ツーリズム!‐空飛ぶ貴婦人と雲の紳士‐

朝羽

第一章 かわいい子には旅をさせろ


 【ロセター市】――女王陛下の治める「紳士と淑女の国」エルシオンの中央に位置する一地方都市である。こんにち「旅行」と呼ばれるもののはじまりは、とりたてて産業もないこの小さな都市からはじまったものだ。

 ――旅とは、つねに危険と想定外がつきまとうもの。そして、予期せぬ困難をいかにして乗り越えるかが、旅の醍醐味といえる。

 危険と予想外。そしてそれこそは、ひとひとりの人生そのものと言えるのかもしれない。


              リージェン・クック著『淑女のための旅行書』より



「この広告っ、うってでましょうマイルズさん!」

 ばん、と平手とともに卓上に叩きつけられた書類に、マイルズ氏は目を白黒させた。

 彼は神経質そうな四十すぎの男性である。最近その頭が徐々にうすさを増してきたような気がして、リジーは部下としても身内としても少し心配だった。

「は、し、しかしだね、リジー。この旅行の計画……対象となるのが上流階級の淑女のみというのは、少し敷居が高すぎるんじゃないかね」

「なにを弱気なことを仰っているんですか!」

 弱気な上司の懸念を吹きとばすように、リジーは背中をそらし、にぎりしめたこぶしにぐっと力をこめる。

「老舗の大型有名旅行代理店のような薄利多売は、うちのような新興弱小零細代理店にはムリです! ひとりの添乗員に対して旅行者が百人なんて、そもそも対応しきれません。ならば客層をしぼりにしぼって上流階級だけをカモ――ちがった、顧客とし、サービスと利益の向上を目指すべきではありませんかっ」

「じゃ……じゃくしょうれいさい……」

 マイルズは眉根にしわをよせつつ、悲しそうな顔で室内を見回す。

 リジーの目もその視線につられて同じように部屋をぐるりと一回りした。

 あるだけの資料をつめこんだ大きな書棚が三つ、来客用のテーブルとそろいのイスが一式、あとはカップ類をしまった食器棚とコート掛け。調度らしい調度といえばそれくらいで、他にひとつ、なぜか鳥の剥製が乗った止まり木が窓辺近くにでんと置かれていた。灰白色の体に、尾だけが目にも鮮やかな赤をした洋鵡ヨウムの剥製で、そこだけが部屋のなかで異彩を放っている。

 仕事用机の数は、経営者であるマイルズの分もあわせて全部で三つしかない。

 リジーのものでもマイルズのものでもない机には眼鏡をかけた青年が座っており、こちらの騒ぎには一切関わることなく新聞に目を通している。別に暇だからそうしているのではなく、読んでいるのは国内をあわせ数カ国の一週間分の新聞だ。旅行業に携わる人間なら、他国の情勢にはつねに目をくばっておかなくてはならない。

 午後の陽射しがさんさんと降りそそぐ室内に、青年が紙面をめくるぺらり、という音だけがむなしく響いた。

「……言いすぎじゃないかね、リジー。これでも一等地なんだから、せめて中堅と言ってくれ」

「すみません、失言でした」

 リジーは素直に謝った。

 マイルズ旅行代理店はエルシオン国中央部に位置するロセター市に居を構えている。ロセターは首都ワーナーとはさすがに比べるべくもないが、各地方へ足をはこびやすい地理上の利点もあり、決して都会ではないが田舎というほど田舎ではなく、人口もそこそこ多い地方都市である。

 その一等地の片すみに、ぽつんと佇む古ぼけた建物。一階は切符や旅券などの販売を行う窓口があり、その二階がいまリジーたちのいるここ、マイルズ旅行社の事務所なのだった。

 従業員の数は経営者をふくめて三人。一階の販売所にはマイルズの妻と別口で雇い入れた店員がいるが、それでも計五人だ。

 マイルズはわざとらしくコホンと咳ばらいをすると、机の上で指を組んだ。

「うちの店の規模はさておき、……貴族を狙うのはいい。だがなぜ、女性のみなのかね」

「上流階級のなかでも、現代社会でとりわけ抑圧されているのが良家の子女だからですわ」

 リジーは肩で切りそろえられた赤毛をさらりと流し、きっぱりと答えた。

「旅行のときぐらいハメをはずしたい、と思うのが人間というものじゃありません?」

「し、しかしだね……」

 マイルズがなおも言い訳がましく何かを口にしようとした瞬間、

「こっ、これはすごい!」

 リジーの背後で大きな声が上がった。

「なんだね、ダグラスくん。いきなり大声を出さないでくれたまえ、びっくりするじゃないか」

 大声に驚いたマイルズと、話の腰を折られたリジーはうろんな目つきを背後にむける。声をあげたのは、マイルズ旅行代理店のもうひとりの添乗員、ダグラス・ピジョンだった。

 彼は興奮のあまりずれ下がった眼鏡のつるをおしあげ、新聞紙の一面記事をこちらにむけた。

「す、すみません。でも、これ見てくださいよマイルズさん! すごいんですよ!」

 大見出しには、『オルセン国シュヴァーン伯の硬式飛行船、乗客を乗せた試験飛行に成功』という文字が躍っている。

 だが、リジーとマイルズがそろって冷静な目で見つめ返したので、ダグラスはひるんだ。

「な、なんです? 世界的な大ニュースじゃないですか! ついに飛行船が人を乗せて空を飛ぶ時代が来たんですよ!」

「…………」

「しかもこの飛行船、クラレンス政府に招かれてルノ万博に特別ゲストとして来るそうなんです! ……ねえ、もっとこう興奮するとか、血わき肉踊るとか、あるでしょう!」

 顔を真っ赤にして言い募る二つ年上の同僚に、リジーはため息をついた。

「あなたこそ何を言ってるのよ、ダグ。日付を見てみなさい、それ三日前の新聞よ」

「……あ。本当だ」

 間の抜けた声で言うダグラスに、マイルズは苦笑した。

「まあ、きみが興奮するのもわかるがね。私も個人的にオルセンの飛行船伯爵を知っているが、事業のための資金集めにはずいぶん苦心されていたようだよ。なんでも国の大公殿下が事業を後押しするための富くじまで発行したと聞くし」

