第8話 帝国 宮の中あるいは庭園
タイスは狭い視界に四苦八苦しつつも右手に握ったインゲラの袖を頼りに歩を進めた、どうやら城内をすすんでいるらしい、フードの視界は下方しか見えず他に視線を向けようとするとどうしても歩みが止まってしまいその都度インゲラの袖に引っ張られてしまう、その為歩みを止められず只静々と歩を進めるばかリであった。
足元は石の床が続いている、建物内で石の床が続いている事に違和感を覚えてしまう、ここまで石材を並べるのはどれほどの苦労があるのだろうか、タイスの村一面を石材で覆ったらどれほどの手間であろうか、この城はタイスの村より大きいのだろうか、木の床の方が簡単だし暖かいのにと取り留めも無く思考が巡る、視界の要所で獣皮や赤く厚い布が敷かれている箇所を見止め、やっぱり寒いんだとその点だけは確信を得た。
周囲からは話し声が聞こえ時折怒声ともとれる声が上がっていた、タイスの知らない言葉も時折聞こえた、しかし連れ立って歩む二人に掛けられる言葉は無かった。
狭い視界に映る擦れ違う人の足元は殆どが立ち止まって二人にその道を開けている様子であった、遠くても近くでも視界に入る足はその動きを止め綺麗に並んで微動だにせず視界の端を流れて行った。
どれくらい歩いたであろうか、インゲラは足を止めタイスも一歩遅れて立ち止まる、
「階段です、気を付けて」
ぼそぼそとしたインゲラの声に視線を向けようとした瞬間インゲラは方向を変えて歩き出した、タイスもつられて歩き出すが石造りの階段の一段目に足をとられて両手でインゲラの袖に縋ってしまう、インゲラは足を止め、
「階段です、気を付けて」
同じ文言を全く同じ抑揚で告げられた、
「ごめんなさい、すいません」
タイスは恐縮しつつ足元へ注意を向ける、数段上がって踊り場に至った。
その踊り場はタイスの住む家程の広さであったがタイスはその事に気付きようもなく折り返してさらに階段を上って広い通路に出た、その廊下はそれまでの石床と様子が一変し中央に紫色の厚い布が敷かれていた、その布の端は金色の飾り糸で覆われていてこのような細工物があるのかとタイスは目を輝かせた。
一目で豪奢な織物である事がタイスにも分かった、しかしインゲラはその意を介さずどうどうと廊下の中央を進んでいく、タイスはなんともその織物を踏みつける事に緊張してしまった、このような織物は壁に飾るものであって床に敷いていいものではないのではないかと考えてしまう、しかしその踏み心地は柔らかくフカフカで踝まで床にめり込んだような感触を受ける、履物のせいもあるだろうが雲の上を歩くような、生きた羊を並べてその上を歩くような不思議な感覚で、歩いてるだけなのに楽しくなってくる。
「こちらです」
タイスの夢心地は唐突に終わりを告げた、インゲラの言に歩を止める、インゲラはそっとタイスのフードを上げた、タイスの目の前には大きな両開きの扉があった、様々な文様が刻まれた装飾扉が廊下の篝火を受けタイスを見下ろしている、
「大っきいねぇー」
素直な感想が口を吐く、大人二人分はあろうかと思える高さと片方の扉だけでもタイスが手を拡げても届かない程大きい扉であった、扉には聖母様や天使様それと皇帝の御姿が様々な姿で刻まれておりさらにその周囲を魔族であろうか醜い魔物や竜の姿も記されている、しげしげと巨大な扉を眺めながらそこで初めて城内は昼だというのに篝火が焚かれている事に気付いた、自由になった視線をあちこちに巡らして、窓や開口部といった陽の光を入れるものが無い為かと得心する。
「タイス、こちらに触れてみてください」
インゲラは扉の中央にある取っての下部を指し示した、黄色く輝く宝石が埋め込まれている、取っ手の位置はタイスのはるか上方にありその宝石も背伸びをしてやっと届くかどうかの高さであった。
タイスは言われるまま扉に近付き背伸びをして宝石に触れる、右手の中指が何とか届いて冷たく滑らかな石の質感をタイスに返してきた、タイスは触れたままでいいのか離すべきなのか判断できず背伸びの姿勢を維持したまま振り返ろうとした瞬間、扉はゆっくりと前方へ開きタイスはバランスを崩しつつ扉の奥へ二三歩入り込んでしまった。
「よくできました、タイス、合格です、おめでとう」
インゲラはタイスを抱き起こしながらそう言った、タイスはその言葉の意味を良く理解できなかったが抱き起こされ目にはいった光景に言葉も無く見入ってしまう。
暗い城内から一変しそこは陽光降り注ぐ庭園であった、一面に緑の草原が広がり様々な木が外縁に生い茂っており色鮮やかな鳥が飛び交っていた、草原の中ほどには池が有りその中央に金色に輝く聖母像が、3体の天使と共に屹立し両手で抱え上げられた盆からダクダクと清水が湧き出している、木々の合間に幾つかの彫像があり厳めしい台座の上に様々な英雄を模したであろう雄々しき姿で庭園を彩っている、風は無い、感じられないだけかもしれないがその空間の大気はとても暖かく柔らかで、そしてとても心地良い香りであった。
何よりもタイスの目を惹いたのはこの草原のあちらこちらにたむろする半裸の少年と少女であった、皆それぞれに楽し気で、走り回る者、座り込んで池を覗きこんでいる者、草原に大の字で寝ている者、鳥に触れようと追い駆ける者、輝く庭園の中にあってその生命力でさらに庭園を輝かしむる者達が自由気儘に集っている。
