第3話

 翌日から刺繍の試験がはじまる。

「それでは、お題を発表いたします」

 ロウビンの指示でまた宦官たちがお手本の布を配りまわる。あっとひそやかな息が漏れ聞こえた。シャオも図柄を見てすこしおどろいた。練習の手本は鳥だったので、またなにか動物などの図柄が題材になるのではと予想していた。だがかなり抽象的なものになっている。シャオの入れ墨のような、幾何学模様だ。

 円形のなかに漢字を大きくくずした文字やら、なにをもとにしているのかよくわからない記号が飛び散っている。刺繍用の布はシャオの顔面ほどの大きさとなり、そこを埋めつくす図柄は緻密だ。ずるをして見本のほうを提出されないよう、制作用の布は見本とは違い、布地が黒色になっている。

「期限はいまから五日後まで。でははじめてください」

 少女たちはいっせいに裁縫箱を開け、針と赤い糸を取り出す。一次試験では出来栄えがそこまでひどくなければ落とされることはないとダイダムから聞いていた。シャオの腕前であれば問題ないはずなので、あとは時間との闘いとなる。裁縫の合間にも、歴史などの授業がある。授業中にこっそりと作業を進める不届き者はいなかった。隠しながらだと手つきがあやしくなり、余計に難しいのだ。

 その日、午後の授業が終わると、シャオはトウファと連れだって後宮にある池のほとりの四阿に行った。そこで夕方まで作業を進めるつもりだ。ほかの娘の姿が目に入らないので落ち着くのだった。シャオはトウファの面倒を見てやりながら、自分の縫物も進める。

「なあ、トウファ」

 手を止めて、トウファがシャオを見やる。

「皇帝のことをどう思う?」

 トウファは誘惑の術にかかっていない。その事実は試験の合否にかかわりそうだったので、注意をうながすつもりだった。

「どうって……。すばらしいお方だと思いますわ」

 ドゥグアロイの見事なたたずまいを思い出したのか、トウファがうっとりとした顔をする。

「そうだろ? 格好いいよな。陛下のことが好きか。命をかけてお仕えしたいと思うか?」

 矢継ぎ早なシャオの質問に、トウファが首をかしげる。

「それは、ええと……。陛下はすてきな方だと思います。とはいえわたくしは、まだあの方のことをなにも知らないですし……」

「いいか、トウファ」

 はっきりしない返答に、シャオは机から半身を乗り出しずいっとトウファのほうに迫る。トウファの黒目におのれの姿が確認できるほど近づいた。

「陛下は格好よかっただろう? すばらしい方だと思うんだろう? だったら、陛下をお慕いする気持ちはちゃんと言葉と態度で示せ」

 わけのわからないシャオの圧に、トウファは首を地面と並行にする。

「シャオ、どうしたんですの? ああ、わかりましたわ。シャオは陛下のことが好きなのね。だからわたくしにもきちんと好意を示すように言うんでしょう?」

 誘惑の術のことを秘密にしておくため、どうしても迂遠な言いまわしになる。だがあまりの伝わらなさに、シャオは地団太を踏みたくなった。

「違う、そうじゃない。いや、私も陛下のことはお慕いしているが……。ええと、とにかく、陛下への忠義心を疑われると、試験に響きかねないってことだ」

 直接的に言うとはじめてトウファには刺さったようだ。

「まあ、それは大変ですわ」

「そうだろ? 嘘でもいいから陛下が好きなふりをしろ。好意を全身で表せ。いいな?」

「わ、わかりましたわ」

 言い含めるシャオにトウファはうなずく。

 わざわざトウファの試験が有利になることを教えてやる必要はないのに。作業を手伝ってやるのだって、自分の首を絞めているのと変わらない。ほうっておけばいいはずなのにシャオはどうしてもトウファに構わずにはいられない。このすこしとぼけていて、競争心の薄そうな娘に情が芽生えてしまったのだから、自分でもどうしようもないのだ。最愛のトーアに似ているこの娘に。