 へえ、とダグラスは感心した声をあげた。リジーは彼が読みおわった自国の新聞にちらりと視線をやり、

「わたしとしてはこっちのほうが気になったけど」

 と、大衆新聞の片隅にある小さな三面記事を指さした。そこには『人類初の《飛行機》、ついに飛行に成功か!?』という見出しが躍っている。

「ああ、これはエルシオンにある航空クラブの宣伝だろ。よくある人間集めのにぎやかしネタじゃないかな。ここの新聞、そんなのばっかりだし」

 そうかもね、とリジーは肩をすくめた。

「わたしも空の交通手段には興味があるわ。飛行船が国で認可されたら、新しい旅行の足として企画にも組みこめるし。安全性が完璧に保証されるまではまだあと数年かかるでしょうけど」

「制空権の問題もあるからね。国内旅行ならともかく国境をまたぐ旅行となると、すぐには厳しいんじゃないかね。国で認可されてもまず軍事目的で使用されるだろうし」

「軍事目的だなんて!」

 なげかわしい、とばかりにリジーは悲鳴をあげた。

「なんて夢のない! 飛行船で旅行なんて、ロマンたっぷりなのに! 世界一周旅行もいまよりずっと楽にできるっていうのに、まったく頭のカタいお偉方ときたら!」

「リ、リジー、落ちついて」

 興奮して声を荒げるリジーを、ダグラスがどうどうと諌める。

「叶うなら飛行船で世界一周旅行の広告もうちで一番に打ち出したいのだけど」

「飛行船で世界一周?」

「そうよ。いいと思わない? ツテもあるし」

「ツテって?」

 瞳をきらきらと輝かせたリジーが、首だけを勢いよくダグラスのほうへ向けた。彼の前でちっちっちっと人さし指をふって見せる。

「ふふん。ひ・み・つ」

「えー、なに、その秘密主義」

「あら。女は秘密があるほうがかわいいって言うじゃない?」

「リジーの場合、かわいいというよりこわいけど……」

 同僚のツッコミを華麗に無視し、リジーはひとりでうんうんとうなずいた。

「特に金持ちなら飛びつくと思うのよね。だって上流階級の人間ってなぜか高いところが大好きだもの。絶対儲かるはずよ」

 すちゃっ、とソロバンと呼ばれる計算機――東海域イースタルで使われているというもの――、ぱちぱちと珠を弾いてみせる。

「これとあれとそれと付加価値をつけられるだけつけまくって――ほら、こんなものでどう?」

「あい変わらず下衆い……」

 リジーはにっこりと笑った。

「なんですって、ダグ?」

「あ、いや、そうだね。需要はきっとあるんじゃないかな。お貴族さんたちは飛びつくと思うよ」

守銭奴の相がはっきりとあらわれた表情に、ダグラスはひきつった笑みを返した。

「でしょでしょ? ねえ、マイルズさんはどう思います?」

「いまはそんな話をしているんじゃないだろう、リジー」

「――って、そうでした、そうですよ!」

 リジーはマイルズにむきなおり、ふたたびバン、と卓上に平手をついた。

「リジー、机を叩くのはやめてくれたまえ。こわい」

「いいですか、マイルズさん」

 上司の懇願を無視し、リジーはマイルズに顔をずずいと近づけた。

「わが国に鉄道が敷かれてはや六十年。『旅行業の父』と呼ばれたトゥーリス・シュライクが旅行代理店を起業して五十年! 女性の社会進出も目覚しい昨今、上流階級の女性たちをおもな客層にすえるべきなんです」

「きみの言いたいことはもっともだが、しかしだね」

「――カモ! カネモチ貴族! オ金ザクザク成リ上ガリ!」

 しどろもどろに、マイルズがリジーを押しとどめようとした瞬間、室内で突然けたたましい叫び声が上がった。

 リジーとマイルズ、ダグラスまでもがその甲高い声にびくりとなり、一斉に部屋のすみを見た。窓辺にある止まり木のうえで、剥製――ではなく生きたヨウムがばさばさと羽をはためかせる。

「成金貴族! オ金モチ!」

 リジーは耳をふさいで、ああもう、とうなった。

「黙りなさい、パティ! あんまりさわぐと羽をむしって焼き鳥にするわよ!」

 叫んだとたん、ヨウムはぴたりと嘴をとざしておとなしくなった。

 なんとなく白けたような空気があたりにただよい、リジーは深々とため息をつく。

「……ええと、反対理由を聞かせてもらえるかしら? マイルズおじさま」

「反対、というわけではないんだよ」

 追いつめられそうになっていたマイルズは空気が変わったことに安堵し、肩から力をぬいた。

「女性のみを顧客の対象とするのはいささか博打なんじゃないかと言っているんだ。女性の躍進がめざましいと言っても、妻や娘の旅行費用をはらうのは貴族の夫なり父親だろう」

「だから、です! 女性のみを対象としているなら旅行先での浮気の心配もないじゃないの。旅先で同行者とのあいだに遊びで火がついて離婚だの妊娠だのしたら、それこそ厄介でしょう」

 ふんと鼻を鳴らすと、マイルズは苦笑ぎみに「これ、リジー」と嗜めた。

「年ごろの娘がそんなはしたないことを」

「甘いですわ、おじさま。旅先でのロマンスという響きがご婦人方の興味をどれほどかきたてるのか、最近のゴシップ記事を見るまでもなく明らかよ。半年前の例のアイビス家騒動、覚えてらっしゃるでしょう?」

「ああ、あれか」

 マイルズは唸った。半年前、王家とも縁故のある高名な公爵家の寡婦が、旅先で知り合った異国の成金と再婚し、大衆新聞紙を大いににぎわせたのだ。身分違いもさることながらコブつき同士の再婚で、さらには旅先での恋、という事実が市民の興味を大層かきたてたらしい。

