死に方の切符を握った男の物語

水花火

第1話


「嘘だろ、母さんが死んだなんて」

真夏の雨音が、電話先の看護士の声を遠退かせていく。

静夫は慌てふためき、車のエンジンをかけた。

「嘘だろ…昨日笑ってたじゃないか」

どこからか母さんの声が聞こえる。

「しずお、苦労かけたねぇ。おまえ本当は、学校の先生になりたかったんだろ。担任の先生が言ってたよ。ごめんよ」

あの微笑みが最後になるなんて。


雨で濡れた前髪をぬぐいながら駆け込んだ病室には、もう母さんの姿はなかった。

「あの、すみません、松山ですが母は…」

看護士は静かに霊安室の場所を言った。

「霊安室、、、」

静夫は頭が混乱し、それでも早く母さんに逢いたくて人影のない廊下を急いだ。

霊安室と書かれた扉の前に立つ。

襲いかかる緊張を払いのけ、ドアノブを回した。

「母さん…」

目の前には、白い布を顔に覆われた母さんがいた。

死んでる母さんを考えても、現実味がなくて

信じられない気持ちと怖さで、布を剥ぐ手が震えた。

「母さん…」

静夫は言葉を見失いながらも、自然と母さんの頬っぺたに手が触れていく。

まだ、生温かな肌。

「母さん、、」

話しかけながら、静夫は母さんの小さな皺だらけの手を力強く握り、戻ってきて欲しいと涙がつたう。

生まれて初めて人の死に立ち会い、何も納得できないまま時が過ぎていった。


暫くするとドアがノックされた。

「このたびは、御愁傷様です」

深々と礼をする黒服の人達は葬儀会社だった。

静夫も頭を下げた。

葬儀会社の人達は、母さんに手を合わせると、今後の流れを静夫に説明し、手慣れた手つきで母さんをストレッチャーに移動させた。

その頃になると母さんも硬くなりだしてる気がして、諦めに似た感覚が静夫を覆っていった。

お世話になった看護士さんが見送りにきてくださり、静夫は一礼し、寝台車の助手席に乗った。

何度も通った病院迄の道のり。

もう二度と来ることはない。

「雨、やみましたね」

静夫は窓ガラスから空を見上げ、まだ夢の中にでもいるような気持ちで

「そうですね」

と力なく答えた。


母さんの葬儀は、しめやかに家族だけでとりおこなった。

母さんの好きだった花を沢山飾り、今まで育ててくれた感謝の気持ちいっぱいで、天国へおくった。

葬儀迄の慌ただしい時間が終わると、静夫は心にポッカリと穴があいたようだった。

仕事や家庭を考え気持ちを紛らわそうとしても、なかなか母さんが亡くなったことを受け入れることができないでいた。

何年もの間、病気の母さんを中心に暮らしていたせいもあり、静夫は仕方ないことだと自分自身を慰めていた。

そんな静夫の気持ちなど察することのない家族は、母さんの死などとっくに忘れたように暮らしていた。


静夫の帰宅は毎日二十二時過ぎ。

家族の出迎えはなく、代わりに聞こえてくるのは、テレビを見ながらけたたましく笑う真奈の声。

静夫は玄関に出しっぱなしの家族の靴を蹴とばした。

母の為に用意したおいた部屋も、今は妻の寝息と化している。

「嫌な奴らだ」

静夫は、毎夜そう思いながら一人きりで遅い夕食をとる。

食卓を見ると、猛暑日だったというのにカレーが置いてある。

ソファーを見れば、静夫の洗濯物が置きっぱなしになっている。

「私を何だとおもっているんだ」

次から次と、自分への感謝が微塵も感じられない家族が浮き彫りになっていく。

「あっ、パパ、帰ってきてたんだ」

静夫はその言い方に腹が立った。

「帰ってきてたんだったじゃないだろ。おかえりなさいじゃないのか」

