第2話

 親父が内部情報を得ていたとおり、それから十日後に、鳳凰候補を募集する宮廷からの通達が全国を駆け巡った。シャオは立候補をして、宮廷の役人が引いてきた牛車に乗り込んだ。役人はこうして各地を巡り、まず見た目で候補者を選別する。条件に合い、試験を受ける候補となる娘たちを集めて宮殿へと運ぶ。集められた娘たちはそこから試験を受けてふるいにかけられる。ただ一人残った者が鳳凰となる。

 フォンタムから合格したのはシャオだけだった。一人牛車にゆられて、これから長い旅路を行く。中部寄りのシェンドー県にある王宮を目指す。


 一週間、牛車にゆられた。途中の県境でほかの候補者たちと合流し、そこから馬車に乗り換えた。

 馬車に乗り込む際に、御者がじっとシャオの顔を見る。

「な、なにか?」

「いんや……あんた」

 さっそく男だとばれたか? シャオは青ざめたが、御者は相好をくずした。

「別嬪だなー。ほかの候補者も何人も見てきたが、あんたはそんなかでもとびきりの美人だ」

 御者は屈託なくほがらかだ。拍子抜けしたシャオはその場に膝をつきそうになった。

 シャオの馬車にはあと三人、娘たちが同乗した。二人掛けの席が対面になっており、四人が顔を突き合わせて座る。

 シャオは娘たちの様子を盗み見る。いすれも、フォンタムで会ったあの五人の娘たちと同じくらいかそれ以上にうつくしい。かんざしを使って高く結い上げた黒髪と、白い顔の対比が鮮烈で、唇を引き結び上品に座る様子には高貴さがただよっている。鳳凰の候補には家柄のいい娘たちが多いとシャオは聞いていた。金持ちの娘は帝の側室になれる名誉を求めて、王宮に上がる。

 斜めまえに座っていた少女と目が合いそうになり、シャオはあわてて顔を逸らす。男であることが発覚しないよう他人とは極力、接触する機会を減らしていた。

 避けられたのをまるで気にしていないようで少女は窓の外に目を移した。白く丸い頬に桃色の艶が浮かぶ美少女だった。

 道中、宿で休憩を挟みながら五日をかけた行程だった。宿では一人ひとりに部屋があてがわれたので、シャオは誰の目にも触れず安心して過ごすことができていた。

 だが王宮に入ってからは違う。候補者たちは後宮に入り、試験の間はそこで共同生活を送るのだと、付き添いの役人から説明された。風呂も寝所も共同だ。

 やがて宮殿のあるシェンドーの街に行き着いた。馬車はシェンドーの繁華街を抜け、林を抜ける。

 街のにぎわいが遠くなる。どこまでも続く木立の間を、馬車はひたすら走った。

 王宮の周囲にはなにもない。街も民家もなく、ただただ緑豊かな森と田園の広大な敷地が広がっている。体感時間にして三十分以上、平坦な道が延々と続く光景をシャオは馬車から目撃した。

 なにもなくとも、人気がなくうらさびしい感じはしない。道は舗装され木々はうつくしく手入れがなされている。自然のままのように見える光景も、実は人の手で丁寧に形成されていることがわかる。王家の人間が心地よく暮らせるように、ここで働く多くの人たちが心を砕いている息遣いを感じられる。

 王宮近くに庶民は住めない。だから街もないのだ。近くにある畑も、王宮内で消費される野菜類が栽培されているだけで、手入れをするのは菜園専門の従者たちだ。

 やがて赤、青、黄色、緑などさまざまな色を使い、鮮やかに彩色された外壁と正門が見えてきた。王族の居住区と外界とを隔てる境界は陽明門だ。正門には草花や鳥を模した装飾がほどこされており、まるで外壁の端が波打っているかのように生き生きとして躍動感がある。門をくぐると、甲冑姿の兵士の石像が立ち並んでいた。目指す宮殿はそのはるか向こうにある。古くからフォン国を治めてきた王族が住まう覇龍城だ。威風堂々としたえんじ色の屋根が大きく張り出しているのがここからでも確認できる。

 いよいよ本格的な試練がはじまる。シャオの生死がかかった試練だ。シャオは気を引き締めて、眦をつり上げて王宮を見据えた。

 

 陽明門を入り石造りの道をしばらく歩くと左手に紅玉殿が見えてくる。各県からの来賓を出迎えるのに使われたり、即位式や戴冠式など、王家に関係する各種式典が行われたりする場所だ。

