屋根の上にのぼった。向かい風と機関車両からの煤煙をまともに受け、体がふらつく。パティが風に飛ばされまいと、ロデリックの肩に足の爪をさらに食いこませた。痛みに顔をしかめたが、致し方ない。

 一歩間違えれば転落、かつ即死の恐怖に肝を冷やしながら、しっかりと二本の足で屋根を踏みしめる。身を低くし、屋根に両手両足をついたほうが安全な気がしたが、怪しい男がああして立っているのに、自分だけ四つんばいになるのはロデリックの矜持が許さなかった。

「おまえがリジーの部屋に侵入したやつだな。リジーとフィアンナをどうした!」

 ばたばたと耳元で鳴る向かい風にかき消されないよう、ロデリックは声をはりあげた。

「? なんの話だ?」

「とぼけるな。おまえがふたりをかどわかしたんだろう!」

「私が誘拐? ご婦人をふたりも? ばかを言わんでくれ」

 ロデリックの詰問に、彼は両手を広げ、肩をすくめるポーズをとる。風上にいるせいか、相手の声はよく通った。

「見てわかるだろうが、私のこの体のどこにも、人間をふたりも隠しておく場所などないぞ」

 たしかに、この男は両脇に人間ふたりを抱えているわけではなかった。しかし、どうにも潔白だと思えないのは、ふざけた格好のせいだろうか。

 護身用のために持ち歩いている小銃を部屋においてきたのは失敗だった。今さらのように気づくが、もう遅い。

「どこかに閉じこめたのか?」

「ちがうと言うのに」

 呆れたように鼻を鳴らすと、男はその場にしゃがみこみ、蓋が開いたままのトランクをバタンと閉じ、すっくと立ち上がった。

「じゃあ、なぜリジーの部屋に勝手に入りこんでいたんだ。列車強盗か?」

「失敬な。私はただ彼女に匿ってもらっていただけだ」

「匿うだと?」

 今度はロデリックが面食らう番だった。なぜかひたすら、この男とかみ合わない会話をしている気がする。

「リジーはおまえのことを知っているのか?」

「もちろんだとも。それに私は泥棒ではない、大発明家だ」

「発明家?」

「大、を忘れずにつけてくれたまえ。……おっと、見知らぬ若き紳士よ、残念だが時間切れだ。私には先約があるのでな」

 ――時間切れ?

 自称発明家の台詞にはっとなった。視線を列車の進行方向にむける。緩やかに蛇行していた線路が直線に変化し、その直線上に見えるのは、ゼームス河とその上に架かる石の橋だ。

 まるで鏡のように、空の薄い青を反射しているその川面を見た瞬間、まさかという考えが脳裏に浮かんだ。

 ――この男、もしかして。

 男がロデリックをふり返り、にやりとくちびるの両端を吊り上げた。色眼鏡をつけているため、その瞳はうかがえない。だが、男が笑ったのはわかった。

「さらばだ、紳士よ」

 走行風にまじって聞こえる、規則正しい列車の振動音が変化した。先頭の機関車両が橋に差しかかる。

「待て!」

 叫んだが遅かった。

 車両が橋の上に差しかかったと同時に、トランクをかかえた男は屋根の上で助走をつけ、走る列車の上から飛びおりた。

 ブシッと熱い蒸気の噴き出すような音が聞こえ、男が背中に背負った布の球体が奇妙な形にゆがんだ。だがそれはほんの一瞬で、男のからだはそのまま真下の川に向かって落下していった。

「――正気か!」

 毒づき、ロデリックは急いで屋根のふちまで駆け寄った。のぞきこんだ瞬間、石橋のはるか下、ゼームス河に盛大な水柱が上がったのが見えた。

 安否を確認する間もなく、車両はほんの数十秒で石橋を駆けぬけた。男の体が川面に浮かんだかどうかまでは見えなかった。

 ふつうなら生存を疑うところだ。だが、最後に見たあの男の、余裕を感じさせる笑みが脳裏にちらついた。からのトランクは水面に浮きやすいので浮き輪の代用品になる。本人には勝算があっただろう。

「くそっ、逃がした」

 いらだちを隠せず、ロデリックは自分のこぶしを強く握りしめた。

「だが、あの男の仕業じゃないなら、ふたりはどこへ行ったんだ」

 謎の男は誘拐犯ではないと言っていたし、実際ふたりの行方など知らないようだったが、リジーたちがなにかの事件に巻きこまれたのはまちがいない。

 あとは車掌たちがなにかの手がかりを見つけていることを期待するしかないのか。ロデリックが唸っていると、ふいに肩にとまったままおとなしくしていたパティがくわっと嘴を開いた。