「何イライラしてんのさ、会社で何があったか知らないけど、家に帰ってきて八つ当たりするのやめてくれない」

真奈はそう言うと、ふてくされた顔をし、冷蔵庫からジュースを取り出し二階へ戻っていった。

「なんて言いぐさだ!」

静夫はビールを取り出しながら、こんな奴らのために働いていくのかと、バカらしく感じた。

冷たいビールが胃袋へ染み渡る。

思い出すのは、やはり亡き母さんだった。

以前なら、毎日仕事の帰りに母さんの病院によっては、母さんを励まし笑いあったものだ。

今の静夫の家庭には、自分の存在意味すら感じない。

この先、ただ老いていくだけの時間を考えていると、静夫は生きていくこと事態が嫌になっていった。



静夫の人生は、母さんとの二人三脚だった。

静夫が母さんのお腹にいる時に、父さんを病気で亡くし為に、女手一つで育てられたのだった。

父さんへの憧れをもつ時もあったが、一生懸命頑張る母さんを見ていると、小さいながら母さんを支えなければならないという芽が静夫に宿されていった。

高校最後の進路相談でも、担任の先生と話し合い、教師になる夢より、母を支えることを選び今の会社に就職した。

その会社も三十年になろうとしている。

真面目に一生懸命働いてこれたのも、母さんがいてくれたからだったんだろう。

母さんが亡くなってというもの、やる気がわかず、営業成績は落ちるばかりだった。

外回りをしていても少年野球を眺めたりしながら、時間を潰していた。

定刻になると、何食わぬ顔をしながら会社へ戻る日々だった。


そんなある日の事、事務所の空気がいつもと違っていた。

「ただいま帰りました。」

「松山さん、書類ありますか」

上山主任が待ちかねたような苛立った顔をむけた。

「いや、今日はありませんな」

「今日は…ですか」

「最近はさっぱりですな。外も事務所みたいにキンキンに冷えてると助かるんですがね」

静夫の発言は、若い事務員達の笑いをさそった。

「ところで今日は、何かにぎやかな感じがしてますが、何かあったのかな」

すると上山主任がニヤリと笑いながら

「松山さんと沖さん同期でしたよね、沖さん部長に昇進ですよ、てっきり、ご存知かと思ってましたわ」

静夫は驚いた。

「沖が部長。。。」

血の気の引く自分を見ている事務員達に気づき

「ああ、その話ね、、思い出しまた。

だいぶ前にチラッと沖に聞いてましたよ。沖は独身で身軽だから、会社に骨を埋めるしかないなあなんて冗談いってましたがね。今度酒でもご馳走するとするか~」

静夫は笑ってみせた。

しかし、背中からは冷房の効いてる室内にいながら、汗が沸き上がり、一刻も早くこの場を逃げたい一心だった。

上山主任はつまらなそうな顔をした。

「ただいま帰りました」

そこへ新人の藤本が、汗だくになりながら息を切らして事務所に駆け込んできた。

「まだ、間に合いますか?」

上山主任は、満身の笑顔で出迎えた。

「よく頑張ったわね~外は暑かったでしょう」

と、静夫を見ながら言った。

「暑かったですけど、自分成績悪いから、会社に迷惑かけてる気がして、頑張りました」

静夫はすかさず藤本の肩をポンと叩き

「自分の若い頃を思い出すよ。若い頃の苦労ってのは買ってでもやれとは、よく言ったもんだ、頑張れよ」

そう言いながら鞄を持ち、やっと事務所を出た。

廊下を歩き出すと、あちらこちらで沖の話題が花を咲かせていた。

静夫は後悔した。

「あの時だ、あの時、海外転勤を断らなければ。俺が部長だったわけだ。。だから行かせてくれとあんなに何度も言ったんだんだ。くそっ」