タイスは暫くの間その光景を眺めていた、言葉も無く何を目にしているかもまるで認識できていないようであった、しかし徐々に眼前に広がる構築された理想の楽園を、寝物語で聞いた天国の情景を、司祭が嬉しそうに語った理想郷を、タイスの中にあった様々な理がゆっくりと重なり合い彼女の脳が理解できる何かに変換され、やがて、飲み込めたようである、
「タイス、行きますよ」
インゲラはそっと話し掛ける、タイスは虚ろなままその言葉にコクリと反応しインゲラを見上げた、
「ここは、なんですか?」
タイスが鈍化した思考の中で曖昧に言葉を組み合わせると単純な疑問が口角を動かした、至極真っ当で的を得た質問である、インゲラはキラキラと輝くタイスの目を嬉しそうに見詰め静かにとても静かに告げる、
「そうね、なんだろうね、ゆっくり見ていきましょう」
インゲラの言葉は優しくタイスに染み渡る、何となくであるがインゲラの表情が柔らかく緩やかなものに見えた、
「まずは身を清めましょう、おいで」
インゲラはタイスの手を取ると庭園の外縁を廻る通路に誘う、その通路も城内2階の通路と同じく厚手の布が敷き詰められているがこちらは青色であった、その通路の庭園とは反対側に数体の彫像が置かれている。
冷たく細く芯のある手がタイスの左手に優しく触れている、その手に導かれタイスは庭園に視線を盗られたまま歩を進めた、庭園の主の一人がこちらを見付け微笑みながら手を振っている、反射的に残った手を軽く振るもこの行為は失礼に当たるのではないのかとふと思い立ち慌てて視線を進行方向へ向けて背筋を伸ばす、しかし数歩も行くとその目は庭園を向いていた。
ふと異質な何かを感じ視線を廻らす、ちょうど遠目に見えていた彫像の足元を通りかかっており、タイスの身長よりも大きい台座の上に男性の雄々しい彫像が今にも飛び掛からんばかりの勢いでこちらを見下ろしていた。
右手に剣を左手に槍を構え、その槍はちょうどタイスの立つ位置へ今にも突き刺そうと振り上げられている、鍛え上げられた筋肉がその肉体に陰影を施し食い縛った口元と鋭い目元それから宝石のような瞳が非常に現実的であった、しかし異質なのは装飾物と言って良いものかその肉体には数本の矢が刺さり槍が一本腹部を貫通し中ほどで折れ曲がっている、その傷口からは真っ赤な鮮血が溢れ彫像に彩を添えていた、着衣は無い、その為陰茎が露わになりその奇妙な形にタイスは目を奪われてしまう。
思わずタイスは足を止めインゲラの手はスルリと離れてしまった、インゲラは振り返りタイスの姿を見止めその視線が向かう先を追った、
「すごいでしょ、皇帝が作成された逸品ですよ」
インゲラも像を見上げそう言った、その言葉にタイスはハッと気付いて赤面し俯いてしまう、不思議そうにインゲラはタイスを見下ろし、あぁと納得して微笑んだ、
「そうよね、男性の裸をじっくり見た事ないもんね、特に此処にある像はどれもこれも裸だから」
と軽やかに言い放つ、
「・・・そうなんですね」
タイスは何と答えていいか分からずに何とか胡麻化そうと言葉を探す、
「ふふん、変な形でしょ、なんでこんな形なのか不思議よねぇ」
インゲラはしみじみと語る、像を見上げるその視線はあからさまに股間へ向いていた、
「ま、これも慣れるわ、皆を見てごらん、誰も気にしていないでしょ」
その言葉通り庭園にたむろする者でその興味を像に向けている者は見止められなかった、タイスは言葉も無く視線を廻らし火照った顔をインゲラに見せないように苦労している、
「さ、こっちよ」
インゲラはタイスの心情を思ってか先を促しタイスは俯いたまま従った。
「覚えてね、ここが水場、トイレと湯殿とそれから向うが食事処になっていて、二階が寝室、そのとなりが教室、この建物は集会所と呼ばれてて、隣りの建物が管理棟ね」
庭園の隅に木造二階建ての集会所が設置されていた、タイスが帝都で泊まった宿よりも大きく広い、手前右側と向かって左側に階段があり2階へとつながっていた、その建物の表に見える幾つかの扉をインゲラは指し示しつつ教えてくれる、タイスは一つ一つにコクリコクリと頷きつつ必死な表情でインゲラの言葉を飲み込むように心に刻む、その建物の隣りには集会所の半分よりもっと小さい程度のこちらも2階建ての建物がありそちらが管理棟であるらしい、
「管理棟は一階が救護室、二階が宿泊施設、あなたはあまり使わないと思うけどね、それで」
とインゲラが先に行こうとするのを制して、
「ごめんなさい、教室ってなんですか?」
タイスは真っすぐにインゲラを見上げて訊ねる、先程の恥ずかしさも手伝ってかやや声が震えている。
インゲラはその質問にすこしばかり眉を顰めたようであった、質問してはいけなかったかとタイスは思い、失敗したと急激に自責の念に駆られる、それでも見上げる視線を逸らさずに、しかとインゲラを見詰めるがじわりじわりとその眼は潤んできた、
「そうね、教室というのは皆で勉強する場所よ、文字とか言葉とか算学とか歴史とか」
「えっ、勉強する場所ですか?司祭様が来るんですか?」
タイスの声がより甲高く響きその驚きをインゲラに伝える、
「うーん、司祭が来る事もありますが、専門の教師というのが居るのでその人に教わるの」
タイスはその言葉に心の底から震える程の感激を覚えて教室と教えられた二階の部屋を見上げる、
「・・・あの、あの、私も勉強したいです、・・・あの、どうすれば、どうすればいいんですか、あの、何でもやります、裁縫と畑仕事は得意です、あと、あと、巡回司祭様には賢い子だって言われてましたから、読み書きもできます、その下手ですけど、それから、あと、いろいろ頑張りますから、その、あの」