 また黙々と作業を進める。黙ったまま集中して同じ作業を何時間も続けるということができないようで、のんびりとした手つきのトウファはふんふんと軽快な鼻歌を歌いはじめた。

「トウファ」

 シャオはあきれ顔をする。

「悠長に鼻歌なんか歌ってるひまはないぞ。おまえはただでさえ手が遅いんだから」

「それはそうなのですけれど。でも、どうせ同じことをするのなら楽しくしたほうがよくなくて?」

 のんきなトウファの歌は止まらない。飽きて作業を放り出されるよりはいいかと、シャオは好きにさせておくことにした。

 ひとつ歌い終えると鼻歌は別のものに変わる。次第に歌声まで混じりはじめた。

 ある歌に、シャオの全身に衝撃が走り手が止まった。


 ヤオヤオ鳥はくちばしに 赤い実くわえて空を飛ぶ

 今日のよき日はめでたい日 つがいの夫婦の祝言な

 ほれヤオヤオ鳥よ空を行け 村で待ってる婿さんに

 祝いの赤い実届けておくれ あの娘に渡す赤い実を


 シャオとトーアは北の少数民族、モウドン族に起源を持つ。ヤオヤオ鳥の婚礼の歌は、一族に伝わる伝承をもとにしたものだ。シャオも子どものころ、子守歌としてよく両親に歌ってもらったのを覚えている。

 どくん、どくんと心臓が高鳴ってくる。

「トウファ、その歌を誰に教えてもらった?」

 あっさりと棄却したはずの期待が再び持ち上がる。だがトウファの答えはシャオの期待を裏切る。

「……わからない」

「わからない?」

「覚えていないんですの。昔どこかで耳にしたことがあるのだと思います」

 シャオはほんのすこし落胆した。やはりトウファがトーアなどと、奇跡に近い偶然があろうはずもない。

 だが、続いて発せられたトウファのひと言に耳を疑った。

「……シャオにまだお伝えしていなかったことがあります。わたくしは孤児でしたの」

 裁縫の手を止め、トウファはシャオにほほえみかける。

「人買いに捕まり、市場で売りに出されていたのをいまのお義父さまに救われました。七つのことです」

「え」

 再びシャオに衝撃が走る。また期待が浮かび上がってくる。

「病気で亡くなったお義父さまの末娘に、わたくしが瓜二つだったそうです。それでどうしても気になり、引き取ることにしてくださったの。なにがあったのかはわかりませんが、当時わたくしはなにも覚えておらず、受け答えもはっきりせず、自我を失っている状態だったようです。ただ名前を訊かれると、トア、トアと答えたらしく、名前だけはかろうじて憶えていたのだろうということでトウファと名付けてくれたのです」