家族の大反対で断った海外転勤。

その自分の代わりに沖が転勤し、見事に部長の椅子を手にしたのだ。

煮えくりかえる感情が、あの時、猛反対した妻と妻の家族にむかい殺したくなるほどだった。

平静を装い駐車場迄来ると、耳を疑う話が更に聞こえてきた。

「沖さんはともかく、松山さん第二支社に移動らしいぜ」

「マジかよ。松山さん最近さっぱり成績悪いから仕方ないか。差かでるもんだなサラリーマンってさ」

「誰からきいたんだよその話」

「上山主任にきまってんだろ。上山主任さ松山さんを嫌ってるから喜んだぜ」

「怖いな、、、上山主任を敵に回すと」

静夫は音もたてずに、話が終わるのをじっと待った。

何もかも終わったような気さえした。

若い連中の声が無くなると、静夫はエンジンをかけた走り始めた。

夕暮れの太陽がまぶしい。

ふと、亡くなった母さんがの笑顔が浮かび上がり涙がこぼれた。

「なんだったんだろう、俺の人生」

静夫は、暫くあてもなく車を走らせ、一件の本屋へ立ち寄った。

母が亡くなるまえ、母さんの病気を調べに寄った本屋だった。

中へ入ると、その頃は気づかなかったかが、今の時代は「死」への準備のような本がずいぶんあることに気づいた。

何冊か手に取り帯を読んだりしているうちに、さっきまで波打ってた気持ちが落ち着き出し、本屋を後にした。


帰宅はいつも通りにした。

辛い一日ではあったが、自分の建てたマイホームをみると誇らしかった。

ところが玄関を開けるなり、テレビからの大音量と笑い声が静夫の疲れをぶり返した。

「うるさい!」

静夫は渾身の力でどなり散らした。

憎しみがこみあげ怒りと化していく。

もう、この家族が嫌で嫌でならなかった。

そう思った瞬間、静夫は食卓のテーブルに昨夜の残りのカレーが置かれているのか目がはいった。

「典江、なんなんだ!!」

妻は起きてこなかたったが、真奈が二階から降りてきた。

「なんなのよ、大声だしてさ、二階まで聞こえたよ。気でも狂ったの」

「おまえらは、パパをなんだと思ってんだ!昨日のカレーの残りってどうゆうことだ」

缶ビールをあけ、一気に飲み干す。

「なにがさ。意味わかんない」

飲み干したビール缶を握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てる。

真奈はひきつった。

そこへ妻がやっとやってきた。

「どうしたんですか一体、何があったんですか」

静夫は二人を睨み、二人が見ている目の前で、カレーの鍋に、なみなみと水を溢れさせ

「こんな猛暑日に昨日のカレーとは、俺を殺す気か」

そう言い放ち部屋を出ていった。


一夜あけ、その日は静夫が何よりも大切にしている、夏の高校野球地区予選大会だった。

昨夜の出来事が何でもなかったかのように、静夫は平静だった。

家族の事など眼中にもなく、既に心は毎年応援している地元釜崎高校の野球部と一つになっていた。

一週間も前から冷やしておいたスポーツドリンクを車に乗せ、球場へ向かった。

「さあ、いくぞ」

幼少から野球だけが好きだった静夫。

甲子園を目指す高校野球は、静夫の特別な時間なのだ。

駐車場は各学校のバスや競技関係者、応援のブラスバンドといった面々で賑わい、もちろん静夫もその一人だ。

一刻も早くスポーツドリンクを釜崎高校ナインに渡したく練習グランドヘ走った。

「おはようございます監督さん」

晴れ晴れした気持ちでジュースを渡す。

「あぁ、これはこれは、松山さん毎年本当にありがとうございます」

