第2話 帝国 昇宮

朝議が終わると日課の時間であった、供を連れずに城門を抜け真っすぐと伸びる大路へ出る、城門前は帝国民に開放され其処此処に屋台が立ち茣蓙ござに商品を並べた商人が威勢のいい声を上げていた、まだ午前だというのに元気なものである。

道行く市民達は皇帝の姿を大路に見つけると立ち止まり、手を振る者、敬礼する者、深々と頭を垂れる者、そして子供達は遠慮無く彼に纏わりつき歓声を上げた。子供達の身形は様々であった、貴族の子、商人の子、奴隷の子、皆楽し気に皇帝を囃し立てそれでも彼等なりの敬意は失わず甲高い声が大路を彩る。

それは日常の風景であった、しかし皇帝の顔はにこりとする事も無く、仏頂面で顎を突き出し大股で歩き続ける、返り血を浴びたトーガもそのままに両手も顔もまたそれで染まっている、足跡にさえ血の跡が付きそうであった。

ふと皇帝の目が道の端に止まる、子供達の群れに交る事無く小柄な少女がこちらを見て硬直していた、旅装の両親がその肩を抱き嬉しそうにこちらを眺めている、聖母教会への巡礼者であろうか、旅人そのものが珍しい存在であったが巡礼となると別である、聖母教会の総本山である聖エロー教会はこの帝国首都にあり、皇帝は今そこへ向かっていた。


皇帝は唐突にその歩みを止めた、一団となった子供達は転びそうになる者、皇帝の足に体当たりする者、前の子供にぶつかる者とそれぞれに右往左往する、それでも楽しそうに笑っている、ちょっとしたトラブルでさえ彼等は愉楽に変えてしまうようだ。


皇帝は直角に曲がると旅装の親子の元へ歩み寄る、両親は何事かと思いつつ頭を垂れ娘の頭も同様に抑えつけ皇帝を待った、彼等の精一杯の礼儀である、田舎者の巡礼者が謁見の作法を知る由もない、それを見て大路の商人達は声を揃えて歓声を上げた、様々な声が入り交り何を言わんとしているかが判然としない、両親は戸惑いつつも姿勢は崩さず俯いたまま視線をキョロキョロと動かしている。


皇帝は3人の前に立つとすっと膝を折り目線を少女に合わせた、


「顔を上げよ」


呟くようにそう言った、それが聞こえようが聞こえまいが彼には関係無い、3人は不可思議な力に突き動かされ顔を上げる、巡礼者の親娘は何と言葉を発してよいか分からない、現地民達はこの男が皇帝であると歓声を上げている、宿屋の女将もこの時間帯なら会えるかもと笑って話していた、その存在が今3人の前で身を小さく屈め娘の顔をじっと見ている。


娘は勿論、両親も皇帝の顔など知らなかった、コインに刻まれる皇帝の肖像は見慣れているし、父親は兵役の際遠目にその姿を拝見した事があるが遠目すぎて顔を覚える事等出来はしなかった。


今目の前にいるその男は若い男である、30代前後に見える、やや太り気味の肉体に富裕層が好むトーガを巻いており、純白のそれは緋色に染まっていた。嘗て勇者と呼ばれ魔王を打倒し帝国を再興した真の英雄、その男が勇者と呼ばれたのは60年も前である。


よく考えれば存命してるのが奇跡と言えた、大抵の野人は70年も生きられない、さらに現在でも夜の噂、軍での訓練話等様々な噂話が絶えないのである、多くが盛りに盛った吟遊詩人の歌物語をさらに盛った話だと頭では理解できるが、それにしても、実際にその姿を目にし父親は軽い眩暈を感じた、解体屋か肉屋のように返り血にまみれている、汚れた服を着たまま街へ出る職人はいない、目の前の男は顔や両手も真っ赤に染まっていた。

両親は思う、この男が皇帝なのであろうか、帝都の民に騙されているのだろうか、しかし、その混乱は瞬時に霧消した。空気の弾ける間の抜けた音がした様な気がした。


視界が開けた、そして確信する、この人こそが我々の愛する皇帝陛下である、戦場に於いては万の軍を指揮し、誰よりも民を愛し、弱者を救う真の英雄だ、供も連れずに帝都を闊歩し、子供を侍らして笑顔を絶やさない、神々の武器を振う唯一神の申し子。


「あ、あの、本日は・・・」


やっと父親は言葉を発し、差し障りの無い定型句が口を吐くが最後迄続ける事が出来ない。皇帝はそんな両親を見上げることはせず少女を見詰め続けるだけである、


「あ、あの、この娘は、タイスと申します、昨日、首都へ着きました」


母親は夫の言葉を継いで気丈に発言する、


「これから聖エロー教会へ巡礼を、初めての巡礼になります」


聖母教会の簡易巡礼であろう、一般教徒の為に設定された順路で各地を巡り首都の聖エロー教会を最終地点とする、


「・・・タイス、何か答えなさい、皇帝陛下ですよ」


母親は優しく少女の頭を撫でる、


「申し訳ありません、昨日から、いや、都に入ってから具合が悪そうでして・・・、多分こんな大勢の人を見たのは初めてなもんだから、人に当たったのでしょう」


父親はほらタイスと優し気に肩をさする、少女は言葉も無く硬直していた、父親は尚も娘を焚き付けようとしどろもどろに何事か口にするも意味を成していない。


少女は怯えていた。タイスは物怖じしない性格である、強面の巡回司祭相手でもまるで長年の知り合いのように接する娘であった、その娘が言葉も無く立ち尽くしている、それどころか肩は震え、手足は硬直していた、言葉にならない悲鳴が口元から漏れ出てくる。