 シャオの手が震えた。

「さっきの歌も、小さいころにどこかで聞いていたのでしょうね」

 広くは知られていないヤオヤオ族の歌。七歳のころに拾われたという年齢の符号。トーアによく似た名前と容姿。偶然の一致と考えるにはあまりにも共通項が多い。

「なあ、トウファ。腕を見せてくれないか?」

 もう一度たしかめようと思った。月日が経ち、蓮の入れ墨が薄まってしまったのかもしれない。風呂場でよく確認したはずが、湯けむりにまぎれた見落としもありえる。

「こちらの腕でいいのかしら? はい、どうぞ」

 トウファが左袖をまくる。だが肘から手首まではきれいなものだった。入れ墨が薄まったあとなど残っていない。

 やっぱり都合のいい勘違いだった。

「すまない。もう、大丈夫だ」

 これでトウファがトーアではないことが確定してしまい、シャオは落胆した。

「シャオ? どうなさったの? 元気がないようです」

 トウファが心配そうな顔つきになる。

「いや、なんでもない。ただの馬鹿な妄想だから」

「馬鹿な、とは思いません」

 シャオがなにを言わんとしているか知るはずもないのに、トウファはやさしいまなこで続きをうながす。やさしさに乗せられて、シャオはついためらいを忘れた。

「……トウファが妹に似ているんだ」

 シャオは左袖をめくり、入れ墨を見せる。

「妹にも私と同じ入れ墨が入っている。だから、ひょっとしてトウファにも、と思って」

 トーアのことになると、シャオは冷静さを失う。時系列を無視した支離滅裂な説明になっていることに自覚はあった。

「すまない。わけのわからない話をして」

 訂正する間を与えず、トウファがおだやかに問いかける。

「妹さんはいま、どちらに?」

「わからない」

 一瞬で嘘の説明を思いつく。嘘にほんのりと事実も混ぜた。

「双子の妹なんだ。実家が貧しかったから小さいころ、妹と私はそれぞれ別の家に引き取られて、それから音信不通になってしまった」

「ひょっとしたらわたくしが、シャオの妹さんかもしれないと思ったのね?」

 想像力のたくましさを指摘されてシャオは顔を赤く染める。羞恥を覚えるほどに都合のいい想像なのに、どうしても期待を抱かずにはいられないのだ。わずかな手がかりを膨らませたがるほど、シャオのトーアに対する思いは強い。

「そうかもしれませんわ。だってわたくしには子どものころの記憶がないんですもの」

 トウファはいっさい、シャオを否定しない。トウファはほほえみシャオの手に手を重ねた。

「それに血のつながりがあろうとなかろうと、あなたはわたくしのお姉さまよ。だってこんなにやさしく、親切にしてくれるんですもの」

 相手を受け入れるトウファの度量の深さにシャオは感じ入った。

 シャオとトウファ。二人の清き友情を祝福するかのように、午後の陽が照り返し、池は燦爛とした輝きを放っていた。


 早朝と授業の終わる午後三時以降夕方まで、それから夜寝るまえまでが、候補者たちに与えられた作業時間だ。娘たちは必死になり、寝る間も惜しんで刺繍を進める。シャオはトウファの進捗を見守りながらの作業だ。さすがに四日目ともなると寝不足で、授業中は誰もが頻繁に船を漕ぐ。

「みなさん、お疲れさまでした」

 定められた午後五時の定刻に、ロウビンが教室にやってきて、にこやかにねぎらいながら布を回収する。

 五日間の作業から解放され、ぐったりと疲労の色を浮かべた少女たちは思い思い、伸びをしたり机に突っ伏したりしていた。

「作品は今晩、品評にかけられます。みなさんに結果が通達されるのは明日の朝です」

 布の入った箱をたずさえた宦官とともに、ロウビンは教室をあとにする。

 翌朝、再び教室に少女たちが集められた。その場で結果が発表される。

 シャオに緊張感はなかった。昨晩、後宮ですれ違ったダイダムから、シャオとトウファは合格したという事前情報を伝えられていたからだ。この場ではじめて結果を聞いた少女たちにざわめきが広がる。ほーっと息を吐く者と、安堵の声を出す者と、落胆の声を出す者と。しばらくして教室が静かになったところで、ロウビンから次の説明があった。失格となった少女たちはここで荷物をまとめて家に帰される。残った者は今日と明日一日が休みとなり、その次からまた第二次試験に向けた準備がはじまるとのことだった。

 五十人が、三十五人にまで減った。そこそこの数が残ったなとシャオは思う。採点基準がよくわからないが、よほど出来がひどかったり、未完成のまま提出されたりということがなければ合格になったようだとダイダムから聞いていた。

 負けて多少気落ちした少女たちが荷物をまとめて、宦官たちに付き添われてそそくさと部屋を出て行くのを横目に、残った候補者たちはたいそうなお祭り騒ぎだった。一次試験に合格したうれしさと、休みをもらえた解放感で気分が高揚しているのだ。