「リジー!」

「っ! いきなり耳元で叫ぶな! なんだ、どうした!?」

「パティ、ヨンデル!」

「呼んでる? リジーの声でも聞こえるのか? どこからだ」

「コッチ」

 パティはロデリックの肩を離れ、バサバサと羽ばたいて進行方向に飛んだ。ロデリックも急いでそのあとを追う。パティは展望車両のすぐ前に連結された車両を示すように、「ココ、ココ!」とくり返した。

「リジー、オト、キコエル!」

「あの車両は――」

 ロデリックは屋根の上に片膝をついて下をのぞきこんだ。ふつうの旅客車両とは明らかに外装の異なった車両である。そうか、と膝を打った。

「貨物車両!」


        ◇


「まずこの縄だか紐だかを切らなくちゃ。フィアンナ、協力してくれますか?」

 薄暗闇のなか、力強く断言したリジーに、フィアンナが光明を見出したような明るい声をあげた。

「ええ、もちろんです」

「じゃあ、まずはフィアンナ、その体勢から起き上がってください」

「やってみます、わ」

 リジーの問いに、しばらくばたばたともがいている様子がつたわってくる。

「……ごめんなさい。むりそうです」

 むう、とリジーは唸った。しかしあきらめるのは早い。

「じゃあ、その格好のままでわたしのほうに近よれますか?」

 今度は即座に衣擦れの音がした。

「なんとかできそうです。芋虫のように、そちらに這ってゆけばいいのですね?」

「ええ」

 闇のなかで、ずりっ、ずりっとフィアンナが体を移動させる音が響く。一度、ガタンとおおきく列車の車体が跳ね、きゃあ、とフィアンナが悲鳴をあげた。

「だ、だいじょうぶですか?」

「はい、もうすこし……」

 からだを揺さぶられたリジーも危うく倒れるところだったが、なんとか床に転がるのは免れた。

 ほどなくして後ろ手に縛られた指に、やわらかいスカートらしき布地が触れたのがわかった。

「とまって。フィアンナ、わたしはいま半身だけ起こした状態でいます。わたしの背中でにもたれかかるようにして、同じように上半身を起こしてください」

「わかりました」

 決然とした声には、さきほどのような不安はにじんでいなかった。よかった、と思うと同時にフィアンナの意志の強さに感心する。とても箱入りの令嬢とは思えない。

 ふたたびずりずりと体を動かす音がして、フィアンナの努力がつたわってきた。苦心の末、ちょうどいい具合のところを見つけたらしい。リジーの腰下あたりに重みがかかった。

 そのまま少しずつ体重がこちらにあずけられ、フィアンナがゆっくりと体を起こしていくのがわかった。もぞもぞとした動きがくすぐったいが、必死で笑いをこらえる。

「……っ、で、できました!」

 あがった息の合間に、フィアンナは言った。どことなく達成感のうかがえる口調に、リジーは状況も忘れて思わずほほ笑んだ。

「よくできました」

「それで、次はどうしたらいいのでしょう?」

「手首から先だけを動かして、私のスカートのポケットを探ってください」

 言いながらリジーは、フィアンナの背中に対して平行ではなく、やや垂直になるように体を動かした。ポケットはからだの側面にある。

「スカートのポケット、ですか?」

「ええ。そこに折りたたみ式のナイフが入ってます。ナイフがあれば縄を切ることができます」

 まあ、とフィアンナが驚いた声をあげる。

「なんて用意がいいの、リジー! まさかこんな事態になると考えていたわけではないのでしょう?」

「ええまあ、たんなる偶然で」

 苦笑した。

 折りたたみ式のナイフは祖父の形見だ。ナイフとして使用するというより、なかばお守りのようなつもりで忍ばせておいたのだが、それがこんなところで役に立つとは思わなかった。