異常を感じた父親は慌てて屈みこむとタイスを軽く揺さぶった、


「まぁ、待て」


皇帝はそう言いながらもタイスへの視線は外さない、父親は娘から手を放しすっと腰を上げる、


「この娘は勘が良い?」


「はい、えぇ、時々凄く」


「この娘は覚えが速い?」


「多分、はい・・・比べた事が無いので」


皇帝は矢継ぎ早に簡単な質問を重ねた、一つ一つに母親が答える、幾つかの質問の後、


「最後だ、身体に傷は?」


「ありません、擦り傷や切り傷はありますが小さいモノです」


皇帝は満足気に立ち上がると、


「宮へ招こう、これを持って城門へ」


懐から一片の木札を取り出し父親へ渡すと踵を返し歩を進めた、取り残された親子は呆気に取られその場を動けずにいたが、そばで一部始終を見ていた屋台の主に声を掛けられる、


「おめでとう、娘さんは宮へ招待されたんだよ」


満面の笑みで親子に告げると大声で周囲に呼び掛ける、


「みんな、昇宮だ、この娘が昇宮だぞ」


続いて様々な賛辞の声が四方から掛けられる、夫婦は呆然としていたがその意味を理解し、顔を紅潮させ言葉も無く抱き合った、娘は皇帝の圧からやっと逃れて一息吐く間も無く沸き起こった騒動に、混乱し声も無く両親を見上げるばかりである。


夫婦は称賛の声の中愛しい娘に向き直った、夫婦にとって3人目の子であったが先の2人は3つを数えずに亡くなっていた、その為タイスが家門迎えの儀式を受け一族に迎え入れられた時、夫婦は涙を流して喜んだものである。巡回司祭に気に入られ幼くして読み書きも覚えた、貧しい食事を囲んで聖書の話をする娘は夫婦にとって何物にも代えがたい宝となった、タイスのその名も自身が選んだものである、聖人の娘の名であるという、聖人の名でも神々の名でも無く聖人の娘の名を選んだ娘を皆が称賛した。出来た娘である。


その娘が皇帝に見初められた、これほどの栄誉はあろうか、宮へ入るという、地上の楽園であり、知識の殿堂、武の極地、娘の栄達は決まったのだ、将来は司祭か税理、司法官かはたまた貴族の伴侶もあるかもしれない女将軍もありえる、父親は小躍りしつつ娘を抱き上げ空へ掲げた、


「さすが、俺の娘だ」


娘を褒め称え神への感謝を叫ぶ、タイスは満面の笑みを浮かべ涙を流す両親の顔を言葉を無くして見詰めるだけであった。


道行く人が足を止め何事かと見詰めるも、昇宮の声を聞き称賛の合唱に加わった、合唱が一段落して父親の腕が娘の体重に耐えられなくなって漸く娘は街路に下ろされた、ややふらふらして母親の足にしがみ付くと今度は母親の抱擁が待っていた、母親も泣き笑いの様相で、これほど喜んだ顔をタイスは見た事が無かった、いつもどこか不機嫌そうで、笑うのは井戸端会議で夫の悪口を言う時だけの母親である、今回の巡礼旅もあまり気が乗らなそうで、始終ぶつくさ言っていた、旅そのものは楽し気ではあったが。


タイスはそして不思議に思う、父の声も母の声も周囲の歓声もしっかり聞こえ、意味も理解できた、しかし、宮なるものを彼女は知らなかった。


司祭様が機嫌の良い時に話す都会の自慢話にも出てこない、何度も聞いた皇帝に拝謁した栄誉の話でも出てこない、戦場での話でも同様だ、旅芸人も吟遊詩人にも聞いた事が無い、帝都に住んでいたのが自慢の飲み屋のおじさんからもである、巡礼の旅であり、最終目的地が帝都であれば何らかの話題で出てきそうなものなのだが、まるで、聞き覚えが無かった。


何を喜んでいるのだろうかといぶかしく思う、ただ、彼女は両親も周りの人達も喜んでいるのだから良い事なのだろうと精一杯の愛想笑いを浮かべる。


きっと、さっき迄私を凝視していた血みどろの恐ろしい人を追い払った事に起因しているのだろう、美しく清潔な帝都の街中を全身血塗れで闊歩するその何かが目に入った瞬間、背骨から寒気が走って全身が硬直してしまった、近くに来るとその目は真っ黒な穴であった、あらゆるものが吸い込まれていきそうで、私の魂もまたそうなりそうで、必死で、必死に司祭様から習った魔除けの言葉を頭の中で繰り返した。


何事か呪詛を囁いていたけれどふっと消え去ったその何かの背を目で追って気付くと、両親が何故か歓喜していた。

多分、私は都会の魔物に勝ったのだ、この巡礼旅は楽しい思い出がたくさんできたけど、これが最高の土産話になるだろう、司祭様にどうやってお話しようかとっても楽しみだ。


局所的な賑わいが警備兵の耳に入る、赤いたてがみの兜に鏡のように磨かれた鉄の軽鎧、意匠を凝らされた腰垂こしだれ、長剣を履いて槍を杖替わりに巡回中である、気が早いのかすっかり夏の装備であった、マントは付けず鎧の下は半袖と下着のみ、太くゴツゴツとした四肢が陽射しを受けて輝いている、手にする槍は長物で投槍では無い、槍先には革の保護具が被せられていた。


巡回といっても荒事は少なく仕事と言えば、街頭に立つ屋台と行商人相手に税金替わりの鑑札の所持確認と提示を促すこと、巡礼者の案内、悪戯書きの確認、時折立つ広報官の護衛程度である、第一城壁内はここ30年実に平穏であった。


何かあったかと側の屋台主に問い掛けると、宮への招待があったらしい、警備兵はそれは目出度いと頷き集団に歩み寄る、輪の中心には旅装の家族がいた、街中での昇宮は大抵他所から来た人間である、警備兵は輪の中心に割り込むと家族に声を掛けた。