 みな疲れていたので、その日の夜は早々に部屋の明かりが落とされた。シャオも床に入る。

トウファが横たわる隣の寝台からは早くも、すうすうと安心したような寝息が聞こえてきた。シャオのまぶたも重たくなり、ふと意識が途切れた。

 夜半、異変を察知してシャオの目が覚めた。

 一座にいたころの習性で気配には敏感だ。あたりは真っ暗で、窓を通して青みがかった月明りが入ってくるばかり。まだ日の出は遠い時間だ。

 まだ目が慣れないなかでうごめく人影を見た。部屋に何者かがいる。後宮に入れるはずもない手合いが。ぞっと背中が震えた。

「おい、起きたぞ!」

 賊の一人が叫ぶ。シャオは男二人がかりで押さえつけられると口を布でふさがれ、手首を縛られた。

 男の大声に、シャオが相手ともみ合う物音を聞きつけた女たちが目を覚ます。彼女らは寝ぼけまなこでよく状況が把握できないまま取り押さえられ、シャオと同じく拘束された。

 同室の女たちは一か所に集められ、床に座らされる。トウファ、オウカ、ラアカイにリーリオというシャオの同室組は、嵐のごとき出来事におののき、状況が飲み込めてくると次第に恐怖で震えはじめた。

 床上のシャオは男たちをにらみつける。全部で三人いた。並びにあるほかの部屋にも男たちが侵入していると思われた。

「へへへ、これが鳳凰候補の娘さんたちかよ。さっすが、きれいどころがそろってるや」

 一人がにやにや笑いながら、シャオたちの顔を見まわし品定めをする。男のざらりとした指で頬をなでられ、シャオは気色悪さに震えた。男はあまつさえトウファの肩に触れる。シャオは怒りで頭の血管がぶち破れそうになった。

「ありがてえなあ。本物の鳳凰じゃなくてもご利益がもらえっかな」

 同じく下卑た笑いを浮かべた仲間の一人が応じる。いやらしくゆがめられた目で、帯の上でたわむオウカの胸を舐めまわすように見つめた。それで男たちの侵入目的は強姦なのだと知れた。後宮には鳳凰候補として年頃の少女たちが集められている。きれいな女をまとめて犯すいい機会だと狙われたらしい。

 男たちは顔を隠してすらいない。首筋にある入れ墨も丸見えだった。

 シャオはその入れ墨を知っていた。虎をかたどったその柄は、クンフオ一座の証だ。クンフオはフンテオ一座と拮抗する別の組織。もう数年まえのことになるが、まだクンフオ一座の残党がフォンタムに居座っていたころ、縄張りを巡りシャオも何度か相まみえたことがある。

 部屋に乗り込んできた賊の顔をシャオは知らなかった。どうせ下っ端だろうとシャオは思った。それもとんでもなく馬鹿で仕事ができないほうの部類だ。

 首の入れ墨どころか、顔さえ隠すことなく乗り込んできたところから粗忽さがうかがえる。仲間内でやり取りする様子から、犯したあとで口封じのために娘たち全員を殺すほどの残忍さは感じられない。単に身体的特徴をもとにあとで証言されて、捕まる可能性があることに頭がまわっていないだけなのだ。

「どれからやる?」

 一人が問うと、帯をゆるめながら別の者が進み出る。

「俺に選ばせろ。そうさな……」

 はじめにラアカイという背の高い娘、次にリーリオという小柄な娘に目が止まる。リーリオはびくりと体をこわばらせた。

 リーリオは普段からおとなしい。部屋でオウカたちの集団が騒がしくしていると、うらやましそうに遠目に見つめつつも決して自ら進んで輪のなかには入れないような娘だ。どこかおずおずとしたところが賊にも伝わり、こいつならさほど暴れそうもないなとはじめに目をつけられた。

 まただ、とシャオは思った。フォンタムの五人娘と同じだ。またシャオの目のまえで、女が男の食い物にされようとしている。力が弱く、圧倒的な暴力の気配をまえにしても、女は自分の身が守れない。

 怒りが湧いてきた。二人に腕をつかまれ立たされたリーリオが寝台へと連行されて行く。賊の三人がこちらに背を向けている間、シャオは俊敏に立ち上がる。手首を拘束されているのだとは思えない平衡感覚のよさだ。軽く助走をつけて、リーリオの真後ろを歩く男の背中に飛び蹴りを見舞った。