 シャオたちの便は最後のほうだったようで、ひと部屋にはすでに五十人ほどの少女たちが集められていた。席順などは決められておらず、少女たちは空いている場所を見つけると続々と収まってゆく。シャオは目立たぬよう、最後尾の端に立った。

 殿はひそやかなざわめきに満たされていた。はじめて宮殿の内部に踏み入り、これからいよいよ皇帝にお目見えする。興奮抑えきれぬといった様子の少女たちは隣り合った者同士、緊張感を共有するためのおしゃべりをはじめている。周囲を甲冑姿で槍を持った兵士たちに宮廷勤めの役人たちが取り巻いているが、このくらいの声量であれば問題ないだろうと見逃されているようで、少女たちのおしゃべりを咎める者はいなかった。

 玉座の背後にある扉が開き、人が入ってきた。シャオの目線が引きつけられる。

 男に注目したのは、フォン国ではめずらしい黒目黒髪だったからだ。髪の毛は適当な長さで無造作に刈っている。黒髪の男は留め具付きの上着に、下履きを履き帯を締めている。その上から前開きの短い上着を羽織っていた。フォン国では男性の正装に当たる装いだ。腰には長刀を帯びている。兵士以外が宮殿内で帯刀を許されているということは、よほど身分の高い者か。王族の関係者ではないかとシャオは推測した。

「陛下が参られます。静粛に」

 殿に駆け込んできた役人のひと声で、室内のざわめきが立ち消えた。少女たちは自発的に正座をして頭を垂れる拝謁の姿勢を取った。

 後方の扉から皇帝が姿を現した。鳳凰の崩御により、父王から皇帝の座を引き継いだドゥグアロイ帝だ。第五十二代目となるグェンロン王朝の継承者で、年のころは二十三歳だとシャオは聞いている。

 少女たちは目線だけを器用に正面へと向けて、皇帝の姿を盗み見る。フォン国の次の為政者に、シャオもちらと視線を向けた。

 悠然と歩みながら玉座へと向かうその神々しい姿に気圧されて、周囲の娘たちは呼吸すら忘れている。シャオも思わず息を飲んだ。

 もともと、人の美醜で感動を覚える質ではないシャオだが、皇帝のうつくしさには圧倒された。こんなきれいな人間がこの世にいていいのかと思った。

 ドゥグアロイ帝は長身で、薄青みがかった白髪は身長と同じくらい長い。白銀の艶が浮かぶ肌は遠目からでもなめらかだ。翠の双眸は大きく、力強さに満ちている。高い鼻梁と左右対称に形の整った輪郭は神々の彫像を思わせる完全さに満ちていた。

 少女たちは一人、また一人と、床に手をついて礼をする。五十人もの少女がいっせいに額づく姿は壮観だった。

 ドゥグアロイ帝はゆったりと玉座に腰かけた。

「面を上げよ」

 豊かで、澄んだ声だった。皇帝の号令でゆっくりと、地面から花が芽吹くように少女たちが頭を持ち上げる。

 ドゥグアロイも男性の正装姿だった。くるぶし丈の長い上着に下履きを身に着け、その上から羽織っている着物はぞろりと床につくまで長い。最高位の正装だ。特別なときに着る貴族の正装で、一般庶民は生涯に一度、婚礼の折に着る機会があるかないかというところだった。それを皇帝は日常的に着る。

 皇帝の上着には留め具がない。殿に差し込む朝日に照らされ、服の表面にうねりが見て取れる。刺繍がほどこされているのだ。布地と同じ真っ白な絹糸をふんだんに使い、模様が立体的に浮き上がるようになっている。刺繍は柄を目立たせてこそのものだが、あえて布地に同化する糸を用いるところに、権力者のみが許される贅の極みを感じる。

 最初に入殿してきた黒髪の男は腕を組み、壁にもたれかかった姿勢でつまらなそうな顔をしていた。皇帝のまえであまりにも不敬だ。やはり皇帝の血筋なのだろう。兄弟だろうか。だが黒髪黒目の彼はドゥグアロイとは似ても似つかない。凛々しい眉毛とくっきりとした大きな目元はかすかに皇帝に似ているようにも見えた。

「みんな」

 皇帝が口を開いた。

「遠いところからご足労ありがとう。このなかの誰かが、私とともに国を守る鳳凰となる。誰が選ばれるのか、楽しみに待っているからね」

 若い娘たちの緊張をほぐすための配慮なのか、皇帝はいかにも王家らしい、仰々しい言いまわしはしなかった。それが娘たちの心をとらえた。気さくな陛下を少女たちは目を輝かせて見つめている。