母親が応対し、すぐに父親が興奮したまま警備兵を抱擁する、すこしばかり苦笑いしつつ警備兵は優しく言った、


「おめでとうございます、では、城へ御案内致しましょう、私が共に行った方が都合が良いと考えます」


父親は満面の笑みで了承した、警備兵は連れに一言二言指示を出すと、


「どうぞ、こちらへ」


と家族に先だって案内を始めた、連れは元来た道へ戻り警備任務に戻ったらしい、特段に集団へ解散を求めた様子は無かったが、取り巻きは三々五々解散していく、親子は浮つきながらも後に続いた。


4人は大路を石造りの壁沿いに歩いていく、第一城壁内の大路の造りは帝国式街道2本分の幅のまさに大路と呼べる広い道路の両脇に街路樹と歩道が並走していた、大路にはタイスの家の麦畑がまるまる一枚入ってしまいそうである、その上歩道でさえもタイスの村の最も大きい道路よりも広く平らであった、しかし開放感を感じられそうでそうでもないのが塀に囲まれているからであろう、歩道の外側は殆どが石造りの塀でこの塀の向うは高位者の私邸や施設であるという、かなり高い塀で父親を2人縦に重ねても足りない程である、大きな門が所々に設置されていて、厳めしい門扉と厳めしい門番が立っていた。そのお陰で歩道を歩いていても建物の姿は見えにくい、真正面に城がある筈であるがその姿も見えなかった、これは現皇帝が高い建物が好きではないからだとの噂もあるが真偽の程は分らない、かろうじて聖エロー教会は遠くからも見ることが出来た、歴史が古く前帝国からの建物で2本の塔に2つの鐘を持つ独特の造形が優し気に帝都を見下ろしていた。


屋台や行商は主に街路樹の下に店を開いている、歩道はあくまで歩道であって、中央の道は馬車が行き交っていたがそれ程の量は無く何か寂しいとタイスは思う、父親の自慢話によるとこの大路を凱旋式で行進した事があるらしい、父親自身は入隊したてで特に戦果を上げたわけではなかったから素直には喜べなかったらしいが、それでも2重城壁の外から城迄の行進は若い彼の心に強烈な名誉を刻み込んだらしく、彼が深酒する度に家族は何度も聞かされていた。

充分に広い歩道を歩きながら大路を見るとタイスにはその気持ちが解る気がした、父親の思い出話によるとこの歩道に何万もの市民が溢れ、皆が祝福し喝采を叫ぶ中、軍楽に包まれて隊列を組み行進する。磨き上げた鎧と苦労して洗濯したマントに身を包み秋が終わる頃であった為だいぶ肌寒かったらしいがまるでそれが気にならない程の熱狂であったという、共に行進する戦友達もまた隠しきれない笑顔がその顔に表れていて、隊長から歯を見せるな笑うな沿道に手を振るなとの厳命があったがとても難しく、誰よりも隊長が終始ニヤついていたらしい、笑顔に対する懲罰は全軍2日間の食事抜きであったとの事、しかし一度朝食を抜いただけで終わったそうである。


家族は歓喜の熱が冷め少々冷静になると街中で大騒ぎした事がなにか後ろめたく感じられ、妙に縮こまってしまう、威丈高に振舞うのが常の警備兵に先導されての登城である、罪人でもないし捕縛された訳でもないが、かと言って無駄に胸を張るのも違う気がした、つまり、妙に居心地が悪いのである。


特に父親は酒に頼った訳でも無いのに感情を爆発させた為、その反動はとても大きく見えた、


「第二セドラン軍団・第三大隊ですか、私は第一セドラン軍団でした」


静かになった父親へ警備兵が声を掛ける、和ませる為か、話し好きなのか、それともただの郷愁か、セドラン軍団は第一・第二共に再編成され現在は第三軍団のみが運用されていた、第二セドラン軍団の紋章は黒薔薇で第一セドラン軍団は白百合である、


「あぁそれは嬉しい、奇遇ですね、というと貴方も北部出身?」


父親の顔が明るくなり歩を進めると警備兵と並び歩く、警備兵は北部の都市名を答え、


「訛りがまだあるでしょう、こっちに来て長いけどなかなか抜けなくて」


と破顔した、とても魅力的な笑みである、年齢的には父親と変わらない様子である、


「中隊長を1度、100人長を3度ですか、凄い」


警備兵は父親の腰部を見てそう続ける、近寄った事で鞘に記された焼き印の詳細を確認できたようだ、


「いやぁ、中隊長は記念ですよ、退役前の1週間だけ」


父親は謙遜し、懐かしそうに腰にさした短剣を摩る。

短剣は兵役を全うした証であった、軍で使用したものをそのまま受け渡され、その鞘には軍団を表す紋章と大隊・中隊・小隊名が記される、さらに隊長歴も記されていた。鞘はベルトの前面に横に挿すのが一般的であるが、最近の流行りは左の腰に縦挿しするらしい、帝都でも数人がそのように挿していた、実用的だなと父親は横目に眺めていた。どのように挿すにせよ、その短剣と鞘の刻印は兵役を勤め上げ生還した帝国市民の証明である、義務を全うした成人の誇りでもあった。