「だが、みながみな旅行好きというわけじゃないだろう。特に女性は。家で刺繍をしているほうが楽しいというご婦人がたも多い」

 ええもちろん、とリジーは認めた。

「でも、ひとり旅に出る女性の数は着実に年々増えてるのよ、おじさま。ちゃんと統計にも出てるんだから」

「ううむ……」

「ようやく世の女性がおつきもつれずに遠方まで出歩けるようになったのよ! だから、わたしは世の女性たちに言いたいわ、『もっと、好きなように生きたら?』って」

 マイルズの苦言もどこ吹く風、リジーは明るいきらきらした鳶色の瞳で窓の外を見た。

「だって世界は広いのに、人生はたった一回きりしかないのよ! 好きなように生きなくてどうするの? わたしは行きたいときに行きたいところへいくし、生きたいように生きるわ」

「そんなことを言っていると、婚期を逃すよ?」

「あら、別にかまわないわ。いもしない旦那さまのために生きているわけじゃないもの」

 にっこりと笑うリジーに、マイルズはため息をついた。

「リジー、私はね、きみが心配なんだよ」

「ええ。存じておりますとも、もちろん」

 リジーにはよくわかっている。このひとの好いおじが、女性にしては主張のはげしすぎる姪にほとほと手を焼いているのも。

「心配なさらなくとも、嫁き遅れておじさまに迷惑をかけるようなまねはしませんわ。もし貰い手がなかったとしても、自分ひとりだけの食い扶持ぐらいなんとかします」

「リジー……」

 もはや処置なし、といった態でマイルズが首をふる。

 もともと容姿もそれほど優れているとはいえないリジーである。意志の強さをあらわすようなきりりとした眉に、瞳はくっきりとおおきく、黒目がちだ。日ごろから外見に「きれい」や「うつくしい」といった形容を使われることは少なく――気づかいのできる男性なら「個性的な美人」と言うだろうが――、「凛々しい」と評されることのほうがよほど多かった。

 おまけにリジーの髪はなんといっても赤毛なのだ。癖のない赤毛をばっさりと肩のあたりで切りそろえ、まとめもせずに自然に流している。服装も、クリノリンでふくらませたスカートではなく、ゆったりとした余裕のあるズボン――最近はやりの自転車に乗るため――だ。

 隣国クラレンスでは女性の新しい服装の流行がおこりつつあるそうだが、ここエルシオンでは髪を短くしたり、ズボンを好む女性というのはなかなかお目にかかれない。保守的で、あまり変化を好まない気質のエルシオンでは、女性は貞淑であれ、というのがいまだに通念なのだ。

 髪を短くして男まさりなふるまいをするなど言語道断。社会に出て働く女性などほんのひとにぎり。父や夫には従順で、家庭を守り、よき妻であり母であることが美徳とされる。

 奇抜で気性が激しく、たいして美人でもない娘に、そうそう嫁の貰い手がつくはずもない。マイルズの嘆きも当然といえば当然だった。

「嫁ぎ先なんかよりも、この店を大きくすることのほうがわたしにとっては大事なの。ワーナーの一等地にマイルズ旅行社を建てるのが、おじさまの夢でしょう?」

 痛いところをつかれた様子で、むう、とマイルズは唸った。

 いつか、地方都市ロセターではなく首都ワーナーに店を展開することがリジーの目標であり、マイルズの夢だった。

「そのために必要なのは何はともあれまず資本! もしくはカネモチの出資者スポンサー!」

「ううむ……」

「金はあるところからどんどこ巻きあげなきゃ意味がないわ。そんなわけで、カモにするなら金持ちの貴族よ! この際だから成りあがりでもかまわないわ、金さえあれば!」

「カモガ来タ! 客ガ来タ!」

「パティ、黙って!」

 唐突にあがったパティの合いの手に、思わず叱りつけてからリジーははっとした。

 ――客が来た?

「……盛り上がっているところ、申し訳ないんだが」

 唐突に、聞き覚えのない第三者の声が室内に響きわたり、旅行社の面々はそろって飛び上がった。

 事務所の戸口に、一流の服飾師が仕立てたと素人目にもわかるスーツを着た青年がたたずんでいた。

 年齢はおそらく二十代前半。黒髪に灰色の瞳。誇張ではなく端整な容貌をしていた。身長はエルシオン男性の平均的なそれよりやや高く、その気品のある物腰は、ひと目で貴族だとわかった。社交界でもまず放っておかれない物件だろう。

 トン、と扉の表面を軽くノックし、かぶっていた帽子を脱ぐと、その青年紳士は言った。

「マイルズ旅行社というのは、こちらかな?」

 こちらも何も、一階の入り口には立て看板が出ているのだから、入ってくるときにいやでも目に入ったはずである。あきらかに皮肉とわかる言い回しに、リジーはむっとした。

 ――イヤミな男。

 ともあれ、来客に気づかず盛り上がっていた自分たちにも非はある。相手としてはイヤミのひとつも言いたいところだろう。リジーはにっこりと営業用の笑顔をつくり、客を出迎えた。

「ええ、そうですわ。ようこそ、お客さま」

「た、大変失礼いたしました! 私が経営者のマイルズです。ご用件をおうかがいいたします、どうぞこちらへ」

 慌てて立ち上がったマイルズが若い紳士を来客用のソファに案内し、ダグラスがあずかった上着をしわにならぬようコート掛けにかけているあいだ、リジーはお茶を淹れるために席を立った。事務室の奥には、実はもうひとつ流しつきの小部屋があるのだ。

 ずいぶんと良い身なりの人間だが、しかしなぜ閑古鳥の鳴くマイルズ社へ来たのだろう。ロセター市には老舗のシュライク社をはじめとして、マイルズ社などよりもよほど大きく知名度の高い旅行社がいくつもあるのに。