静夫は、監督の口から、自分の名前を呼ばれるのが嬉しかった。

そこへ部員が二人走ってきて、帽子をとった。

「松山さん、毎年ありがとうございます。

甲子園めざして力の限り頑張ります!」

「頑張れよ!応援してるからな」

「はい!」

静夫は心を通い合わせていることが嬉しかった。夢や希望に満ち溢れる姿に胸が高鳴った。

さっそく、三塁側のスタンドに向かい、応援団の近くに座る。

静夫の熱狂的な釜崎高校野球部応援の話は、応援団にも代々受け継がれ、席をとっていてくれるのだ。

今年は色々な不幸が重なり、静夫は何としても勝ってほかった。

しかし、静夫の応援の甲斐もなく一回戦突破はできなかった。

グランドで泣き崩れる選手達の姿が、静夫の胸を突き刺してくる。

勝ってほしかった…。

応援席に一列にならび一礼するナイン達。

練習場でジュースを手渡した選手も涙をぬぐっていた。

静夫は惜しみない拍手を送りながらも、自分の中に残っていた最後の希望の光が消えていくのがわかった。

ゆっくりと椅子を立ち、一度球場をすみからすみまで見渡す。

「何十回ここへ足を運んだことだろう。」

そんなことを感じながら、ぼそりぼそりと歩く足は重たかった。

球場の外へでて、野球場を振り返った。

入場門を暫くじっと見つめ

「来年の、夏で終わりにしよう」

と心に誓ったのだった。


静夫は帰り道、この前立ち寄った本屋へ向かった。

紫色のカバーや紺色のカバーの上に、真っ黒な太字で死と書かれている。

買おうとしていた本は、どれも売れずに静夫を待っているかのようだった 。

レジの店員は、静夫の考えていることなどわかるはずもなく

「ありがとうございました」

と笑顔むけた。

家につき、静夫は玄関に座った。

今日の甲子園の試合を思い出しながら、甲子園野球応援だけに履いている特別なシューズをぬいだ。

「また来年、後一回だけ履かせてもらうよ」

と、つぶやくと下駄箱の奥へ丁寧にしまった。


リビングには、妻と真奈がいた。

静夫は野球の話は一切しない。静夫にとって野球は特別な時間で、家族のだれも立ち入ることなどできないのだ。

日に焼けた両腕に抱えられたビニール袋を、テーブルにドサリと置く。

静夫は何も話さず、袋から一冊ずつ本を取り出して、わざと二人に見えるように並べた。

静夫は、自分が死ぬ決意をしたのだという意思を見せつけたのだった。


「食事はどうしますか」

「いらん」

静夫は本を手に取りながら、母さんの一周忌の話を始めた。

「一周忌だが、私一人ですませてくるつもりだ」

「えっ、何でさ、真奈も行くよ、真奈のおばあちゃんなんだから」

静夫は本を読みながら

「寺の住職にも予定ってものがあるんだ、真奈の休みに合わせて都合つくわけじゃない」

「都合のいい土日にすればいいだけじゃん」

「子供のお前にはわからないんだよ。後からゆっくり墓参りしてきなさい」

「勝手にきめないでよ、なんでもさ」

「真奈、後でママといきましょ。パパも忙しいのよ」

典江は真奈を制した。

「ママ、この際はっきり言った方がいいよ、この人はいつも自分勝手なんだからさ」

静夫は本を閉じ、早速、寺に電話をし始めた。

「おい、やはり命日迄の土日はあいてないそうだ。わかったろ。それとなパパに向かってこの人とはなんて言い方だ。少し言葉遣いに気を付けなさい!」

真奈は謝りもせず黙った。

静夫は呆れた顔をし、本の続きを読み始めた。

「お茶をくれないか」

「冷たいお茶でいいですか」

静夫はため息をついた。