「いえいえ、記念の中隊長は私の部隊でもありましたが、皆素晴らしい兵士でしたよ」


警備兵は尚褒めちぎるも、


「すっかり、脾肉がついちゃってね、あの頃が懐かしい」


父親は鞘に触れていた手を腹に移動させ撫でさする、


「国では何を?」


「大麦と葡萄、家畜が少々、それと・・・まぁこれも名誉職でね、自警団を纏めとおります」


それは凄いと警備兵は目を丸くする、


「自警団も大変でしょう、最近獣が増えていると聞いております」


「そうですね、うちの周りはそうでもないかな、奥まってますし荒野からも離れてますから、もう少し忙しくても良い位でね、すっかり楽しておりますよ」


「それは良かった、平穏が一番ですよ、大麦と葡萄というと酒造ですか?」


「分かりますか、父親が生きてるときは酒もやってたんですがね、今は、畑が主でね、これでも奴隷が2人います」


「それは凄い、やり手じゃないですか」


「どうでしょうね、先代から受け継いだものと運が良かったので何とかかんとか・・・といった所ですよ」


なぁと母親に語り掛ける、二人の会話を何とはなしに聞いていた母親は何とはなしにそうねと相槌を打った、


「故郷の酒が懐かしいですよ、北の酒はこちらには少なくて」


薄いんですよね比較的と続けた。


タイスは二人の背中を見上げながら母親に手を曳かれちょこちょこと歩いている、お酒が無くても話が盛り上がっている二人を珍しそうに眺めていたが、さっき迄話題の中心であった自分がもう普段と変わらない扱いになった事に少々憤慨していたし、大人2人の会話は聡い少女とはいえまるで興味の湧く内容ではなかった、しかし、首都の警備兵と親し気に会話する父親はまるで別人に見えて誇らしく思えた、凱旋式の件もそうだが今日は父親への見識が大きく変わる日のようだ、旅は様々なものを見せくれるなと改めて感得かんとくする。


「さぁ、こちらです」


警備兵がこちらを振り向いてそう告げた、正面に一際高い塀が立つ、何者の手によるのか装飾が素晴らしい、堀を渡る跳ね橋を挟んで左側から物語が始まり右側で終わる一人の男の物語が描写されている、誰でもなく現皇帝その人の物語であった。

騎士への叙勲に始まり、一度目の魔軍戦、捕囚生活、荒野での冒険、二度目の魔軍戦、三度目の魔軍戦、魔王との一騎打ち、凱旋式の様子、王族との結婚、王との戦い、そして即位、塀を装う物語は大きく11場面に別れていて現皇帝の栄誉を讃えていた。


「素晴らしいですね、これは見逃せない」


父親はそう言って塀を見上げる、母親もタイスも呆気にとられ言葉も無く見上げた、塀は成人男性四名分の高さはあるだろうか、大路では見晴らしの悪さもあってその全容を認識できなかったが、塀を取り巻く堀の淵に立つと見る者を圧する威容が訪問客を圧倒する。

四人の立つ位置からは叙勲の場面と即位の場面しか見えていない、全場面を見るには堀をぐるりと散策する必要があった、それを日課にしている貴族もいるという。


「お嬢様には堀の中も良いんじゃない?」


警備兵はそういってタイスに堀を指差す、こちらも石造りの堀にふんだんに水が張られその中を魚が泳いでいた、川魚だろうか故郷の川にいるそれより各段に大きく数も多い、見た事の無い種類もいそうだ、


「すごいお魚だ、大きい」


タイスは見たものをそのまま口にしてその場に座り込む、堀には柵は無く地面との縁はブロック一個分の段差しかない、落ちないようにと警備兵は言って、


「大きいでしょう、でも、釣っても駄目、突いても駄目、網なんて以ての外」


捕まえなくちゃいけなくなっちゃうと警備兵は楽しそうに続けた、タイスは笑顔で彼を見上げ初めてこの警備兵に好感を持った。


但しと彼は続け、ポーチから小さなパンを取り出しタイスに渡す、


「餌はあげてもいいですよ、これを粉にしてあげてみて」


タイスはパンを受け取った、乾燥した古びたパンで食べるにはちょっと抵抗感がある代物であった、それを両手で粉にすると少量ずつ川へ撒く、すると川に浮いたパン屑に何匹もの魚が喰い付いた、


「すごい、楽しい、魚ってパン食べるんだ」


初めて知ったとタイスははしゃぐ、三人は釣られて笑顔になった、


「ここまで水を上げているのですか?」


母親が警備兵に問い掛ける、


「うーん、上げているというよりも引き込んでいます、ここら周辺は丘になっているでしょう、何気に高台なんですよ、緩やかなので分かりづらいですが、実は帝都で一番高い場所です、まぁ城ですしね」


と警備兵は笑顔を見せる、


「ですので城の裏側に前帝国の水道がありまして、それの下水分を堀に流しているのです、下水口は見えないですが、上水はほらあそこ」


と指を指す先に城壁と同じ高さの高架水道が見えた、城に引かれた水道を市街へ通し最後にはソンム川へ流れ込む、三本の高架水道が帝都を縦横に通っていた、


「他にも井戸からの水と湧き水も流れ込んでると聞いた事がありますが、水道の割合が大きいと思います」


「お魚は?」


楽し気にパン屑を撒き乍らタイスは警備兵を見上げる、警備兵は一瞬首を傾げるも、


「お魚は実は陛下のお魚です、堀が完成した際に戯れで放流されたそうで、きっと陛下の御威光ですねこんなに大きくなったのは」


警備兵は楽しそうに堀を見下ろす、


「パンが無くなったらいきましょうか、すぐそこです」


と警備兵は父親に告げ、父親はそうですねと了承する、母親も手伝ってパン屑を処理するとタイスは立ち上がり二度三度手を叩いてパン屑を落とす。


では行きましょうと親子に先立ち跳ね橋へ向かう、城内に入る数少ない手段の一つである、その背中を見て父親はいよいよ緊張した、巡礼目的の聖エロー教会は万人に開放された教会であるが城はそうはいかない、城壁で囲われている事もありその全容を見る事はなかなかできないし、第一、観光対象ですらない。


黒色の跳ね橋は人と馬車で混んでいた、堀の手前に近衛兵四名と事務官二名が立ち入城者の確認を行っている、事務官は一般的な官僚の服装である、遠目には司祭のそれと良く似た上着とスカート部分が繋がった黒の長衣で胸元に金糸で皇帝紋である聖母が彩られている。


