7 揺れる思い

 その日は駅の反対側にできたという新しいパン屋に二人で行く約束をしていた。駅前で落ち合い、そのまま駅の反対側に行こうとしたところで、どこからか「ユキ~」という声が聞こえてくる。


「ユキ~、久しぶり~」


 振り返るとかわいい顔をした男が手を振りながら近づいて来るところだった。見た瞬間、幸佑のセフレの一人だと直感した。

 幸佑のセフレに会うのはトオヤマという男に続いて二人目だ。笑顔で近づいて来る男はトオヤマと違い、これまで見てきたかわいい顔に小柄な体つきをしている。そのことにちょっとだけホッとし、同時にモヤッとした。


「うわぁ、こんなところでユキに会えるなんて超ラッキー」


 近づいて来る男に幸佑は何も答えない。それどころか、そのまま視線を合わせることなく歩き出そうとした。それに慌てたのは男のほうで、「待ってよ!」と言いながら幸佑が羽織っている薄手のコートの袖を掴んだ。

 それを見た瞬間、モヤッとしたものがイラッとしたものに変わった。綺麗に整えられた爪はネイルをしているのか薄いピンク色に光っている。そんなことにさえイラッとする自分に戸惑った。


「ねぇ、待ってよ。この前マキとメグミに会ったんだけど、全員と別れたってほんとなの?」

「ほんとだよ」

「そっかぁ、ほんとだったんだ」


 オレと同じくらいの身長の男が、大きな目をさらに大きくしながら幸佑を見上げる。


「そうだ、じゃあこれからは友達として会わない? きっとほかの子たちもそう思ってるよ」

「無理。俺たちそういう関係じゃないし、終わったらそれきりでしょ」

「えぇ~、ぼくはユキと友達でもいいから会いたいなぁ」


 男が上目遣いになりながら甘えるような声を出した。


(男でも本当にかわいい奴っているんだな)


 そう思いながらもイライラとモヤモヤが強くなっていく。


「ねぇユキ、これからは友達として会おうよ。ぼくたち、きっといい友達になれるよ? ほら、ファッションとかぼくたちすごく趣味が合うしさ」


 甘える声に幸佑が答えることはない。それでも男は話し続けた。


「そうだ、いまから時間ある? ユキ、いつも暇だって言ってたよね? この近くにお洒落なカフェができたんだ。SNSでもすごくバズってて、きっとユキも気に入ると思うんだよね。ねぇ行こうよ」


 ねだるような声で頬を少し赤らめながら袖をクイクイと引っ張っている。そういう仕草はその気がある男からすればたまらないに違いない。そういう気がまったくないオレですらかわいいなと思ったくらいだ。

 同時にやっぱりイラッとした。幸佑がしつこく言い寄られるところはこれまで何度も見てきている。そのたびに「大変そうだな」と思うだけでイライラしたりはしなかった。それなのに、いまはなぜかイラッとしてしまう。少しずつ眉間に皺が寄っていくのが自分でもわかった。


「あのさ」


 幸佑の声に男がパァッと表情を明るくする。


「終わったらそれまでだし関係を戻すつもりもない。もちろん友達なんて無理。街で偶然すれ違っても声かけないでって言ったの忘れた? それでもいいって言ったからセフレになったんだよね?」

「忘れてないよ。でもそれって、そう言わないと収拾つかなくなるからでしょ? あ、もしかしてそっちの人、お友達だった? ぼくたちの関係、知られちゃまずかったかな」

「別に。それにこの人、俺のこと一番よく知ってる人だから」


 幸佑の返事に男の大きな目がチラッとオレのほうを見た。くりっとした大きな目が一瞬睨みつけるような眼差しに変わる。「え?」と思ったものの、男の大きな目はすぐに幸佑に戻った。


「そうなんだ。じゃあ、お友達も一緒にどう? あ、でも用事あるなら無理にとは言わないから断ってくれても全然かまわないよ?」


 そう言って、またオレをジロッと睨む。


(なるほど、邪魔すんなってことか)