「冒険家になるにはまず必要なもの」と、祖父が言っていたことを思い出す。

 ――助かりました、おじいさま。と、心のなかで祖父に感謝した。

「ポケットですわね。探してみます。……あの、それで、リジー」

「はい?」

「その、もし手が変なところに触ってしまっても、怒らないでくださいね」

 なぜかもじもじとして言うフィアンナに、リジーは首をかしげた。

「え? ああ、はい。もちろん」

「では……」

 フィアンナの手がリジーのスカートのひだをごそごそと探る。彼女が見つけやすいように、リジーも左右に体をずらした。

 悪戦苦闘の末、ここかしら、とフィアンナがつぶやき、服のポケットに手がつっこまれたのがわかった。

「何かガサガサしてるものが触れましたわ。紙、のような……」

「紙?」

 はっと思い出して、リジーはあわてた。クレインに買ってもらった焼き栗の残りだ。いまのいままですっかり忘れていた。

「あ、それはちがいます。別のポケットを」

「かたいものがあたりました。木と、金属のような」

「それですフィアンナ、とりだして。あ、たたんでますが、刃にはじゅうぶん気をつけて」

 リジーが気をもむまでもなく、間髪いれず「出せましたわ!」と歓声があがった。

「では、それを渡してください」

「わかりました」

 縛られた後ろ手に、ナイフの柄が触れる。リジーはナイフを受けとると、少し離れるよう、フィアンナに指示した。

「縄を切ります。刃があたらない位置にいてくださいね、危ないから」

 感触だけで確認し、リジーは両手で折りたたまれた刃の部分を広げる。それから手首の動きだけで、ごりごりとロープを削りはじめた。見えない場所での作業だったが、小手先の器用さには自信がある。

 リジーはほどなくしてぶつりというロープが切れる音を聞いた。

「やった!」

「すごいですわ、リジー!」

 同じように足首を縛っている縄も切る。

 自由になった両手を閉じたり開いたりしてみる。動かすのに支障はないが、やはり多少のぎこちなさを感じる。長時間縛られていたからだろう。

「じっとしててくださいね」

 手際よくフィアンナの両手両足の縄も切り、リジーは「できました」と宣言した。

「どこか痛いところは?」

「いいえ、ありませんわ。ありがとう、リジー」

「どういたしまして」

 フィアンナが自由になった手足の具合を調べている間に、リジーはさっそく貨物室の扉を調べてみた。

「……やっぱり鍵がかかってる」

 しばらくフィアンナとふたりで並んで扉をたたいたり揺らしたり、大声で助けを呼んでみたりしたが、徒労に終わった。やはり走行中では気づかれるのは難しいようだ。

「叫んでも音にかき消されてしまいますわね。どうしましょう」

 リジーは唸った。どこかの駅に到着すれば扉は開くはずだ。だが、それにはあとどれくらい時間がかかるのか。

 リジーたちのいるここは貨物車両なので、扉のほそい隙間以外に空気の通り道となるものはない。いわば密閉された空間だ。窒息死する可能性は低いかもしれないが、人間がふたりいる以上、空気が薄くなる可能性はある。やはり長時間閉じこめられるのは良くない気がした。

 リジーは次に、何度か指笛を吹いてみた。

 動物的勘でパティが主人の危機に気づいたりはしてくれないだろうか、という淡い期待を抱いたが、貨物車両から二等客室までの距離を考え、すぐに断念した。

「そうだわ、ジョン・ドゥが……」

 あの怪しい男がリジーの不在に気づけば何か行動を起こしてくれるかもしれない、と思ったのだが、それもだめだ、と首をふる。

 ――しまった、あの男は追われてるんだった。

 リジーがもどってこないならもどってこないで、これ幸いと客室をひとりじめするにちがいない。まさかあの男も、リジーが軟禁されているとは思わないだろう。

「? なにか言いまして、リジー?」

「あ、いいえ。なんでもありません」

 残る可能性はロデリックだ。彼なら、ふたりそろっていなくなったとなれば、間違いなく列車内を探そうとするはずだ。もしかしたらもう行動を起こしているかもしれない。

 体力を温存するためにも、なにもせずこのまま待つほうが得策だろうか? それとも――。

 リジーが逡巡したそのとき、ガタン、と唐突に強い揺れが貨物車両を襲った。衝撃に耐えかね、倒れそうになるフィアンナを、リジーはとっさに手を伸ばして支えようとした。

「きゃあっ!?」

「フィアンナ!」

 だがフィアンナを支えきれず、結局ふたりはもつれあったままその場に転倒してしまった。リジーは後頭部を手でおさえ、うめいた。

「いったたた……フィアンナ、だいじょうぶですか?」

 ええ、とくぐもった返答が聞こえた。リジーを押し倒すような形で胸元に顔をうずめていたフィアンナが、慌てたように身を起こす。

「きゃあ、わたくしったら! ごめんなさい、リジー!」

「だ、大丈夫です。フィアンナ、ケガは?」

「いえ、わたくしは……リジーがかばってくださったから」

 よかった、と胸をなでおろす。フィアンナに傷のひとつでも負わせたら大変だ。

 覆いかぶさる格好でいたフィアンナはリジーの上からどこうとして――、何かに気づいたように小さく鼻を動かした。小型犬のようにくんくんと鼻を鳴らし、ふたたびリジーの胸元に顔を近づける。リジーはうろたえた。

