第二章 空飛ぶ貴婦人(前)


 【空飛ぶ貴婦人】――エルシオンと隣国クラレンスを結ぶ長距離鉄道、その上を走るのが《空飛ぶ貴婦人》だ。現在も現役で西大州を横断する彼女は、ただ迅速にわたしたちを異国へ運んでくれるだけでなく、高級ホテルに勝るとも劣らないサービスと思い出を提供してくれる。

               リージェン・クック著『淑女のための旅行書』より



 首都へむかう路線を有する中央ロセター駅は、早朝から人の出入りが多かった。

 エルシオンのちょうど中心に位置し、東西南北どこへ行くにも比較的便利な路線を複数かかえるロセターは、エルシオン国内でも屈指の巨大駅舎を有している。

 さんさんと光の降りそそぐ、ドーム状の巨大な屋根。幾本もの線路が走るホームとホームのあいだはゆったりとして広く、そこをさまざまな人々が押し合い圧し合いするように行き来している。駅舎の前には箱型馬車や荷馬車などが停まり、人間や積み荷の上げ下ろしなどが絶えず行われていた。

 トランクやカバンを山ほどのせた荷車がガラガラと通り過ぎる横をすり抜け、リジーは目前に停車する車両をうっとりと眺めた。

 長距離を昼夜かけて走るために寝台の備えつけられたそれは、フリュステルン社によって設計されたばかりの真新しい客車だ。品の良い濃紺の外装には金ぶちのラインが走り、車体の中央には、真鍮製のフリュステルン社の紋章が誇らしげにかかげられている。

 威風堂々としたその姿は、たしかに千里の線路みちでも走破できようと思わせた。開発者たちが誇りをこめて《空飛ぶ貴婦人》と呼ぶのもうなずける。

が、同時にこの貴婦人、濃紺の車体が遠目には黒く見えることから、庶民層には《豪華な未亡人》という、どこか不吉な愛称あだなで呼ばれてもいる。

「近くで見るとまさに貴婦人の異名もうなずける気品ね」

 リジーはほれぼれとため息をつく。

 市井の人間がからかい半分、やっかみ半分に呼ぶ《未亡人》は、厨房つきの食堂車が一台、一等・二等・三等の寝台車がそれぞれ一台ずつ、展望車両が一台、食糧や酒類をつみこんだ荷物車一台、さらに石炭が山ほどつまれた炭水車一台からなる全八両編成だ。これに区画間を走る車両が連結され、そのたびに車両が増えたり減ったりする。

 いまからこれに乗り、異国の土地へと足を運ぶのだ。

 ――ああ、なんだかわくわくする。

 旅の前というのはどうしてこう、そわそわとして落ちつかない気分になるのだろう。好奇心と、ほんの少し不安の入り混じった昂揚感で、自然にやにやと口元がゆるむ。地続きの隣の国へ行くのですらこうなのだ。もし世界の裏側へ行けるとしたら、いったいどんな気持ちがするのだろう。

 ――おじいさまがあちこち旅に出ずにはいられなかった気持ちも、なんとなくわかるわ。

 目を細め、感傷的な気分に浸っていると、不意に呼ばれた。

「お嬢さま」

 ふり向くと、そこにはリジーの荷物を手にさげたクレインがたたずんでいた。

「こちらを」

 右手に持った大きめのバスケットをリジーにさし出す。中身が何か承知しているリジーは、うなずいてそれを受けとった。

「残りの荷物は乗務員にあずけました。わたくしはこのまま三等車に乗りこみますが、他に何か御用は?」

「ううん、ないわ。ごめんね、経費足りなくてクレインだけ三等車で」

「いいえ、お気づかいは無用です。――お嬢さま、こちらを」

 謝罪に首をふり、彼はリジーに新聞紙にくるまれた何かをさし出した。手に持つとほのかにあたたかいそれは、屋台で売っている焼き栗だった。

「?」

 首をかしげるリジーにクレインは淡々とこたえた。

「時間が来るまでのあいだ、小腹がすくのではと思いまして。今そこで買ってまいりました」

「そ、そう。ありがとクレイン」

「では、お嬢さま。以後は何があっても他人のふりをいたしますので」

「ええ。先に行って準備をお願いね」

「おまかせください。良いご旅行を」

 完璧な作法で腰を折り、クレインは宣言どおり三等車両にむかって歩き去っていった。

 客車の周囲にはあわただしく働く人々の姿がある。手荷物をはこぶ乗務員、老夫婦に時間を説明している車掌、かなり大きめの木箱を積み上げていく荷役たちと、その荷を確認しているらしい黒服の男たち。若い紳士が新聞売りから号外を受けとり、若い花売りが貴婦人に野菊の花束をさし出している。つり銭かなにかでもめているのか、別の人間にむかって早口に数字を訴えている異国の男もいた。

 大きなバスケットを足もとにおき、リジーは焼き栗をふたつみっつ口にはこびながら、それらの光景を見るともなしに眺める。

「リジーさん!」

 ふいに名を呼ばれてふり向くと、見覚えのある少女が大きく手をふっていた。以前見たものよりやや装飾がひかえめだが、淡い翠緑色のよそ行き着がよく似合っている。

 焼き栗の皮はくずかごに捨て、残りは新聞紙にくるんで小さく折りたたむ。スカートの隠しポケットにしまうと、リジーは急いでフィアンナのもとへ駆けよった。

「フィアンナさま、おはようございます」

「おはようございます。絶好の旅行日和ですわね」

「ええ。ロデリックさまはごいっしょではないのですか?」

「いま、わたくしとふたり分の荷物を乗務員にあずけに行っていますわ。すぐに合流すると思います」

「了解しました」

 リジーはうなずき、駅構内の時計を確認した。定刻にはまだ十分余裕がある。

「今日はお淑やかな格好をしてらっしゃるのですね。前にお会いしたときは活発な格好をされていましたけど」

 フィアンナの言葉に、よく覚えているものだとリジーは驚いた。ふだんは動きやすさを第一に考え、スカートではなくズボンという男装じみた格好をしているのだが、今日はいつもとちがい、良家の淑女のような装いだ。

「おふたりをご案内するので、付き添い女性のように見えればと思いまして。フィアンナさまに恥をかかせるわけにはいきませんし」

「あら、わたくしは恥だなんて思いませんのに」

 フィアンナは拗ねたようにくちびるを尖らせる。

「以前の姿も凛々しくて素敵でしたけど、今日の格好もお似合いですわ。とても魅力的に感じます」

「みりょ……」

 リジーはとっさに反応に困った。容姿について、むしろお世辞でさえめったに贈られたことはない。しかも、これほど見目麗しい少女からだ。

「いえその、魅力だなんて。フィアンナさまこそ、そんなに可憐でいらっしゃるのに。でも、お世辞でもうれしいです」

 ありがとうございます、と赤くなりながらもごもご礼を言うと、フィアンナはなぜかむっとしたようだった。

「まあ! わたくし、おべっかは言いませんわ。わかっていらっしゃらないのね、リジーさん。ご自分の長所を」

「ええと、わたしはほら、こんな赤毛ですし。外見からしてはねっかえりですから、男性にも倦厭されがちで……」

 ずずいとつめよられ、リジーはうろたえる。ふだん意識して自分を卑下することはないのに、買いかぶられると逆に否定したくなるのはなぜだろう。ふしぎなものだ。

「それは世の男性に見る目がないからですわ。でも、そうでない殿方もおりますわよ。たとえばロデリックとか」

「ろ、ロデリックさまですか?」

 ロデリックのような男性で、かつ見る目があるなら、それこそ自分のような人間は選ばないだろう、とリジーは思う。それこそどんな女性でも――〝従順で貞淑な〟エルシオン女性の理想とされる淑女でも――選び放題だろう。