 さすがにオレでも気がついた。幸佑のほうにその気はないようだが、男にしてみれば友達としてでもいいから繋がりを持ちたいんだろう。


(昔から幸佑の周りにいるやつってこんな感じだったもんな)


 幸佑と仲良くしたいやつらは大勢いた。同じくらい嫌われてもいたが、好意を寄せるやつらの熱量は半端じゃなかった気がする。きっと近づきたい者同士での小競り合いなんかもあったんだろう。


(オレ、離れたほうがいいんかな)


 そう思って幸佑を見るが、まったく感情が読み取れない顔をしている。


「じゃあ断る。俺、これからこの人と一緒に行くところがあるから。じゃあね」


 男の手を振りほどいた幸佑が、驚くほど自然に俺の腰に手を回した。そのまま歩き出そうとしたところで男が遮るように幸佑の前に立ち塞がる。そうして飛び込むように幸佑に抱きついた。その反動でオレの体は呆気なく弾き飛ばされてしまった。

 呆気にとられたオレは、まるで恋人みたいに抱き合っている二人を呆然と見た。いや、正確には抱きついているのは男のほうだけだ。男の手は幸佑の背中をギュッと抱きしめているが、幸佑の両手はだらんと下がったまま動く気配すらない。


(何なんだよ)


 男の様子にイラッとした。どうしてか無性に腹が立ってしょうがない。オレを突き飛ばしたことより、しつこく言い寄る姿になぜかイライラしてしまう。どうしてそう感じるのかわからないまま二人を見守る。


「ねぇ、もしかしてその人が新しい相手なの?」


 幸佑の肩に額をくっつけた男がそんなことを言い出した。


「ユキが新しい相手のせいでセフレ全部切ったって噂、信じられなかった。ぼくに送ってきたメッセージだって信じてなかった。だってユキはいつもぼくに優しくしてくれたでしょ? ぼくのこと、かわいいってたくさん褒めてくれたでしょ?」


 男の頭が少しだけ動き、大きな目でジロッとオレを睨んだ。


「っていうか何なのこいつ、超普通じゃん。しかも眼鏡ダサすぎ。ほんとにこの人が新しい相手なの?」


 普通で悪かったな、思わずそう言いかけて口をつぐんだ。初対面のやつにここまで言われるとさすがに腹が立つ。トオヤマって男も最悪だったが、この男も最悪だ。そりゃあ幸佑の幼馴染みとしては普通すぎるほど普通かもしれないが、そんなことを他人にとやかく言われる筋合いはない。


(普通で何が悪い)


 世の中は普通の人のほうが多いんだ。


(それにな、そんな超普通なオレを幸佑は好きだって言ってんだよ)


 イライラしているからか、なぜかそんな言葉が浮かんでしまった。そんな自分に驚いたものの、それでもムカムカした気持ちは収まらない。


「答える必要はないと思うんだけど」


 オレの代わりに幸佑がそう答えた。少しだけ体を離した男が、俯き加減で「だって」と口にする。


「いままでの人はみんなかわいかったじゃん。美人だったしお洒落だった。みんなユキとお似合いだった。男だってみんなかわいかった。それなのに、こんな平凡でダサい眼鏡男なんて……」


 袖を掴んでいる男の手に力が入るのが見える。


「こんな人、ユキには似合わない。こんな超普通の人のどこがいいの? こんな、努力すらしてないような人なんてユキにはふさわしくない。みんなユキに飽きられないようにって頑張ってたんだよ? ぼくだってかわいくなろうって頑張ってたのに」


 言葉が続けば続くほど幸佑の顔から表情がなくなっていく。俯いている男は気づいていないようだが、明らかに機嫌が急降下しているときの顔だった。トオヤマにオレが壁ドンされたときよりも、いまのほうが明らかに冷たい顔をしている。


(表情に気づいてなくても返事しないのは変だって気づかないのか?)