 わずか五分にも満たないお目見えを終えると、ドゥグアロイはすっくと立ちあがる。そして集合した少女たちの顔を端から端までゆっくり一人ずつ確認すると、にっこりとほほえんだ。

 その瞬間、室内がゆれたような気がした。

 ゆれた気がしたのはシャオの錯覚だ。実際には、少女たちは床に手をつき頭を垂れて、皇帝が出て行くのを静かに見送っているのみだった。どうやら皇帝にほほえみかけられた瞬間、少女たちの心臓が強く打つのを遠隔的に感じて、ゆれを感じたものらしい。

 あれが王族か。やはり普通の人間とは違う。手の届かぬ天上人は存在する。

 シャオは感心していた。すこしの身振り手振りやわずかに言葉を発するだけで人々の心をとらえて離さない。まるで神がこの世に姿を現したかのような荘厳さと、圧倒的な求心力を伴っていた。同じ人間というよりは、宇宙から飛来した未知の生命体であるかのようだった。

 千年続くグェンロン王朝の、始祖は龍神なのだという。千年の昔、龍がこの地に降り立ち天地を開闢した。そんな子どもだましの創世譚が信じられてしまうほど、皇帝からは強烈な神性を感じた。

 次の瞬間、信じがたいことが起こった。

 少女のなかの一人が、すすり泣きをはじめた。一人が泣き出すとその近くの少女たちもすすり泣きをはじめ、またたく間に室内がか細い泣き声で満たされていく。水の波紋がはるか遠くの岸辺にまで届くかのように、嗚咽は静かに着実に伝播する。

 なんだ?

 シャオはおののき、不審の目を向ける。少女たちはみな袖で目元を押さえては嗚咽を漏らしている。シャオの前後左右とて例外ではなかった。

 興奮と、恐慌状態が広がっている。

「陛下……。なんとおやさしい……」

「わたくし、ぜったいにあの方のお役に立ちたい……!」

 感極まった声もあちこちで響いている。

 たしかに皇帝の神性には説得力があった。だが、泣くほどのことなのか。興奮の高まりが異様だ。全員が全員、同じ反応を示すのも気味が悪い。あるいは自分が男だから、ここにいる娘たちほどは感動を覚えないのだろうか。

 シャオは激しく疑問を感じた。自分以外の少女が、皇帝の権威を印象付けるための仕込みなのではないかと思えてくるほどだ。不穏なざわめきがシャオの心に広がっていく。

 皇帝の雰囲気に当てられていない者はいないのか。周りを見渡すと一人の少女が目に入る。馬車で目が合いそうになった少女だ。五列挟んで、シャオの斜め前方にいる。彼女だけが慈愛に満ちた笑みを浮かべて、かたわらで泣き伏せる少女の背中をさすってやっていた。


 謁見のあとは午餐となる。

 少女たちは宮殿内の大食堂に招かれた。長机が何列にも渡って置かれ、五十名が一度に座してもまだ空間に余裕がある。しみひとつない白布が敷かれた机には大皿料理がいくつも置かれており、即座に同じ種類のものを探し出すのが困難なほど多様だ。

 食事の豪華さからして、これは宮殿に上がった自分たちを歓迎するための宴席なのだとシャオは思った。だがすぐに、この質量は宮中での通常の昼食なのだと知ることになる。

 蟹の身をたっぷりと使った餡を卵の生地で包んだ焼き物に、高価な蓮の実をふんだんにまぶした蒸し飯。米粉で作った半透明の薄皮には魚のすり身と思しきものが包まれている。よい香りのする香草に豚ひき肉を巻き付けて、甘酸っぱい透明なたれにつけていただく肉料理に、米粉の薄皮に包んで揚げた具沢山の春巻き。

 どの料理も見た目だけでは原材料がわからない。わからないながらも味が抜群だ。こんなにおいしい食事をゆっくりと味わうのははじめてのことで、シャオはみっともなく口に詰め込みそうになるのを必死でこらえた。

 シャオが特におどろいたのは麺料理だ。庶民の間でもよく食べられている米粉の平打ち麺。その上にじかに香草と牛の生肉の薄切りを載せて、だし汁を注ぐ。するとだし汁の熱で牛肉に熱が通り調理される。わずかに熱を通しただけの肉はとろけるようなうまさだ。