タイスは両目に涙を浮かべてインゲラに縋りついた、その涙の理由が変わっている事に気付かずに何とか認めてもらおうと取り留めも無い事を口走る、
「勿論ですよ、勉強しましょう」
インゲラは微笑んでタイスをそっと抱き締めて答えとした、
「もう貴方は宮の一員なのです、たくさん勉強しましょう」
その言葉にタイスは息を呑み暫くぼうっとインゲラを見上げると、
「本当ですか、嬉しいです」
とタイスはインゲラの胸に抱かれ感激を露わにする、涙が幾つかの雫となってその頬を染めたがその涙の理由はまた異なったものであった、
「ほら、泣かないで、まずはお清めね」
インゲラは腰を下ろしてタイスの顔を自らのローブの端で拭い清め、
「トイレの使い方から教えるからね」
と扉の一つを眼で示す、タイスは思いっきり鼻を啜って大きく吐息を吐くと、
「はい」
と快活に返事をした。
「ここのトイレは綺麗に使う事いいですね?」
インゲラは扉を開けながらタイスに言った、タイスはインゲラに続いて部屋に入るとそこには厠独特の臭気は無く、外よりも冷たく鋭利な空気が張り詰めた肌寒い程の空間となっていた、中央に通路が有りその左側に木の板で仕切られた個室が並ぶ、右側手前には低い位置に木製の台がありその上に陶器のボウルのようなものが乗せられ天井から伸びた銅管を通って水がチョロチョロと滴り落ちボウルに溜っていた、台の横には何枚もの綺麗な布が重ねられている、
「この個室一つ一つがトイレになっています、入ってみて」
インゲラは個室の一つを押し開きタイスをいざなう、中を覗くと木製の便器が設置されその脇には床の上に陶器のボウルが直に置かれ天井からの銅管を通った水を満面と湛えており、それから溢れた水は便器の方へ流れ出しているようであった、その側には木製の火ばさみのような形状の器具が数本立てかけられ、隣りには藁の籠が置かれており小さな埃の集まったような何かが満載されていた、
「こういうトイレは使った事ある?」
インゲラの問いにタイスはフルフルと顔を振る、
「そうよね、ここは特別だから」
そういって火ばさみの一つを手に取る、
「まずはこれね、これでこの籠の中の海綿を一つ鋏むの、そしてこれでお尻を拭くのよ、で終ったら海綿はそのまま便器に流していいわ、でこの鋏の先が汚れたら足元の水溜めから出てくる水で洗う事、それとこの水溜めは中の水流が弱い時に流す為に貯めてるのと掃除の時にも使っているみたい、あんまり考えなくていいわ」
インゲラは慣れた手つきで所作を見せる、
「実際に用を足している姿を見せれいいんだけど、なんとなくわかるでしょ」
タイスはその言にウンウンと頷いた、実際の所タイスは何とも勿体ない気がしてならない、彼女の経験上トイレは部屋の片隅にある尿瓶か、外にあるそれは臭く暗く湿った空間でこの部屋のような鋭敏な清涼さとは懸け離れた代物である、清拭も乾燥させた穀物の葉を使用し無くなったら近くの森で大振りの葉を刈ってきて乾燥させて使用していた、昨晩泊まった宿のトイレは個室が無く便座がコの字に並んでいて清拭は棒の先に海綿を括り付けたものであったがそれは他人と使いまわす共用であり、そういうものかとタイスは諦めて使用したものだ、
「便器の中はこんな感じね」
インゲラは便座を取り外して見せてくれる、木製の便座とは違い中は石造りとなっており上方から水が流れ下方にある溝へ流れ落ちていた、
「この水で出したものを流しているのね、すごいでしょ」
タイスは無言で頷く、これであれば出したものを直接見る事はできないなと詮無い事を考えてしまう、
「注意点としてはこの海綿は時々羊皮紙の屑になったり布切れになったりする事くらいかな、その時に驚かないでね、やっぱり海綿の肌触りが一番なんだけどね」
以上かなとインゲラは話を切り上げて、質問ある?とタイスを振り返る、タイスは無言でかかぶりを振る、
「なら、用がすんだらこっちね入り口脇にも水溜めがあるでしょ、そこで両手を洗うの」
インゲラはすぐ後ろの水溜めに向かう、水溜めは低い位置に設置されておりインゲラはやや屈みながら説明を始めた、
「こうやって両手を綺麗にしたらこの手拭きを使って、終ったら脇の籠へ入れちゃって」
綺麗な布の束の隣りに籠があり中には使用済みの布が雑に重ねられていた、
「まぁ、そのうち慣れるけど、他の子がどう使っているかは中々見れないし話題にもならないでしょ、だから一番最初にトイレの使い方を教えるの、理解できた?」
タイスは無言で頷いた、何もかも新味で自分には贅沢すぎるように感じて萎縮してしまう、用を足す程度にこれほど神経を使うのかと眩暈さえしてきた、
「使ってみる?」
インゲラは明るく軽く聞いて来る、タイスは眉根を寄せて困惑するも、
「別に出す必要はないの、実際にやってみて疑問があれば聞きなさい、今の内よ、さっきも言ったけど使い方が話題に上る事は無いし、他人の使い方は見れないような作りだし」
とインゲラはあくまで親切心で言っている事を強調する、タイスはコクンと頷いて個室に入ってみた、扉を締めると陽の光が遮られ説明の時は明るく感じた個室はとても薄暗く陰気になる、それでも扉の上方と下方の一部はそれぞれに大き目の隙間が空いておりそこから採光する仕組みであるらしく真っ暗になるという程では無かった、
「うん、中に入ったら扉に鉤があるでしょ、それを右、いや左かなに滑らせてそうすれば外から入ってこれないから」