近衛兵はこれまた煌びやかな鎧を纏っていた、重装歩兵の装備である、現皇帝が発案し設置された兵科で全身を覆う鉄の鎧と顔面を覆う兜が威圧的である、鎧はこれまた磨き抜かれた逸品で陽射しを浴びてヌラヌラと輝いていた、関節部には鎖帷子が覗いている、作成に手間の掛かる品である為一般兵には支給されていない、重装歩兵に選ばれるには規定以上の身長と筋力が求められた、よって此処に立つ近衛兵も市民に比べ頭一つ大きく横幅もそれなりに有る、手にするのは特性の槍、歩兵の用いる投槍とも騎兵の用いる馬上槍とも違い槍の穂先は斧と剣を合わせた形をしている、切る事と突く事さらに引き摺り倒す事が出来る独特の形状であった、柄は長く大人一人分の長さはあるだろうか、武器としては大変重そうでとても常人が振るえるものでは無いと感じる、重装歩兵はこの武器と重い甲冑で戦場の花形であった、常に最前線に投入され、この一隊を中心に他の部隊が展開する、現皇帝の作り上げた戦術である。

その威圧感に初見の者は皆恐れを抱く、ましてこの兵が大挙して先陣を闊歩する様等恐怖の対象以外の何物でもなかった、何にも怯まず前進を続け、短弓も投石も意に介さず槍で突いても弾かれ騎馬兵等は騎馬ごと叩き伏せられる、敵にしたものにとっては悪夢であったろう。


此処に立つ近衛兵四人は等間隔で跳ね橋の前に立ち槍を正面に立て訪問者を威嚇している、彫像と言われてもそれを信じてしまう程微動だにしない、替わりに事務官は大忙しである、訪問者の身元確認から割り札の確認荷車の検閲と人の間を走り回っていた。


警備兵はここで待ってと親子に告げ、人の群れに割って入り事務官を捕まえて何事か話し込む、事務官はちらっと親子を見て理解したようで、警備兵はその場で親子を手招きした。


人波を掻き分け親子は警備兵に近づく、事務官は軽く会釈し道を開けた、怪訝そうに親子を見る目に気が付いたが素知らぬ顔で近衛兵の側を通る、


「大っきいねぇー」


タイスは近衛兵を見上げ感嘆する、首都に着いて何度目かになる大っきいねぇであった、


「抱き付いてごらん、大丈夫、怖くないよ」


親子の背後から警備兵が声を掛ける、タイスと母親はビックリした顔で振り向き、タイスはいいの?と口走る、しかし警備兵は困ったふりをして、


「・・・多分、大丈夫」


と不安気に答えた、父親は演技派だなぁと笑って、


「ほら、行こう、お仕事の邪魔は駄目だ」


タイスの手を取り跳ね橋に至る、タイスは名残惜しそうに振り返りつつ、帰りにやってみようと思うのであった。


跳ね橋を過ぎるとやっと城が見えてきた、歩行者は右へ向かい馬車は左へ流れていく、城の全容が見える位置に四人は立ち止まるがタイスの感嘆は無い、城は広大であったが大きいものではなかった、まず目に入るのが見事な庭園である、中央に真っ白い聖母像が立ちその像を囲むようによく手入れされた低木が取り囲む、大理石の敷石がそれを囲み緑のカーペットがさらに囲む、庭園としてはこじんまりとした印象だ、それでもタイスの住む村の中心部がスッポリ入る程の広さではある。


その庭園の奥には城が立っていた、しかし、城と呼んでいいのかやや疑問符が付く、外見から見ると二階建ての石造りとなっており横に広い、親子が想像する城とは若干違っていた。


「帝国の城とは思えませんか?」


警備兵が話しかける、父親は言葉を濁しながら、えぇまぁと曖昧に返答する、


「城というよりも執務室がいっぱい入ってると思って下さい、それに皇帝の住居が乗っていると聞いてます、私も聞いただけなのですが」


父親は察して、


「確かに、城のような防備の類がありませんね」


「えぇ、帝都の中心ではあり政の中枢ではありますが軍事の中心ではないのですよ、勿論近衛軍は常駐してますが、三重城壁内に正規軍は配備されません」


「聞いてはおりましたが、なるほど、帝都内に軍人がいない理由が分かりました」


微妙な違和感はそのせいだったのですねと父親は続ける、


「違和感ですか、そうかもしれませんね、他の都市だとこうはいかないから、だから、実は私達も本部と隊舎は城壁外にあるんです、此処まで結構距離があるでしょう、毎朝大変で」


と警備兵は笑って、では行きましょうと家族に向き合うと跳ね橋から続く敷石を右側へ誘導する、


「あっちが倉庫、馬車が向かうでしょう、で、右が来客対応の窓口」


見ると壁際に建てられた石造りの小屋に訪問者は吸い込まれていく、その小屋は通路を通じて城に繋がっているようであった、城に直行する者はその小屋沿いに城へ向かって歩いていた、


「窓口内から城へ直接入れます、あそこで従者が付くのですよ」


警備兵は先立って小屋へと歩き出す、親子はそれに遅れて続き小屋に入った。小屋の中は外観の印象以上に広く天井も高かった、中は薄暗く陽射しの中を歩いてきた親子は一瞬視覚を奪われるもすぐに慣れた、室内には三人の事務官が等間隔で並び事務机を間にして来客に対応している、その後ろに奴隷が六人ずつ待機していた、事務官は椅子に座っているが奴隷は立った状態で畏まっている、奴隷といっても身形は良かった、髪も纏められ清潔に見える、事務官と同じ黒の法服に身を包んでいるが下は肌着のみなのであろうか素足が見えていて布の履物を履いていた、法服の胸には聖母の装飾は無く首に革のベルトを巻き銀色に鈍く光る鑑札を付けていた、事務官は男性であったが奴隷は皆女性である。