 それに、青年がこちらかと問うた瞬間、値踏みするかのような視線がざっと部屋を見わたしたことに、リジーは気づいていた。裕福な貴族の中には、値打ちものを即座に見ぬく目をもつ人間がいる。店の内装ひとつとっても、「とるに足りない」と判断されてしまえばそれだけでこちらの不利だ。

「よしっ」

 リジーは気持ちをひきしめ、一番上等な茶葉と、高価な客用ティーセットを食器棚から慎重にとり出した。


        ◇


「――どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 リジーが湯気の立つ飴色の茶をそそいだティーカップをすすめると、ロデリック・クロウと名乗った紳士はちいさく礼を言い、差し出された白磁のカップを受けとった。彼は渡されたそれをちらりと眺め、

「『エレンフリート』か」

 と、銘柄の名前をすばりと言い当てた。あえて無地のものを選んだのに、とリジーは内心舌を巻くが、もちろん顔には出さない。

「いい色だ」

 給仕を終えたリジーが何食わぬ顔でマイルズの隣に腰かけても、彼は何も言わなかった。女は席をはずせ、と客に怒鳴られたこともあるリジーはひそかに胸をなでおろす。

「あの、それで、クロウさま」

 もみ手をせんばかりの卑屈な動きで、マイルズは客の顔色をうかがう。何せこの会社に上流階級の客が来ることなどめったにないのだ、彼が慎重になるのも無理なかった。

「我が社へのお越しは、旅行のお申し込みということでよろしいでしょうか」

「こちらでは、個人の要望に沿った旅行の企画も請け負っていると聞いたが」

「ええ、はあ、もちろんです。しかし、貴族の方が希望されるような旅行となると、うちでは……、あの、申し訳ございませんが、ご覧のとおりうちは老舗でも大手でもない小さな旅行社でして。ご存知かと思いますが、貴族の方を対象とした修学の旅を専門にあつかっている業者は他にもございますし」

「それは承知している」

 探りを入れるマイルズに、ロデリックはあっさりとうなずいた。マイルズは困惑の度を深める。

本当のことだから仕方がないとはいえ、マイルズの腰の引け具合が情けなかった。こんなときは多少ハッタリをきかせてでも強く推すべきだとリジーは思うが、経営者の方針に口を出すわけにもいかない。

「私どもが提供できるのは、規模のちいさい――そう、いわゆる中産階級の方に好まれるような、どちらかというと庶民的なものになるかと存じますが」

「ああ、別にそれでもかまわない」

 うなずきつつも、ロデリックの眉間にうっすらとしわがよる。言葉とはうらはらに、どうも彼は乗り気でないような雰囲気を漂わせている。

 マイルズははあ、と気のぬけた返答をした。

「し、しかし、なぜうちを?」

 当然のことながら、ロセター市には旅行代理店が他にもある。なんといっても業界で最大手を誇り、王族からの信任も厚い老舗トゥーリス・シュライク社も、ここに支店をひとつ構えているのだ。貴族ならなおのこと、まず一番にシュライク社を頼るところだろう。弱小旅行社とはまず知名度からしてちがう。

「それは……」

 ロデリックは何かを口にしかけて閉ざし、リジーに意味ありげな視線をむけた。

「?」

「――それは、こちらに女性添乗員の方がいらっしゃる、とお聞きしたからですわ」

 首をかしげたリジーにこたえたのは、ロデリックではなかった。まったく思いもかけぬほうから飛んできた声に、一同はふたたび驚いて戸口をふり返る。

 新たな客が、そこにたたずんでいた。

「ごきげんよう、みなみなさま」

 愛らしい仕草で膝をおったのは、目をみはるようなうつくしい少女だった。

 年齢は十五か、六か。リジーよりは確実に年下だろう。象牙色の肌に、早春の新芽を思わせる淡い緑の瞳。無垢な愛らしさをかたちどったような容貌。ゆるく波うった豪奢な金の髪はまとめられることもなく、そのまま額縁のように美貌を飾り立てている。

 フリルやレースがうるさくない程度にほどこされた薄水色のドレスに、首にはドレスと揃いのレースつきのチョーカーが巻かれ、花飾りのボンネットを手にしている。

同性の目から見ても、魅力的な少女だった。まるで、永遠に歳をとらないという妖精国の女王のようだ。

 また何事か騒ぐのではないか――と、リジーははっとしてパティのほうをうかがったが、さいわいなことに彼女は何も反応しなかった。

「フ――フィアンナ!?」

 声をあげたのはロデリックだった。唐突にあらわれた少女への驚きから覚め、やや険しい表情になっている。

「おまえ、どうしてここへ来たんだ」

「あら。それはもちろん依頼人としてですわ、ロデリックお兄さま」

 フィアンナと呼ばれた少女は朗らかにこたえ、とたんにロデリックは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「……兄?」

 思わずぽつりと疑問を口にしたリジーに、少女はにっこりとほほ笑みかけた。屋内にはいったときに脱いだのであろう帽子を手にし、すたすたと部屋を横切って、ロデリックの隣のソファにさも当然と言うように腰をおろす。

