第三話


 「ファンタジー系3 第三話」



         堀川士朗



秋明社のデスク。

至るところで社員が喫煙しているためスモヲクがかかっている。

小蝿川と園鷹の残業も終わりに近かった。

園鷹取康が肩を鳴らす。


「たへ。ちかれたび~。今日はもう酒飲んで終わりにしたいよ」

「そうだな。ははは」

「斜の煉瓦亭。こないだあすこの店で五十銭の鶏の半割り焼きデナアァを食ったんだが、全然あっちの方が美味かったな」

「園鷹~、ほらまたそれだ」

「へ?」

「全然美味いというのは間違った日本語だ。使ってはならぬ。全然の後には本来なになにでないと否定の言葉が入るはずだ。でないと構造的におかしい」

「日本語に厳しいねぇ小蝿川は」

「うん」

「間違いか。お湯いっぱいのお湯、一人のお父さんたち、みたいなもんか」

「何だそれ。訳が分からないな」

「へへへ」

「もし使うならば全然ではなく断然とするが良いよ」

「断然あっちの方が美味かったね?」

「正解」

「オーウケヰ。分かった。今度からそうするよ」

「嗚呼、小さな世直しが出来て良かったよ。僕は世直しが好きなんだ」


園鷹は先に帰った。

結局、園鷹とその後一緒に食事するのはやめた。

給料日前だ。

金欠病の園鷹に奢って呉れと泣きつかれるに決まっている。

とてもじゃないが、小蝿川の安サラリヰでは二人分は賄いきれない。

そんな事をやったら、向こう一週間は冷や飯の茶漬けの日々が続くなァと小蝿川は溜め息を洩らす。


さて帰ろうかと思ったところ、面会者が現れた。

ハテこんな時間に?

彼は名前を蛭田輔太郎(ひるたすけたろう)と言った。紀尾井町警察署の刑事、警部補だった。

一週間前に作家獅子村兼権氏宅で起きた怪盗奇妙紳士による盗難事件について話を聞きたいと言う。

確かに獅子村宅には原稿を取りに訪ねた。

しかしそれ以外の事はしていないと小蝿川は答えた。

蛭田は粘着質な性格を隠しもせず、獅子村となにかトラブルが起きなかったか?彼について悪いヰメヱヂを持たなかったか?など、まるであたかも小蝿川宇在が怪盗奇妙紳士であるかを前提として詰問してきた。

獅子村には良い印象を持っていなかったがために、小蝿川は返答に迷った。

蛭田はそこを見抜いて中指だけをクイクイと動かした。

小蝿川はおのが心に一片のやましさなどなかったが、蛭田の口撃についあうあうと口ごもってしまった。

蛭田はすかさず攻め立てた。


「今日のところは参考人程度ですがね。今、巨大電子頭脳百景に犯人のDNAを解析させてルンです。それが小蝿川さん、あンたのと一致したら…………ひとつ面白い事になりますヨ。ひはははははっ!」


と言い捨て、蛭田刑事は秋明社を去っていった。

小蝿川は茫然とした。

何だか、季節外れの突風に犯された気分だった。

それか、邪悪な獰猛犬数十匹による無限モフモフ地獄。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


夏。

日曜日。

真昼。

根津のアパルトメント。


髪に手櫛をして匂いを嗅ぐと、酸っぱい汗の匂いがする。

ベタついている。

そして、異様な匂いが耳の辺りから漂っている。

蚊帳の中にいる。


青年の名は山本夜風(やまもとよかぜ)。


一週間前までは精力溢れる溌剌とした青年だった。


腕や肩に爪を立てて擦りながら移動すると、まりまりと黒い垢が取れる。

もう一週間と風呂に入っていない。

まるで身体全体を覆い尽くす汚穢(おわい)が匂いたちながら突き抜けているかのようだ。

この一週間引き込もっていた。

自涜(じとく)行為に耽るのも、もう飽き飽きだった。

洗濯物はたまっていない。

服や下着を一切取り替えていないからだ。

食事はおととい口にした鯨の大和煮の缶詰めひとつっきり以来食べていない。胃腸が拡張せず収縮を極めているから欲しないのだ。

胃液すら出ないが、いっそ吐いてしまいたい。


狭いアパルトメントのこの部屋はとても蒸し暑い。

かなかなと力弱く蝉が「死なせて呉れ」と鳴いている。


「ア、亞、あ、暑い……」


この部屋の暑さには慣れてはいるが、思わず口からその言葉が出てしまった。

汗が止めどなく流れる。

不快な汗。

汗の成分は小便とほぼ同じだ。

つまり肌から小便を流しているのとニアヰコウルである。


「えっと。ええっとー。

えっと。つまりー」


おのが汗と、血が臭い。

彼がそう思うのは卑下した感情が底流にあるからだ。


隣の部屋に住む女のくしゃみの音がさっきっから喧しい。


べっくし!