 なんとこたえるべきか迷い、リジーはあいまいな表情になった。こちらの困惑に、引き際はきちんと心得ているらしいフィアンナは、「ところで」と視線を落とした。

「お召し物には不釣合いな、そのバスケットが少し気になりますわ」

フィアンナが指摘したのは、リジーが両手に下げた、一抱えもある大型のバスケットだ。

「ピクニックに行くようなお荷物ですけど、それはなんですか?」

「実は、これはですね」

リジーはいたずらっぽく笑ってフィアンナに顔を近づけ、そっと耳うちした。まあ、と彼女は目を見開く。

「秘密ですよ?」

 指をくちびるの前に立て、冗談めかしてそう言うと、フィアンナは真剣な顔でうなずいた。

「ええ、もちろん。誰にも言いませんわ」

 フィアンナはそれ以上言及することなく、かわりにきらきらとした瞳ですぐそばのホームに停車している《空飛ぶ貴婦人》を仰ぎ見る。

「今日わたくしたちが乗るのが、この列車なのですね」

「はい」

「楽しみですわ! こんなにすてきな客車に乗れるなんて」

「昨晩はよくおやすみになられましたか?」

「もちろん……と言いたいところなのですけど、実は興奮してあまり眠れませんでしたの」

 あらら、とリジーは笑った。楽しみに思ってもらえているなら、それはとても光栄なことだ。

「列車の旅というのは意外に体力を使いますからね。疲れたらいつでも仰ってくださいね、フィアンナさま」

「ええ」

 とフィアンナは素直にうなずいたものの、何か言いたげな顔でリジーを見つめた。

 その率直な、隠しどころなどないような青い瞳にどきりとする。女性にしてはリジーは背が高いほうだが、フィアンナとは視線が合いやすいことに今気づいた。

「? ど、どうかされましたか」

「わたくし、リジーさんのことを『リジー』とお呼びしてもかまいません?」

 驚きが一気に脱力に変わる。なんだそんなことか、と安堵した。

「ええ、もちろんですよ。フィアンナさまのお好きなようにお呼びください」

「よかった。ありがとう、リジー」

「いえいえ、お礼を言われるようなことではありませんから」

 親しみをこめたものなら、敬称なしで呼ばれるほうがずっとうれしい。むしろ丁寧に扱われるほうが落ち着かない。リジーが微笑むと、フィアンナはぱっと破顔した。

「あとそれから、わたくしのことも『フィアンナ』と呼んでくださいません? できればもっと砕けた感じで」

「えっ?」

 リジーは目を丸くした。相手はリジーの、ひいてはマイルズ旅行社の客で、しかも貴族の令嬢である。エルシオンでは貴族と平民のあいだには明確な身分の線引きがある。貴族の客が平民の添乗員に対し「呼び捨てにしろ」とは、驚くべき提案だった。

「も……申し訳ありませんが、フィアンナさま。それはできかねます」

「どうしてですの? わたくしがそうして欲しいと望んでいますのよ。顧客のわがままをきくのも添乗員のお仕事でしょう?」

 いかにも無垢に、無邪気に問われ、リジーは返答に困った。

 添乗員だからこそ、客に対し守らねばならない職業上の線引きがあるのだとリジーは思うのだが、それをここでくどくどと説明するのはためらわれる。

「わたくし、こう言ったら怒られるかも知れませんが、あなたと仲よくなりたいのです。たとえば、そう、姉妹のように」

「そんな、姉妹だなんてとんでもありません」

 恐れ多い、とあわてるリジーに、フィアンナはうるんだ瞳で訴えた。

「どうしてもいけませんの?」

 うっと言葉につまるリジーである。見つめあうことしばし。

 ――けた。

「……わ、わかり、ました。フィアンナ」

 敗北をみとめたリジーの腕にフィアンナは飛びつき、花がほころぶような笑みを見せた。香水か何かだろうか、ほのかに甘いにおいがふんわりと漂う。

「ありがとう、リジー! わたくし、実をいうと兄ではなくお姉さまが欲しいとずっと思っていましたの」

 そんな悪びれない口調で言われては、苦笑するしかない。

「わたしは兄弟がいるだけでうらやましいです」

「リジーはひとりっこなのですね」

 いいえ、とリジーはかぶりをふった。

「弟がひとりいました。でも、小さいころに病気で亡くなってしまって」

「まあ……、そうでしたの。ごめんなさい、わたくし」

 とたんにフィアンナが顔をくもらせたので、リジーは口を滑らせたことを後悔した。

「あ、もう十年以上もむかしの話ですし……思い出してかなしくなるようなことはありません。だから気にしないでくださいね」

 顔すらもう、ほとんど覚えていないのだ。思い出しても、今さらさみしいやかなしいといった感情に揺さぶられることはない。ただときどき、弟が生きていればいったいどんな大人になっていただろうか、と思うことはある。

「リジー!」

 ふいに強く腕を引かれ、リジーは面食らった。

「は、はい?」

「では、この旅のあいだだけでも、わたくしをきょうだいのように思ってください。弟ではなく妹ですけれど」

 気合のこもった瞳が見返してくる。まっすぐな思いやりが好もしくて、リジーは思わず笑みをこぼした。

「……ありがとう、フィアンナ」


        ◇


 ほどなくしてロデリックと合流し、三人は早速寝台車の乗り場へと移動した。リジーが三人分の切符を手渡し、《貴婦人》号に乗りこむ。

「では、またのちほど。様子をうかがいに行きます」

「ええ。部屋で待っておりますわね」

 階段をのぼって客車にあがると、それぞれの客室専門の乗務員が部屋へと案内してくれる。リジーはフィアンナたちといったん別れることになった。

「お客さま、よろしければそちらのバスケットもお預かりいたしますが」

 白い手袋をはめた客車専属の若い乗務員スチュワードの親切な申し出に、リジーはあわてて首をふった。

「お気づかいありがとう。でも、これはいいの」

 そして、茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせる。

「女の七つ道具よ。殿方には内緒ね」

 まだ年若い乗務員は顔をわずかに赤らめ、「は、はい」とうなずいた。

「失礼いたしました」

 そのうろたえぶりに何を想像したのか逆に問いたくなったが、やぶをつついて蛇を出すまねはしたくない。せいぜい誤解してもらうことにした。



 リジーの部屋は、一等室車両にもっとも近い二等の一室だった。

 一等客室、二等客室はともに個室もしくは二人部屋だが、三等客室は赤の他人との相部屋である。添乗員の立場としては三等で十分だろうとも思ったが、諸々の事情と、また世話をするフィアンナやロデリックに少しでも近い位置に居たほうがいいという配慮もあってそうしたのだ。

「こちらがお客さまの個室になります」

 乗務員が個室の扉をあけ、きちんと整えられた室内を示した。さすがに名高い寝台車だけあって、二等であっても壁紙からランプのデザインまですべてが洗練されたものだった。

 クローゼットにテーブル、鏡に洗面台、そして部屋ごとに付属の洗面所。調度品も高価ではないが手入れの行き届いたものが使われ、夜には簡易式の寝台になる長いすは三人がけでもゆったり座れそうなほどに余裕がある。

 リジーの旅行用トランクはすでに運ばれ、いすのそばに置かれていた。荷物を確認し、乗務員に礼を言う。

「ありがとう」

 そのとき、発車時刻をしめす駅舎の鐘の音があたりに響いた。つづいて、船舶のそれにも似た重たい汽笛が鐘の余韻をうちけすように鳴り、ゴトン、という大きな振動が客車全体を揺らした。列車が出発したのだ。