 幸佑は機嫌が悪くなると途端に返事をしなくなる。セフレでなくても、そのくらいは気づくはず。それなのに男は返事をしない幸佑をそっちのけに話を続けていた。このままじゃ、きっと男が望まない結果になるだろう。


「ねぇユキ、だから、……っ」


 視線を上げた男の顔が引きつったのがわかった。


(だろうな。オレでも滅多に見ねぇ顔してるもんな)


 超絶イケメンが無表情になると、とんでもなく恐ろしくなる。そのことをオレは幸佑を見て学んだ。感情がまったくない幸佑の顔は、まさに人形にしか見えない。こういうとき人は美しさよりも恐怖を感じるのだろう。

 こうした表情を一番よく見たのは高校のときだ。そして、この顔になった幸佑に話しかけるような猛者は一人もいなかった。そもそも話しかけても無視されるのがオチで、それ以前に話しかける勇気をへし折られるような雰囲気に誰もが逃げ出した。


(幸佑のこんな顔、久しぶりに見た)


 それをしつこい元セフレに向けているのだと思うだけで妙に気分がすっきりする。


「俺、しつこいの嫌いだって言ったよね?」

「あ、」

「それに俺たち、ずっと前に終わってるよね?」

「……っ」


 男が唇を噛み締める。


「俺にはもうセフレは必要ないし、友達もいらない」


 そう言って幸佑がオレの肩に手を回してきた。突然の行動にギョッとし、幸佑を見上げる。


「おいっ、幸佑っ」


 こんな人が多いところで何をする気だ。慌てて離れようとしたものの、それより強い力で引き寄せられてしまう。


「この人以外に必要な人なんていない。俺はこの人さえいればいい」

「幸佑っ」


 慌てて言葉を遮った。離れようと身をよじるが、ますます強く肩を抱き寄せられて逃げられなくなる。遠巻きに人が集まり始めるのがわかり「幸佑っ」ともう一度名前を呼んだ。


「二度と俺の前に現れないで」

「ユキ、」

「名前も呼ばないで」



 幸佑の手がさらに強くオレの肩を掴む。そのままグイッと引き寄せられたかと思えば、頭上でチュッと音がした。思わず「は?」と幸佑の顔を見たものの、幸佑の冷たい目は男に向いたままだ。


「それから俺、恋人のこと馬鹿にされるの超むかつくんだよね」


 男は何も言わなかった。いや、言えなかったんだろう。ショックを受けているような、それでいて半分泣いているような顔で、ただ幸佑を見ていた。そんな男に「バイバイ」とだけ口にした幸佑が、再びオレの腰に手を回して歩き出す。

 オレは促されるまま歩いた。最後の衝撃が強すぎて若干パニックになる。おかげでイライラした気持ちはすっかり消えてしまっていた。


(っていうかオレのこと、恋人って言わなかったか……?)


 しかも頭にキスまでしやがった。途端に「チュッ」という音を思い出し「うわっ」と悲鳴みたいな声が漏れる。


「コウちゃん?」


 足を止めた幸佑が俯く俺を覗き込む。顔を見られたくなくて慌てて離れようとしたものの、腰を抱いている手が思いのほか強くて逃げられない。それでも見られたくなくて顔を逸らしたが、「コウちゃん、耳真っ赤」と指摘されて余計に顔が熱くなった。


