真夜中のコーヒー【KAC202210:真夜中】
冬野ゆな
第1話 真夜中の喫茶店は
「そういえばこの間、ここのお店、真夜中なのに電気が点いてたのよ」
ここって夜8時までだったでしょ、と付け加えてから、友人は珈琲をすすった。
「真夜中って、何時よ」
「12時半か、0時くらい。仕事でやらかしちゃって。おかげで終電ギリギリだったの」
昔ながらのレトロな雰囲気の小さな喫茶店。
表通りから路地を入って、少し奥まったところにあるこの喫茶店は、小さな隠れ家といっても差し支えない。看板猫が一匹、籠の中で大あくびをしている。
「たまたま片付けに手間取って真夜中までかかったとか、そういうのじゃないの? 掃除が入ってたとか」
「でも、表の看板もついてた気がするのよね」
「ふうん」
まああらかたそんなところだろう。
私と友人は、そのまま喫茶店の珈琲チケットを一枚ずつと、ケーキ代を払って店を出た。白髪混じりの爺さん店主が、またどうぞ、と後ろから声を投げてきた。
そんなことがあってから、しばらく経った頃。
私は深夜の道を、家路を急いでいた。
会社に残っていたのは私ひとりで、警備のおじさんもいなくなってしまっていたので、自分で鍵をかけて出てきた。終電にはなんとか間に合い、こうして歩いているわけである。
時折走ってくる車の音が、妙に大きく聞こえる。
もうあたりの店もほとんど閉まっている。
ところが、例の喫茶店の前まで来ると、路地裏の先がほのかに明るいことに気がついた。ひょいと覗いてみると、確かに看板も灯りがついている。やっているのだろうか。
興味をひかれ、足を向けた。
扉を開けると、からころと控えめな音が鳴った。
思わずきょろきょろとあたりを見回していると、店員らしき少女が私のほうへとやってきた。
「いらっしゃいませえ。お好きな席へどおぞお」
間の抜けた声がして、店員が私を出迎えた。
さすがに夜だからなのか、あまり見たことのない店員だ。私は空いているテーブルを探して、席についた。
夜だというのに、意外に店の中に客がいた。夜の仕事をする人たちなのかもしれない。だがそれほど派手な人たちはおらず、まるで昼間に迷い込んだかのようだ。隣の男たちが注文を頼んでいた。二人とも、狐のようにつり上がった目をしている。
「油揚げ定食を二つ。それと、持ち帰り用の油揚げ、三つずつ包んだのを二つお願い」
「わかりましたあ」
はじめて聞く定食だ。昼間とはメニューもまったく違うらしい。
他のテーブルでも、真っ昼間のごとく話が聞こえてくる。
「最近はどうかね。重箱婆さんの腰は良くなったかね」
「良くはなったけど、もう年だっつって隠居するみてぇでよ。でも孫がよくやってるらしいぞ。重箱じゃあないみたいだが」
「また牛鬼のやつが暴れたってよ」
「まったく、警察は何をやってるんだろうなあ」
「すいませぇん。ツナサンドひとつ。キャット・ツナのやつで」
私は微かに聞こえてくる会話に耳を傾けつつ、メニューを見つめた。
「すみません」
「はあ~い」
間の抜けたような声をあげてやってきたのは、猫のように細い目をした女の子だった。
「珈琲と、ツナサンドを」
「お客さぁん、いまの時間ならイブニングがつきますけどお、どうしますう?」
「イブニング?」
「珈琲にぃ、セットでえ、トーストやタマゴがつきますよお。ツナサンドのセットもありますう」
なるほど確かにイブニングと書かれたページに、AセットBセットと四種類ほど書いてある。
「それじゃ、イブニングのツナサンド……Bセットで」
「はあい、かしこまりましたあ。珈琲の種類はどうされますう?」
「アメリカン……いや、なにかお薦めはありますか」
「それじゃあ、ムーンコーヒーがお薦めですよお。いまは三日月ですねえ」
「ええと、それじゃあその……ムーンコーヒーをお願いします」
「かしこまりましたあ。少々お待ちくださいませえ」
ムーンコーヒーとはなんだろう。
それに、イブニングとはなんだろう。
おそらく、喫茶店のモーニングみたいなものじゃないかと推測する。珈琲をモーニングで頼むと、トーストや朝食がついてくるサービスだ。