タイスは言われるまま扉の内鉤を施錠し、便座に座ってみた、インゲラの言を思い出しながら鋏みに手を伸ばし海綿を掴む、使い慣れない諸々に四苦八苦しつつフラフラと個室を出た、
「どう?」
インゲラはその姿を面白そうに眺めて言った、
「・・・何とか、なると思います」
タイスは実際に使用していないにも関わらず疲弊した表情で静かに答える、
「まぁ、慣れよ慣れ」
インゲラは明るく言って、
「さ、手を洗って」
と促すとタイスと居場所を交換する、タイスは素直に水溜めに向かい布を手に取って、動きが止まった、
「どうしたの?」
「あの、これ、シルクですか?もしかして」
タイスは左手に布を握ったまま硬直している、その感触をタイスは覚えている、誰かが大事に持っていたものを不用意に触れてしまい激怒された事があり、結婚記念に頂いたもので大変高価なものであり子供が手にしていいものではないとキツク言われたのだ、普段優しいその人の烈火のような怒りに縮み上がり泣いて謝った記憶があった、手にした布はその記念品の二倍はある大きさでその感触にタイスは当時の悲しみを思い出す。
「えぇそうね」
インゲラはそれがどうしたと言わんばかりに答えた、タイスはまじまじと手にした布を観察する、サラサラの手触りが指先に優しく触れ付着した水分はあっという間に吸い込まれてしまう、よく見ると独特の光沢が差し込む陽光を僅かに受けてぬめりと輝き、見た目と反した軽さが心地良さを倍増させた、
「・・・えっと、シルクって、あの・・・、とても、高価なのでは」
タイスはクラクラしながらインゲラに問う、
「そうね、でもそれは手拭きよ」
インゲラは当然のように答えた、タイスは驚いた顔でインゲラを見上げる、その顔を見て不思議そうな顔でインゲラはさらに告げた、
「あなたの履いてる下着とその靴もシルクよ」
タイスはさらに驚いて腰に手をあて靴を見た、確かに肌触りの良さと軽さが心地良く、まるで履いていないような感覚ですらあった、
「まぁ、いちいち驚かない事ね、そのうち慣れるわ」
インゲラは詰まらなそうに言う、
「・・・はい、御免なさい、すいません」
タイスは如何にこの環境が自分の生きて来た空間と異なるものであるかを痛感し俯いた、シルクの手拭きで手を拭い側の籠へポトリと落す、記憶の中の人物がはて誰であったか等と考えつつトイレの奥に視線が向かいそこに何かが居るのを発見した、精神的打撃に打ちのめされつつもその違和感に視線を取られる。
一点を凝視するタイスに気付き、インゲラはあぁあれもあったなと思い出しどうしようかと一瞬躊躇って切り出した、
「タイス、あれはあなたには暫く関わり無いものよ」
その声は一転暗く静かで冷たく独特の強制力を含んでタイスに降り掛かった、
「・・・はい、しかし」
タイスは視線を外せず息を呑む、その部屋の奥、最も光の届かない所に影が複数小さく丸まっていた、人である、真っ黒い長衣で全身を包み木の床の上に跪座している、異質なのは両手を腹の前で縛り付けられている事と皆禿頭である事、そして目隠しをされておりだらしなく口を開け変色し変形した長い舌がダラリと胸元まで垂れ下がっている、よく耳を済ませればその苦し気な吐息が微かにタイスにも届いていた。
「タイス、あれはあなたには暫く関わり無いものよ」
インゲラの言葉は再びタイスに降り掛かり、ゆっくりとその身に浸透していった、タイスはゆるゆるとその視線をインゲラに戻す、ぼやけた焦点がインゲラの顔に合い瞳を捕らえると、
「トイレは大丈夫と思います」
静かにそう告げた、
「そう、では、お風呂ね、楽しいわよ」
インゲラはタイスの両肩に手を添えると強引に向きを変えトイレを後にした。
すぐ隣りの扉を開くとそこは脱衣所になっていた、インゲラはタイスの肩を抱くようにその部屋に入ると、良い香りを纏った暖かい湿気が二人の全身を包み込む、何の香りかとタイスはインゲラを見上げた途端入浴を済ませた子供が四人楽し気に走り寄った、
「こら、走らない」
インゲラは微笑みながら優しく注意する、その声に子供らは謝罪の言葉を投げつけながら外に走り出た、その勢いに負けインゲラとタイスは道を譲ってしまう、まったくもうとインゲラは溜息を吐きつつ案内を始める、
「ここが脱衣所、入ってすぐの左側の籠に脱いだ服を入れてね、といっても下着だけだけど、新しい下着はそこね綺麗でしょ皆で共有しているけどしっかり洗濯してあるから気にしないでね、後で下着の着け方覚えようね、それから奥の左側のボウルが並んでいるでしょ、あそこが洗面台、その反対側が乾燥場奥の扉が倉庫ね」
「あのその前に」
タイスはおずおずと問い掛ける、
「何?」
「さっきの子達、男の子と女の子、一緒でしたけど・・・」
不安気に聞く、
「・・・そうね、一緒よ、ここは宮専用だから、強いて言うなら子供用といえば理解しやすいかしら」
「子供用ですか・・・」
タイスは納得いかない様子で脱衣所の中へ視線を移す、独特の香りにはあっという間に慣れてしまったが湯殿特有の湿気と温もりへの違和感はタイスを包んで離さない、
「そんな事より清めましょう、今のままでは勉強はできませんよ」
インゲラは勉強を出汁に使ってタイスの焦りを呷る、まんまとその言葉に乗せられ慌てたタイスは脱衣場の棚の前で衣服に手を掛け慣れない長衣をなんとか脱ぎ下着と靴を籠に収めた、
「じゃこっちね」
インゲラは長衣を脱がずに風呂場への扉を開けタイスを通した、
「わぁ、すごい」