べっくし!

べっくし!


喧しい。

山本夜風は脚を投げ出して畳に寝そべっている。

顔は整っているがあばたヅラの青年だ。痩せている。

夜風はあの日の馬喰マチ子の事を思い、居てもたってもいられなかった。

連絡を取りたいと思ったが連絡先を知らない。

ましてやこの時代、スマアトホンなどという簡便な通話道具はない。

再び店を訪れたかった。

が、それが藪蛇である事ぐらいは夜風自身理解していた。

でも、そうした感情ももうお仕舞いだった。

そう、お仕舞いだった。


顔が、敗北の帰結として非道く浮腫(むく)んでいた。

この倦怠感は半端ではない。

哭いても良かったが、涙とか云う陳腐な液体は流れてこなかった。

身体がどんどん沈潜化していく。

どうしようもないほど深い心の澱に足を取られて動けない。



カフヱー『桃色倚譚』。


その夜のマチ子は大胆に胸元が開いたルックの赤いドレスを着用していて、まるで黒人歌手みたいで、今にも『えんだ~。いやあ』とか熱唱しそうな雰囲気を醸し出していた。

まさにヱロウスの化身でフヱロモンが出ていた。


「ぼかぁ海軍にでも入ろうかな」

「まあ。夜風さんたらどうしたの?」

「いつまでもフラフラはしていられないからね」

「何で海軍さんに?」

「陸軍よりも海軍の方がメシが美味そうだからさ。でもね、話は変わるけど食事と排泄どっちが気持ち良いと思うね?」

「え?」

「ぼかぁ排泄だと思うな。つまりね。口に入れる行為よりも体外へ出す行為の方が快楽として数値がでかいと思うのさマチ子さん」

「そう」

「汚かったね。マ、そんな話はどうでも良いや」

「そうね。どうでも良い」

「……」

「……」

「嗚呼、マチ子……今宵の君はとりわけ綺麗だ」

「……」

「ぼくだけのものにしたい」

「そう……ごめん、もう来ないで呉れる?」

「え。どういう意味?」

「一方的な恋愛感情を寄せて、相手の事を無視して自分だけが気持ち良い。ストウカアのようだわ。きっと私たちがベッドヰンしたら、あなたは吹聴しまくるわ。周りに。ペッチャクッチャと」

「えっと」

「秘すれば華」

「えっと。ええっとー」

「それすら理解出来ないのね」

「えっと、えっと、えっと。えっと。ええっとー。えっと。つまりー」

「あなたはロボットのようね。感情のないロボット。チャアペックが描いた世界の住人。あなたには関わりたくないわ。世捨て人みたいよ、あなた。さもしいお家のアパルトメントにお帰りなさい。そして二度と、桃色倚譚には来ないで」


カウンタア越しにそうピシャリと言われた。

ちょうど一週間前の事だ。

でも、もう、どうでも良い事だった。


山本夜風はさっき目を通したタブロイド紙を手にしてまたある記事をぼうっとした頭で眺めた。


『銀幕女優高峯峯子、米国歌手ニヰヌ・マッケンヂヰと電撃国際結婚す!』


の記事の横にとある見出しが踊っている。


『うら若き東京の不良娘、モダンガアル刺さるる!即死!被害者は文化人集うカフヱー桃色倚譚の女給十九歳の馬喰マチ子女史。誰あろう犯人は超人気作家獅子村兼権その人!何たる悲劇!何たる猟奇!』


悲しくはなかった。山本夜風は神様に感謝すらした。

頭の中ではサンクトゥスが流れていた。

馬鹿おんなが。

暗黒に包まれた得体の知れない底意地の悪い馬鹿おんなだ。


「えっと。ええっとー。

えっと。つまりー」


でも、それももう終わりだ。


山本は妄想した。

自分の衝動が獅子村兼権をその行為へと突き動かしたのだと。

そして、それは当たっていた。

山本夜風にはある種超能力めいた力が存在したのだ。

ヒトを操る力。

だが彼がそれを完全に自覚し、使用するのはもう少し先になってからの事だった。

彼は後に、名前を五十六と変えて帝国海軍大将にまで登り詰める。


「そうさ。ぼかぁ世捨て人でロボットさ」



現(うつつ)の中の夢の割合が非常に高い。そんな夢のような現を誰しも生きている感じがする。ふわふわ。写し世。



          ツヅク

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