「何かご用向きなどはございませんか?」

「いいえ、大丈夫。何かあったらお呼びします」

「はい、では失礼いたします。快適なお時間を過ごされますよう」

 割り当てられた客室に入ると、リジーはすぐさま扉に鍵をかけた。いまだれかに部屋にはいられては困るからだ。

 窓の外が駅舎の風景からロセターの町のそれに変わるのを待って、リジーは手にもったバスケットの蓋をカパリと開いた。

「おつかれさま。パティ、もうしゃべっていいわよ」

 開けたとたん、中にいた相手とバッチリ目があった。パティは鳥にできるかぎりの限界まで目をくわっと開き、バサバサと羽を動かしながらリジーにむけて猛烈な抗議を開始した。

「セマイ、ツカレタ、ココキュークツ!」

「ちょっとパティ! 声が大きい!」

 全力で喚かれ、リジーは両耳をおさえる。

「しょうがないでしょ! 生きものは別料金になるんだもの。これ以上自腹切ったら足が出ちゃうじゃない」

「シュセンド!」

「なんですって! そもそもいっしょにつれて行けとわがままを言ったのはパティのほうでしょう!」

 目じりを吊り上げ、リジーは言い返した。

 経費以上の額を自腹で切ることなった諸々の事情とは、つまりはこのせいであった。

「そんなにせまいところがイヤなら、家でお留守番してればよかったじゃない! ダグやマイルズおじさまに預けることもできたのに」

 パティはとたんに喚くのをやめ、蚊のなくような声でぽつりと答えた。

「……リジー、イナイ、サミシイ」

「ああもう、まったく」

リジーはため息をついた。こういうところがあるから、ついほだされてしまうのだ。

 パティはオスカーから譲り受けた。十二歳の誕生日の朝、またぞろどこかへ冒険に出かけていたはずの祖父から届けられたプレゼントが、このおしゃべりな鳥だったのである。

 リジーの両手にあまるほどの巨大な鳥かごをクレインが差し出し、かご全体を覆っていたおおきなビロードの布をめくってみると、なかには一羽の灰白色の鳥がいた。尾だけが染められたように真っ赤な色をしたその鳥は、リジーと目が合うなりこう叫んだのだ。

「リジー! タンジョウビ、オメデトウ!」

 それがパティの第一声で、彼女は遠方にいるオスカーからの祝辞を届けるという初任務を見事にこなしたのだった。

 以来、リジーとパティは互いを無二の友としてなかよく暮らしてきた。ひとりと一羽の関係は飼い主とそのペットというより、口やかましい姉と、姉のお小言を耳をふさいで聞こえないフリをする妹――その関係はまれに逆転することもあったが――のようであった。

 リジーは自分の荷物を整理するより先にバスケットを開け、棒切れと鉢植え皿、ちいさなビスを使ってパティのための簡易撞木スタンドを作ってやった。

 窓のそばにある円卓に撞木を置き、パティに乾燥飼料を与えてから、ようやく自分の荷物をほどきにかかる。着替えはハンガーにかけてクローゼットにつるし、水回りの確認もした。

「よし、かたづけ終わり。一度おふたりの様子をうかがいにいかなきゃ」

「パティ、オルスバン?」

「ちょっとのあいだだけね。誰かがノックしても絶対に返事しないこと。いちおう鍵はかけておくけど、もし誰か入ってきたら剥製のフリ。できる?」

「マカセテ! パティ、カシコイ」

「知ってるわ。じゃ、よろしくね」

 頼もしい返答にくすっと笑って、リジーは自分の個室をあとにした。



 カタタン、カタタンと小刻みに揺れる列車の振動は、平坦な地面を歩くのとはやはりちがう。

 旅行の高揚もあってか、リジーはうきうきした足どりで、どうにか人とすれちがえる幅しかない狭い通路を歩く。廊下の窓の外にえんえんと流れる緑の平原を見ていると、すぐに目的の部屋の前についた。

「やめておけばよかった? なにを今さら……だから言っただろう!」

 ノックしようとのばしかけた手がぎくりと止まる。ドアがきちんと締め切られてなかったのか、なかから激しい剣幕がもれ聞こえてきたのだ。

「俺はおまえの兄じゃないし、おまえは妹じゃない。だが、忠告はしたからな」

 ロデリックの声だ。フィアンナがなにか返答しているようだったが、その声はかぼそく、まったく聞きとれなかった。

「そんなことは知らん。せいぜい彼女に幻滅されないよう、気をつけるんだな」

 まずい、と本能的に察し、リジーは扉の前から反射的に後ずさった。間髪いれず客室の扉が開き、眉間に深いしわを刻んだロデリックが室内から出てきた。

 リジーと視線が合うなり、彼はばつが悪そうに目をそらす。

「あ、ロデリックさま。いまご様子をおうかがいに行こうと思っていたところなんです。ご気分はいかがですか?」

「――最悪だ」

 まるで捨て台詞のような言葉を残し、狭い通路で身をひねって通りすぎようとするロデリックに、リジーは急いで訊ねた。

「どちらへ?」

「食堂車」

 きっぱりと言い残し、彼はすたすたと歩き去っていった。

 追うべきかどうか一瞬迷ったが、彼の背中がいかにも「話しかけるな」といった雰囲気を漂わせていたので、リジーはやむなくあきらめた。

 ――仕方ないわ、彼はあとで。

 リジーはきゅっとくちびるを引き結び、目の前の客室の扉をノックした。

「はい、どなたですか?」

 フィアンナの返答に、特に変わった様子はない。リジーは深呼吸するように、息をほそく吸いこんだ。

「わたしです、リジーです」

「まあ、リジー! 待っていましたわ、入って」

「失礼します。ご気分はいかがですか?」

 許しを得て、リジーは客室の扉を開ける。フィアンナはソファに腰かけ、どうぞ、とむかいの位置に座るようにリジーにしめした。

 一等客室だけあって、フィアンナの部屋はリジーのそれよりもわずかに広く、しつらえも豪華になっていた。壁紙や調度品は言うにおよばず、クッションもふかふかだ。

「とても快適ですわ。列車のなかの部屋がこんな風になってるなんて驚きました。もっと質素なものを想像してましたから」

 フィアンナの声は明るかった。ロデリックに激しい剣幕でまくしたてられていたので、落ちこんでいるかもしれないと心配したのだが、杞憂だったようだ。

「フリュステルン社自慢の寝台車ですから。設備は最新式ですし、サービスも行き届いていると評判です」

 夜には寝台に代わる椅子に腰をおろし、リジーはこたえた。

「食事も高級レストラン並みと聞きました」

「ええ。夕食は期待していいと思います。わたしも楽しみです」

 リジーはフィアンナと顔を見合わせてふふっと笑った。むかい合って、しばし他愛ない歓談に興じる。内容は最新流行のファッションについてや、社交界のゴシップなどだ。一見すると内気そうな容姿とは裏腹に、フィアンナは情報に関しては耳ざとく、思いがけない社交界の裏話をリジーに面白おかしく話してくれた。