脱衣所で嗅いだ香りがより強くタイスを襲い、むっとする程の香気と熱気に身を包まれた、おそるおそるとタイスはインゲラの側を通り室内を視認した途端感嘆の声を上げる。
タイスの知る浴場や風呂場とは全く異なった景色が眼前にあった、広々とした浴室内はその半分程度に満々と湯を湛える浴槽がありその中心には金色の聖母像が鎮座していた、その聖母像が掲げる杯から湯が滝となって流れ落ちている、庭園の池と同じ作りであろうか聖母像の形は若干異なっているようであるが湯気の影に隠れよく見えなかった、洗い場には三つのお湯を湛えた大桶が置かれ小さな木製の椅子が大桶を中心に円状に並べられている、大桶の中央には幾つかの壺と白い石塊それと籠と手桶が置いてある。
「まずは、こちらに来て、身体の洗い方を覚えてね」
インゲラは腕まくりをしながら手前の洗い場に向かう、しかしタイスは尻込みしてしまった、こんな贅沢が許されるのであろうか、改めて不安になる。
「あの、いいんですか?こんな、その」
タイスは敷居を跨げずに躊躇してしまう、
「いいのよ、おいで」
インゲラは数歩戻るとそっとタイスの背を押すように洗い場へ誘導した、
「椅子に座って、それでは掛湯をして頭から洗うからね」
タイスは言われるがまま小さな椅子にチョコンと座る、タイスにとってもやや小さいと感じられる椅子であった、インゲラは手桶を手にし大桶からお湯を汲み優しくタイスの背を流す、背を流れる温かさを感じタイスはほぉっと溜息を吐いた、
「気持ちいいでしょ」
インゲラは楽しそうに言って数度タイスの背を流し、
「目を閉じてね」
手桶のお湯をタイスの頭にゆっくりと掛ける、タイスは目をギュッと閉じ身を縮めてされるがままとなっていた、
「うん、髪を洗う時はお湯で汚れを落してからこの薬で洗うのよ」
インゲラは数個並んだ壺の一つをタイスに見せ中の薬液を指先で掬う、タイスは目を薄めに開けてその所作を観察した、
「ではいくわよ」
インゲラは薬液を頭部に乗せゆっくりとマッサージする、白い泡が頭部を覆い始めそれにつれて果物の香りが周囲に拡散していく、
「良い香り、それにとっても気持ちいい」
タイスは素直な感想を口にした、
「そうね、まずは頭皮をやさしく揉むように洗ってあげてそれから髪を梳くように」
説明しながら手技を続ける、タイスはその心地良さに陶然となる、
「どう?、じゃ、自分でやってみて」
インゲラは手を離すとタイスは見様見真似で頭と髪を洗ってみる、タイスにとっては頭を洗うという行為そのものが初めての事であった、時折髪を梳く事はあってもお湯や薬液を使用しての洗髪等思いもよらない行為である、慣れない手付きで髪の間から皮膚を洗い髪にその泡を馴染ませて指で梳いてみる、
「そうそう、良い感じ、泡が足りない時とかは薬液を増やせばいいわよ、遠慮しないで使っていいからね」
タイスはそう言われても目を閉じた状態では適正量が分からないなと思いつつ、手を動かし続けた、
「そんな感じでいいわよ、では、手桶でお湯を汲んで流しちゃって」
インゲラに手桶を握らされて薄目を開けつつ大桶からお湯を汲み頭に掛ける、積年の垢と汚れが落ちた頭部は濡れそぼっていたがとても軽く感じられた、
「なんか、脱皮したような気持ちです」
タイスはインゲラを見上げて言った、
「そう、脱皮か、上手い表現かもね」
インゲラは笑ってタイスも釣られて微笑む、
「では、今度は身体の方だけど」
それから石鹸の使い方、籠に入っている海綿の使い方を教えられ、全身を隈なく洗うと湯舟に浸かった、お湯は独特の芳香が有り心地良くタイスの緊張を解きほぐしてくれた、広い湯舟に一人で浸かり両手両足を思い切り伸ばすとあまりの解放感と贅沢さにタイスは此の世のものとは思えない幸福を感じてしまう、
「のぼせないうちに上がるのよ」
インゲラの言葉にハッと我に返りそそくさと風呂場を後にした、
「お風呂はいつでも入れるから、日に一回は必ず入る事、ちゃんと髪と身体を洗うのよ、怠けちゃだめだからね、男の子はめんどくさがるけど、そういうのは駄目、いいわね」
インゲラは静かに窘める様にタイスに言い聞かせる、こんな気持ちの良い事を怠けるとはどういう事だろうとタイスは思う、
「濡れたままでいいから乾燥場と洗面台ね」
インゲラは脱衣所の奥へ進む、乾燥場と彼女の言う区画には縦長の隙間が空いた壁と壁に接する床には踏み台のような突起が設えられていた、
「この台を踏んでみて、体重をかけてしっかりと」
タイスはその通りに踏み台を踏んでみる、大きな抵抗があり中々踏み込めなかったが重心をかけるように押し込むと壁の隙間から熱風がタイスを襲った、思わず悲鳴を上げ後退りインゲラにぶつかってしまう、
「あぁ、ごめんなさい」
タイスは反射的にインゲラに謝罪するもインゲラは気にした様子も無く面白そうにタイスを見ていた、
「びっくりした?大丈夫、やってみて」
インゲラに背を押され再度床の踏み台を踏み込み、熱風を身体に浴びる、今度は耐えて見せたがこの行為の意味が分からずインゲラを見上げた、
「これは身体と髪を乾かす仕掛けなの、足で踏みながら身体を当てて水気を飛ばすのね、それと髪も、女の子はそっちの方が重要ね、熱風に髪を当てながら手で梳いて乾燥させるのよ、やってみて」
そう言われてやっと意味を理解し何度か踏み台を押し込み身体と髪へ熱風を当てる、身体はあっという間に乾いたが髪の湿気はなかなか取れるものでは無かった、