ここは夜しかやっていないから、たぶんイブニングなのだろう。
そんなことを考えていると、ちりんちりんと扉の鐘が鳴った。
「店長、やってるかい」
入ってきたのは、巨人のようにどっしりとした体格の男だった。入り口を塞いでしまいそうなほどの巨体が、ぬうっと扉をくぐる。天井につきそうな頭はぼさぼさで、よく日焼けしているのか顔も手も真っ赤だ。爪は長く鋭く、歩くたびに床がみしみしと音をたてる。
「ちょっとお。お店壊れちゃいますよう」
「おお嬢ちゃん、すまんなあ。小さいもんで見えなかった。一週間後にカツサンドを十人分頼みたいんだが、できるかね」
「はあ、十人分ですかあ。一週間後っていうと……」
店員はカレンダーを確認しながら、指定された時間の予約をしていた。そんなこともしているのか。
男が再び頭をこれでもかとかがめながら出て行く間に、店員がツナサンドと珈琲を持ってきた。
「おまたせしましたあ。ムーンコーヒーと、Bセットのツナサンドですう」
「ありがとうございます」
「はじめてでしたらあ、まずはそのまま飲むのをおすすめしますよお。ブラックでも飲みやすいんですう」
目の前に置かれたツナサンドは、野菜とツナがたっぷり入っていて、パンからはみ出そうだった。軽食のつもりだったが、意外にボリュームがある。半分くらいは持ち帰っても良さそうだ。
それからコーヒーに目を落とす。
さっき、ブラックでも飲みやすいと言っていたことを思い出す。
さっさとミルクと砂糖を入れてしまってもいいが、せっかくなのだからブラックで飲んでみてもいいだろう。
恐る恐る、カップに口をつける。そして一口飲んだ。思ったよりもまろやかで、向こう側にほんの少しの苦みがあった。
あ、おいしい――と閉じた目の中に、不意にぼんやりと光るものが見えた。
――……なんだろう。
まるで自分が、満点の夜空の下で一人、椅子に座っているような感覚に陥った。
そのまま夜空を見上げているようだ。
でもけっして暗くはない。
明るい三日月が、そっと自分を照らしてくれている。そんな気がした。
――……あ……。
どこかほっとする。
失われてしまった夜の静けさを取り戻したかのようだった。
やがて目を開けると、わいわいと賑やかな喫茶店の風景が視界に戻ってきた。
すっかりコーヒーを堪能し、残したツナサンドを包んでもらうと、すっかり夜も更けていた。しかし夜の仕事人たちにとってはまだまだこれかららしく、やってくる客もいる。私が眠いせいなのか、それともなにかのコスプレなのか、スーツを着た猫頭の人々まで入ってきていた。
立ち上がってレジに向かうと、おばあさんがやってきた。ここはいつも爺さんの店主がやっていたはずだけど、夜は違うらしい。
私が珈琲チケットを取り出すと、お婆さんはそれを受け取ったあと、アッ、と声をあげた。
「お客さん、ごめんなさいね。このチケットはお昼間しか使えないの」
「あれっ、そうなんですか」
もしかして、店主が違うから夜だけ場所を借りているお店なのかもしれない。
個人経営の居酒屋なんかでは、昼間だけ場所を借りて店をやっている人もいるからだ。
「お客さん、夜用のチケットも良かったらどう? 特に期限は無いわよ」
珈琲1杯300円。チケットは11枚綴りで3000円。1杯分無料だった。
決して楽な出費ではないが、ここの珈琲もおいしかった。
「じゃ、1冊ください」
「まいどお」
包んでもらったツナサンドとチケットを片手に、私は店を出た。
店の中のなごやかな雰囲気はすっかり無くなっている。
明るいところから出てきたはずなのに、夜がよく見える気がした。
まるで、夜目が利くようになったみたいに。
視線を落とすと、いましがた手に入れたチケットが目に入った。
夜専用だという珈琲チケットは、猫の顔のイラストが笑っている。そのうしろには、二本のシッポが描かれていた。
真夜中のコーヒー【KAC202210:真夜中】 冬野ゆな @unknown_winter
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