第32話 「今、漢中は、この俺、呂布が預かっている! お前らは、どこの山賊だ!」
呂布は、赤兎馬に跨った。
成廉、魏越を従え、北の城門を出て、飛龍騎の騎兵部隊が整然と立ち並ぶ間を駆け抜けて、最前線に立った。
陽平関から駆け戻った約一万の騎兵と歩兵の混成部隊が、向かい側に立ち並んでいる。攻城兵器らしいものはない。
呂布はその一団を見やった時、
「少ないな」
と口にした。
「我が軍の勢いに怖気づいて、兵士たちが逃げたんじゃないですか? 弱っちいなあ」
成廉が軽口をたたく。
「まあ、それもあるが、兵を分散したのであろう。陽平関に半分以上残し、半分にも満たない兵を率いて、攻めてきたのだろう」
呂布の分析は正しかった。
陽平関の守備部隊はもともと三万五千いたが、そのうち、約五千は、漢中の陥落に驚愕して逃亡した。その上で、陽平関の守備部隊として二万もの軍勢を残し、残りの約一万の軍勢だけで漢中を奪還するために引き返してきた。
劉焉軍が誇る名将張任、張魯の弟、張衛が率いていたにしても、兵士たちの動揺は収まらず、陽平関から引き返している間にも、逃亡する兵が続出していた。
今や、一万と公称する軍勢もかなり目減りしている。
「成廉、魏越、覚えておけ。こういう時は、兵を分散すべきでなく、陽平関を放棄してでも、全軍をもって、本拠地漢中を奪還すべきなのだ。奴らの用兵は下策だ」
「はい。師父」
成廉、魏越が声をそろえて返事をする。
呂布の姿を認めたのか、陽平関側の部隊からも大将らしき者が二人出てきた。
一人は、張魯に似た宗教家っぽい雰囲気でありながら、幾分か軍人らしさも漂わせる武将。呂布は一目見ただけで、
「あれが、張魯の弟、張衛であろう」
と気づいた。
もう一人は、呂布と同じ年頃の精悍な武将。その鋭い眼差しには知性も感じさせる。文武両道と言う感じだ。
「我が軍の張遼に似ているな。あれがうわさに聞く張任であろうか」
と呂布はつぶやいた。
「今、漢中は、董卓軍の武将である、この俺、呂布が預かっている! お前らは、どこの山賊だ! 何をしに漢中に押し寄せた! 」
呂布が怒鳴ると張任が目を怒らせて怒鳴り返す。
「山賊は、その方らであろう! 漢中は、張魯殿の城だ! 不法占拠を止めてさっさと明け渡せ! さもなければ、その方ら全員皆殺しだぞ! 」
「皆殺しにされるのはどっちだよ! 」
成廉が嘲笑する。
張任はその嘲笑にやり返すことができない。
客観的に見て、一万にも満たない手勢。しかも攻城兵器もなしで、呂布の軍勢が完全に守りを固めてしまった漢中を落とすことなど不可能といってよい。自分の発言の滑稽さは、張任自身が悟っているということだろう。
「お前らの中にも、漢中出身の兵はいるだろう! 直ちに武器を捨てて、降伏せよ! そうすれば、家に帰れる! 家族に会えるぞ! 」
呂布の言葉に、特に張衛が率いる兵士の間から動揺が起きる。
追い打ちをかけるように漢中の北門の城壁から声が響いてきた。
「弟よ――! 降伏しろ! 呂奉先様は慈悲深いお方だ! 降伏すれば命は助かる! 皆の者無駄に戦うな! 降伏しろ! 」
城壁の上に、張魯が立っていた。
その傍らには、貂蝉と法正がいるが、二人は、もちろん、張魯を脅しているわけではない。
その姿を目にして張衛はわずかに目を輝かせた。
「兄者! 無事だったのか! 」
「騙されるな! あの董卓軍に降伏して無事で済むと思うか! 降伏すると殺されるぞ! 」
張任はそう声を張り上げて、自らが率いる軍勢の動揺を抑えようとする。
しかし、張魯の、
「降伏しろ! 降伏しろ! 」
の連呼が止まらず、兵士の間にさざ波のように動揺が広がる。張衛は、兵士たちの動揺を鎮めようともせず、黙りこくるばかり。
張任は意を決したように弓を取って矢をつがえた。
弦の音が響く!
矢が城壁に向かって飛んだ。
すると、弦の音がもう一つ!
空を見上げた者は誰もが気づいた。
キン!
と、二本の矢の矢じり同士が空中で正面衝突し、そして落下したことに。
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