「髪だけ乾かしたいときは端っこにあるのがいいわ、二つならんでいる隙間が小さいのが髪用ね」
インゲラに言われそちらへ移動した、隙間が縦に狭くタイスの頭部より若干高い位置に開けられている、同じように踏み台を踏むとより強い熱風が頭部にのみ襲い掛かった、タイスは懸命に踏み込みつつ髪を乾かす、
「ん、大分乾いた?」
インゲラはタイスの背後からその様子を眺めながら悠然としているが、タイスは風呂の疲れと慣れない仕掛けの操作にとしっかりへばってしまう、
「疲れちゃったか、ごめんね、さ、こっちでゆっくりしましょう」
インゲラの言に若干足元をふらつかせながら洗面台へと足を運ぶ、洗面台は低いテーブルに陶器の桶が数個並びそこには冷水が流れ込んでいた、壁面には数種の壺と手鏡が置かれ髪用の櫛やシルクの手拭き、小さなカップ、木の枝、ナイフ等が規則的に並んでいる、テーブルの下には背の無い椅子が収納されていた、椅子の一つを引き出すとタイスは腰掛け大きく息を吐いた。
インゲラはタイスの疲労には構わず淡々と次の講習を始める、洗顔、歯磨き、乳液、化粧水、髪の梳き方、纏め方、それはタイスの見知ったものから初見のものまで様々であったがこれは勉強なのだと気合を入れ直したタイスはなんとか一つ一つを熟し入浴の講習は終わりを迎えた。
特に洗顔と歯磨きそれと髪の手入れは入念に行われ、洗顔の為に作られたという薬液や歯磨きの際の歯櫛の先に付ける糊のような薬液には驚かされた、どちらもそれ専用の物であるとの事でなるほど講習を受けなければこの地での生活は大変気まずいものになるだろうと実感させられた、その上その薬液の効果はどちらも素晴らしく顔を洗うという行為は精々水かお湯で洗い流す程度であったものが薬液を加え顔の部位毎に触れ方と揉み方を変えるだけでタイスの顔は見違える程輝きを増した、歯磨きはそれまで塩と歯櫛で適当に行われた日々の習慣化した一つの行為でしかなかったものが、インゲラに目的と行為の意味を諭され漸く意味のある行為としてタイスは認識できるようになり、歯磨き用の薬液は口中の雑菌を綺麗に洗い流した上に体内さえも浄化しうる程の清涼感でタイスを魅了した。
最も時間を取られたのは髪である、インゲラは髪は命よと何度も口にしながらタイスの髪を梳いてくれた、ボサボサと伸ばし放題であったタイスの髪はそれでも旅の前に一通りの手入れをして恥ずかしく無いものであったはずだが、インゲラの技と洗髪の効果かしっとりと艶やかに纏まりを見せ手鏡に映る自分が本当に自分であるのか疑わしい程の変貌を見せてくれた、その髪にタイスは触れると極上の羊毛が持つ弾力とシルクのような滑らかさが感じられ暫くの間その感触を夢見心地で愉しんでしまった、インゲラはその様子を満足気に眺めつつ、今度は他の女の子同士で手入れするのよと言い添えた。
諸々の講習でタイスはすっかり疲労し言葉も少なくなったが入浴の効果か身体は軽く、それ以上に爽快な頭部の感覚に楽しくなってしまう、さらに初めて付けた乳液や化粧水は肌にしっとりとした滑らかさを加え、ほのかに甘ったるい香りが全身を包んでいる、たかだか入浴しただけで自分では無い何かに生まれ変わった幻想をタイスは抱き、最後に下着の着け方を改めて学び、軽やかな足取りで脱衣所から出る。
インゲラが身を清めると何度も言った意味が良く理解できた、この世界に対しタイスのいた世界はまるでゴミ溜めのようであったと思う、あらゆるものが不浄で雑然とし自身もそうであるが周囲の人間もまた衛生という観念を所持していない、全ての人がこの浴場を共有できればどれほど幸せかとタイスは無想した。
外気に触れるとややヒヤリとしたが身体の芯にある温かさはじっくりとタイスを支えてくれている、長衣は羽織っていない、履物も同様である、他の住人がそうであるようにタイスもまた下着のみの半裸となって脱衣所を出た、インゲラにそうするようにと言われた事もあるし彼等の中に入る為に必要な事と自身で納得できた点も大きかった、この環境に慣れなければと自身に言い聞かせる、しかし実際そうした所それは特別な行為ではなかったようでその姿、その在り方がこの空間の当たり前である事を瞬時に理解できた、理解できた事に疑問すら感じぬままに。
「お昼を頂きましょうか、お腹空いたでしょう、ここが食堂、皆で食事をするのよ」
とインゲラは階段の影にある扉を開ける、そこは一転、人混みに溢れていた、この宮の主達の楽し気な声が溢れている、長机が幾つか並びそれぞれに子供達が行儀良く座って食事をしていた、奥には厨房らしき空間とそれを仕切る長机がありその上に盆にのせられた数種の料理が並んでおり、料理の香りがふわりとタイスを包み込んだ、
「ここの食事は朝、昼、夕の3回ね、故郷ではどうだった?」
インゲラはタイスに先立ち料理の並ぶ長机に近寄る、
「えっと、朝と夕、お昼は無くておやつ?間食でした」
「そう、ではそれもここの習慣に慣れないとね」
インゲラは長机の端に重ねられた木製の盆を二つ取りタイスに一つを手渡すと、
「この長机に並んだ料理から好きな物をとっていいの、でも好き嫌いは駄目よ、なるべく色んな物を食べるように」
インゲラは自分の盆に小分けにされた料理を乗せ最後にパンを二切れと食事用のナイフも盆に乗せる、タイスは見習って料理を選ぼうとするがその種類が多すぎるのと見た事も無い料理ばかりで手を出せずにいた、
「どうしたの、お腹空いてない?」
「・・・ごめんなさい、これは何が入っているのですか?」