「フィアンナはとてもお話し上手ですね」

 尽きない話題に、リジーは少し意外な一面を見たように思う。

「あら。わたくし、少しおしゃべりがすぎました? どうしてかしら、ずいぶん開放的な気分になっているみたい」

「旅行のときに羽目をはずしたくなるのはごく自然な心理ですよ。ふだんと違う一面があらわれるのも旅の醍醐味です」

 よかった、とフィアンナはほほ笑んだ。

「羽を伸ばす、ってこういうことですね。わたくし、いまとても自由な気分ですわ。屋敷のなかは息がつまりそうですもの」

 ふう、と小さくため息をつく。

「いまもあまり丈夫ではありませんが、子どものころはもっと病弱で……、屋敷から一歩も出られない日もありましたの。いわゆる箱入り娘でしたわ」

 リジーはうなずいた。さもありなんと納得しこそすれ、まさかとは思わない。

「わたくしが退屈していると、いつも兄がこっそり屋敷をぬけ出して、外で見聞きしたことをおもしろおかしく話してくれたものです。おかげで家庭教師はいつもかんかんで、兄は怒られてばかりでした。病弱なわたくしのために」

 兄の話題が出たのでどきりとした。この部屋を訪う前、兄妹が口論していた様子だったのを思い出したのだ。

 ロデリックはたしか、こう言わなかっただろうか。俺はおまえの兄ではない、と。

 売り言葉に買い言葉だったとしても、真実でなければまず口にしないたぐいの台詞だ。

「それは、ロデリックさまが……?」

 フィアンナはかぶりをふった。

「ロデリックではありません。実はもうひとり、フレッドという兄がおります」

「お兄さんがふたりも?」

 驚いて聞き返すと、ええ、とフィアンナはにっこりと微笑んだ。

「うちは母も兄もとても過保護で。わたくしが心配なのはわかりますけど、何をするにも口出しせずにはいられないんです。この旅が無事終われば、わたくしへの態度ももう少し変わると思うのですけど」

 なるほど、と腑に落ちた。ぼんやりとだが、フィアンナがなかば押し切るようにこの旅行を決行した背景がわかってきた気がする。

「ロデリックさまが同行すると仰ったのは、そういう理由からだったんですね」

 リジーの言葉に、フィアンナは小首をかしげるような仕草をした。

「ロデリックがついてきたのはもちろんわたくしを懸念したからでしょうけど……、それだけではないと思いますわ」

「? ほかにも理由が?」

 問うと、フィアンナは意味ありげにほほ笑むだけで、結局こたえなかった。

 そういえば、食堂室へ向かったロデリックのことも気にかかる。そろそろ、と暇を告げようとするリジーを、フィアンナが呼び止める。

「ロデリックをよろしくお願いしますね、リジー」



 フィアンナに頼まれたからというわけではないが、リジーは食堂車へむかうことにした。気分が最悪だとまで言い切った顧客を、ひとりで放っておくわけにはいかない。

『――いたか?』

『いや。すべての部屋を調べてみたが、三等にはいなかった』

 寝台車から食堂車へむかう途中、車両のすみでひそひそと言葉をかわしあっているふたりの男の横を通りすがった。彼らはクラレンス語で会話をしているようだった。

『しかし、この列車に乗っているのはまちがいないはずだぞ。一等、二等の乗客名簿は調べた。空き部屋がないことも確認済みだ。三等客室にいないはずがないだろう』

『しかし実際に見つからんのだ、仕方ないだろう』

リジーは優れた聴覚を持つ。聞き耳をたてるつもりはなかったのだが、男たちの会話は勝手に耳に飛びこんできた。

 足早に彼らとすれちがい、食堂車にたどり着く。

食堂車はちいさな厨房をはさんで二つの部屋に仕切られている。目当ての人物はどちらにいるだろうと探すまでもなく、食堂室に入るなりすぐに見つかった。彼のように存在感だけで人目をひく人間も、そうそういない。

 昼食の時間までにはまだ間があったが、室内にはロデリックのほかにも数人の客がおり、茶やコーヒーなどを口にしながらそれぞれ談笑に興じている。黒と白のいでたちをした給仕係が、彼らの邪魔はせぬよう、ひかえめかつ迅速な動きで仕事に従事していた。

 さすがに評判のある食堂室だけあって、内装も見事だ。壁にはチークやマホガニーなどの高価材が惜しげもなく使われ、ランプをはじめとする室内装飾も高価かつ趣味のいいものが使われている。

「ここ、かまいません?」

 リジーは何食わぬ顔でひとりぶんのカップが置かれたテーブルに近づき、なかば以上強引に相席を申し出た。質問の形をとりながら、そのまま返事も待たずにロデリックのむかいに腰をおろす。