「木札を用意しておいて下さい」


と言い残し警備兵は事務官の列へ並ぶ、父親は懐から木札を取り出し大事そうに胸元へ当てた、タイスはひょいっと木札を覗く、あれっと思う、何も書いていない、父の手を取り無言でその木札を見せてもらう、確かに何も記されていない、父親の手ごと回転させるが裏にもなにも無い、只の木片であった、タイスは首を捻る、今日は不思議な事ばかりだ、そういう日もあると司祭様に聞いた事があるが今日がその日なのかなと思うがどうも腑に落ちない、母を見上げ何事か言葉にしようと思うがどう伝えれば良いか分からない、タイスが思案顔で両親の顔を交互に見上げているうちに警備兵は事務官の前に立った。


警備兵は机の前で背筋を正し直立すると、石付を床に叩き付け左手を胸に構える視線は上方へ天井の隅を睨みつける形となった、警備兵の敬礼である、タイスはさっきはそんな事しなかったのにと思うと同時に敬礼が必要な程大切な場なのかと思い知る。


事務官はそれを見て、直れと一言告げた、警備兵は左手を下ろすも視線は変えず用向きを伝える、事務官が家族を見据え、警備兵に何事か伝えた、警備兵は再度敬礼しキビキビトした回れ右をすると真っすぐに家族の元へ戻って来る、その背後では事務官が奴隷の一人に指示を出していた、奴隷は徒歩とは思えぬ速さで城への通路に消える。


「あちらの事務官へ、話はつけてあります」


警備兵はにこやかに家族へ告げる、父親は謝意を示し母親もそれに続いた、タイスは彼を見上げて手を差し出す、それを見て警備兵は一瞬躊躇したがタイスの前に片膝を着くと差し出された手をとってその手の甲に額を付ける、


「どうぞお幸せに御子さま、またお会いしたいです」


タイスの目を見てそう言って笑った、とても柔らかい素敵な笑顔だとタイスは思う。


警備兵は立ち上がると、


「それでは、業務に戻ります」


と親子に告げ、敬礼する、父親も思い出したように敬礼で返す、父親のそれは左手を胸に右手を腰に構える一般兵のそれである、視線は同じ斜め上を睨み付けていた。

どちらともなく敬礼を解除すると、ではと一言いって警備兵は去っていった、残された親子はその遠ざかる背中を見送ると事務官へ向かう。


事務官は恰幅の良い高齢の男性であった、禿頭に皺の刻まれた顔、髭は綺麗に剃ってある、橋の前に居た事務官と同じ法服に身を包んでいるがその体躯の為その服が小さく見えた、そしてとても仏頂面である。


「木札を確認致します」


事務官は静かにそういった、父親は手にした木札を差し出そうとするその瞬間、


「ま、待って下さい、それは」


とタイスは泣き声で事務官に叫ぶ、不意の言葉に事務官と両親はタイスを見下ろす、タイスはあの・・・その・・・と三人の視線に怖気づき黙り込んでしまった、今にも泣きそうである。


タイスは急に不安になったのだ、父親の持つその木札とやらは只の木片なのである、このような厳格な場で只の木片を見せては打ち首か良くて牢獄行きになるんではないかと、家族で打ち首も牢獄も嫌だし、奴隷にされるのも嫌だ、幼いながらも想像力は凄まじくそれにより死の恐怖に襲われた、この獏とした恐ろしさを何とか伝えようと言葉を探すがまるで出てこない、そのままタイスは俯いてしまった。


「確かに、昇宮の木札です、おめでとうございます」


タイスが消沈し床を見ている間に木札は事務官の手に渡っていた、タイスはその言葉を聞いてまた不思議な事だと顔を上げる、両親は嬉しそうに微笑んでタイスを見下ろし、事務官もまた柔和な笑顔を見せている、幼いタイスもこれは不思議ですまないのではないかと訝しく感じる、噂に聞いた事がある魔法なのだろうか、それとも大人にしか分からない何かなのか、それともと自問を繰り返す。


「ただ今、担当者を呼びにいっております、お待ち下さい」


事務官は慇懃な口調を崩さず話を進めている、


「はい、こちらで待てば良いですか」


父親は勝手が分からずキョロキョロと周囲を見渡す、待機するような場所は無い、訪問者が入室しては従者を連れて退出していく、そうですねと事務官は言って背後の奴隷の一人を呼んだ、


「彼女に付いて行って下さい、すぐ隣に待合室があります、そこでお待ち下さい」


奴隷にその旨伝えると、奴隷はどうぞと率先して歩き出す、慌てて親子はその背を追おうとし、


「あ、失礼しました、お手間を取らせてありがとうございます」


父親は大慌てでその場に止まり礼を言う、事務官は柔らかい笑顔でさっさと行けと手を振った。


奴隷は出口付近で歩みを止め家族が揃うのを待っていた、


「待合室はこちらになります」


背が高く細身の若い女性であった、土色の肌に黒髪・黒目、厚い唇と大きな目が印象的だ、魅力的と評して間違いのない容姿をしている、サレム砂漠より南方の出だろうと思われるが詳細は分からない、奴隷の出自を勘ぐるのは非礼とされていた。


家族が揃うと戸口を抜けすぐ隣りの部屋に通された、先程の部屋よりは各段に小さく頑丈そうな黒檀のテーブルに椅子が四つ並べられ、部屋の隅には予備の椅子が置いてあった、テーブルの上には呼び鈴が一つ、入ってきた戸口以外に扉が一つ庭園側に設えてある、窓は2つ全開にされているが夏の陽射しは高いので部屋の中に陽射しは少ししか入ってきていない、それでも充分明るいとは感じる。