「当たり前だろ、今はカレーの残りを置いとくような季節じゃないんだよ、わからんのか、それくらい」

真奈が立ち、お茶を持ってきた。

「パパ、私、パパに話しておきたいことがあるんだけど」

静夫はめんどくさそうな顔をしながら真奈を見た。

「私、オーディションを受ける事にしたから」

「オーディション」

初めてきく話に静夫は驚いた。

「なんのオーディションだ」

「歌手よ」

「歌手?何を夢みたいな話をしてるんだ。だめだ」

「もう、決めたことだから」

「だめだ。」

静夫は聞く耳をもたなかった。

「何の為に私立の大学に大金を出してやったんだと思ってるんだ。少しは考えなさい」

「考えたわよ。ママにも相談したわ。だから今パパにもこうして話してるんじゃない」

「だめだとだめだ。ここの主は父さんだ」

「なんでよ、私の人生じゃん」

「人生?お前らが、のうのうと暮らせてきたのは、父さんのおかげだろ」

真奈の目にはだんだんと涙が浮かんでいた。

「私は、歌手になりたいのよ、お願い」

「だめだと言ったらだめだ」

真奈の頬を涙がこぼれた。

「パパはいつだって仕事仕事で、話す暇なんかなったじゃない、どうしてだめなのよ。真奈だって真剣に考えた末の話なのに」

「知ったふうな口をきくな、うるさい」

「なんなの、その言い方。私のことも、ママのことも、何一つ知らないくせに」

真奈は身体を震わせながら出ていった。

「おい、真奈のあの態度なんなんだ」

静夫は典江を怒鳴った。

「すみません」

典江はお茶を取り替えながら静夫の側に座った。

「真奈がいないうちに、大事なお話があるんですが」

静夫は、またかという顔をし

「歌手はだめだと言ってるだろ」

「いいえ、その話ではありません。真奈の病気の件なんですが」

静夫は目を見開いた。

「病気?、一体どこ悪いっていうんだ、減らず口ばかりで」

典江は嫌な顔をした。

「ですから、一度検査入院を勧められています」

「あぁそうゆう話か。大したことないだろ、私は仕事で忙しいんだから、おまえが行けばいいだけだろ」

「まるで他人ごとですね。真奈が心配じゃないんですか」

「誰もそんな話はしてないだろ。その為に病院があるんだ」

静夫は話を打ちきり部屋をでようとした。

「ちょっと待ってください」

「なんだ、まだあるのか」

静夫は声を荒げた。

「すみませんが、この気味の悪い本を、部屋にもってってください。死ぬ話ばかりで、縁起悪いですよ」

「いちいちうるさいんだよ、いつ死のうが死ぬまいが、お前に関係ないだろ!」

「何てこと言うんですか。真奈は私達の子供なんですよ。いい加減にしてください!」

「なにを大声だしてるんだ、おまえがそんな態度だから、真奈も、あのざまなんだ」

典江は真っ赤な顔をしながら静夫を睨み付けリビングを出ていった。

「どいつもこいつも、私をなんだと思ってるんだ!」

静夫は、むしゃくしゃしながらお茶をなげ捨てた。


真奈が検査入院したのは、それから五日目の朝だった。

「今から病院へ行きますから、くれぐれも火の元だけは気を付けてください」

典江はそれだけ言うと車を出発させた。

助手席の真奈は、静夫と一度も顔をあわせなかった。

「まったく、いつまで怒ってる気だ」

静夫は真奈を見ながら呆れた。

誰もいなくなった我が家は、日々の苛立ちの原因ともいえる二人が消え、自由で爽快だった。

買ってきた本をどんどん読み進めては、一年後に、私はこの世の中には生きてはいないのだという自覚がはっきりし、残された時間を好き勝手生きたいという欲求でいっぱいになっていった。