 すぐさま注文をとりにやってきた給仕係に茶を頼むと、係は恭しく頭を下げ、テーブルからさがった。

 さて、と思いながらロデリックを正面から見すえると、相手は渋面になった。眉根にしわをよせたままぽつりとつぶやく。

「――すまない」

 こちらがなにかを言う前に彼が謝罪を口にしたので、リジーは完全に出鼻を挫かれた。

「さっきのは八つ当たりだ。おとなげなかった」

 まさか開口一番謝罪とは。とまどったリジーはあわてて首をふる。

「そんな、わたしは添乗員です。お客さまの旅行中に不便や不満がないよう、とりはからうのもわたしの仕事です」

「いや。きみがフィアンナのわがままにこたえ、尽力してくれたことは理解しているつもりだ」

 重ねられた言葉にリジーは目を丸くした。彼がそこまで自分を評価してくれているとは思わなかった。

「どうした?」

 絶句してしまったリジーを怪訝に思ったのか、ロデリックがたずねる。リジーは素直に思ったことを舌に乗せた。

「……びっくりしました。少し予想外で」

「予想外?」

「わたし、てっきりロデリックさまには嫌われているだろうと思っていましたから」

 こたえると、心外だとばかりに顔をしかめられる。

「『ロデリック』でいい」

「はっ? え、でも……」

「ロデリックだ。敬称も必要ない」

「……はい。では、ロデリック」

 くり返され、リジーは観念した。フィアンナと同じことを言い出だしたのが少し意外だ。まったく似たところのない兄妹だと思っていたが、意外な共通点があるらしい。

「もし仮に俺がきみを嫌っていたとしても、自分の非を認められないほど狭量な人間ではないつもりだ」

「ええ、もちろん。そのようなかたではないとお見受けしました」

 皮肉な物言いにもだんだん慣れてきた。たぶん本来の彼はとてもきちんとした人間なのだろう。わかってしまえば、特に腹は立たなかった。

「……それに、べつに嫌っているわけじゃないぞ」

「でも、すこし苦手なのでは?」

 ずばり訊くと、彼は片方の眉を動かした。図星だったようだ。

「たしかに、初対面はあまり良い印象ではなかったことは認める。きみは、ずいぶんと金銭に執着……こだわりがある人間のように見えたからな」

 婉曲な表現だったが、おそらく金に汚いということが言いたいのだろう。

 ロデリックがはじめてマイルズ旅行社にあらわれたときのことを思い出し、ああ、とリジーは納得した。

「お金はもちろん好きですよ?」

 けろりとした顔で応じる。

「たとえば、磨きたての金貨のつや! 金属の冷たい手ざわり! 音色も涼やかで何度も聞きたくなる――そう思いません?」

「…………。いや、特には」

 うっとりとしたまなざしを向けるが、ロデリックはそっけない返答をよこすのみだ。

「金銭はそれ自体が正義でも悪でも、きれいでも汚くもありません。武器といっしょです。使う人間の用途で白にも黒にもなるだけです」

 彼はわずかに片眉を動かした。意外そうな顔、とでも言うべきだろうか。

「それは、まあそうかもしれないが」

お金ものは裏切りませんから」

 リジーは目を細め、にっこりと笑った。ふしぎと腹を割って話したいような気になり、もうひと言つけくわえる。

「裏切るのはいつも、人間のこころのほうですわ」

「…………」

 ロデリックが一瞬、やられたと言いたげな顔になる。そこへ、機を見計らったかのように給仕係がリジーのぶんの茶を運んできた。

 砂糖を入れかけ、ふとロデリックが自分のカップに視線をそそいでいることに気づいた。

「きれいな柄ですね。『シャルロッテ』」

 銘柄の名前を口にすると、ロデリックが驚いたように顔を上げた。

「好きなのか?」

「ええ。陶磁器にはそれほど詳しくはありませんが。この小花模様のシリーズがかわいくて覚えたんです」

「女性には昔から人気のある銘柄だからな。古いものは骨董的価値も高い。この模様は比較的最近のものだが」

「ずいぶんお詳しいんですね。お好きなんですか? 陶磁器」

 そういえば、マイルズ社で茶を出したときも、ロデリックはひと目でカップの銘柄を当てた。それなりの知識と目がなければできない芸当だ。

「ああ、俺は芸術性の高いものはなんでも好きだが、ひとの手になる陶器は特にな。俺自身にそういったものを生み出す才能はないが、才能を持った人間を支援する立場の人間になりたいと思っている」

「後援者ですね」

「投資家でもあるかな。俺はいつか、自分の銘柄の窯を持ちたいんだ」

 そう言って、彼ははっとばつの悪そうな顔になった。喋りすぎた、と思ったのかもしれない。

「いつかの話だ、いつか」

 慌てたようにつけたした様子を、少しほほえましいとリジーは思った。

「すてきですね」

 おべっかや追従ではない、真摯な思いをこめてリジーが言うと、照れたのかロデリックはフンと鼻を鳴らした。

「そう思うか?」

「はい。わたしにも夢があります」

 にっこり笑って答えると、ロデリックはほんの少し、くちびるを吊り上げた。皮肉げにというより、どことなく表情に迷った様子だ。

「……きみとフィアンナはよく似ている」

 容姿などの外側を言っているのではないことは、すぐにわかった。

「妹さんのことも、まさか苦手と?」

「いや、苦手というわけじゃない。あいつは見ているぶんには面白いんだ。こちらが被害さえ被らなければ、という話だが」

「…………」

 このふたり、いったいどういう兄妹なのだろう? とリジーは思った。

「他人に迷惑がかからないなら、別にどう生きようが口出しはしない。分別を持て、とはたまに思うが」

「フィアンナさまを心配しておられるのはわかりますが……」

 とたんにロデリックは顔をしかめた。もしかして、そういうことではなかったのだろうか?

「あえてつまらない人間、という定義で言わせてもらうが、俺は『凡人』にはあまり興味をひかれない」

「はい」

「多少奇異であろうと、ひとつでも『面白い』と感じられる人間のほうが、好ましいと思う」

「ああ、わかります。わたしもそうです」

「だから、俺はあいつを嫌ってはいないし、さらに言うならきみを嫌ってもいない。退屈させられないだけ、人間としてはマシな部類に入る」

 リジーはなんと答えていいのかわからず沈黙した。これは、誉め言葉と受けとっていいのだろうか? ――微妙なところだ。

「誤解のないようにひとつ言っておく」

「はい」

「俺がこの旅に参加するとを決めたのは、たしかにあいつを好き勝手させないためだった。目の届くところにいてくれたほうがまだしも安心するからな。だが、だからといってこの旅行を楽しむ気がないわけじゃない」

「……ええ」

 もしかして、こちらの気持ちが見透かされたのだろうか、とリジーは思った。

 もちろん、リジーはロデリックにもこの旅を楽しんでもらいたいのだ。身内への義務や責任などではなく、こころから旅の醍醐味を――いつもの日常ではない面白味を感じて欲しかった。だって、せっかくの非日常なのだから。

「むしろ大いに期待しているぐらいだ。きみはマイルズ社でも一、二を争うほどの優秀な添乗員らしいからな」

 にやりと笑い、ロデリックが揶揄を口にする。挑発だろうと、あえて乗るのがプロの仕事だ。リジーは力強くうなずく。

「ええ、もちろん。わたしを選んでくださったこと、後悔させません」

「言ったな。俺も何を見せてもらえるのか、楽しみにしている」

 ロデリックはふっとほほ笑み、そう口にした。


「では、わたしはそろそろ部屋にもどります」

「ああ」

 空になったカップを皿にもどし、リジーはイスから立ち上がる。テーブルクロスの上にチップを置いたまさにその瞬間、ガタン、と車体が強く揺れた。

「あ、わ、きゃあっ」

「危ない!」

 衝撃でバランスを崩し、リジーは倒れかけた。とっさに腰を浮かせたロデリックが手をつかんでひきよせたので、リジーはそのままトスンと彼の膝の上に座りこんでしまう。

「っ!」

「大丈夫か?」

 すぐそばで端正な顔がリジーをのぞきこむ。どことなく気恥ずかしい体勢とその至近距離に、血がどっと顔に集中した。

「ギャア、す、すみませんっ!」

 わたわたと慌てながら、急いで飛び離れる。真っ赤な顔で完全にうろたえている態に、ロデリックは面白がるような表情になった。

「……『ぎゃあ』?」

「いえあの、その、大変なご無礼をっっ」

「いや、かまわない。というか、そんなに必死になって謝ることじゃないだろう。まるで俺が痴漢でもしたようじゃないか」

「いいえ、とんでもないっ」

 苦笑気味に言われ、リジーはぶんぶんと首をふった。

「えーとえーと、そっ、そうだわ、フィアンナさまが!」

「フィアンナがどうか?」

「今の揺れでフィアンナがおケガでもなさっていたら大変です。わわわたし、様子をうかがってきますねっ」

 宣言し、急いで身をひるがえしたリジーを、「あ、待て」とロデリックが引きとめようとしたが、リジーは聞こえないフリをして食堂車を去った。というか逃走した。

 ――あーもうばか、何を動揺してるの!

 白状すると、この歳になるまで男性に手も握られたことはないのだ。リジーは女性の社会進出に対しては積極的でも、道徳観念についてはどちらかというと古風な――エルシオン女性らしい考えの持ち主なのだった。

 ――顔、赤くなってないわよね。

 頬をぺちぺちと叩きながら、足早に寝台車のほうへもどる。

 行きに見かけたふたり組の男たちの姿はすでに消えていた。誰かを探していた様子だったが、すでに移動してしまったらしい。

 口実にしてしまったとはいえ、フィアンナが気になったのは本当だ。二等車両を通り抜け、一等車両へ向かおうとして、ふと部屋に残してきた愛鳥のことを思い出す。

 ――そうだ、パティも。

 鍵は掛けて出たし、ヨウムはいざとなれば飛べるのでなにも心配はないと思うが、あまりひとりにしておくのも可哀想だ。

 後になって思えば、それは虫の知らせのようなものだったのかもしれない。

 二等車両の自室の扉に手をかけたとき、一瞬違和感を覚えた。――鍵が、あいてる。リジーは迷わず自室の扉を開けた。そしてそこには、思いもよらぬ先客が待ち受けていた。


        ◇


 扉をあけた瞬間、リジーは目をまるくした。

 ひとひとり入れそうなほどの巨大なトランクを手にした、まさしく絵に描いたような「怪しい男」がそこにいたのである。

 紺と白の縦縞の上着に白の長ズボン、白黒の革靴に山高帽、首には派手な水玉模様のスカーフを巻いている。色のついた丸眼鏡をかけ、レンズに隠れた瞳の色はまったくうかがえなかった。鼻の下に生えたちょび髭がかろじて愛嬌と言えなくもない。