 肉が新鮮だからこそ可能な低温調理法だ。巷で流通している飯ですらこの贅沢さだ。場違いなところに来てしまったのだと、シャオはあらためて実感した。

 食事が済むと今度は役人に宮殿内を案内された。といっても、特別な招集のない限り鳳凰の候補者たちが出歩いていいのは後宮内だけだ。観光案内は、せっかく宮殿に見参した者たちへの慰労の意味が込められているのだろう。覇龍城の敷地は広大で、速足で移動し、あらゆる建物への立ち入りを省略してさえも、案内が終了するまでに三時間かかった。

 見学がひと段落すると、娘たちは後宮へと案内された。ここからは役人が交代する。後宮に入れるのは、側室のほかは宦官と女官だけだ。背の低い宦官が案内を引き継いだ。年端も行かないうちに去勢しているためか、身体に男性らしい特徴がまるで見られない。輪郭が小さく中性的な顔立ちをしていた。

 後宮内へと進む。入ってすぐの真正面の壁に大きな絵がかかっている。四方がシャオの身長ほどはある布地に刺繍がされているものだ。その迫力とうつくしさに息を飲む。

 女の姿が描かれていた。白いうりざね顔に真っ黒い髪をした女が両手を広げている。手は肩の先から鳥の翼に変わっていた。女は色糸をふんだんに使った華やかな正装姿なのに、それとは対照的に羽は真っ黒だ。余計な色を混ぜず余白を残さず、黒糸で執拗なまでに布地の隙間が埋められている。

 鳥人間の姿だ。後宮の鳳凰を象徴しているのだろう。だが通常、伝説上の聖獣は色をたっぷりと使ったところに、金銀の輝きをまぶした豪奢さで描かれるものだ。黒き翼を持つ姿を見たのは誰しもはじめてだった。

「前鳳凰のスホさまが刺繍されたものです」

 宦官の説明に周囲はほう、とため息を漏らす。あこがれている存在の息吹を、刺繍を通じて間接的に感じていた。

 後宮ではまず各人の寝起きする部屋に案内される。五人ひと組で同じ部屋だ。少女たちは十部屋に別れて生活することになる。

 部屋には一台ずつ寝台が置かれている。寝台の間はえんじ色の布で隔てることができるらしい。どの部屋も同じ作りなので自分の部屋の順番をよく覚えておくようにと宦官から注意をうながされた。

 また案内された部屋で着替えるように指示された。着衣や私物は宦官があずかり、また帰るときに返されることになる。

 シャオは娼館に置いてあった衣装のなかからみすぼらしく見えない衣服を見繕い、良家の娘に変装してきたつもりだ。はじめて宮殿に上がるので、はりきってとっておきの衣服を着てきたであろう周りの娘にも違和感なく溶け込めていた。だが宮中で貸与された服は素材も意匠も桁違いに豪華だった。

 上から被る裾の長い上着に下履きを履く。上着は各自の体型に合わせたのではないかと思われるほど、体に張りつく細身だ。裾から腰の部分まで、両脇に切れ目が入っていて足さばきがしやすくなっている。艶のある絹の生地だと思われた。表面をなでるとつるんと心地よく指がすべる。全面に刺繍がされており、入り組んだ文様でところどころ表面が盛り上がっている。その上から軽い素材の着物を羽織り帯で結ぶ。衿の部分には刺繍がほどこされていて、糸の厚みにより、羽織っただけなのに衿がぴんと立ち上がる。

 髪留めを使っている者ははずして付け替えるように言われた。赤い漆塗りのきれいなかんざしが衣類箱に入っている。

 道中からずっとシャオは髪をほどいていた。すこしでも女らしく見えるようにという計算からだ。そのため、後宮でもずっと髪を下ろしているつもりだった。

 使うつもりはないが、かんざしを手に取りなるほどなとシャオは思った。これは木製のかんざしだ。娘たちは重たい金属製の髪結いを好んで使っている者が多い。だが後宮での流血沙汰を防ぐため、武器として使われることがない素材になっているのだろう。いかに育ちがよさそうとはいえ、これから熾烈な競争に放り込まれるのだ。なにかのきっかけで少女たちが互いに敵意を向けないとは限らない。

 そういった宮廷側の計算があるなど露知らず、かんざしのうつくしさによろこぶ無邪気な少女たちは嬉々として付け替えていた。

 次に浴場だ。五十人がいっぺんに入っても狭苦しくない大浴場だった。鳳凰となったらここを一人で使うことになるのか、とシャオはその規模にあっけにとられた。あくまで、皇帝が鳳凰以外の側室を娶らなければ、の話だが。