「ど、どうされました?」

「リジー、なんだか良いにおいがしますわ」

「えっ?」

 思いがけない言葉に、リジーは面食らう。香水やコロンのたぐいはつけていない。

 良いにおいがするなんて、それはむしろフィアンナ自身のことではないか。彼女からはかすかにふんわりと甘い花のようなにおいがする。そのことを指摘すると、フィアンナは首をふった。

「いいえ、香水のようなものではなくて。なにか焼いたような、香ばしいにおい……?」

 フィアンナが言いかけるのと同時に、きゅるるる、と不可解な音がすぐ近くから聞こえた。

「あら」

「ごっ、ごめんなさいっ! わたくし、その、お腹がすいて……」

 かわいそうなくらい身をちぢこめ、フィアンナがうつむいた。暗いから顔色まではわからないが、おそらく真っ赤になっているのだろう。しかしそれも仕方ない、本当なら今ごろはとっくに昼食をとっているはずだったのだから。

 リジーはくすっと笑った。フィアンナの鼻が利くというのは本当らしい。

「いいものがありますよ」

「え?」

 身を起こしながら、ナイフを忍ばせておいたのとは別のポケットに手をつっこんだ。なかから新聞紙を丸めたつつみをとり出し、フィアンナに渡す。

「焼き栗です。冷めてしまってるけど、お腹の足しにはなると思います」

 まあ、とフィアンナは驚いた。

「食べものまで出てくるだなんて! まるで魔法みたい」

 目を輝かせるフィアンナに、偶然です、とリジーは笑った。クレインの気配りのおかげだ。

 フィアンナがむき栗を食べている間、ふたたび強い揺れが車両を襲った。だが、今度の揺れはさきほどとは違った。おそらくブレーキだろう、列車の速度がどんどん落ちていくことが体感でわかる。

「助かりました! 停車するようです」

どこかの駅に到着したなら、貨物車両の扉が開かれる可能性は高い。だが問題は誰がこの扉を開くのか、である。

「誰か、助けに来てくださるでしょうか」

「心配しないで。きっと大丈夫です」

 不安のにじむ声で名を呼ぶフィアンナに、リジーは笑顔で答えた。

 薄暗くてよかった。ちゃんと笑顔をつくれているかどうか、あまり自信がない。リジーはひそかに折りたたみ式ナイフをにぎりしめ、フィアンナを背中にかばうようにした。

 ――何があってもわたしが守らなきゃ。

 内心で決意する。リジーは添乗員だ。お客さまの身の安全を守るのも、わたしの仕事だ、と。

 そのとき、ゴトッと音がして、貨物車両の扉がわずかに動いた。

「……!」

 リジーとフィアンナは同時に息をのみ、ふり向いた。たてつけが悪いのか、がたがたと音を鳴らしながら、扉が両側へと開かれていく。

 暗闇に慣れた瞳には、外界の光はおそろしくまぶしかった。逆光で影になった人物は、車両のすみで身をよせあっているふたりにすぐに気づき、安否を尋ねた。

「ふたりとも、無事か!」

「「ロデリック!」」

 リジーとフィアンナが同時に声をそろえる。ロデリックの背後には車掌の制服を着た人物が何人かいて、みな一様にほっとした顔を見せた。

 そして驚いたことに、ミツケタ、と歓喜の声を上げ、リジーの胸元に飛びこんできたのは一羽のヨウムだった。

「リジー、イタ、ヨカッタ!」

「パティ!」

 リジーの肩にとまり、すりすりと顔をよせてくるパティの頭を撫でてやる。嬉しかったが、どうしてここに、と驚いた。

「もう大丈夫ですよ、お嬢さまがた」

「けががなくてよかった」

 暗い貨物室からひっぱり出され、あたたかい毛布で体をくるまれて、ようやく助かったという認識がじわじわと沸いてきた。緊張と、冷たい床に転がされていたのとでこわばっていた体がほぐれ、不覚にも膝から崩れそうになる。