仕事帰りに好きな物を買ってきては食べ、そのままソファーに眠り、何より好きな甲子園野球のテレビ番組を大音量でみながら、満ち足りた毎日を過ごしていた。

振り替える人生も、やるべきことはやった気にもなり、職場での沖の部長の話題すら今ではどうでも良くなっていくのだった。


真奈が検査入院し十日も過ぎたあたり、高校野球地区予選は決勝が中継されていた。

車のラジオから流れる白熱した試合に静夫は聞き入り仕事どころではなかった。

「頑張れ!いけ」

どちらが勝ってもいい試合なのだが、やはり静夫が長年応援してきた釜崎高校に勝ったチームに勝って欲しかった。

「打ちました、逆転ツーラン!」

「おー!その調子だいけー」

静夫は興奮して大声を出していた。

その時だった。鳴り続ける携帯に気付き、ラジオのボリュームを下げた。

「もしもし、今電話いいですか」

電話の相手は典江だった。

「あぁ。どうだった真奈は」

典江は疲れきった声で腎臓が悪いという話をしてきた。

「腎臓……」

静夫は驚いた。

昨年亡くした母と同じ病名に、呆然となり、言葉を見失った。

「後で、詳しい話はしますから、時間のあるときにでも病院へきてください」

静夫は我に返り

「あぁ。わかった。真奈は大丈夫そうか」

「オーディションには行けなくなり深く落ち込んでいます」

「今は、そんな話してる場合じゃないだろ」

「まあ、そうなんですけど…」

「明日でも行ってみる」

「はい」

静夫は電話を切った。

高校野球決勝のことも忘れ、どうしたらいいのかわからない気持ちで、そのまま家へ帰宅した。

「母さん、真奈が母さんと同じ病気になってしまいました」

遺影を見つめながら、静夫をは話しかけた。

そして線香を立て手を合わせた。

「母さん、真奈を見守ってください」

祈る手に力が入った。

「母さん、真奈はまだ二四歳です。これからなんです。どうか、どうか、真奈を見守ってくたださい」

強い思いで、母さんに祈った。

夜になると誰もいない家は昨日迄の心境と一変し、不安で辛いものだった。

母さんの透析姿が頭をよぎったり、最後の入院生活を思い出したりした。

一睡も出来ないまま朝を向かえ、静夫はいてもたってもいれず、早めに病院へ向かった。


母が亡くなってから二度と来ることもない場所だと思っていたのに、まさか真奈が同じ病気で入院しているなんて、嘘であって欲しかった。

駐車場につき、あの日の雨を思い出した。

「真奈は若い、大丈夫だ」

静夫は自分に言い聞かせ、病院の中へ入っていった。

受付窓口の椅子に典江が足元を見つめ座って待っていた。十日近く見ていなかった顔には疲労と不安が入り交じって見えた。

「どうなんだ、真奈の様子は」

「あぁ。早かったですね。先生の話では、もしかしたら、段単には透析もあるのかもしれないということです。」

「そうか…」

静夫は一番危惧していた話をされ、天井を見上げた。

「まあ、仕方ないな。今は指示に従って治療に専念するしかないだろう。」

「えぇ」

「よし、仕事にいく前に真奈の顔でも見ていくとするか」

静夫は明るく話しかけたが、典江の顔はくもっていた。

「今、寝ているかもしれないし、もう少しで回診も始まりますから、今日は仕事に行ってください」

意外な発言に静夫は納得しなかった。

「いや、折角来たんだから逢っていくよ」

そう言い、病室へ向かった。

病室は六人部屋だった。典江が先に入り

「真奈、パパよ」

と声をかけた。真奈は一瞬驚いた顔をし

「何しにきたの」

と目付きを変えた。

「何しにって言い方はないだろう」

静夫は久しぶりに見た真奈の顔色が、青白いことに気付いた。

「パパの望んだとおりオーディションは受けられないわ。私は、ばあちゃんのように死んでいくだけよ」

静夫はその言葉に、凍りついた。

「何を言ってるんだ。今はそんな話をしている時じゃないだろ。ちゃんと治療すれば必ず治るから」

真奈は静夫を睨み付け

「今、そんな話って言ったよね。パパには私の気持ちなんか絶対にわかりっこないわ。帰ってよ」

病室に真奈の声が響き渡り、静夫は圧倒され、言葉も見つからず出ていった。

典江が廊下へ出てきて、真奈を責めないでほしいと言った。

静夫は典江の言葉もうっすらとしか耳にはいらず何も考えられなかった。

外は照りつく太陽が待ち構えていた。

外から病室を振り替えるも真奈の姿はなかった。

「俺は真奈のことを、何もわかっていなかったのかもしれない…」

二十四年の真奈の時間をぼんやりと思い返すも、特別な出来事を何一つ思い出せなかった。