「おい」

「フィアンナと申します。はじめまして」

「ど、どうも」

 ロデリックの言葉をさえぎり、少女が名を名乗る。リジーとマイルズもつられたように頭を下げ、それぞれに名乗った。

「あ、僕、もう一杯お茶を淹れてきますっ」

 空気を読んだダグラスが大慌てで奥の部屋に走り去る。彼の頬が赤くなっているように見えたのは、おそらくリジーの錯覚ではないだろう。

リジーは不躾にならないよう注意しながら、ならんで座る兄妹を観察した。

 黒髪に灰色の瞳を持つ兄。たいして妹は金髪に緑の瞳。どちらも整った容姿をしているが、あまり似たところのない兄妹だ。

「依頼人、ということは、ご旅行を希望されているのはフィアンナさまのほう、ということでよろしいで――」

 マイルズがそう尋ねようとした瞬間、

「カモ増エタ! 成金、金モチ、金ムシレ!」

 窓辺からけたたましい喚き声があがり、その場にいた全員がいっせいに腰を宙に浮かせた。

 止まり木の上でばさばさと羽をあおるヨウムに、マイルズは顔を青ざめさせ、ロデリックが眉間のしわを深くする。

「パティ、剥製のふり!」

 リジーがあわてて叫ぶと、ヨウムはとたんに羽をたたみ、嘴を閉ざしておとなしくなった。

「それ以上何か言ったら本物の剥製にしてやるわよ!」

 口をぽかんと開け、仰天をあらわにしていたフィアンナが、リジーのその言葉にようやく我に返ったようだった。

「まあ……、驚きました。わたくし、本当に剥製が鳴いたのかと」

 リジーはくちびるをほころばせ、苦笑した。

「すみません、驚かせてしまって」

「あの鳥、本物なのですか?」

「ええ。ご覧になりますか?」

 ピュウッと指笛を吹いてみせると、パティは止まり木の上で羽ばたいた。狭い室内を滑空し、親指を折りまげたリジーの手のうえに、いとも優雅に着地する。

「すごいわ、なんて賢いんでしょう。なんという鳥なのですか?」

「ヨウムです」

「ヨウム? オウムではなくて?」

「いいえ、オウムとは違う鳥です。オウムはオウム科ですが、ヨウムはインコ科です」

「大きなインコなのですね」

 目を輝かせ、フィアンナは思わずといった様子で手を伸ばした。細い指でパティの頭に触れようとするのをあわてて押しとどめる。

「あっ、ダメです!」

 フィアンナははっとして手を引っこめ、「ごめんなさい」と謝った。

 見るからにしゅんとうな垂れたその様子に、リジーは慌てる。

「ちがうんです、すみません。この子、わたし以外――あ、いえ、身内以外には基本的に人見知りする性格なんです。不用意に手を出すと、噛みついたりすることもあるので」

 フィアンナはその言葉に不快感を抱くどころか、むしろ興味をひかれた様子だった。

「まあ、面白いわ。鳥も人見知りすることがあるのですね」

そう言う本人はずいぶんと物怖じしない性格のようだ、とリジーは思った。

「もともとヨウムは少し臆病なところがある鳥なんです。慣れればおしゃべりになるんですけど。そりゃもううるさいぐらいに」

 一般にトリ頭と揶揄される鳥類のなかにあって、ヨウムの知能はすばらしく高い。覚える単語の数は千にものぼると言われ、ただ主人の物まねをするのではなく、状況に応じた受けこたえができる。

「ウルサイ、ユーナ!」

 とたんに言い返したパティに、フィアンナはまあ、と目を丸くし、くすくすと笑った。

「とても仲がいいのですね」

「何年もいっしょに生活していれば、いやでも慣れますから」

 リジーはなんとなく、この少女のことを好きになれそうだと感じた。その好意が相手にも伝わったのか、フィアンナもまたリジーを気に入ったようだった。

「――決めました。わたくし、このかたに旅のお世話をお願いすることにします」

 唐突にそう宣言したフィアンナに、「なんだと?」と驚いた声をあげたのはロデリックだった。

「いきなり何を言い出すんだ。決めるも何も、まだ概要を話してもいないんだぞ」

「でも決めましたの。わたくし、このかたにおまかせしたいわ」

 フィアンナはリジーを見てにっこりとほほ笑んだ。愛らしい笑みに、思わず見惚れそうになる。

 ――が、肝心の話のほうはいっこうに見えてこない。

「あ、あの……失礼ですが、彼女にまかせる、とは?」

 おそるおそると言った態でマイルズが問うと、フィアンナはあっさりと答えた。

「わたくしのためだけに旅を企画して頂きたいのです。一週間で」

「「……はっ?」」

 彼女の返答に、リジーとマイルズ、そして奥の部屋から茶をはこんできたダグラスが、いっせいに声をそろえたのだった。


        ◇


「クラレンスでは、いまルノ博が開かれていますでしょう?」

 フィアンナがそう切り出したのは、全員の手元に茶の入ったカップがいきわたり、一息ついてからだった。

 ちなみに、パティは止まり木に戻され、ひとまずおとなしくしている。

「わたくし、ぜひそちらを見学したいのですわ」

 きらきらと好奇心に満ちた瞳をむけられ、はあ、と困惑したようにうなずいたのはマイルズだ。

 ルノ博は、正式名称を「ルノ国際万国博覧会」という。万国博覧会はその名の通り、さまざまな国から独自の文化や芸術作品などをあつめ、発表・展示をしている、国をあげてのお祭りだ。開催地が隣国クラレンスの首都ルノということもあり、ここエルシオンからもすでに何千と言う単位の人間が万博を見に訪れている。それも貴族や裕福層のみならず、中産階級や労働者階級の人間までだ。

 貴族のお嬢様がルノ博を見学したがるのはなんの不思議でもないが、それでもなぜ大手旅行社でもないマイルズ社うちでなのか、という疑問は残る。

「ルノ博見学の短期旅行なら、もちろんうちでも主催しておりますが……。ただし、くり返しますが、うちの企画はあくまで中産階級の方々むけと言いますか、庶民的ですよ?」

 おそるおそるといった態でマイルズが言う。

「宿泊は旅籠ですし、高級ホテルというわけには……ああいえ、お客さまがホテルをご希望でしたら、もちろんそのように手配させては頂きますが」

「費用に上限はありません。必要になる金額を仰ってください」

 金に糸目はつけないと聞いて、俄然目を輝かせたのはリジーである。

「ご安心ください、お客さまのご希望には沿わせていただきますから!」

「リ、リジー。落ちつきたまえ」

 身を乗り出したリジーを、マイルズがあわてて諌める。フィアンナはにっこりとほほ笑んだ。

「わたくしの希望をいえば、――さきほど言いましたけど、まずはあなた」

「……わたし、あ、いえ、わたくしですか?」

 リジーは思わず自分を指さした。ええ、と少女は微笑をたたえたままうなずく。

「あなたが企画して、あなた自身がわたくしの旅に同行してくださること。それが最低条件です」

 ――――。

 リジーは一瞬息をのみ、そして次の瞬間。

「や、やりますっ! ぜひやらせてくださいっ!」

 勢いよく立ち上がり、自らの胸をたたいて宣言した。

 ちょうどマイルズに女性のための旅を提案したところだったのだ。これぞ渡りに船、願ったり叶ったりではないか。むくむくとやる気がわいてきた。

 ――それに、もしこの話がうまくいけばこれを期に出資者になってもらえるかも……!