「リジー、わたくしたち、助かりましたわね!」

「……ええ」

 抱きついてきたフィアンナを、リジーはなんとか支えた。ただただ嬉しそうな彼女の様子に、リあらためて安堵する思いだった。

 ――よかった。フィアンナに何事もなくて、本当によかった。

 その気のゆるみがいけなかったのか、

 ――ぐううう。

 その瞬間、まったく予期せぬ大音声があたりに轟いた。

 一同があっけにとられて見守るなか、当のリジーだけが顔を真っ赤にし、毛布の谷間に顔をうずめる。穴があったら入りたいとはこのことだ。

「まあ、リジー。おそろいですわね」

 嫌味ではなく、まったく無邪気にフィアンナが言ったのがなおのこと恥ずかしい。

 盛大に空腹を訴えたのは、リジーの腹の虫だった。


        ◇


 列車が到着したのはエルシオンの首都・ワーナー市の中央ターミナル駅だった。

 前もって電信で連絡を受けていた鉄道警察の人間が数人乗りこみ、すぐに捜査をはじめたが、残念ながらリジーとフィアンナを昏倒させて監禁した怪しい人間たちは見つからなかった。背後から襲われたために、ふたりともその犯人を目撃したわけではなかったので、警察も捜索には難儀したらしい。

 貨物車両の積荷も改められたが、怪しいものはなく、盗難の被害にあったわけでもないようだった。

「まあ……、それじゃあ列車強盗ではなかった、と」

「はい」

 恐縮した態でうなずいたのは、年かさの車掌である。

「では、なぜわたくしとリジーは襲われたりしたのでしょう?」

「それが、私どもにもさっぱりで」

 ハンカチで額の汗を拭きながら、車掌はひたすら平身低頭していた。

 予期せぬ事件のため、《空飛ぶ貴婦人》号の乗客たちは数時間ワーナーに足止めされることになった。混乱を避けるという理由で、リジーたち以外の乗客には、運転上のトラブルがあったと伝えてある。当然のことながら、事実を知らない一部の客からは非難の声が上がり、ひと悶着あったものの、いまはなんとか落ち着いた状態だ。すでに《空飛ぶ貴婦人》号は隣国クラレンスに向けてワーナーを出発、灰色の街並みをぬけ、いまは牧草地帯を走っているところだ。太陽は没しかけているが、あいにくと雲にさえぎられて見えなかった。

 鉄道警察の人間に事情聴取を受け、念のために駅の医療員に診てもらったあと、リジーとフィアンナはそろって一等客室のロデリックの部屋に移動していた。パティは一連の騒動ですっかり疲れてしまったらしく、化粧台の上でこっくりこっくりと舟をこいでいる。

 リジーたちが座るテーブルにはうわさに名高い夕食ディナーがならんでいた。ポテトの冷製スープ、サラダ、鳥のロースト、デザートに二種類のケーキと紅茶と種類も量も豊富である。本来なら食堂車でとるべきだが、他の客の目が気になることもあり、無理を言って客室に食事を運ばせたのだ。

 一等客室車両の入り口には守衛のように客室乗務員が直立不動で立ち、リジーや他の乗客たちがまたおかしな目にあわないよう、目を光らせている。万が一、怪しい人間が列車内に残っていたとしても、不用意に襲われることはないはずだった。

「積荷は減っていなかったということだな」

 念を押したのはロデリックだ。

 三人で遅い夕食を進めながら事情を話しあっているところへ、車掌たちが頭を下げにやってきたのだった。

「はい。あの貨物車両に積んでいたのは食材や予備の毛布などで、それ自体に値打ちのあるものはほとんどないのです」

 そう言ったのは、貨物室の扉が開いたときに、ロデリックのうしろにいた若い車掌である。ロデリックは眉間にしわをよせた。

「盗まれてもさほど困らない、ということか?」

「いえ、もちろん盗難にあえば私どもは困りますが……、相手が列車強盗だったとして、この閉ざされた空間のなかで盗みを働く危険リスクを考えれば、あまり採算がとれるものではないかと」

 ひかえめに自分の考えを述べる車掌に、なるほどな、とロデリックはうなずく。

「じゃあ、ますます変ですわね……わたくしやリジーを気絶させて閉じこめるまでしたのに、何もしなかったなんて」

 リジーは無言のまま紅茶のカップをかたむける。口をはさむ気にはなれなかった。

「ひきつづき鉄道警察の方々には捜査を依頼しております。終点のルノに着くまで、わたくしどもも二度とこのようなことがないよう、重々目を光らせます。ので、どうか……」

 車掌の婉曲な言い回しに、ロデリックはわかった、と手をふった。

「ことを必要以上に荒立てることはしない。ただ、鉄道警察に対して虚偽の報告をしたり、逆に捜査情報を隠し立てするのはやめてくれ。きみたちのせいではないが、こちらも被害を受けている。身元の怪しい人物のために、我々だけでなく、ほかの乗客にも被害が及ばないよう手を尽くしてほしい」