すると、そこへ典江が息を切らして走ってきた。

「なんだ、何かあったのか」

「真奈に口止めされていたから話すか、迷ったんですが、、、」

「なんの話だ」

「実は、あなたのお母さんが入院中、真奈は毎日この病院に通っていました。」

「えっ真奈が」

静夫は知らなかった。

「さっき真奈が、あれほど迄に興奮してあなたに怒鳴っていたものですから、やはり話しておいた方がいいかと思って」

「何の話だ」

「真奈はお母さんの入院中、毎日病室で歌を歌ってあげていたそうなんです」

「歌を」

「えぇ、お母さんは真奈が小さい頃から真奈の歌を聴くのが好きでしたから」

「母さんが…真奈の歌を」

「真奈が言うには、ちょうど亡くなる一週間前に、真奈は歌手になりなさい、と言ったそうなんです」

静夫は何も言葉が出なかった。

「ですから、真奈は、お母さんの為にも歌手になりたいと言い出したんじゃないかと…」

静夫は、母さんの事だけは、何でもわかってきたつもりだっただけに、真奈のことを何も話してくれなかった母さんに寂しさを感じた。

「そうか…真奈に悪いことしたな。」

典江はその言葉を聞くと微笑み病室へ戻っていった。


家に着くと庭に干しっぱなしになっているタオルが目にはいる。

静夫はタオルをとりこもうと洗濯竿のそばに向かった。歩いていると背丈の短い向日葵が咲いていて、今はこんな小さな向日葵があるのかと思いながらも、誰が向日葵の花の種を蒔いたか知らなかった。

その時、思いもよらない言葉が静夫を襲った。

「自分は、一体、家族の何を知っているというんだろう。」

真奈、典江、母さんの顔が代わる代わる浮かんでいく。

静夫は選択竿の側に腰かけ、小さく咲く向日葵を眺めていた。

「やっぱり、家族とは、真奈のように素直な気持ちを、話さなければなければならない場所だったのかもしれない…」

静夫は生まれて初めて家族の在り方というものを、考えさせられていた。

家族だから話さなくてもわかり合えるなんていうのは、大きな思い違いだったと感じていた。

「このままの自分では……」

静夫は立ち上がった。

「勝手に自分の人生を一人だけのものにして、死んでる場合なんかじゃないじゃないか。

今、自分にできることは、生きて、真奈の夢を、叶えてあげることじゃないのか」

そう思った途端、静夫は自分の部屋へ走った。

部屋に入り、書き込んでいたしまっていた終活ノートを開いた。

「来年の夏の高校野球地区予選、釜崎高校の応援を最後に、人生を終わらさせる」

というページを破り捨て

「真奈の腎臓病が完治し歌手の夢が叶うまで、自分の一生を捧げていく」

と書き直した。


静夫は、わかり合う家族の道を歩き始めることにした。

家の中の窓を開け、空気を入れ換えた。

花瓶の水を新しい水に変えた。

太陽の匂いのするバスタオルを、丁寧に四つ折りにし、向日葵と一緒に病院へもっていこうと考えた。

翌朝、病院に行く準備ができると、静夫は下駄箱の奥から、来年の夏の高校野球地区予選に、後一回だけ履こうとしまっておいた特別なシューズを取り出した。

そして、しっかりと紐を結び車に乗った。

まるで高校野球地区予選にいくように胸がはずんだ。

「真奈、具合はどうだ」

雑談をしていた真奈と典江は、大きな静夫の声に驚いた。

静夫は大事に抱えてきた向日葵とバスタオルを、典江へ渡す。

「いくらか調子はいいのか」

真奈は返事をしなかった。

そこへ向日葵を花瓶にいれながら典江がやってくる。

可愛い向日葵が窓際に飾られ空気を和ませる。

「バスタオル助かりましたよ。取りに行かなければと真奈と話してたところでしたから。」

「毎日、暑いからな~」

すると真奈は向日葵を見ながら

「今日は、パパ仕事休みなの」

と独り言のようにつぶやいた。

「休んだんだ」

静夫は、チラッと真奈を見た。

角張っていた家族が、まるくなっていくようで、嬉しくて笑みがこぼれた。

「真奈、早く良くなって、来年はパパと、高校野球の地区予選を応援に行こう」

そう言いサッと立ち上がり、背を向けた。

真奈と典江は口をぽかんと開けた。

野球だけは、静夫の特別な時間で、家族は立ち入り禁止なのだ。


駐車場に止めていた車の前に立つと、静夫は思いきって病室を振り返った。

黄色い向日葵が見える窓から、

真奈と典江が見えた。

静夫は二人が笑ってくれてるような気がした。













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