 男はまえにつんのめり、シャオは倒れた。シャオはすばやく立ち上がり、なにが起こったのかと不思議そうな顔で振り返った男の顔に蹴りを入れる。

「がはああっ……⁉」

 汚い断末魔とともに男は床に倒れた。シャオは身をひるがえし、リーリオを押さえる右側の男の腹に蹴りを打ち込む。一瞬のうちになにが起こったのかうまく状況が飲み込めず、防御も忘れて突っ立っていた男に駄目押しの体当たりを食らわせて、床に沈めた。

 女の一人が反撃に出た。ようやく状況を理解して、残る一人が刀を抜く。シャオは勢いよく膝を折り、回し蹴りを食らわせた。くるぶしを強打された男がやや体勢をくずしたところで、股間に向かって頭突きを入れる。

「いでぇーっ……!」

 痛みに過敏な男の一物を攻撃され、悶絶した男は涙目で股間を押さえる。かろうじて刀は取り落とさずにいた。

「おいっ、どうしたっ……!」

 騒ぎを聞きつけたらしく、部屋の外から賊が二人、流れ込んできた。やはりほかの部屋にも強姦魔が侵入していたらしい。

 まずいな、とシャオはあせる。せっかくこの部屋で男たちを制圧しかけていたのに、味方に加勢されてしまう。多勢に無勢でさすがのシャオも抵抗できない。

「ううーっ!」

 ふと、近くで獣のうなるような声がした。

 手元を見るとなんとか自力で口枷をはずしたらしいトウファが、シャオの手首の縄にかじりついている。縄を嚙み切ろうとしているのだ。太い縄は嚙みちぎれないまでも、トウファがくわえて引くとわずかにゆるみができた。ゆるんだ隙間から指を通して、シャオは拘束を解く。口枷は自分ではずした。

「でかした、トウファ」

 ふうふう息を吐きながらトウファがうなずく。これでまだすこし時間が稼げそうだ。

 ほかの娘たちが無事だといいが。シャオは「借りるぞ」と、寝台横の小卓に置いてあったトウファのかんざしで長い髪をひとまとめにした。寝巻の肩を抜き、上は長袖の下着一枚となって動きやすくする。

 床に沈められて痛みにうごめいていた男二人も回復し、ゆらりと立ち上がりはじめた。

「このくそ女。おまえから犯してやる」

 じり、じりと五人がシャオを取り囲む。一人が勢いよく腰に組みつこうとするのをかわし、反対側から別の男に肩をつかまれそうになるのをかわす。小さな円の鬼ごっこだ。

 だが五人対一人では、シャオの稼働可能な間合いはあまりにも限られてくる。

「ああっ……!」

 ついに背後からわきの下に腕を差し入れられ、男の体にはりつけにされるかのごとく押さえられた。自由になる脚でばたばたと水中でもがくように暴れる。正面から別の男に太ももをつかまれた。