「はいっ、も、もちろんですっ!」

 ふたりの車掌は恐縮した態で背筋をのばし、ぴしりと敬礼した。

「このたびはまことに申し訳ございませんでした」

 そろってお辞儀をすると、彼らは諸々の雑務をこなすためだろう、早々に退去した。

「……リジー? どうなさったの、顔色が悪いですわ」

 フィアンナが横から顔をのぞきこむようにしたので、リジーははっと顔をあげた。

「あ、ごめんなさいフィアンナ。マイルズ社のほうでも早急に損害保証の手配を――」

 リジーが言いかけたとたん、フィアンナは「まあ」と頬を紅潮させた。

「そんなことが言いたいのではありませんわ! わたくし、あなたを責めるつもりは毛頭ありませんもの」

「え? でも、当初の予定からも大幅に遅れていますし、現時点でも損害賠償の手続きをとるには充分な被害が――」

 今度はロデリックが首をふった。

「きみたちを襲った連中はまだ捕まってないんだ。今は責任の所在をどうこうするべきではないだろう。それに、実際きみも被害にあった側じゃないか」

「いえ、そういうわけにはいかな――」

「依頼者のわたくしが、責任を問わないと言っているのです。それで納得しては下さいませんの?」

大きな碧眼がにらむようにこちらを見つめ、リジーはひるんだ。

「まさかここまで来てやめるだなんて仰いませんわよね。わたくし、あなた以外の方に旅の同行をお願いする気はありませんから」

 それだけ言うと、フィアンナは拗ねたようにプイとあさってのほうをむいてしまった。それから、楚々としていながらも猛然とした勢いでデザートのムースケーキを口に運びはじめる。

 リジーはロデリックと顔を見合わせた。彼は触らぬ神にたたりなしとばかりに肩をすくめ、カップをソーサーにもどした。

「しかしまあ、なんにせよ気絶程度ですんでよかった」

 やれやれとばかりにため息を吐く。ロデリックもリジーたちを探してほうぼう駆けずり回っていたのだ。疲労困憊しているのも無理はない。

「拘束時間を考えれば、殺されたっておかしくはなかった。むしろそのほうが犯人たちには楽だったはずだ」

「死体の処理が面倒だったからでは?」

 当事者にも関わらず、物騒なことを口にしたのはリジーだ。

「そうかな? 処理だけを考えれば、気絶させたあと息の根を止め、列車から捨てるのが一番てっとり早い。……だがまあ、昼日中では目立つ公算も高いか。なにより、発覚したあとの騒ぎが面倒だしな」