 形式上の婚姻となる鳳凰以外にも、皇帝は側室を持つことは禁止されていない。何人側室を迎えるかは、歴代皇帝の好みによる。前皇帝のダムダロイはタイクーロウ王妃と鳳凰以外に妻はいない。子どももドゥグアロイ帝だけだ。

 平和に間延びした国でダムダロイは政治にさほど興味がなかった。法令は整い、街は整備され、国は豊かだ。前皇帝たちが築いてくれた礎があるので、たいしてすることもない。跡継ぎも一人できればもうじゅうぶんだろうとばかりに、ドゥグアロイ帝の誕生を機に子作りをやめた。

 政治に心血を注ぐ代わりにダムダロイは芸術を愛した。国内の芸術家たちに多額の助成金を払い、風雅な絵画や瀟洒な家財道具などの品々を献上させた。芸術品は、いまではこの国の主要な輸出物のひとつにもなっている。フォン国の芸術を振興させたのが、彼最大の功績だったともいえる。

 浴場へと案内が続く。風呂は着物を着て入るように言われた。水に濡れても透けない生地でできており、後ろから羽織ってまえを紐で結ぶ。この布越しに体を洗うのだ。

 さすが慎み深い貴族の娘を相手にしているだけのことはある。お互いに裸を晒す状況で彼女らを辱めないための措置だ。

 シャオは命拾いした。これなら男だとばれずに入浴可能だ。

 あとは身体検査をどう乗り切るかだが――。もう後宮に入るのを許されて、それから着替えも済ませた。礼儀作法を重んじる宮廷にあって、体をまさぐられるなど不躾なことはされないのだろう。シャオはひと心地をつく。

 浴場をあとにして今度は開けた場所に連れて行かれる。最初に入った紅玉殿と同じくらいの広さがある。そこに、文机が並んでいた。

 一人ひとり、宦官に文机を指定される。机には丸い木枠と白い布、黒い朱塗りの道具箱が置かれていた。道具箱には螺鈿細工がほどこされている。

 全員が着席すると女が入室してきた。正面の一段高くなったところに上がる。斜めになった机の上に本を広げて置いた。

「ごきげんよう。ロウビンと申します。これから私が、みなさんの手芸の先生をつとめさせていただきますね」

 眼鏡をかけた先生は娘たちにほほえみかける。

「では、蓋を開けてみてください」

 ロウビンの号令で娘たちはいっせいに道具箱に手をかけた。なかには絹糸の束、針、綿入りの針山が入っている。

「これからみなさんには刺繍の練習をしてもらいましょうね。このお手本と同じ鳥を刺してみてください」

 手伝いの宦官が数名、机の間を渡り歩きお手本の布を配る。シャオの手のひらに乗るほどの小さな布いっぱいに、かわいらしく木の実をついばむ鳥が縫い取られている。

「皇帝のために護符の刺繍をするのも、鳳凰の大事なお役目のひとつなのです。みなさんの作品のなかから一番よかったものを、陛下に選んでいただきますので心得ておいてね」

 わあっと少女たちが色めき立った。

「今日を含めて三日間で仕上げられるようにがんばりましょう。では、はじめ」

 少女たちは糸を手に取る。シャオも針と糸を手にして、手本を参照しながら刺繍を進めていく。

 後宮を入った目立つ場所に掲げられた鳳凰の作品は見事だった。鳳凰の資質として、刺繍の腕前もかなり重視される。シャオはそう確信を抱いていた。きっと娘たちも同じことを思っていることだろう。

 シャオの手つきはよどみない。フンテオの経営している娼館で、働く女たちの衣装を修繕するのもシャオの仕事だった。手芸は嫌いではない。そのときばかりは静かな場所で一人、黙々と作業に没頭することができる。人を脅したり、殴ったりする仕事をしなくてもいい。

 手芸は貴族の娘のたしなみのようで、ほとんどの者が迷いなく布に針を刺して、すいすいとこなしていく。縫い目は細かく、丁寧で正確だ。幾人か、あきらかに針と糸で格闘をしている者もいる。

 シャオの隣にいる娘も格闘している部類だった。紅玉殿でシャオを除き、平然とした顔をしていたあの娘だ。

 娘が手に持つ木枠の内側を見てシャオはぎょっとする。線ががたついて、まるでうつくしくない。模様の描かれる表面ですらこのありさまなので、裏面はもっとひどいことになっていそうだった。