タイスは料理の一つを指差す、小皿の中は黒々としたスープになっており、具材はその一角が覗いているがその正体が不明であった、
「そうね、そういう時は料理長に聞いていいわよ、料理長、これは何が入っているの」
インゲラは厨房に声を掛けると女性が一人長机越しに二人へ近付く、インゲラと同じような長衣を着てフードは被っていないが何か陰気に見える人であった、
「これは、インゲラ様ようこそおいで下さいました、こちらは、新しい宮のご主人様ですね」
タイスを見てゆっくりと腰を折るように頭を下げ、
「調理をさせて頂いております、オフェリーでございます、僭越ながら料理長とお呼び頂ければ幸いと存じます」
インゲラはタイスを見詰めて質問を促す、
「あの、この料理の具は何が入っているのですか?」
タイスはおずおずと小皿の一つを指差して質問する、
「はい、こちらは黒豆とかぼちゃの煮物です、美味しいですよ」
オフェリーはニコリと微笑んだ、その笑みを見てタイスはほっとしてその皿を取り、他の料理についても矢継ぎ早に聞いて行く、インゲラは側でその回答を聞いていたが、自分の取った料理の内容を聞いて眉間に皺を寄せそっと長机に料理を戻し別の小皿を盆に乗せた、
「ありがとうございます」
タイスは一通りの質問を終え、その小柄な体形には相応しく無いほど大量の料理を盆に乗せてしまう、
「御丁寧にこちらこそありがとうございます、しかし、僭越ですが取りすぎではないですか?始めは少量から足りなかったらまた取りに来て頂きたく思います、どの料理も充分ありますので・・・」
「そうね、料理長の言う通りよ、ここでは残したら駄目、それが規則ね、後、パンか粥は食べる事、嫌いじゃないんでしょ」
タイスは二人の言葉に少々恥ずかしくなり俯きつつ小皿を数枚長机に戻し、パンを一切れ盆に乗せる、
「うん、じゃおいで」
インゲラは皆が食事をする長机に向かい、その空いた一角に席を占めた、タイスは向かい合う様に座ると早速周囲の子供達が話しかけてくる、
「こんにちは、新人さん?」
「さっき、浴場であった人?」
「インゲラ様、久しぶり」
「手振ったの分かった?」
「それ、ちょっと味薄いから塩振った方が美味いぞ」
「いや、酢の方が美味いって」
それぞれに言いたい事を早口で捲し立てる、インゲラは特段に反応せず騒ぐに任せているが、タイスはどうしたものかと焦って目が回る、
「どこから来たの?」
「何歳?ねぇ」
「お魚好き?食べられる?」
タイスが何とも困りきってインゲラの顔を窺うと、
「こら、困らせない、済んだ者は出なさい」
背後で大人の怒声が響いた、振り向くと長衣を着た長身の男性が騒がしい子供達を睨んでいる、その声に皆静かになると、食事を続ける者、席を立つ者とそれぞれに動き出す、
「インゲラ様失礼を致しました」
男性は二人の側に来て頭を垂れる、
「いいですよ、いつもの事です、食事が済んだら上へ行きます、そこで正式に紹介致しますね、この娘はタイスよ、タイスこちらアメデ先生、教師よ」
「ようこそ、タイス、では後程」
アメデはゆっくりと頭を下げ優雅に踵を返すと周囲の子供達に纏わりつかれながら離れていった、
「良い教師よ、外国語を教えてくれる人」
インゲラは適当に紹介する、タイスはアメデの背を目で追って、
「外国語って、南のとかエルフのとかドワーフのですか?」
「そうね、貴方ならアーチ語、旧帝国語は聞いた事があるでしょ、それが主ね、帝国語もしっかりしたものを習うわよそれは別の教師だけど」
インゲラはナイフでパンを刻みつつ説明する、刻まれたパンの一つを摘まみ小皿の一つに浸すと口に運んだ、
「教師って何人いらっしゃるんですか?」
タイスの目は輝き嬉々として質問する、
「そうね、外国語と語学と算学と歴史と時々建築、それと体育もかな、常駐しているのが四人、他に二三人って所かしら」
タイスはインゲラを見習ってパンを切り分け小皿に浸すと口へ運んだ、先程聞いた黒豆とかぼちゃの煮物であるがかぼちゃ独特の甘味と黒豆のしっかりとした歯ごたえが相まって大変美味しい、タイスは興味の大半を料理に奪われ空腹も手伝ってか忙し気に両手を動かし続ける、
「落ち着いて食べなさい、ほら、水もあるから」
タイスの様子にインゲラは長机の中央に置かれた水差しから杯に水を注いでタイスの前に置く、
「すいません、凄く美味しくて」
頬張った様々な料理を何とか飲み込み、タイスはそれだけ言って杯に口を付ける、
「良かった、味が足りない時は塩と酢はあるし、魚醤もあるけどこれはすきずきね」
水差しの周りに幾つかの壺が置かれその中身がそうであるらしい、タイスは興味津々でそれらを一つ一つ開けて中身を覗いていく、
「塩は海塩と岩塩があるから気を付けてね、どっちが好み?」
「うーん多分岩塩です、海塩って聞いた事ないです」
「そう、ならちょっと試してみたら、そっちの粉っぽいのが海塩よ」
タイスは差された壺を開け中を見る、灰色の塩というよりも粉に近い物質が入っていた、タイスにとって日常的に使っていた岩塩とは異なり既に粒状であるのが不思議であった、誰かが砕いてくれたのかなと思いながら壺を傾け少量を皿の上に取ると指先に付け舐めてみる、
「あっ、美味しい、全然違う」
「でしょ、面白いよね、塩といっても違うでしょ」
タイスは嬉しくなってパンに振り掛けたり料理の一つに混ぜてみたりと楽し気に塩を満喫した、あっという間に眼前の盆の料理は姿を消し替わりに満ち足りた微笑みを浮かべお腹を摩るタイスが出来上がった、