「くっ、こいつ……! 女とは思えねえ力だな!」

 別の男に、ぱしんと頬を張られた。

「誰でもいい! まずはこいつをやっておとなしくさせろ!」

 脚を拘束する男がそう叫び、シャオの帯を解く。着物のまえを開かれ、薄物の下履きを脱がされそうになる。

「やめろっ……! やめろーっ!」

 嫌悪感と恐怖で、シャオは絶叫した。

 女は弱い。男の欲望のために狙われ、力で押さえつけられて好き勝手にされる。

 これが女の弱さなのか。これが女の味わう恐怖なのか。シャオの体がすくみ、力が入らなくなる。

「おまえら、なにをしている?」

 部屋の入り口から声がした。シャオはすばやく顔を向ける。ダイダムが立っていた。

 突然、出現した男の姿におののいたのか、賊の手がゆるむ。シャオはその隙に逃げ出し、ダイダムのそばに駆け寄った。

「ダイダム。こいつら強姦目的で後宮に侵入したんだ」

「そのようだな。状況を見ればなんとなく想像がつく」

 ダイダムは刀を抜いた。

「俺を誰と心得る。皇帝の弟だ。抵抗すれば不敬罪だぞ」

 部屋にいた男と女は目を瞠る。皇帝に弟がいるという話は初耳だ。

「おまえらっ、とっととずらかるぞ!」

 ダイダムの言がにわかには信じられないのか、賊は気力を失わず逃走を試みる。脅しのため刀を抜き、入り口まえに立つシャオとダイダムを突破しようと向かってきた。

「シャオ、丸腰で平気か」

「ああ。直接殴るほうがいい」

 交戦は避けられそうにない。シャオとダイダムはすばやく言葉を交わし合った。

 ダイダムは刀の峰を使い、賊の刃を受け流しては胴体にどおっと打ち込む。重たい金属は骨をも砕く。

「ぐああーっ」

 床に倒れ伏した賊の一人がほかの者たちの足止めとなったところでシャオは、頬を張った男の顔にお返しの拳を叩き込み、着物の帯を解こうとした男の腹に膝蹴りを入れる。

「ぐべえっ……」

 流れる動作で間断のない連続攻撃だ。口から泡を吹いてシャオにやられた男二人が倒れる。

 残る二人はダイダムがあっけなく刀で制圧した。

「ダイダム。ほかの部屋にも賊がいる」

「よし。こいつらを縛ってから救出に行くぞ」

 娘たちを拘束していた縄を使い、シャオとダイダムは五人を縛り上げる。二人は部屋を出て行き、すぐさまほかの部屋でも不届き者たちを退治した。

 無抵抗となった侵入者を拘束したところでダイダムが詰所にいる宦官たちを呼びに行った。すっ飛んできた宦官たちは仰天し、宮殿に夜間詰めていた兵士を呼び出す。後宮が一気に騒がしくなった。

 兵士たちが捕らえられた賊を連行する。恐慌状態にあった娘たちも落ち着きを取りもどし、一人また一人と寝台へ戻って行く。宦官たちも詰所に引き上げていき、後宮はもとの静けさを取りもどした。

 くたびれた。人気のなくなった回廊でシャオは脱力し、くずおれそうになる。自室に戻ろうとしたところでダイダムに呼び止められた。

「大丈夫か?」

 シャオはようやく結わえていた髪を下ろす。

「ああ、問題ない。怪我もないし、あんな低級の賊ども、たいして……」

「本当か? おまえ、震えているぞ」

「え……」

 指摘されてはじめてシャオは、体の小刻みな震えを自覚した。

 それは武者震いとは違う。恐怖と衝撃とによるものだった。

 男たちに抱え上げられ、シャオはあわや犯される寸前だった。

 後宮でシャオは女になった。か弱く、男どもの都合のいい食い物にされる女に。男の暴力で押さえこまれる恐怖をはじめて味わった。勇敢に立ちまわったシャオも本当は怖かったのだ。

「一人で女たちを守って、よくがんばったな」

 ダイダムにそっと頭をなでられる。

 子ども扱いをするなと普段のシャオならその手を払いのけるところだ。だがいまはダイダムの大きな手が、安心させるようにほほえみかけてくれるのが心地よかった。

 この晩から娘たちがシャオを見る目が変わった。それまでのシャオの人物像といえばとにかく寡黙で、どこに通じ合う要素があったのか首をかしげるほど、トウファとばかりべたべたと引っ付いている謎めいた娘でしかなかった。だが、ひと括りにした長い髪をひるがえし、鮮やかな動きでダイダムとともに娘たちを救ったシャオは英雄になったのだ。

 また、たまに後宮をふらついている、同じく謎めいた男だったダイダムの正体もあきらかになった。ダイダムの見た目のよさに加えて皇帝の弟というつながりも手伝い、即座に娘たちのあこがれの存在になった。

 シャオの活躍は同時に、一部の娘たちにある疑念を植えつけた。賊と対等どころか、それ以上の威力を持って渡り合ったあの身のこなし。単なる貴族の娘では考えられない。

 月明りに照らされ、賊と対峙するシャオとダイダムが背中合わせに立つ姿はあまりにも凛々しかった。普段より、シャオはよほど活き活きとしている。こちらがシャオ本来の姿なのではないか――。

 疑問はのちに、鳳凰選抜の歴史のなかでも類を見ない珍事を引き起こすことになる。

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