最終話


 「ファンタジー系3 最終話」



         堀川士朗



妖精ホヰップはエサを欲しない。

一切何も食べない。

空気中に含まれる水分と酸素のみを栄養価として生きていける生き物だ。

つまり呼吸が食事行為である。

飼育のコストパフヲマンスが非常に良い。

ロハで飼える。

小さな胸いっぱいに深呼吸をし、酸素が美味しかったのか、


『きゅうきゅう』


と嬉しそうに鳴いていてかわいい。

小蝿川はこの子を『カンちゃん』と名付けてかわいがった。


今日も何となく終わった。

カンちゃんは社のもくもくとした煙草の匂いが苦手なようだ。

なのでせめて小蝿川は自分では社内では吸わないようにしている。

普段吸っているゴヲルデンバットウも五銭から七銭に値上がりした。

物価は何でも値上げの嵐だ。

給料は変わらないからこれではヰンフレどころではなく、スタグフレヰシヲンである。


珈琲がやけに美味いな。

死ぬのかな。

と、小蝿川は思った。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


現(うつつ)の中の夢の割合が非常に高い。そんな夢のような現を誰しも生きている感じがする。ふわふわ。写し世。



日曜日。

休日。

朝風呂を浴びる。

カンちゃんのおへそをくすぐったりした。

カンちゃんは、


『きゅうきゅう』


と言って笑った。

秋の虫のかわいい声が聞こえる。

秋に似つかわしい。

朝の風に乗ってほのかにキンモクセヰの香りがする。

鼻腔をくすぐる。

早いな。もうそんな時期か。

まだ九月半ばだがな。

小蝿川はこの季節の移り目が一番好きだった。

食べ物も美味しい。

今夜は銀鮭でも焼いて食べよう。

こないだ買ったセリフ宝くじは外れた。一等の正解は「いつの日か」で、かすりもしなかった。

一円が無駄になった。

まあ良いさ、食欲の秋だ。美味しいものがあればそこはパラダヰスだと小蝿川は思う。

市井の日常。

それが良い。


今年の秋も例外なく深まっていく、そんな予感をさせる空が上空にあった。

商店街をそぞろ歩き。

活気があって良い。

魚屋で身が締まり脂の乗った銀鮭三切れを十二銭で購入する。

笹の葉でくるんでもらう。

今夜はこれが肴(さかな)だ。

甘いものが食べたくなった小蝿川はパン屋でシベリアを二つ購入し、道の途中で頬張った。

平和だ。

妖精ホヰップのカンちゃんにもシベリアを与えてみたが、カンちゃんはいやいやをして食べなかった。

本当に安上がりな子だ。


雲の移動が速い。

豆腐屋のラッパの音がする。

豆腐も買おうか。

鰹節をかけて冷やっこにしよう。

上野動物園に行きたいな。

カンちゃんに色々な動物を見せてやりたい。

どんな反応をするだろう。

ふふふ。

愉しいな。


明日は明日、また明日。

市井の毎日。


いつも、こんな日なら、良い。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


小蝿川はある秋の日の夕方、部屋の箪笥が気になった。

箪笥の一番下の段。

そこは普段開ける場所ではない。確か冬用のコウトだかが入っているはずだ。

しかし何故だかそこには忌み嫌うものが入っているのじゃなかろうかと云う気がした。

まるでその中身が早く発見して呉れ早く発見して呉れとせがんでいるかのようだった。

恐る恐る開けると、そこには身に覚えのないベルベットのスウツとヱナメルの靴、そして手紙が入っていた。

手紙にはこう記されてあった。



『怪盗奇妙紳士様。


いつもこの貧民街に奉仕福祉のお宝を頂戴し、ありがとうございます。

おかげさまで、みんなとてもとても助かっています。

お身体大切に、どうか決して捕まらないでいて下さいね。

ご無事を!』



何だ、これは。

いや、否、そんな事あるまいに。

この自分が怪盗奇妙紳士だなどと!