 そのうちにロウビンから、今日のぶんの作業を終えた者は部屋に戻ってもいいと案内があった。一人、また一人と少女たちが退室していく。

 窓から差し込む夕日の赤々とした色が、部屋を染め上げる。

 だいぶ進んだところでシャオも部屋に戻ろうと道具を片付けた。隣の少女は一心不乱に、布と取っ組み合っている。眉をしかめてお手本と自分の作品とを見比べては、しきりに首をかしげている。

 その様子から、トーアのことが思い出された。

 トーアも手先が不器用だった。だが工作は好きで、絵を描いたり彫刻刀で木の板に彫り物をしたりしてよく遊んでいた。

 理想とする形にならないと眉根を寄せ、不満そうに唇をとがらせて手元を見つめる。そのうちに泣き出しそうな表情になって、シャオを見つめるのだ。目で助けを求められたシャオは仕方がないなと笑い、妹の蹂躙したところを手直ししてやる。シャオの補助を受けてひとつ作品が完成すると、トーアはこの上なくうれしそうに笑い、それを見てまたシャオもうれしくなった。

「貸してみろ」

 シャオは手を伸ばし、横にいる少女の刺繍を奪い取る。突然の介入に、少女は目を丸くしておどろいた様子だった。

 やはりひどい出来栄えだ。少女はようやく鳥と木の枝の外側の刺繍を終えたところだが、激しく形がゆがみ、すでにお手本とはだいぶ異なる描画になっている。この間を埋めていくと、子どもの落書きのような代物ができあがる。

「このまま進めていくと取り返しがつかないことになるから、いま直したほうがいい。途中までほどくぞ」

 少女がうなずくとシャオははさみで糸を切る。線が曲がりはじめる手前までほどいて、そこで一旦、結び目を作った。

「ここからだ。まず目安になる線を先に描いたほうがいい」

 シャオは道具箱のなかにあった薄い色のロウ石で、布に跡をつけていく。

「ああ、なるほど。先にそうすればよかったのですわね」

 少女は感心していた。やはり手芸の心得がなさそうだ。

「この線を目印に糸を進めるんだ」

 少女はうなずき、針と糸を手にする。

「線の太さを変えたいときはあらかじめ、太さの違う針に糸を付けて用意しておくと早い」

 少女はうなずき、布地を見つめながら慎重に針を刺す。

「刺したらまえの糸のすぐ終わりから針を入れるんだ。まっすぐに、隙間なく。そうしたらきれいな縫い目になる」

 夕陽が沈み、やがて部屋には夜の色が満ちはじめる。外には薄藍色の空が広がり、瞬く星に月が出はじめていた。

 少女たちは表面上は友好的に接するが、困っている者に手を貸そうとはしない。鳳凰選抜の敵同士だからだ。

 ひそやかに敵愾心を燃やしているのだとは悟られないさりげなさと軽やかさで、一人、二人と、この日の作業を終えた少女たちが部屋を飛び立っていく。

 部屋が薄暗くなり、手元が見えづらくなるまでシャオは隣の少女に付き添っていた。周りの娘たちはすっかりいなくなり、いまや残されたのは二人だけだ。

 少女は高く結い上げて、左右に蝶の羽根のような髷を作った頭をゆらしつつ糸を進める。なんとか輪郭の線と、木の枝の刺繍まで完成した。

「手伝ってくれてありがとう。あなた、器用なのね」

 鈴が転がるような声で少女が礼を言う。

「礼を言われるようなことじゃない」

 また誰かに手を貸してしまった。フォンタムで娘たちを逃がしたときと同じだ。自分はとことん甘いとシャオは痛感する。その甘さが男の身で後宮入りをする窮地を招いたのに。

「トウファ」

 心臓が軽く跳ねた。少女が妹の名を口にしたように聞こえたからだ。

「トウファよ。わたくしの名前。よかったらあなたの名前を教えてくださらない?」

「あ……。シャオだ。シャオメイ」

 女名前に聞こえるような偽名を名乗った。

「そう。ではシャオ」

 トウファはにこりとほほえみかける。

 そこでシャオは、はじめてまじまじとトウファの顔を見た。これまではろくに顔も見ていなかった。

 名前だけではない。眉毛の垂れさがったやさしげな顔つきが、どことなくトーアに似ている気がした。成長した妹はきっと、こんな姿になっているのだろうと自然と想像できるほどだった。