「どうぞ奥へお座り下さい、お嬢様はこちらへ」


言われるままテーブルの奥の席に夫婦は座り、奴隷が部屋の隅から運んだ予備の椅子にタイスは座った、父親が礼を言い母親が微笑みつつ会釈した、


「担当者が参りますまで少々お待ち下さい」


奴隷は深くお辞儀をし退出する、彼女の姿が見えなくなると親子は同時にフゥーっと溜息を吐いた、皆緊張していたようだ、お互いを見て笑ってしまう、タイスは両親の柔らかい微笑みを見てさっき迄の懸念が霧散し両目を真っ赤にしつつも二人に負けないように笑って見せた、父親がタイスを見詰め、


「さっきはどうした、びっくりしたぞ」


と笑いながら言うと、母親はタイスを庇うように緊張してたのよと言ってタイスの髪の乱れを小指で直す、微かに触れるその肌から深い温もりを感じタイスは嬉しそうに俯いた。


三人が仲睦まじく戯れていると戸口が二度叩かれ、


「失礼します」


と小柄な人影が入室する、家族は改めて緊張し父親は立つべきか座っているべきか逡巡するも、


「そのままで、畏まらずに」


とその人影は機先を制し、手にした籠を足元に小さな箱と木札をテーブルに並べて置くと着席する。

恐らく女性であると思われるその人影は装飾の無いフード付きの白い長衣を身に着け、大変小柄であった、声質から女性と察せられるがフードを深く被っている為その顔は見えない、やや訛りのある言葉使いから帝都出身の人間では無い事は辛うじて分かった。


「宜しくお願い致します、本日はおめでとうございます」


フードを被ったまま話を続けるようだ、


「こちらこそ、突然の栄誉に恐縮致します」


父親が言葉を選んで言葉を受ける、


「こちらのお嬢様ですね、聡明そうな瞳です、自慢の娘さんでしょう?」


フードの暗がりがタイスに向きその奥の瞳がタイスを捉える、タイスは再び酷く不安になる、何が栄誉でなにがおめでたいのだろう、道中が楽しくてすっかり失念していた、いや、考えたく無かっただけもしれない。


「他にお子様は?」


担当官は夫婦へ質問を始める、何を探りたいのか分からないが大した事の無い内容であった、兄弟姉妹、生年月日、家族、職業、旅の目的。


取り留めのない質問攻めが続くが、母親からしてみれば井戸端会議の内容とさして違いはないらしくいつの間にか母親が回答していた、


「分かりました」


担当官はそう言って箱を開けるとペンを取り出し木札になにかしらしたためると、


「こちらをお持ち下さい、聖エロー教会の受付に提出頂ければ特別な応対を受けられます」


極めて事務的に物事は進んでいた、父親は恭しく木札を受け取ると大事そうに懐へしまう、


「必ず、聖エロー教会を訪れこの木札を提出する事、いいですね、必ずお二人で、教会の儀式を終えるまでが昇宮の式事となります」


担当官は念を押す、ややきつい口調となっていた、両親は神妙に頷き理解の旨を伝える。

タイスは昇宮とは教会の儀式であったのかと理解し胸を撫で下ろす、教会関連の儀式であれば意味不明な物は多い、その由来や経緯、成立過程等を知って初めて得心のいくものばかりである、木札に何も記されていなかったのも儀式に関係があるのかもしれない、そう考えればそういうものだとタイスは理解した、戻ったら司祭様に御教授頂こうと楽しくなって来る。


「結構です、それではお下がりください」


担当官はそう言うと夫婦の後ろの戸口を指す、そちらから出られるという事なのだろう、


「ありがとうございます、それではどうぞ宜しくお願い致します」


夫婦は立ち上がりゆっくりと頭を垂れた、タイスも慌てて立ち上がり頭を下げる。


「タイス貴方はいいのですよ、宮にお世話になるのです」


母親はタイスを見詰めそう言った、これほど優しい言葉で話し掛けられたのはいつ以来であろう、


「タイスしっかりやるんだぞ、もう俺達には会えないかもしれないが幸せになるんだよ」


父親は跪きタイスをしっかりと抱き締める、満面の笑みであった、母からも同じように苦しい程抱き締められる。

タイスは混乱した、これから教会へいって特別な儀式があるのではないのか、その為に此処迄来たのではないのであろうか、まるでこれでは、私との別れではないか。


さらに両親は何事かタイスに告げる、優しい口調はそのままにやや諭すような内容で、しかしその言葉はタイスにまるで届かない、


「えっと、あの・・・」


タイスは涙を浮かべ言葉にならない言葉を発する、この見ず知らずの都会に、見ず知らずの城に一人取り残されるのか、ずっと一緒に居た両親にいきなりパッとその手を離され突き飛ばされたのだ、それも笑顔で、これが栄誉だと言っていた、身体が震える、足元から寒気が這い上がって来て脳髄に至り思考は真っ白に停止した。

涙を流し血の気を無くしたタイスを見ても両親に変化は無い、穏やかな笑顔を保ったまま言葉を無くし硬直するタイスの身体を交互に抱擁して、その都度何事かを話し掛ける、そして二人は立ち上がり戸口に向かうと一度タイスを振り返ってから、あっさりと退出した。


