第二話
「ファンタジー系3 第二話」
堀川士朗
浅草。
店での服装のままなのだろう、赤いドレス姿と洋髪のまま馬喰(ばくろ)マチ子はカフヱー『桃色倚譚(ももいろきたん)』の仕事がハネた後、ある程度厚みのある定形外の茶封筒を鞄に入れて店の裏口から出た。
夜も更け街路灯の灯りばかりとなり、軒を連ねる他のカフヱーももうとっくに閉店時間だ。
脇道の排水溝からは湯気が立ち昇り、一日の終わりを告げていた。
人通りもまばらだ。
早足で歩くマチ子。
朧月夜。
路地裏。
異形のもののけがこの夜中にかくれんぼでもしているかのような雰囲気を醸成している。
『モウウヰヰカヰヰヰ?』
暗がりにコウトを着た背の高い男が立っている。
この国の人間ではなかった。
馬喰マチ子は、
「これが東京の龍脈の全貌よ」
と、一言だけ言いその男に鞄から出した茶封筒を渡し、無音の夜の街に消えた。
男は横付けしてあった高級外車に乗ってこの街を後にした。
暗黒の大気は、今にも雨が降り出しそうなほどの湿度を帯びている。
今にも。
雨が来る。
雨が来る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
蛭田輔太郎(ひるたすけたろう)警部補。
『紀尾井町のドウベルマン』の異名で呼ばれる彼は怪盗奇妙紳士の事件を追っていた。
資料室に連日入り浸り、何度となく犯行現場に足を運び、目撃者の証言を集めていた。
奇妙紳士が宝を呉れてやっている、あの醜い貧民窟の連中はあてにならない。
みな、貝のように口を閉ざし、おとりになるような偽の証言で奇妙紳士を庇う言動のフシがある。
蛭田はそれが不愉快だった。
醜い醜い醜いッ!
今、警察本部にある巨大電子頭脳『百景』に現場に残された怪盗奇妙紳士らしき人物から採取したDNAを照合させているところである。
解決は近い。
いつまでも、のさばらせてなるものか。
蛭田は中指だけをクイクイと動かした。
執拗に奇妙紳士を嫌悪する蛭田輔太郎。
ベルベットのスウツを着た神出鬼没の勇士?
ふん!虫けらが!
義賊気取りが!
帝都の治安を脅かす悪漢はこの俺が退治してヤル。
……別に、逮捕じゃなくったって良いンダ。
背の低い、蛇のような目付きの蛭田は灰色の背広をめくって、ホルスタアに納められた小型拳銃を眺め、優しく愛撫しながらそう思った。
現(うつつ)の中の夢の割合が非常に高い。そんな夢のような現を誰しも生きている感じがする。ふわふわ。写し世。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ある日。
作家、獅子村兼権(ししむらかねごん)は廁(かわや)に立った。
小便をしようかと局部をまろび出すと……。
ふしゅううううう。
ふしゅううううう。
ぼぼぼぼぼぼぼぼ。
「ムムッ?拙の珍棒から粉煙が盛大に吹き出しておるワイ!」
こッ、これはッ。
今巷で大流行のチポポ菌だ!
しかしチポポ菌は性病。
「一体誰から罹患、喰らったと云うのかッ……?」
獅子村は記憶を辿った。
誘蛾灯に吸い寄せられるが如く、夜の街に人が繰り出している。
ここは浅草。
吉原に程近い飲み屋街。
カフヱー『桃色倚譚』。
店内の薄暗い照明は妖しげなムウドを醸し出し、男女の夜のとばりの向こう側を暗示しているかのようである。
獅子村はその日執筆を終えてカウンタアで飲んでいた。
もう片方の手で舶来物の平べったいゲルベゾウタアの煙草を吸っていた。〈ゲルベゾウタアは後に禁制品となる〉。
そこにカウンタアの向こうから女が声を掛けてきた。
馬喰マチ子だった。
獅子村にはとても若い女に見えた。実際若いのだろう。
髪はモダアンで現代風アラモヲドな二百三高地巻きに巻き上げて、ハイカラな蝶をあしらった黒い着物を着ていた。
七つ八つから器量良しだったのだろう。
多人数のアイドル、『下り坂フヲウテヰシクス』に居てもおかしくはなかった。
はたまたレヲナアル某の絵の女のように胡粉(ごふん)で彩色したかのような肌艶に光の伸びやかさがあった。
手に持ったグラスの中で氷が不穏当にざわついている。
獅子村はおのが浴衣の中のある一部分が隆起し始めたのを自覚した。
「マア。獅子村先生じゃありませんか?」
「そうだが君は?」
「馬喰マチ子と申します。はい、お名刺」
「美しいね」
「お上手。先生の書かれるヒロウヰンに比べたら妾(あたし)なんか」
「お。読んでくれておるのかね、わしの作品を」
「どうします?セクスしていきますか?」
「……へ?」
「ファンのひとりですわ。『常冬の惑星』と『ほかほかダムドねえちゃん』、拝読しておりますの」
「そうかね。うむ」
獅子村は皿の上のピスタチオを慌てて食べた。
「暑いな今日は」
「そうですね」
「新橋の芸者が暑さのために発作的狂人となって警察に保護されたそうな」
「さいですか」
「暑い」
「ご存じ?北九州の要塞都市、新濃」
「ああ。知っとるよ。知っておるばかりか、今新濃についてのルポをまとめあげとる最中だ」
「マア!素敵!お詳しいのね」
「まアな」
「作品の事、先生ご自身の事、それから新濃の事」
「ふむ。ムう」
「色んなお話が伺いたいわ、先生のお口から」
「応。この灰皿が山になるまで語り明かそう今夜は」
「是非」
「ふムン」
「逞しい老人は好きよ」
「ムン。デモヲニッシュな退廃の夜を明かそう」
「ウフフ」
……確かに三ヶ月ほど前に、カフヱー『桃色倚譚』の女給、馬喰マチ子と情を交わしている。
貸し座敷の下谷万年町の連れ込み宿で。
遣り手の婆さんがニタニタ嗤っていたっけ。
部屋に入るなりおのずから二百三高地巻きをほどくと、まるでラプンツヱルか、けうけげんの如き長い髪をしていて床に届きそうで少し怖かったっけ。
薄明かりの中、白き身体がぼんじゃりと光ったっけ。
マチ子、嗚呼わしだけのマチ子……いやそういう事じゃない!
まさか。
まさかきゃつめからチポポ菌の性病を貰ったと云うのか!
な、何だこれは!けったくそ悪いヴァルプルギスの夜かッ?
見目麗しき美形の傾城にならば病気を伝染されても仕方ないが、たかだか賃金二円五十銭の泥水稼業、安いカフヱーの女給ふぜいが酌婦ふぜいがわしの大事な大事な珍棒にチポポ菌の火を灯しやがったのかッ!
糞ッ!糞ッ!糞ッ!
許すまじ馬喰マチ子!
糞ッ!糞ッ!糞ッ!
丹波篠山の水呑み○姓女がぁぁッ!
糞ッ!糞ッ!糞ッ!
うぎいいいぃぃぃッッッ!
そして獅子村は
「Sie ist ohne Ehre!(畜生めぇぇぇ!) 」
とドイツ語で叫ぶと、その銀髪を揺らし蛙腹を奮い立たせ、文化包丁を鞄に入れて外へ出掛けた。
ツヅク
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