「あ、顔も真っ赤だ」

「見るんじゃねぇよ!」

「えぇ~。かわいいのに」

「かわいいとか言うな!」


 思わず叫ぶと、近くを歩いていた数人がこっちを見た。それに気づき、慌てて幸佑の手を引っぺがし急いでその場を離れる。


「ねぇ、もしかして脈アリ?」


 後ろから聞こえる声に「うるせぇ」と言いながら、さらに歩く速度を上げた。それでもオレより足の長い幸佑はすぐに追いついた。


「コウちゃんってば素直じゃないんだから」

「やかましい。公衆の面前であんなこと言いやがって、恥ずかしいだけだよ!」

「そういうコウちゃんも好きだけどね」

「そういうこと言うなって言ってんだよ。つーか恋人ってなんだ。そういうんじゃねぇって言ってんだろ!」

「あはは、コウちゃんはツンデレだなぁ」


 余計なことしか言わない幸佑をギロッと睨みつけた。ところがオレを見る幸佑の目があまりに優しくて、すぐに視線を逸らす。


「いつもはツンツンしてるけど、デレたら絶対にかわいいと思うんだよね。まぁデレてなくてもかわいいけど」


 駄目だ、何を言っても言い負かされる気がする。恋人だとかキスだとか、オレにはハードルが高すぎて太刀打ちできない。ぐちゃぐちゃになっているオレの隣をイケメンはスキップでもしそうな笑顔で付いて来る。


「コウちゃん、いい加減認めたら?」

「何をだよ」

「俺のこと、じつは好きでしょ」

「んなわけあるか」

「そうかなぁ。男として意識し始めてる気がするんだよね」

「んなことねぇって言ってんだろ」

「そうじゃなきゃ、あんなことぐらいでそんなに怒ったりしないでしょ?」

「あんなことぐらいって、おまえなぁ……!」

「意識してくれていいのに。っていうか、もっと意識させる気満々だけどね」


 腕を掴まれてギョッとした。咄嗟に振り払おうとしたものの、それより先に腰を抱かれて「ぅわっ」と声が出る。


「俺のこと、ちゃんと男として意識して?」


 そう言いながら少し屈んだ幸佑が、今度は耳の辺りにチュッとキスしやがった。


「お、おま、なにして、」

「あはは、顔真っ赤。ほんとかわいいなぁ」

「ふ、ざけんなっ」

「い……ったいよ、コウちゃん」


 満面の笑みを浮かべながら覗き込む顔に強烈なデコピンを食らわせてやった。途端に涙目になる幸佑にドキッとしてしまい、そうなる自分にますます戸惑う。

 いま自分がどんな顔をしているかなんてわからない。それでも幸佑が「そういうコウちゃんもかわいい」なんて言うから、慌てて右手の拳で口元を覆った。すると空いている左手を幸佑が握り締める。振りほどきたいのに、触れられている部分がやけに熱いことにドキッとしてふりほどけなかった。


「パン屋、どうする?」

「……行く。帰りにスーパーにも寄る」


 何とかそう答えると「そういや今日は野菜の特売日なんだっけ」と返ってきた。いつもと変わらない返事に少しだけ落ち着き、それでも左手を握り締める幸佑の手が気になってどうしようもない。


「コウちゃんってさ、態度で示されるより言葉で言われるほうが弱いでしょ」


 突然何を言い出すんだ。そう思って幸佑を横目で見ると、幸佑も笑いながら横目でオレを見ていた。


「なんだよ、それ」

「そのまんまだよ。行動で示すより言葉にしたほうが効果ありそうだなぁって」


 幸佑の手が逃がさないとばかりにオレの左手をぎゅうっと握り締めた。


「俺さ、いろいろ言葉にするの、あんまり得意じゃないんだよね。これまでは何も言わなくても相手が勝手にいろいろしてくれたからさ。言わなくても困ることなかったし。でも、これからは思ってること、ちゃんと言葉にしようと思い直した。そのほうがコウちゃんには効果あるってわかったし」

「何の話だよ」

「うーん、コウちゃんを落とす決意表明? コウちゃんが俺のこと好きだって気づいてもらうぞ宣言?」

「な、なに馬鹿なことい、言ってんだよ」


 もっと強く言うつもりが言葉がどもってしまった。ちゃんと否定しないとと思っているのに言葉が続かない。


「ほらね。コウちゃん、直接言われると顔真っ赤になるし。そっかぁ、コウちゃんは言葉責めに弱いのかぁ」


 幸佑が「うわぁ、楽しみだな」とにやけた声でつぶやく。オレはその声に背筋をぞわっとさせながらも何も言い返すことができなかった。

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