担当官が立ち上がり窓から二人の背中を視認する、暫くの間担当官はそうしていた、彼等が戻ってこない事を確認すると、フードを外しフンと一息吐く、担当官はエルフであった、銀色の真っすぐな長髪が窓際の陽光を捉え鮮やかに照り輝き、毛穴の無い真っ白い肌もそれに負けじと照り輝く、涼し気な切れ長の目、エルフには珍しく瞳は黒色である、それは黒色というにはあまりに黒く、まるで周囲の光を吸い付くそうとしているようだった、額には中心に大きな緑色の宝石を嵌めたサークレットを着けている、華奢なその風貌にはまるで釣り合わない無骨な品である、両耳の先を繋ぐエルフ独特の髪飾りがその無骨さを幾分か和ませているようだ、特徴的な耳の先端を木製の留め具で掴み緑色の宝石で装飾された紫色の飾り紐で両耳を繋ぎ止めている、担当官は自席に戻るとタイスに向き直る、


「私は宮の担当官、インゲラと申します」


語り口調は静かである、フードが無いせいか声はより透き通って聞こえた、独特の圧がある、先程迄の両親が同席した時とは違う空気がその場を支配する、


「貴方は宮に招かれました、とても栄誉な事です、もう、悩み苦しむ事はありません」


冷たい黒目がタイスを捉えサークレットの宝石もその目と同調しタイスを睨み付けている、口調は変わらず淡々と事務的であった、しかし、タイスは動けなかった、返答も儘ならない、インゲラと名乗ったエルフの声も届いていない、ただ両親の去った戸口を見詰め呆然としていた、小刻みに身体が震えて思考は戻らない、頬を流れる涙は途切れずそれは喉元を過ぎて襟元を濡らしている。


はぁと言葉にならない溜息を吐くとインゲラは立ち上がりタイスの視線を遮るようにタイスと戸口の間に割って入ると、腰を落としてタイスの目を真っすぐに覗き込んだ、


「貴方は宮に招かれました、とても栄誉な事です、もう、悩み苦しむ事はありません」


定型文なのであろうか繰り返し語り掛ける、二度、三度、回を増す毎にその口調はゆっくりとそしてハッキリとしたものになる。


六度目が終る頃タイスはやっと思考が戻った、視点がインゲラの瞳に合わさりやがて緑色の宝石へ、再びインゲラの瞳に合わさると、


「・・・どうして・・・」


やっと言葉を紡ぐ、そしてやっと身体が動いた一足飛びに戸口に駆け寄ると外に出る、半身が陽光を浴び人の行き交う庭園を目にした瞬間に足が竦んだ、


「た、助けて」


そう叫びたかったが囁き声になってしまう、道行く人は誰もタイスを一瞥もしない、


「タイス、戻りなさい」


背後から声がする、冷たい声である、駄目だ戻ったら駄目だ、そうタイスは思う、本能が危機を告げ一人の寂しさが足を前に出そうと食い縛る。


「タイス、戻りなさい」


再び声がする、より強い声音である、言葉はゆっくりとタイスの身体に染み渡ってやがて両足を支配していた力みがふっと消えた、前に出ようと、庭園に出て両親の背に追い縋ろうとする意識も柔らかく凝固され落ちていった。

タイスはゆっくりと振り向き後ろ手に戸口を閉めると自席へ戻る、その顔には恐怖の相も混乱のそれも無い、ゆっくりとした歩みで自席に着くと泣き腫らした赤い目でインゲラを見詰める、


「貴方は宮に招かれました、とても栄誉な事です、もう、悩み苦しむ事はありません」


インゲラは同じ言葉を繰り返す、タイスはインゲラの黒目に骨の髄から何かを抜き取られるような感覚を感じると同時に頭の中に幾つかの言葉が浮かんで消えて残った言葉を繋ぎとめ、


「はい、この上なくありがたきことで、幸せでございます」


そう呟いた、その瞬間息苦しさから開放された、大きく空気を吸い込んで吐き出した。


身体の隅々まで明るい元気が充ちるのが実感できる、その場で空に向かって駆け出したくなった、


「良い返事です、では、これに着替えて、その服はこちらへ」


インゲラは足元の籠から自身の物と同一の白の長衣と純白の布を一枚それと布と木で作られた履物をテーブルに置き、その籠をタイスの足元に置いた。


タイスは従順に着衣を脱いでいく、腰に着けたポーチを外し籠へ落とす、少量の硬貨と巡礼の証である各協会で集めた護符が入っている、護符は将来結婚する際の腰飾りにしようと大事にしていたものだ、外套を脱ぎ服を脱ぐその服は旅に出るにあたり母親が新調してくれた大事な余所行きである、タイスの好きな色の布を奮発して貰い母と二人で裁縫したものだ、旅に出る前からこんな素敵な事があるのかとタイスははしゃいでいた、その大事な余所行きを籠へ落とす、サンダルを脱ぎこれも籠へ素足で床に触れると冷たさがじんわりと伝わってくる。


タイスの思い出が一つ一つ籠の中へ納まると、全裸になりテーブルの布に手を伸ばす、下着であろうと思って手にしたがどう身に着けてよいか分らなかった、表裏を確かめつつ思案していると、インゲラが優しくその布を受け取りタイスの腰に巻き付ける、独特の着け方であった、父親の下着に似ているなと思うもそれとはまた違う様子でもある。インゲラは履物に手を伸ばすと片足ずつ履かせていく、履き心地はすこぶる良かった、靴裏は木になっているが足裏に布と綿の裏張りがしてある、足そのものを覆う布も肌触りの良い上等な品である、タイスの足にはやや大きかったがインゲラは構わずに長衣を手に取るとタイスの頭から被せ両袖を通す、それは見た目に反しとても軽く暖かであった、インゲラは軽くタイスの長衣の皺を伸ばし埃を払いタイスの肩幅に合わせ長衣のバランスを整えるとフードを被せる、タイスは不意に視界を奪われるもぐっと頭と背を反らし目深く下ろされたフードの縦長の隙間からインゲラの顔を見上げた。


「それでは、着いて来て下さい、離れないようにこれを持って」

インゲラは自分の左袖をタイスに握らせると自身もフードを被る、二人はそのまま言葉少なにその部屋を退出した。

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