 そんなリジーの下心など知らず、フィアンナは「引き受けてくださるのですね。よかった」と快哉をあげた。ふたりが喜ぶ一方で、その場に残された男性たちはみな一様に微妙な顔つきになる。

 ロデリックにいたってはひと言も口をきかず、眉間にしわをよせてむっつりとフィアンナを睨んでいる。なにか思うところがあるようだった。

「い、いやしかし……リジー、きみはまだ単独での添乗員経験はないだろう。もともとわが社のタイピストで……」

「というか、ルノ博旅行はいちおう僕の担当なんだけど」

 聞こえるか聞こえないぐらいかの声音で隣とうしろからささやきかけてくる上司と同僚に、リジーは「かたいこと言わないの」と同じく小声で返した。

「こんな上客、逃すなんて惜しくないの? うちに正真正銘の貴族のお客さまが来るなんて、もう二度とないかも知れないのよ?」

「うーむ。そ、それは、そうだが……」

「わたくし、家族以外の殿方と接する機会があまりないのです。ですから、いっしょにいてくださる方が女性なら安心できますわ」

 ボソボソとしたこちらのやりとりが聞こえたはずはないが、フィアンナが弾んだ声で言い添えたので、マイルズはしぶしぶうなずいた。

「わ、わかりました。では彼女を同行させるということで。ほかにご希望はございますか?」

「ええ。ここからが少し厳しい条件になってしまうのですけれど、旅行の期間は一泊から二泊程度で、急で申し訳ないのですけど、今日から一週間以内に手配して頂きたいのです」

「は、い、一週間ですか……?」

「お客さま、万博チケットや鉄道の切符はどうにかなるとしても、宿泊場所の手配は今からでは難しいかと……」

「――ダグ。だいじょうぶよ」

 鋭い声音でさえぎると、ダグラスは声をひそめ、早口でリジーにささやき返した。

「でもリジー、きみも知ってるだろ? 万国開催時期の宿泊施設なんてどこも予約でいっぱいで、なかなか部屋なんてとれないんだよ? 良位置にあるホテルなんてなおさら――」

「黙って」

 なおも焦ったように言い募るのを、ぴしゃりとはねのける。

「こちらとしても無理を言っているのは承知しております。ですが、どうしても今月の建国記念日までにルノへ行き、ロセターへもどってきたいのです」

 壁に貼ってある暦にちらりと目線を走らせる。日数を数えてみると、なるほどたしかにぎりぎりの日程だった。

「ご安心ください。ご用立ていたします」

 力強くうなずくリジーに、フィアンナはありがとう、と破顔した。

「そしてこれが最後の――おまけの『お願い』なのですが、わたくしをあっと驚かせてくださること」

 フィアンナはにっこりとほほ笑んだ。極上の、それこそ妖精か天使と見紛うばかりの愛らしい笑みで。

「細かい計画はすべてあなたにおまかせします。楽しい旅にしていただけたらそれで充分。期待してますわ」

「かしこまりました、お客さま」

 客に笑顔でこう言われてはマイルズも引けない。ここはやむなし、と判断したようだ。

「では、さっそく契約書のほうをご用意いたします」

「……待て」

 それまでずっと事態を静観していたロデリックが突然水をさしたので、フィアンナが不機嫌そうな顔をむけた。

「まあ、なんですの。ロデリック」

「俺はやっぱり賛成できない。女性の添乗員では、何か問題が起こったときひとりで対処できるか心配だ」

 この言葉にはさすがにリジーもカチンと来た。

「それは、わたしに対する侮辱と受けとってもよろしいのでしょうか、お客さま」

「リジー!」

 思わずけんか腰になったリジーを、かたわらのマイルズがあわてて諌める。

「そう聞こえたのなら謝罪するが、侮辱のつもりで言ったわけじゃない」

 意外にもロデリックはリジーを冷静に見返し、首をふった。

「旅行者など、ただでさえスリや引ったくりなどの小悪党に目をつけられやすいものだ。それが女性のひとり……いや、ふたり歩きなど格好のえさにされかねない」

「ロデリック、それは特に女性だから危ないということはないはずです。添乗員が男性であろうと女性であろうと被害にあうときはあいますわ」

 フィアンナの反論に、ロデリックはそれはもちろんそうだが、と答えた。

「思いもよらない災難がふりかかってくるのがトリップだ。避けられる危険は避けるにこしたことはない。第一、言葉も通じない異国で、暴漢に囲まれた場合はどうする? 助けを求めることも難しいぞ。貴族の娘を一時的とはいえあずかるのだ、それなりの保障というものを示してもらわなければ」

 ロデリックのいうことにも一理ある。物理的な危険からフィアンナを守る護衛としては、リジーではたしかに心もとない。

 リジーはしばし思案した末、唐突にこう訊ねた。

「ロデリックさま、あなたは生粋のエルシオン生まれではないのではありません?」

 それまでの話題とまったく無関係な内容に、相手は少し面食らったようだ。

「はっ? ああ……まあ、そうだが」

「お生まれは新大陸の東部地方。そうですね、おそらくお父さまかお母さまが新大陸の方で、エルシオン人の伴侶とご結婚された……、とか?」

「父が新大陸の生まれだ。たしかに合っているが、なぜそれを?」

 リジーはにっこりと笑った。

「お言葉にわずかに大陸東部のなまりがありますわ。それに、旅行をツアーではなくトリップと仰いましたね。エルシオンでは旅行を意味する言葉は複数あり、観光旅行のことは特に『ツアー』と呼びます。『トリップ』は比較的短い旅のことを意味します」