 男はトランクの持ち手を持っていないほうの手を、ちょうどパティに伸ばそうとしているところだった。扉を開けたリジーをふり返り、心底驚いた態で固まっている。

 一瞬の驚きからさめたリジーはすうっと息を吸いこみ、叫ぼうとした。

「ど、どろ――!」

「わああ、待て!」

 客室を大股の一歩でつめ、男はリジーの口を手袋に包まれた手でふさいだ。

「ふぐぐっ!」

 とっさにふり解こうとしたが、相手の力は恐ろしく強い。リジーがむうむうと唸りながらもがこうとすると、男はこう言った。

「大声を出すな。私は別に怪しいものではない」

 ――いやいやいやいや。

 リジーは思った。どこからどうひっくり返して見ても、怪しい人間そのものだ。

 噛みついてやろうと口をあけたその瞬間、右のこめかみにごりっと硬いものを押しつけられ、リジーは硬直した。男が空いているほうの左手で拳銃を握っているのが見えた。

「……!」

 ざあっと一瞬にして血の気が引く。こちらの顔色が変わったことに満足した様子で、男はくちびるをつり上げた。瞳は色眼鏡の奥に隠れていて見えないが、おそらく笑ったのだろう。

「お互いのために騒がんほうがいい。わかったかね?」

 理解したしるしに目でうなずくと、男はゆっくりとリジーの口を塞いでいた手を離した。そこを逃さず、

「パティ!」

 男が目を見開いたそのとき、主人の声に応じたパティが撞木の上で羽ばたいた。奇声をあげ、まっすぐに男にむかって飛来する。

「っ?」

「リジー、イジメル、ユルサナイ!」

 鋭い嘴を突き出し、パティは果敢にも男を攻撃しはじめる。

 その隙をつき、リジーはすかさず全体重をかけて男の腕をおさえこみ、その手から小銃を奪いとった。

「あだっ! いだだだだ、やめろ突っつくな、穴があく!」

右腕をふりまわし、男はパティを追いはらおうとしたが、パティはその手を巧みにかいくぐり、相手の額やこめかみに鋭い一撃を食らわせる。

「ぎゃあっ! やめてくれっ、わ、私が悪かった! この鳥をなんとかしてくれ!」

「観念なさい、この押しこみ強盗!」

「強盗ではないっ! というか、もともと危害を加えるつもりなどなかったっ!」

「嘘を言いなさい! こんなもので脅そうとしたくせに!」

「疑うなら床にむけて引鉄をひいてみろ! それは模造品だ!」

「模造品……?」

 そういえば、手に持った感触がやけに軽い――ような気がする。銃は冒険家の祖父がたくさん持っていたから、厳重な監視のもとでリジーも本物を触らせてもらった経験がある。

 本当だろうかと疑いながら、リジーは銃口を床にむけた。慎重に安全装置をはずし、引鉄をひく。

 ――っポン!

 まぬけな空気音とともに飛び出したのは、鉛の弾丸ではなかった。エルシオン、クラレンス、オルセンなどの国旗のつらなりだ。

「なにこれ、手品の道具?」

「だから言っただろう。見た目は本物そっくりに精巧だが、それは私がつくったニセモノだっ。わかったらこいつを早くなんとかしてくれ!」

 両腕で頭をかばい、背を丸めて男は叫ぶ。リジーがピュウッと指笛を吹くと、とたんにパティは攻撃をやめ、おとなしくリジーの肩のうえに降り立った。

「いっつつつ……、やれやれ、なんという娘だ」

 顔中傷だらけになった男はずり落ちた眼鏡をなおしながら、額についた血をハンカチでぬぐう。

どの口がそれを言うか、と思いながらも、リジーは冷静に問いただした。

「どうしてこの部屋に入れたの? 鍵は掛けていたはずよ」

「フン、鍵など。私の小手先を持ってすればチョチョイと」

 つまりは勝手にあけたということか。どこか偉そうな口調でプイと視線をそらす男を、リジーはにらんだ。おとなしく肩にとまっているパティにちらりと視線をむける。

「……パティ」

「いや、ちょっと待て! 頼むから話を聞いてくれ!」

「ええい、はなしなさい!」

 身も世もなくとりすがってくる男を、うりゃっ、とリジーはふりほどく。どうやら本気で怯えているらしいので、もとの撞木でおとなしくしているようパティに指示した。

「さあ、どういうことかキッチリ説明してもらおうじゃないの」

 観念したのか、男は降参のしるしに両手をあげた。抵抗する気力もないらしい。

「なかなかどうして胆のすわった娘だな。昨今のエルシオンの淑女とはこうなのか。まったく、末恐ろしいものだ」

「うるさいわね。例外ぐらいあるのよ」

「……名を聞いてもかまわんかな?」

「かまわないわ。リジーよ」

 名乗りながらも、相手に対する警戒は解かない。リジーが奪ったのは所詮おもちゃの銃である。護身にはなりようもない。

「あなたこそ、どこのだれ? どうしてわたしの部屋に入りこんだの?」

「わけあって名乗れんのだ、許せ。そのかわり事情は話せるかぎり話そう」

 その前に、と彼は続けた。

「座ってもかまわんかね? 立ったままではなんとなく落ちつかん」

「どうぞ?」

 リジーは肩をすくめ、部屋にあったイスをすすめたが、男は首をふった。どうやら男の持ち物らしい、床に置いたままの巨大なトランクの上にちょこんと腰かける。

 仕方なく、壁にもたれるようにして彼と向き合う位置に立った。座らなかったのは、何かあったときにすぐに動けるようにという警戒からだ。油断すれば、またいつ立場が逆転するかわからない。

 リジーはすばやく男を観察した。年齢が判別しにくいのは、色眼鏡にさえぎられて目元がよく見えないからだろう。だがおそらく二十代ではないはずだ。声の張りは三十前半か、せいぜいなかばぐらい。

 身につけているものからすると、男は明からに庶民階級の人間ではなかった。趣味の悪さは横においておくとしても、だ。

 ――珍妙な格好をしてるけど、ちゃんとした教育を受けた人間だわ。発音がきれいだもの。妙な略し方もしないし、むしろどちらかというと古風な喋りかたに聞こえる。

 わずかにクラレンスの訛りがあるようだが、おおむね流暢なエルシオン語だった。

「あなた、もしかしてクラレンスのひと?」

「は? あ、いや、ルノで生活していたこともあるが、生粋のクラレンス人ではない」

 そう、とリジーはうなずいた。

「じゃあ、もしかしてご両親がクラレンス人とエルシオン人?」

 指摘すると、男はやや目をみはり、驚きを示した。図星だったようだ。

「なぜわかった?」

 リジーは肩をすくめ、発音について指摘した。男は感心した態で何度もうなずく。

「ほほう。なかなかいい耳をしているな。それに、女性にしては学もあるようだ」

「褒め言葉として受けとっておくわ。それで?」

「……実はな」

 情感をもたせようとしうのか、男は声を低め、たっぷりと間をとってから話した。

「私は、追われている身なのだ」

「はあ。そうなの」

「そうなの、だとっ? な、なんという淡白な娘なのだ。そこはもっとこう、驚くなり同情するなり、なんかするところだろう!」

 男は憤慨した。意味がわからない。リジーはこめかみを揉みながらきっぱりと答えた。

「だって、他人だもの」と。

「言っておくけど、怒鳴りたいのはこっちのほうですからね。こちとら勝手に部屋に侵入された上、おもちゃの銃で脅されもしたのよ。見も知らない他人にね。同情がわくほうがおかしいでしょう」

