第25話 一夜明けた時には、漢中の城壁には、董卓軍の旗がひらめいていた。

 呂布は太守の椅子に腰かけると、張魯を足元にひざまずかせた。

「さて、張魯よ。お前は、漢中で、善政を敷いていたのであろうな? 」

「ぜ、善政ですか……。あの、税はそんなにとっていないですし、それなりに、民のために政治をしていたつもりですが……」

「そうか。じゃあ、お前が民に落ち着くように呼びかければ、漢中の民の間で動揺も広がりまいな。それに、抵抗している兵士たちも降伏するだろうな? 」

「それは……、たぶん、そう思いますが……」

「よし。じゃあ、お前の縄を解いてやるから、漢中の民衆に落ち着くように呼びかけよ。それから、抵抗している兵士たちに降伏するように言え」

「仰せのとおりにいたします」

 呂布は七星剣を抜刀すると、一閃させた。

「ひいいいっ……! 」

 と張魯が悲鳴を漏らした時には、張魯を縛っていた縄が床に落ち、七星剣も鞘に収まっている。

「行け! 」

「は……、ははっ! 」

 張魯は、『飛龍騎』の兵に付き添われて、政庁から出ていった。

「法正! 」

 呂布に声をかけられて法正が拱手して進み出た。

「はい! 」

「お前は今回の作戦の第一功労者だ。よくやった! 」

「はい! ありがとうございます! 」

「これからも、俺のためにお前の頭脳を使え」

「はい! 」

「それからもう一つ、お前を見込んで頼みがある」

「何でしょうか? 」

「あの張魯は、この戦が終われば、長安に連行されるだろう。後任の太守が決まるまで、太守の事務、特に内政を代行できる者が必要になる。適当な人材を探しておけ。できるか? 」

「私のように若い者でもよいのでしょうか? 」

「能力があれば、年齢は問わない」

「それなら、私の友人を推薦いたしたいと思います」

「お前が推薦する者ならば、大丈夫だろう。よかろう。後で連れてこい」

「はい! 」


 漢中城内には、五千の兵がいたが、その兵の大半は、劉焉と張魯が捕虜になったと知るや、ほとんど戦わずして、降伏した。

 一夜明けた時には、城壁には、董卓軍の旗がひらめき、住民は誰しもが、戦いらしい戦いもないままに、支配者が変わったことを知った。

 呂布率いる『飛龍騎』は精鋭であり、規律も厳しい。その日から漢中城の治安維持に当たり、その様が、

「張魯の部隊より、よほどしっかりしている」

 と住民の間で評判が広がったこと。それに、張魯が住民に落ち着くように呼びかけたことから、混乱も反乱もなかった。

 まるで、最初から、呂布が太守だったかのように漢中城は、平穏を保ったのである。


 一方、漢中城の外、特に陽平関では、混迷を極めていた。

 まず、楊柏の兵糧輸送部隊が戻ってこないために、陽平関から物見の兵が差し向けられた。

 彼らは、漢中の城壁に董卓軍の旗がはためいているのを見て、驚愕する。

 主力の将軍である張任、張衛、楊任、楊昂らに、報告が行くと共に、陽平関に籠る三万五千の大軍に大いに動揺が走る。

「漢中が落ちたただと! 帰るところがないじゃないか! 」

「兵糧も弓矢の補給もなくなるぞ! どうやって戦うというんだ! 」

「こんなところにいたら、前後から董卓軍に挟み撃ちにされるぞ! 」

 兵士たちが、我先にと脱走し始めた。

 逃亡者は続出し、あれよこれよと言う間に、約五千もの兵士が消えている。

 陽平関の総大将は、張衛である。張衛は、動揺しながらも、

「陽平関を放棄して、全軍で漢中を取り戻す」

 と決断を下そうとする。客将の立場にある劉焉軍の張任も同調する。

 しかし、楊任、楊昂が、

「陽平関は、漢中の要だ。ここを董卓軍に占領されたら、漢中の城を取り返したところで、丸裸にされたも同然になる」

 と、張衛の決断に反対した。

「それは違う。漢中を取り戻すことが先決だ。漢中さえ取り返せば、陽平関など、董卓軍が引き上げた後で、取り返せる」

 張任がそう主張するが、楊任、楊昂は、彼に冷ややかな目を向けた。

「お前は、戦に負けても、蜀に帰ればいいだけだから、そんなことが言えるんだ! 俺たちは、漢中しか帰るところがないんだ! 」

「そうだ。よそ者は、黙っていてもらおう! 」

 結局、楊任、楊昂が約二万の兵と共に陽平関を守り続け、残りの一万弱の兵を張衛と張任が率いて出陣し、漢中を取り戻すことになった。

 その作戦が決まった時、張任は、

「ただでさえ少ない兵力を分散してどうする……。この戦い、大負けだ……」

 と歯噛みしたのだった。

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