「これから、仲良くしてくださるとうれしいわ。さ、暗くなってしまったから行きましょう。お夕飯を食べ損ねてしまいます」

 やわらかいトウファの手が、シャオの手をつかむ。突然手を握られてシャオが思わず身じろぎしたのもお構いなしに、トウファはシャオの手を引いて部屋を出た。

 晩餐はすでにはじまっていた。後宮内の食堂にシャオとトウファが入って来るのを見るや、何人かの少女たちが「ここ、空いてるわよー」と空席を指さして呼びかけてくれる。二人は少女が座す間を歩んで、空いていた席に並んで腰かけた。

「あなたがたのぶん、ちゃんと残しておきましたわ」

「あら、ありがとう」

「これがおいしかったわよ。たれが変わっているの」

 トウファと正面に座る少女はほほえみあい、なごやかなやり取りを繰り広げる。

 鳳凰たった一人のための空間であるはずなのに、後宮の食堂は昼に案内された場所に劣らず広い。夜は夜でまた昼間以上に豪華なものが出た。

 なんだ? シャオは目を疑う。机の上に置物が飾られている。だがよく見ると違う。置物だと思ったのは飾り切りをした野菜で作られた鳳凰だった。小さく切った野菜だけで組み立てられて、皿からはみ出るほどの大きさで羽を広げている。どうやって均衡を保っているのか不思議だ。野菜でできた鳳凰の下に、笑ってしまうほど控えめに肉団子が盛りつけられている。

 夜は肉料理が中心のようで、ほかにも骨付きの子羊肉や薄切りにした牛肉を渦巻きにして、花に見立てた品などがある。シャオがはじめて目にする料理ばかりだ。これが王族たちが口にする、本物の宮廷料理というものだった。

 シャオは内心、あせった。庶民料理の延長だった昼間とは違い、どうやって食べればいいのかわからないものばかりだ。作法としてこの飾り切りの鳥は食べたほうがいいのか。きれいに盛り付けられたものはどこから手を付けたらいいのか。とにかく育ちの悪さを疑われることはしたくない。ほかの少女たちを観察しようにも、周りは小食ばかり。とっくに食べ終えてあとは食後の甘味が運ばれてくるのを待つばかりといった状態だった。

 皿をまえに硬直しているシャオに気がついたのか、トウファが声をかける。

「シャオ、どうなさったの? 具合が悪くなってしまった?」

「いや……」

 背に腹は代えられない。これまで話をした感じからしてトウファはおっとりとして、いい人そうだった。ややぼけてもいる。シャオの礼儀作法が欠けているのを騒ぎ立てることはないだろう。

「食べ方がよく、わからなくて」

 トウファにだけ聞こえる小声で助けを求める。ああ、とトウファはうなずいた。

「飾り切りのことね? あれは装飾なので食べる必要はないのです。お野菜が好きでしたら、食べてもいいのですけれど。それからほかのお料理も、目で楽しんだあとはお好きなところからくずして大丈夫」

 シャオはうなずき箸を手に取る。ようやく安心して食事を口に運んだ。


 食後はすぐに入浴の時間となる。食事を終えた少女たちから先に食堂からぽつぽつといなくなっていた。シャオは、本当は遅い時間に一人でこっそりと風呂に行くつもりだったのだが、行きがかり上、トウファと一緒になってしまった。

 シャオはまるで意識を払っていなかったのだが、トウファとは同室であることがわかった。

「まあ、シャオとお部屋が一緒だったのね。うれしいわ」

 よろこぶトウファはかごに入浴着を入れて、いそいそと準備をしている。

「さ、行きましょう。いまならもう空いているでしょうから」

 髪から湯気を立ち上らせて、同室の二人がすでに戻って来ていた。

 トウファのまえで食事を口にしていた手前、急に具合が悪くなったとも言えない。それに避けていても、いずれ誰かと入浴時間が被るのは避けられないだろう。だったらすこしずつ、この状況に慣れたほうがいい。シャオは覚悟を決めて、平たいかごを持ち浴場へと向かった。

 浴場にはまだ幾人かの娘たちが残っていた。広い洗い場で体を洗う者、ゆったりと湯舟につかりながらおしゃべりに興じる者。楽しそうなかん高い声が、湯けむりに満ちた湯殿のなかで反響する。下心満載の男がこの光景を目にしたら、まるで極楽浄土に来たような心地になったことだろう。