「なるほど正論だ」

 あっさりと男は納得した。

「名誉のためにひとつだけ言わせてもらうが、私は別にきみの忠実なるヨウムを盗もうとしたわけではない。本物か剥製か気になったから調べようと思っただけだ」

「またけしかけられたくなかったら、へんな真似はしないことね。それで、ジョン・ドゥさん」

「ジョン……? なんだって?」

「だって名前は明かせないっていうから。呼ぶときに名前がなかったら不便でしょう。だから名無しのごんべえジョン・ドゥさん」

「むう。どこまでも無礼な」

 ジョン・ドゥの抗議を無視し、リジーは話をすすめる。

「とりあえず、あなたの言ったことを全部真実として話をすすめるけど」

「それはどういう意味だ。私は別にウソなどついてな――」

「あなたが狙われてる、っていうその根拠はなに? 逆恨みとか?」

「……いや。やつらが欲しいのは利権だ」

「やつら? 複数なの?」

「そうだ。もっとはっきり言ってしまえば、政府だ」

 政府、とリジーはおうむ返しにつぶやく。話が大きすぎて、なんともまあ、信じられない。

 ふっとリジーの脳裏に誰かを探していたふたり組の男の姿がよみがえった。まさか、あのふたりとなにか関係が?

「やつらの狙いは利権か特許。あるいは名声だ」

「利権に、特許?」

「そうとも、私はこう見えて大発明家なのだよ」

 大発明家、の大を強調し、ジョン・ドゥはふふんと偉そうに胸をはる。リジーはそんな男を上から下まで眺めわたした。

「もしかしてあなたのその奇抜な格好となにか関係が……?」

「いや、これは単なる趣味だ」

「あ、そう」

 脱力する。まぎらわしい。

「でもその発明って、本物の発明なの? ちゃんとだれかの役に立つもの?」

 リジーは疑惑に満ちた目をジョン・ドゥに向けた。この男が「自称・大発明家」であったとしてもリジーは驚かない。彼は「失敬な」と鼻息を荒くした。

「この私がつくったのだ、当然だろう! 間違いなく人類のおおいなる夢と、さらなる発展を約束する、すばらしい発明だぞ!」

「もう、急に怒らないでよ。それっていったいなんなの?」

 ずばり訊くと、とたんにジョン・ドゥは口ごもった。

「――それは、言えん」

 思いつめたような表情に、これは絶対口を割りそうにないな、とリジーはため息をついた。

「もう一度言うが、私は追われている身だ。そのうえで、ひとつきみに頼みたいことがある」

「ここにきて頼みですって? なんなのよ」

「しばしの間、私をこの部屋に匿ってはくれないか?」

「はあ?」

 リジーは素っ頓狂な声をあげ、組んでいた足をほどいた。

「匿えってここに? この個室へやに?」

「そうだ。きみはどこまで乗るつもりだね?」

「ル、ルノだけど」

 勢いにのまれ、思わず正直に答えてしまう。

「この時期なら目的は十中八九、万博観光だろう? もちろんクラレンスまでとは言わん。首都ワーナーの手前まででいい」

「あのう、いちおう言っておくけどわたし、嫁入り前の若い淑女なんですけど」

「目はちゃんとふたつあるし、そんなことはいちいち言われんでもわかっとる。だが、私の命と人類の発展には変えられんではないか」

 ひとりでうんうんとうなずいているジョン・ドゥを、リジーは冷めた目つきでながめた。

 ――何を勝手なことを言い出すのか、このおっさん。

「じゃあ、はい」

 たなごころを上にむけ、リジーはジョン・ドゥに手を差し出した。

「? なんの真似だ」

「何って、決まってるでしょ。この部屋に匿えって言うんなら、ちゃんとそのための費用をはらってもらわないと」

 リジーは金額を提示した。もちろん二等客室の相場の倍を、だ。

「なっ、娘! それではぼったくりではないか!」

「どの口がそれを言うのよ! 他人の部屋に無理やりあがりこんで何を勝手な! ……ん? まさかとは思うけど、あなたもしかして無賃乗車したの?」

 ジョン・ドゥはぎくりと顔をこわばらせる。

「なぜそれをっ!」

「やっぱり!」

 語るに落ちるとはこのことだ。

「追われてるだのなんだの言ってたけど、まさかただ乗りしたから車掌に追われてるとか、そういう意味じゃないでしょうね!」

「ちがうっ! 私は本当に狙われているのだ!」

 ぎゃあぎゃあ言い合っていると、コンコンと個室の扉をノックする音がした。まさかの訪問者に、ふたり同時に飛び上がる。

「わ、私を捕らえに来たやつらかも知れんっ」

「ええ? そんな」

「開けるな、いやちがう、は、早く出てくれッ」

 とたんに動揺して落ち着かなくなるジョン・ドゥを、リジーはなだめた。

「ちょっと待って、おちついて。――どなたですかっ?」

 最後の問いは、扉の向こうにいる人物に向けて大声で発したものだ。相手からはすぐに返答があった。

「わたくしですわ、リジー。フィアンナです」

「フィアンナ!」

 リジーは腰を浮かせた。救いの主というには、やや微妙と言えるかもしれなかった。いっそ客室乗務員ならドロボウだと訴え、ジョン・ドゥを引き渡すことができるのだが。

 そのジョン・ドゥが、ふいにリジーの肩をつかんだ。そのまま回れ右をするように体の向きを変えられ、ぐいぐいと背中を押される。

「やつらと無関係ならいい。ほら、はやく出てくれ」

「はあ?」

「なるべく戸を開けるのはゆっくりで頼む。その間に私はこっちの洗面室に隠れておくからな」

「ちょ、ちょっとっ」

「ここにいる私を見られたら、嫁入り前の娘としては体裁が悪かろう。せいぜい上手くごまかしてくれ」

「何を勝手な!」

 リジー自身に後ろ暗いことなどないのに、体裁が悪いなどと言われて腹が立った。

 だがここまで図々しく出られると、怒鳴る気にもなれずに呆れてしまう。リジーが裏切るとは微塵も疑っていないのだろうか。

 まったくもう、と毒気がぬかれたような気分で扉の鍵をはずす。不慣れな蝶番に苦戦しているように見せかけながら、リジーは客室の扉をほんの少しだけ開いた。

「お、お待たせしました。どうかなさいましたか?」

 気になって問うと、フィアンナは首を横にふった。

「部屋にひとりでいるのに飽きたので、遊びに来ましたの。お邪魔でしたかしら?」

「いいえ、とんでもない。ロデリックさまは?」

 兄の名前を出すと、フィアンナは肩をすくめ、けろりとした顔で答えた。

「ロデリックと話しても、退屈なだけですもの。リジーのお部屋に入れてくださらない?」

 ひょいと首を伸ばしてうしろをのぞきこもうとするフィアンナに、リジーはあわてた。まずい。

「せ、せっかくだから、このまま車内を見てまわりませんか? 実をいうと、まだ荷物を片付けきれてなくて」

 フィアンナはまあ、とくちびるをほころばせた。きらきらとその両目が好奇心に輝く。

「探検ですわね! もちろんかまいませんわ。さっそく参りましょう」

 嬉しげにほほ笑み、フィアンナはリジーの手をとった。

「あ、でも、パティはかまいませんの? さっき、あのバスケットにはパティが入っていると教えてくださいましたよね」

「はい。よく覚えてらっしゃいましたね。パティのことは心配無用です。ちゃんと留守番できますので」

「そう、なら大丈夫ですわね。そうだわ、あとでわたくしの部屋にもいらして。お菓子がたくさんありますのよ」

 母親に甘える子どものように、フィアンナは声をはずませ、リジーを外へ引っぱっていこうとする。急いで扉を閉めながら、その寸前、室内に向かってこう呼びかけた。

「パティ、もどるときはノックを三回するからね」

 もちろん返答はない。

 フィアンナに気づかれないようため息をつき、後ろ髪をひかれながらリジーは自室を離れたのだった。


        ◇


「とりあえずひととおり見てまわりましょうか。変わったものはそんなにないかもしれませんが」

「そんなことありませんわ。わたくしにはなんでも珍しいですもの」

 添乗員として、なにをしても楽しんでくれる客とは、大変ありがたい存在だ。リジーはくすりと笑った。

 フィアンナとふたり、仲よくつれだって列車のなかを見てまわる。一等客室と二等客室、それから食堂車もちらりとのぞいてみたが、ロデリックの姿はもうなかった。おそらくすでに自室へもどったのだろう。なんとなくホッとした。