きっと誰かがこの箪笥に入れたのだ。


次に小蝿川は記憶を辿った。

自分が何をして生きてきたかを可能な限り探り漁った。

だがそこに怪盗奇妙紳士の断片はなかった。

なのに自分は蛭田刑事から執拗に疑われ、自宅の箪笥には衣装と靴と感謝の手紙までもが置いてある!


「……ああああああアアアアアア亞亞亞ッッッ!!!」


急激に、急速に、小蝿川は恐怖に駆られ自宅を飛び出した。

すかさず妖精ホヰップのカンちゃんがついていく。


俺は。

俺は二重人格なのか。

無意識で怪盗奇妙紳士に変身しているのか。


蛭田の気配がする。

逃げよう。

くそう。

軽やかだ。

身体が動きに動く。

これも俺が奇妙紳士である事の証左か。

街は夕暮れ。

オレンヂに包まれている。

子供たちが縄跳びやらロウ石で地面にヤッコさんの絵を描いて遊んでいる。

生暖かい風が微弱に吹いている。

空気が撹拌されている。

さっきっから頭痛が非道い。

カルモチンを呉れ。

チンツウ錠を呉れ。

あてどもなく早足で歩く。

ここがどこだか分からない。

赤トンボがふらふらと飛んでいる。

逃げろ俺。

いっそ夢の中であって呉れ。

蛭田はすぐ後ろにいる。

そんな気がしてならない。

逃げろ俺。

逃げろ俺。

路地の角を勢いよく曲がる度にあいつがヒョイと顔を出すのではないかという恐怖が頭をよぎる。

逃げろ俺。

逃げろ俺。

いっそ夢の中であって呉れ。

生臭い蛭田輔太郎刑事の息遣いがもう真後ろまで来ている。

俺を捕らまえようとしているのではない。

俺を殺そうとしているのだ。

逃げろ俺。

逃げろ俺。

俺は夢の逃亡者。

怪盗奇妙紳士。


銃声。二発。背後から。


空気がうずうずと見えた。

熱いッ。

背中が焼け火鉢に当てられたかのように熱い。

撃たれたのか?

蛭田に。

くそう。

あの狂人め。

僕は怪盗奇妙紳士じゃないのに!

嗚呼……!

血がどくどくと背中から流れている。

地面に血溜まりが出来ていく。

目の前が白くなる。

僕はもうお仕舞いだ。

死ぬる。


蛭田輔太郎刑事は射撃し終えて中指だけをクイクイと動かすと、何も云わず満足そうにその場を立ち去った。


煙が宙を舞っている。

静寂が訪れた。

見知らぬ夜。

見知らぬ街。

分厚い雲間から中秋の名月が覗き、空を彩っている。

雲の向こう側にあっても、月は小蝿川を照らした。

妖精ホヰップが悲しそうな顔をして小蝿川の側を離れない。


『きゅうきゅう』


と悲しげに鳴いている。

やがて大気が湿気を孕(はら)んできた。

小蝿川の額に一粒ポタリ。

今にも。

雨が来る。

雨が来る。



…。

……。

…………。

……………………。

……弾丸はすんでのところで小蝿川の身体を貫通していなかった。

妖精ホヰップのカンちゃんがガアドし、衝撃を吸収していたのだ。

薄れゆく意識の中で小蝿川は、


『嗚呼、六十銭で命を救われたなぁまったく』


とか、そう云った事を考えてから静かにコトリと気絶した。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


追記


検死を終えた馬喰マチ子の遺体は遺体安置所から忽然と消えていた。

DNA鑑定と巨大電子頭脳『百景』の照合の結果、馬喰マチ子はそもそも偽名で、本名はティチヴァン・ミュノリ。

北の国の諜報機関『ユニ・マテ』の女スパヰであったと云う。

もちろんこの情報は国家機密の闇に葬られた……。

警察と軍が行方を追うが無駄だろう。

黒い瞳のカラアコンタクトを外し碧眼に戻って、きっと今頃は北の国で、不死身の女ミュノリは嗤(わら)っている頃だろう。



北の国が超科学巨大地震兵器『アトロポス』を使い、関東大震災が東京を襲うのはこの三年後の事である。


全て夢。

全て幻。



          オワリ



     (2021年7月執筆)

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