「走行中の列車から遺体を捨てるなんて非道は、さぞかし新聞でも大々的にとりあげられたでしょうね」

「場所が場所だからな。国際列車という性質上、問題が国家間まで発展することになりかねない。ましてや殺されたのが貴族の娘ともなれば」

「では、わたくし、さっさと気をうしなって助かりましたわね」

 少しは機嫌がなおったのか、妙な合いの手を入れてきたのはフィアンナだ。

「相手を見ていれば、捜査の手がかりにはなったがな」

「それは無理ですわ。警察の方にもお伝えしましたけど、貨物車両は薄暗かったですし、わたくしもリジーも背後から襲われて気絶してしまったんですもの」

「だが、貨物室にいたのが男だということはわかったんだろう?」

 ロデリックがリジーに視線を移す。リジーはうなずいた。

「はい。ただ、うしろ姿でしたし……すぐに気絶してしまったので、特徴もよく覚えていないんです。黒っぽい服を着ていた、ということぐらいしか」

「それだけではとても手がかりとは言えないな」

「あ、そういえば。手がかりといえるかどうかわかりませんが、妙な点がひとつだけありました」

 フィアンナが人さし指を顔の前に立て、にこりと微笑んだ。

「なんだ?」

「『エーテル』です」

 フィアンナの返答に、ロデリックは眉を動かす。

「エーテル? 麻酔手術に使う薬品のか?」

「そうです。わたくし、それで気絶させられたのですわ。ただの列車強盗が、そんなものあらかじめ持っているとは考えにくくありません?」

 ロデリックはフィアンナと目線を交し合った。

「たしかに、一般の人間が簡単に手に入れられるものではないな。間違いないのか?」

「わたくしの鼻の良さはご存知でしょう。あんな特徴的な匂いを間違えるはずありません」

 自信たっぷりに断言し、フィアンナは胸をそらした。ロデリックは思案げに顎を撫でたあと、今度はリジーに視線を移した。

「――ところで、リジー」

「はい」

 彼の声の調子がどことなく詰問口調に変化したのに気づき、リジーは思わず背筋を伸ばした。

「何か俺たちに隠していることはないか?」

 とっさに返答につまった。隣でフィアンナが驚いた顔になる。

「リジー?」

 即答できなかった時点で、隠し事があると認めたも同然だった。リジーがなにも言わないのを見て、ロデリックがため息をつく。

「きみに匿われていたという、おかしな格好をした男に会った」

「えっ!? どこでですか!」

「屋根の上でだ」

「屋根? って、列車の屋根ですか?」

 予想外の言葉にリジーは目をまるくする。

 ロデリックはリジーたちを救出するまでの経緯を手短に説明した。

「と、飛び下りたんですか、その男! ゼームス河に!?」

 ああ、と渋面でロデリックはうなずく。

「恐らく死んではいないと思う。今の時期は水温も低くないし、あの橋の近くには村があったはずだ。男の様子だと万端準備を整えたうえで実行に移したんだろうな」

 ――そういえば、ジョン・ドゥは「首都の手前まででいい」と言っていたっけ。

 もし仮にワーナーまで列車に乗ったとしても、駅で降りるときに捕まる可能性が高い。だから文字通り途中下車したのだろう。追っ手を撒くために。

 ゼームス河はワーナーの街まで繋がっているし、支流はさらにクラレンスまで続いている。大都市のワーナーまでたどり着けば、あとはどういう交通手段を使おうが、西大州のどこへでも逃げられる。

「そうだったんですか……こう言ってはなんですけど、騙されました」

 正確に言うと、頭から信じていたわけではないので「騙された」とは違うのだが。

 しかしそうまでして逃亡をはかったのなら、少なくとも「追われていた」という彼の話は事実なのだろう。たとえ変人でも、無賃乗車のために命をかけるような阿呆には見えなかった。

「パティがあなたといっしょにいた理由もわかりました。あまり他人には懐かないのに、ふしぎに思っていたんです」

 リジーは化粧台の上でおとなしくしているパティに視線をやり、ロデリックがつかまえてくれて本当によかった、と思った。ヨウムの帰巣本能にも距離的な限度がある。下手をすれば今ごろどこかの空をふらふらとさまよい、いずれは死んでいただろう。

「ありがとうございます。助かりました」

 しかし走行列車の窓から鳥を放つとは、ジョン・ドゥも無茶なことをしてくれる。今度もしどこかで出会ったら、絶対足の甲をかかとで踏んでやる、とリジーは心に決めた。

「気にするな。じゃあ、今度はきみが事情を話してくれ」

 うなずき、今度はリジーがジョン・ドゥを匿った――つもりはないのだが、結果的にそうなった――経緯を話した。

「まあ、どうしてそんな面白そう……もとい、重要な秘密をいまままで黙っていらしたの!」

 案の定、聞き終わるなりフィアンナは憤慨した。せっかく機嫌がなおったと思ったのに、また怒らせてしまった。リジーは首をすくめ、ごめんなさい、と謝った。

「巻きこむわけにはいかない、と思って」

「巻きこむとか巻きこまないとか、そういう問題ではないでしょう!」

 ごもっともである。リジーはさらに身をちぢこめた。

「わたしたちが軟禁された原因が、あの男にあるかもしれないと疑っていたんです。いまとなるとその可能性も低い気がしますけど」

 リジーたちを襲ったのは複数だった。彼らとジョン・ドゥが無関係とは言いきれないが、まさかリジーの部屋を独占するためにふたりを閉じこめたとも思えない。

「俺もあの男は犯人ではないと思う。よほどの演技者なら話は別だが。――ああ、そうだ。俺も思い出した」

 突然なにかに気づいたようにはっとして、ロデリックはごそごそと胸ポケットから紙切れをとり出した。

 よれよれになったものを再びのばして平らにしたようなその紙片には、文字が走り書きされている。ひどく見づらかったが、手渡されたそれをリジーは声に出して読んだ。

「ルノ、博覧会、陶磁器? それに、最後に書かれたこの記号は……。ロデリック、この紙はどうしたんですか?」

「パティの足に巻いてあった。だから俺は最初、きみが伝書鳩のようにパティに伝言を託したのかと思ったんだ。きみの字ではないんだな?」

「ええ、わたしじゃありません。ということは……」

 残る可能性はひとつしかない。ジョン・ドゥのしわざだ。

「どういうことかしら。ルノに行けばなにかがわかるということ?」

 紙片を手にしたまま首をかしげる。横に座るフィアンナがひょいと手元をのぞきこんできた。

「リジー、この最後にある変な模様みたいなの、これはなんですの?」

 一見するとなにかの記号か絵文字、もしくは単なる落書きのようにしか見えない。だが、リジーの脳裏にひっかかるものがあった。

「これはバルテス数字バルテシオンです」

「バルテシオン?」

 文字通り、バルテスという古代王国で使用されていた数字のことだ。バルテス文明には「文字」はなく、三十ニまでの数字のみが暦や文献などに残されている。考古学者、もしくはリジーのように個人的に言語を勉強している者ならいざ知らず、一般の人間はまず知らないものだろう。