「満足した?足りなかったらもっと頂いてもいいのよ」
インゲラの優し気な言葉にタイスは、
「もう充分です、とても美味しかったです、初めて食べた物ばかりで感激です」
とやや苦し気に答えた、
「でしょうね」
とインゲラは呆れたように言うと自身の食事を済ませた、タイスはそう言えばと壺の中身を再び確認し黒色の液体に興味を持つ、
「これは何ですか?」
「それが魚醤、美味しいらしいよ」
インゲラは興味無さげに答える、タイスは物は試しと少量を空いた小皿にとると一舐めしてみた、
「どう?」
インゲラはその仕草を不思議そうに見詰める、タイスは口中に広がった独特の臭みに襲われ少々混乱したがその後に来る塩とは異なる塩辛さと感じた事の無い新たな味覚に翻弄された、飲み込むのに苦労したが何とか嚥下しプフゥーと可愛げな吐息を吐くと、
「・・・たぶん、美味しいです、でもちょっと臭いです、でも美味しいです」
何とも要領の得ない感想を言う、美味しかったのだろうがその感覚を素直に受け入れたくないといった風情である、
「そう、良かったわ」
インゲラはやはり興味無さげで奇妙に白々しく言うと盆を手に立ち上がった、
「食事が済んだら盆を持ってこっちね」
厨房の手前、料理の並んだ長机の端に使用済みの食器と盆が重ねられていた、先に済ませた子供達が重ねておいたものだろう、インゲラはそこに自分の盆を重ねタイスも真似て盆を置く、
「さて、それでは上に行きましょうかまだお昼の時間だし先に寝室が良いかしら」
インゲラはタイスを連れて食堂をあとにし2階への階段を昇る、庭園には先程よりも多くの子供達がそれぞれに戯れていた、
「食事を終えたら少し休憩ね、まぁそこら辺は流れに任せる事ね」
2階へ至り奥の部屋に進み扉を開けると、そこは3段ベッドが並び中央には聖母像が置かれた大部屋であった、丈の固いベッドのおかげか室内は暗く若干大気は湿っているように感じる、
「ここが寝室、だれか居る?」
奥へ声を掛けると真っ白いシーツを手にした奴隷が奥から音もなく二人に近寄ると荷物を抱えたままゆっくりと頭を垂れる、
「貴方だけ?ま、そうよね」
「はい、ただ今の時間は寝室にいらっしゃる方はおりません」
「そう、使用していないベッドはある?あぁ、そこまでは貴方の管轄じゃ無いわね、じゃいいわ」
とインゲラは鷹揚に手を振ると奴隷は畏まり部屋の奥へ戻った、
「取り合えずここが寝室ね、使い方は他の子に教えてもらって、一応ベッドは決まった所を使う事、いいわね」
簡単にそう言って退室した、タイスが後に続くと、
「この隣りの部屋が年長者の個室ね、で、その隣りが大望の教室よ」
インゲラはスタスタと通路を歩き教室と呼んだ部屋の扉を開ける、室内は扉の前で衝立で仕切られておりその衝立に向かって背の低い机と椅子が並んでいた、壁際には大きく開口された窓と両隅に聖母像が置かれ、窓の下と通路沿いの壁に棚が並び様々な物が乱雑に置かれている、室内には食堂で会ったアメデと二三人の子供が談笑していた、
「アメデ、今いい?」
インゲラはアメデに歩みよる、
「勿論です、インゲラ様、タイスも良く来たね」
アメデはタイスを優しく迎え入れる、タイスはそろそろとその部屋に入ると壁面を飾る丸められた羊皮紙と紙の束に目を丸くする、
「よく考えれば正式も何もないわね、タイスよこちらアメデ先生」
インゲラはあからさまに適当な紹介で済ませる、しかしアメデはそんなインゲラに苦笑しつつ、
「タイス、アメデです、宜しくお願いします」
丁寧にタイスに礼をする、
「こちらこそ、タイスです、宜しくお願い致します」
タイスは背筋を伸ばし若干上擦った調子で答えた、
「教室の説明と寝室の使い方は教えてないわ、ま、慣れるでしょうけど、姉か兄を決めておく?」
「そうですねぇ」
とアメデは首を傾げつつ振り返る、タイスよりも年嵩の子供を見付けると、
「彼女に頼みましょう、優しい娘です」
とその娘を手招きする、机の上の羊皮紙を二人で覗き込んでいたその娘はすぐさま3人の元へ駆け寄った、
「ドロテア、こちらが今日から宮の一人になるタイスです、姉としてお世話をお願いできますか」
ドロテアと呼ばれた娘はタイスを見てインゲラを見上げアメデを見ると、
「勿論ですが、姉になるのは初めてです、私で良いのですか?」
不安気にアメデに問う、
「えぇ、貴方は勉強も出来ますしなにより優しい娘です、タイスにも優しい姉になってあげなさい、教室の使い方と寝室の使い方を教えてあげて」
「はい、ありがとうございます、頑張ります」
アメデの言葉に嬉しそうに顔を赤くして答えると、
「タイス、おいで、一緒にお勉強しましょう」
早速タイスを連れて机に戻る、タイスの離れゆく背を見詰めながらインゲラはやれやれと吐息を吐いた、
「後は任せるわ、急な昇宮でしっかり時間を取られちゃった」
インゲラはボヤいて見せる、
「お疲れさまでした、宮に上がる子は皆優秀です彼女も今後が愉しみですね」
アメデはにこやかに微笑む、インゲラはその言葉を聞いて反吐が出る程の脱力感に襲われた、全く人形共はと声に出さずに悪態を吐く、その顔は先程迄の優しさも明るさも無くし一切の反応を消失した無となった、
「何かあれば、言うように、それでは」
低く冷たい言葉を残しインゲラは教室を出、足早に庭園を後にした。
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