「…………」

 呆気にとられたまま、ロデリックは数度まばたきをくり返した。

「リジーは勉強家なんです。特に言語学の」

 ひかえめに言葉をはさんだのはダグラスだった。彼はいままでのやりとりをはらはらしながら見守っていたが、たまらず口を出したようだ。

「彼女はとても耳がいい。エルシオン語の下町なまりから上流階級の発音、地方と各大学別のクセを聞きわけ、西大州ウェスタルの言語のうち二十ヶ国語を習得しています」

「二十ヶ国語……!?」

 ロデリックが目をみはる。

 大小問わず無数の国が大陸にひしめき合う西大州は、大別していくつかの言語体系にわかれている。文字のつづりなどはそれぞれ似通った点があるとしても、やはり複数の国の言葉をあやつるには教養とセンスが必要になる。高度な教育を受けられるエルシオン貴族の子息であっても、せいぜいが隣国クラレンスやオルセンの日常会話しか喋れない、ということがままある。

もちろん一朝一夕で身につくものではないし、ましてやそれが、教育の場を制限されている女性となればなおさらだ。

『本当か? まさか嘘じゃないだろうな』

『独学ですけれど、他国で道をたずねるときに困ったことはありませんわ』

 ロデリックがクラレンス語で訊ね、リジーは即座に同じ言語で答える。

 やりこめられたロデリックはなるほど、と感心したようにうなずいた。

「ハッタリじゃないらしい」

「すばらしいわ!」

 またも感嘆の声をあげたのはフィアンナだった。

「異国へ行っても通訳には困らないということですわね。女性の身でそれほどの学を身につけられるのは大変でしたでしょうに」

「リジーは我が社でも一、二を誇る優秀な添乗員ですよ」

 営業用の笑みを顔にはりつけたマイルズが、彼女の喜びをさらに後押しするように調子のいいことを口にした。

 嘘はついていない。ただマイルズ社には経営者本人をふくめても、添乗員が三人しかいないだけである。

 フィアンナはロデリックをふり返った。

「これでもまだ反対なさるの? お兄さま」

「…………」

 ロデリックは渋面でむっつりと黙りこんだ。

「わたくしのことならあまり心配なさらないで。ひとりで行動できるぐらいには、もうおとなですわ」

「おまえのことを心配してるんじゃない。ただ――」

 ロデリックは口ごもった。わずかに思案したのち、嘆息まじりの声を吐き出す。

「わかった、いいだろう。リジーさんといったな? きみにフィアンナのお守りをお願いする」

「え、あ、はい。おまかせください!」

 どんと胸をたたくリジーに、彼は目をすがめ、驚くようなことを言い添えた。

「それから、俺も同行させてもらう」

 この発言に目を丸くしたのはマイルズ旅行社の面々だけではなかった。血相を変えたフィアンナがソファから立ち上がる。

「ロデリック! いったいどういうことですの?」

「気が変わった。反対したところでどうせ聞かないんだろう。なら俺もついていく。近くで目を光らせているほうがまだましだ」

「そんな、待ってください! それじゃ意味がないじゃありませんか。わたくしはひとりで――」

「やかましい、何か文句があるのか。いやなら親父に報告するだけだ」

「横暴ですわ、ロデリック!」

「なんとでも言え」

 フィアンナは悔しげにくちびるを噛んだ。

「……いいでしょう、わかりました。お好きになさったら」

「そうしよう」

 勝ち誇ったように鼻を鳴らすロデリック。フィアンナは頬をふくらませ、あさってのほうにそっぽをむき、ソファにどすんと腰をおろした。

「そういうわけだ、二人分の手配を頼む。迅速にな」

 唐突にはじまったきょうだい喧嘩を呆気にとられて見ていたリジーだったが、あわててうなずいた。

「か、かしこまりました。さっそく手配をはじめます」

 ロデリックはこちらに視線を向けた。そして、彼ははじめて、ばかにした様子のない、ねぎらいの言葉をリジーに贈った。

「期待している」


        ◇


 それから、リジーの慌しい日々がはじまった。

 鉄道の切符や宿泊施設の手配、現地の下調べや各種交渉などで、飛ぶように一週間がすぎていく。

 全幅の信頼を受けた身としては、決して手抜きなど許されない。リジーは精力的に働き、毎晩眠りにつくぎりぎりまで計画の入念な練りをおこなった。

「相場が……いちまい、にまーい、さんまーい……うふふふ」

 必要経費を銀貨に換算し、チャリンチャリンと数えているうちに楽しくなってしまい、当初の目的を忘れかけていたリジーははっと我に返った。

「いけないいけない、数えるのに夢中になって当初の目的を忘れるところだった」

 あわてて手帳に貨幣換算の計算式を書きこみ、パタンと閉じる。リジーはイスに座ったまま腰を伸ばした。骨だか肉だかがくきっと音をたて、主人の酷使に抗議した。

 ――マイルズ旅行代理店の三階は、リジーが間借りしている部屋だった。もちろん家賃は家主であるマイルズに毎月きちんと支払っている。

 書き物机の上には路線の地図に鉄道時刻表、それに他の旅行社の出した冊子や旅行案内などが乱雑にひろげられている。リジーは卓上に置かれた写真立てのひとつを手にし、かすかにくちびるをほころばせた。

 そこには、幼い自分といまは亡き両親、しかつめらしい顔をした祖父オスカーの写真が見開きで飾られている。写真が苦手だった親よりも祖父の写真のほうが多く、彼の若いころの友人たちとともに、肩を組んでいっしょにうつっているものもあった。

オスカーは放蕩者だった。貴族の家系に生まれながら、若いころから一族の資産を湯水のように使い、あちらこちらと旅をしては投資をし、そのたびに失敗して、ついには勘当同然に家を追い出されてしまった。いわゆる一族の鼻つまみ者だったのだ。

 だが、リジーは自由奔放な彼のことがとても好きだった。

『旅は道づれ、人生は運まかせ』。

 そんなふうに歌っては、オスカーは少年のようにきらきらした瞳で体験談――彼はよく冒険譚だと言っていたが――を語ったものだ。幼いリジーは胸をときめかせてそれを聞いた。

 ――おとなになったら、おじいさまみたいなボーケンカになる!