「ここは外がよく見えますわね」

 展望車に入るなり、フィアンナが歓声をあげた。

 他の車両に比べて窓が広くとってあるので、流れていく景色がおおきく見える。ただエルシオンの国土はほとんどがなだらかな丘陵なので、眺めはやや単調だった。

 緑の草原の合間にもこもことした羊が見えたり、遠方に小さな家々がよせ集まっているように見える村、ごくまれに目に鮮やかな花畑が視界を横切る。首都ワーナーが近くなればもっと違った景色も見られるだろうが、いまはさしあたって珍しいものはない。

 展望車にはリジーとフィアンナのほかにも客がいたが、しばらく歓談したのち、みな飽きたようにほかの車両へ移っていった。

 リジーはリジーで、内心ゆっくり風景を楽しんでいられる余裕はなかった。

 部屋に残してきたパティとジョン・ドゥのことが気にかかる。だが、どうせもどったらもどったで、あの珍妙な男とふたりきりだ。それを思えば、こうして外に出ているほうがいいのかもしれない。

 ――でも、さすがにワーナーまでいっしょはごめんだわ。なんとか追い出す算段をしないと……。

 あの男の言ったことを頭から信じることはできない。無賃乗車のための詐欺かもしれないし、あるいはジョン・ドゥが荷物狙いの列車強盗である可能性もゼロではない。

 貴重品である財布は肌身離さず持っているが、走り書きをした辞書や着替えのはいったカバンは置いたままだ。それになにより、パティを誘拐されでもしたら……。

「……ジー。リジー!」

「へっ、あ、はいっ?」

 ふいに名を呼ばれてびくっとなる。思考に没頭していたリジーを、心配そうな表情でフィアンナがのぞきこんだ。

「どうなさったの? なんだかうかない顔ですわ」

「え、いいえ、そんなことは」

「本当ですか?」

 上目づかいに訊ねる様子がとても愛らしい。フィアンナのためなら、どんなわがままも叶えてやりたいと思えてしまう。

「もしかして、わたくしとふたりきりだと退屈ですか?」

 まさか、とリジーはフィアンナの懸念を笑い飛ばした。

「退屈だなんて。とても楽しいです」

「……ロデリックといっしょにいるよりも?」

 リジーはきょとんとした。なぜそこでロデリックの名前が出てくるのだろう。

「おふたりを比較してどちらが楽しいとかつまらないとか、そんなふうには思いませんよ。ロデリックと話して勉強になることはありますし、こうしてフィアンナといっしょにいる時間もわたしにとっては有意義です。仕事だから言っているのではないですよ」

「でしたら、いいわ」

 明るい声音で言うと、フィアンナはリジーの腕に抱きつき、甘えるように身をすり寄せた。

「さあ、景色も堪能できましたし、そろそろ探検の続きに行きましょう、リジー」

誘う声がはずんでいる。どうやら機嫌はなおったようだ。

 姉が欲しいと言っていたから、ごっこ遊びの延長なのかもしれない、とリジーは思う。

 ――そういえば、この旅のあいだは妹のように思って欲しい、と言われたんだっけ。

 親しい同性のきょうだいとはこんなものなのか。フィアンナの甘えはくすぐったくもあり、うれしいものでもあった。

「リジー、この先の車両には何がありますの?」

 展望車両の扉を開け、フィアンナは車両と車両の連結部デッキに立った。手すりつきの柵があるだけで屋根も壁もないので、走行風がびゅうびゅうと吹きつけてくる。髪と服がばたばたとはためくのを手で押さえながら、リジーはこたえた。

「そっちは貨物用の車両です。ワインや食材なんかを置いてあるはずです」

「わたくし、機関室を一度見てみたいですわ。この列車がどういう仕組みで動いているのか、とても気になりますもの。この貴婦人は石炭を食べて走っているのでしょう?」

 まったく、このお嬢さまの「興味」は筋金入りだ。ふつう、乗り物に乗っているときに、その乗り物がどういう原理で動いているかまで知りたいと思う人間は少ない。そもそも思考の端にすらのぼらないのが普通だ。

 うーん、とリジーは首をひねった。

「構造はわたしも気になりますが、さすがに機関室には入れてはもらえないと思いますよ」

「のぞくだけでも怒られるかしら?」

「……どうでしょうね」

 というか、おそらく機関車両以前に連結されている石炭車に入れないだろうな、と思う。

「うしろの車両からちらっとのぞくだけなら、大目に見てもらえるかも」

「それなら行ってみたいですわ」

 好奇心できらきらと瞳を輝かせるフィアンナに、リジーは苦笑した。

 見つかったら、正直に事情を説明して許してもらおう。注意を受けるくらいですめば御の字だが。

「ほんとに、ちらっとのぞくだけですからね?」

 念をおして、くどいほどに言ってきかせる。うんうんとうなずくフィアンナをつれ、リジーは貨物車両に移った。

 施錠されていたらあきらめるしかない、と思っていたが、あっさりと扉が開いたので拍子抜けした。展望車より前方は関係者以外立ち入り禁止だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。

 入ってみると、なかはやはり貨物車両らしく薄暗かった。細い通路には窓がなく、ぼんやりとしたランプがあるだけで、気のせいか空気が冷え冷えとしている。右側は貨物室の壁と、横開きの扉がみっつ。どうやら貨物室は三部屋あるようだ。

その中央の扉から人影が出てきたので、リジーははっと息をのんだ。

――誰かいる。

 車掌か乗務員か、なんにしてもまずい、と慌ててうしろに佇むフィアンナとともに下がろうとした。こっそり出て行けば見咎められずにすむだろうと思ったが、相手に気づかれるほうが早かった。

「誰だっ?」

 誰何の声に、リジーは焦ってこたえようとした。

「その、わたしたち、迷ってしまって――」

「……っ」

 突然、背後でうめき声のようなものが聞こえ、どさりと何かが倒れる音がした。

 驚いてふり向いたリジーの目に、気を失って床に倒れたフィアンナの姿がうつる。

「! フィ……」

 はっとして見上げる。貨物車両の入り口に、大柄な男が立っていた。薄暗く、しかも逆光だったので、相手の顔はよく見えない。

 だが、着ている服はどう考えても車掌や乗務員の制服ではなかった。

「あなた――」

 誰、と問おうとした瞬間、後頭部に強烈な衝撃が来た。視界に火花が散り、暗幕が下りたように世界が真っ暗になる。

 悲鳴をあげる暇もなく、リジーは一瞬で意識をうしなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る