「その数字がルノ万博とどう関係があるんですの?」

 リジーは首をふった。

「……わかりません」

「しかし、意味のない落書きをわざわざ残していくようなことはしないだろう。そのメモにどういう意味があるのかわからんが、行けばわかるんじゃないか? 俺たちも目的地はルノ博なんだし」

「そうですね」

「ふふ、わたくし、なんだかわくわくしてきましたわ」

 唐突に、瞳をきらきらと輝かせたフィアンナがそんなことを言ったので、リジーはロデリックと顔を見合わせた。

「知らない道の角を曲がって、はじめての土地に出たときみたいに。こういう予想外の展開があってこそ、旅行の醍醐味が味わえるというものではないですか!」

 ああ、またはじまったかと言わんばかりの態で、ロデリックは首をふる。

「あのな、監禁までされておいてなにを言っている。そりゃ旅に予想外の展開はつきものだが、できればこういう面倒事は勘弁してもらいたいぞ、俺は」

「まあ、つまらないことを言いますのね、ロデリック。リジーはどうですの? これぞ冒険という感じがしません?」

 冒険。

 その単語がリジーの脳裏に浮かんだとたん、なにかがカチリと音をたててはまった気がした。

「冒険! たしかに、これぞ冒険と思えば!」

 拳をにぎりしめ、リジーはその場にすっくと立ち上がった。勢いよく正面に立たれて、ロデリックは思わず上体をひく。

「うっ、リジーにまで変な火がついた」

「ええ、これぞ冒険の醍醐味ですわ! ですからどうか、自分を責めないでくださいね、リジー」

「! フィアンナ……」

「貨物室を脱出してからも、ずっと浮かない顔をしてらっしゃるんだもの。責任感の強いあなたのことだから、きっととても気に病まれてるのでしょうけど、わたくしはそんなあなたを見ているほうが辛いですわ」

 リジーは押し黙った。本当にフィアンナは他人のことをよく見ている。

「マイルズ社で最初にお会いしたとき、お金に目を輝かせていたあなたのほうが、今よりずっと素敵でしたわ」

「…………」

 一気に力がぬけた。

 リジーはすとん、といすに腰をおろす。ふいにフィアンナが手をのばし、こちらの手をとったので、リジーは面食らった。

「リジー。わたくしの出した最後の条件、覚えていらっしゃる?」

「ええ。……ええ、もちろん」

 忘れてなどいなかった。フィアンナの出した第一の条件は『リジー』だ。

「でしたら、わたくしの旅が終わるまで、最後まで面倒を見てくださると約束してください。途中で投げ出すだなんて許しませんわよ」

 ようやく、彼女がなにに対して怒りをあらわにしているのか――否、恐れているのかがぼんやりとわかった。リジーはフィアンナの手をぎゅっと握りしめる。

「もちろん。この旅行はわたしが企画して、わたしがおふたりをご案内する旅です。最後までお供します」

 その答えにほっと安堵の息をついたのはフィアンナだったか、リジー自身だったか、それともふたりのやりとりを横で見守っているロデリックだったか。

「ありがとう、リジー。わたくしのわがままを聞いてくださって」

「いいえ、お礼を言うのが早すぎます。まだ現地にさえ着いていませんよ」

「ええ。でも言っておきたかったんですわ。わたくし、旅がこんなに予想外で楽しいものだなんて知りませんでしたから」

 リジーはようやく肩の荷がおりたような気持ちで、かすかにほほ笑んだ。

 ありがとうございますと口にしかけ、自分がたった今、それはまだ早いと言ったことを思い出した。礼の言葉は、旅の終わりまで大事にとっておこう。おふたりをロセターまでつれて帰ってから、こころをこめて伝えるべきものだ。

「ではわたしも、その言葉を旅の終わりにもう一度言っていただけるよう、精一杯尽力します」

 フィアンナはほほ笑んだ。花のような笑みだった。

「はい。つきあって下さいね、リジー。――最後まで」



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