ワンワンミッドナイト

和辻義一

悪魔?のゼット

 仕事が終わって家に帰ったのは、もうそろそろ日付が変わるかという頃だった。金曜日の夜だというのに仕事が忙しく、やむなく残業をしているとこんな時間になってしまった。


 うちの会社の規定では水曜日と金曜日は「ノー残業デー」となっているはずなのに、どうしてこうなった――無論、自分が人に良い顔をしたいがために、余計な仕事を他所から引き受けてきて、そのくせ「あとは君の仕事だから」などと無責任に後始末を押し付けてくる、あの無能な上司のせいだ。


 不幸中の幸いなのは、明日が土曜日だということと、うちの会社はサービス残業が無く、残業で働いた分はきちんと金がもらえることだった。ようやくやってきた金曜日の夜はぶち壊されてしまったが、これでただ働きまで強要されていたら、さすがにブチ切れるところだ。


 「北見」と書かれた表札が掲げられた玄関のドアを開け、家の中に入った。実家暮らしだったが、今頃親父とおふくろはもう寝ているはずで――だが、電気が消えて真っ暗な一階の廊下の奥からは、確かに気配がした。


 気配の正体は、我が家で飼っている犬だった。確かもうそろそろ六歳になるはずの、オスのゴールデンレトリバー。何を思ったのか、定年退職後に突然親父が飼いたいと言い出して、我が家の一員となった。名前は「ゼット」。随分といかつい名前だが、親父が若かりし頃に好きだったクルマの名前からとったそうだ。


 玄関と廊下の電気をつけるなり、ゼットはしっぽを振りながら俺の元へと駆け寄り、何とも申し訳なさそうな、それでいて期待に満ち溢れたつぶらな瞳で俺を見上げてきた。


 ――いやまあ、だいたいの事情は想像がつく。でも、ちょっと待ってくれ。俺は今仕事から帰ってきたばかりなんだ。クタクタに疲れているし、腹も減っている。さっさと風呂にも入って、さっぱりとしたい。


 だが、親父もおふくろももう歳だし、きっとお前は満足していないのだろう。定時であがれる時などには、別にお前の相手は苦にもならないんだが。


 だからどうしたって言うんだ、それが。


 無理だろう、いくら理屈を並べてみても。


 もう見てしまったんだ、ゼットを。


 今夜もまた、走り出すしかないんだよ。


「今夜はもう遅いからな、少しだけだぞ」


 玄関の隅にカバンを置き、リードを手に取った俺がそう言うと、ゼットは嬉しそうに尻尾を振りながら、真夜中にしては大きな声でワンと一声鳴いた。


 俺は靴だけをスニーカーに履き替え、ゼットの首輪にリードを繋ぎ、糞の後始末をするための道具を左手に持って、再び玄関から外に出た。真夜中の冷えた空気をいっぱいに吸い込んだゼットは、もう待ちきれないと言わんばかりに俺をぐいぐいと引っ張っていく。


 そう、ゼットは大型の犬種なだけに、親父やおふくろが連れていく散歩だけでは到底運動量が足りないのだ。いくら長時間散歩をしたところで、年老いた親父やおふくろではゼットが本気で走るペースには到底付き合いきれない。だから、ゼットにもだんだんとフラストレーションが溜まっていく。


 親父が犬を飼いたいと言い出した時にも、せめて小型犬にしておけと思ったのだが、親父はどうしてもこの犬が良いと言って聞かなかったし、実際俺もゼットに癒されていることが多々あることは否定出来ない。


 そして、フラストレーションが溜まったゼットは、真夜中でもずっとキュンキュン鳴き続ける。それは俺達家族の安眠妨害にもなるが、何よりも近所迷惑がはなはだしい。


 だから俺は毎晩、自分自身の運動不足解消を兼ねて、仕事から帰ってきたらゼットを連れて走り出す。そんな俺とゼットをたまに見かける近所の人達(のごく一部)は、密かにこう言っているらしい。


 ――北見さんで飼うその犬は、まるで狂おしく。


 身をよじるように、夜の町を走るという。

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