 まだなにも知らなかった子どものころは、そう言って周囲のおとなたちを慌てさせたりしたものだ。

 裕福だった生家は没落し、両親もすでに他界しているが、リジーは自分を不幸だと思ったことはない。こうしてなんとか食いつめずにいられるのは、祖父や父がかろうじて生活していけるだけの遺産を残してくれたおかげだし、何より女性が才覚ひとつで社会に進出していける時代になったからだ。

 女性がひとりで遠方へ赴くことなど、ほんの五十年前なら考えることさえ許されなかった。コルセットで息も出来ないほどに腰を締めあげていた女性は、その社会的地位もひどく圧迫された存在だったのだから。

 今も完全なる自由とは呼べないかもしれない。だが少なくとも選択肢は増えた。自分の意思で生きていくための方法を模索できる程度には。

 リジーは机の一番上のひきだしを開けた。なかには思い出の品とともに、ちいさな折りたたみ式のナイフが入っている。いかにも骨董然としたそれは、オスカーからゆずり受けた彼の形見だ。

「冒険家になるにはまず必要なものだ」と、そう言って。

 ――いつか、おじいさまの残した足跡をたどりにいけたら。

「女冒険家になる夢は、まだ夢のままだけど」

 リジーはほほ笑んで、写真立ての表面についた埃をぬぐった。

「そのためにはまず、目の前の仕事をこなさなきゃね」

 そのとき、リジーがひと息ついたのを見計らっていたかのように、扉をノックする音がした。

 リジーはあわててナイフをしまい、ひきだしを閉めた。

「クレイン?」

「はい。お嬢さま、入ってもよろしいですか?」

「いいわよ、どうぞ」

 こたえると扉が開き、盆を手にした壮年の紳士が姿をあらわした。

「あたためたミルクをお持ちしました」

 と忠実な召使は言う。

 クレインは祖父オスカーの代から家に仕えてくれていた家令だった。リジーの生家が没落し、両親も他界し、郊外の屋敷をすべて手放したあとも、こうしてリジー個人に仕えてくれている。

 クレインはちらりと散らかった机の上に視線を走らせ、眉をくもらせた。

「お嬢さま、さしでがましいようですが、あまり根をおつめになりすぎても……」

「ええ、わかってる。でも大丈夫よ。むりをしている範囲じゃないから」

「しかし――」

「やっと大きな仕事をまかされたの。この仕事を首尾よくこなせば大金がっぽがっぽ……もとい大きな利益があげられるし、何よりカモ……じゃなくて、有力な出資者を得られるかもしれないの。絶好の機会なのよ!」

 こぶしをにぎりしめ、爛々と目を光らせるリジーに、クレインは「どうお諌めするべきか……」と言いたげな微妙な表情になった。

「あ、言っておくけど、いくらわたしでも、お金に目がくらんだとかそういうことじゃないからね」

「はい」

「お世話になってるマイルズおじさまに早く恩返しがしたいし。何より稼いでおかないと、そのうちクレインに払うお給料も底をついちゃうもの」

「お嬢さま……」

 クレインがなんともいえない表情になる。

 わたしのことはもういいから、もっと良い家に奉公へ行って、と何度口にしかけてやめたかしれない。再就職先の紹介状が必要なら、マイルズに頼めば用意することもできた。だが、いつまでたってもリジーは踏み切れないでいる。

 クレインがリジー専属の従僕のままでいてくれるのは、ひとえに彼が祖父に恩義を感じているからにすぎない。いわばリジーはクレインの厚意に胡坐をかいているのだ。

「なにより、お客さまがわたしを見こんで仕事を依頼すると言ってくださったのよ! その期待にこたえてこそ一流ってものじゃない?」

「はい」

 リジーはにっこりと笑った。

「というわけで、いまのわたしは気力充分、生活も充実してるの。だから心配しないで、ね?」

「かしこまりました」

 クレインはうなずき、ミルクを差し出す。ありがとうと礼を言ってリジーは受け取った。

「お嬢さま、例の電報の返信ですが、なんとお送りしておけばよろしいでしょうか」

「ああ、いけない、忘れてたわ。んー、そうね。『伯爵のご厚意に大変感謝します。近いうちに必ずお礼にうかがいます』と打っておいて」

「かしこまりました」

「ごめんなさいね。今回のことでは、伯だけではなく結局クレインの手まで煩わせることになってしまって」

 いいえ、と彼は首をふりかけ、思案したようにぴたりと口をつぐんだ。

「僭越ながらお嬢さま、ひとつよろしいですか」

「ええ。なあに」

「わたくしはオスカー様がよく口にされていた、あるお言葉がとても好きなのです」

「ある言葉?」

 リジーは首を傾げる。祖父は格言めいたことを口にすることがとても多い人間だったから、ハテどれのことやらと身構えた。

「『人間ひとりの力など高が知れている。大きなことを成し遂げるには――』」

「『恐れず、他人の力を借りればいい』……よね?」

「はい」

 リジーはさらにそのつづきをつぶやいた。

「『他者に力を借りることは恥ではない。そしてそれは、誰にでも成しえることではない』」

 クレインはうなずいた。

「ありがとう、やる気が出たわ。これを飲んだら寝るわね、おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」

 一礼して部屋を出て行くクレインを見送り、リジーは写真立てにもう一度目をやる。

「いろんなことが楽しみだわ。応援してね、おじいさま」

 ――がんばれよ、リジー。

 そんなはずはないのに、写真の中にいる祖父が、にやりと笑ったような気がした。


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