 年頃の女たちと入浴するなど、考えられないほど恥ずかしい。シャオはうつむき、なるべく娘たちのほうを見ないようにした。手ぬぐいに石鹸をつけて、着物越しに体を洗う。

 あまりに体が平坦だと不審に思われるかもしれない。シャオは着物の下に、綿入りの胸当てを仕込んでいた。女の体型に見せかけるため、普段から着用しているものだ。少女らしい胸の厚みを偽装するための綿が、水分を吸って重たくなる感触が心地悪い。

「あなた。お胸を気にされているのはわかりますけれど、お風呂のときはさすがにそれ、はずしたほうがよくってよ」

 脱衣所に向かう少女がこそっとシャオに耳打ちをする。貧乳体型に劣等感を抱いているものと勘違いをして、風呂場にまで胸当てを付けてきたシャオを憐れんでいた。

 違う、そうじゃないのに。とはいえ否定もできない。せせこましい作戦を見破られた恥ずかしさから、シャオはかーっと頬を赤くする。あらぬ誤解をされてなんだかむかむかしてきたので、胸当てははずしてしまった。

 隣のトウファが気持ちよさそうに鼻歌を歌っているので、どうしてもそちらを意識してしまう。薄い布地のすぐ下は素肌だ。

 シャオはまだ女を知らない。興味がなかったし、機会もなかった。やたらと兄貴風を吹かせたがるサオトラから商売女を斡旋してやろうかと誘われたこともあったが、即座におことわりした。

 シャオにとっては、娼館で働いている者たちが一番身近な女だった。泣く泣く働かされている者も多くいることを知っていたので、女を買うという発想は非情な選択に思え、とても食指など動かない。

 シャオはまだ、恋も知らない。

 ひとつ気になることがあり、なるべく胴体の線を見ないようにしながら、シャオはトウファのほうを盗み見る。

 見れば見るほど、トウファはトーアにそっくりだった。そのためトウファの腕に、シャオとそろいの蓮の花の入れ墨が入っていないかとたしかめたかったのだ。

 トーアがなにかの事情でシャオのことを忘れ、貴族家に拾われてトウファとして育てられていたとしたら。子どもながらにトーアと名乗った名前が、トウファと聞き間違えられていたとしたら。そんな妄想から来るものだった。

 いつも冷静なシャオにあらぬ妄想を抱かせるほど、トウファはトーアにそっくりなのだ。それに発音の似た名前、似た容姿。年の差も妹と同じでシャオの二つ下など、偶然にしては当てはまる符号が多い。

 着物の袖をわずかにめくり、トウファが腕を洗う。その左腕に入れ墨を探した。だが、なにも入っていなかった。

 期待はずれでがっかりというよりは、やっぱりなと納得する思いだった。生き別れになっていた妹と後宮で再会するなど、都合のいい夢物語があるはずがない。

 シャオはトウファから視線をはずし、あとはうつむき加減で体を洗った。

「気持ちいいですわね」

 露天風呂の湯気で顔を赤く蒸気させたトウファがシャオに同意を求める。

「そうだな」

 湯の心地よさからシャオも、ため息まじりに答えた。

 湯殿には大小いくつもの湯舟があり、ひとつひとつ効能が異なる薬湯となっている。香草の炊かれた蒸し風呂もある。ひとつずつゆったりと満喫していると、ここで半日は平気で時間を潰せてしまいそうなほどだった。

 空は満天の星空だ。

「シャオはどうして鳳凰の試験を受けようと思ったんですの?」

 裸の付き合いをすると心の距離が近づき、打ち明け話をしたくなるものらしい。

「ええと、もし自分がこの国のお役に立てるのならうれしいと思って」

 シャオはいかにもな模範解答をした。試験の候補者となるための推薦文にも、いまのような感じで志望動機を捏造しておいた。推薦文は第三者のふりをして自分で書いたものだ。この者は眉目秀麗で賢く心根もやさしく、などと自分に対して美辞麗句を並べ立てるのはたいそう恥ずかしく、書いているあいだじゅう、全身がこそばゆかったことを思い出す。

「そう。ではわたくしと同じね」

 善人ぶった高潔な動機も、性根のいいトウファならありえそうだとシャオは思う。

「わたくしね、結婚に三度失敗しているんですの」

「え……」

 思いがけない発言にシャオはすこし動揺してトウファのほうを見た。トウファはあいかわらずおだやかな笑みを浮かべたままだ。

「はじめての結婚は十五のときです。最初の夫は貿易商をしていらっしゃいました。けれどわたくしが嫁いだとたんに、家業が傾いたんです。きっとわたくしがお手伝いをしようと手を出したのが余計なことだったのですわね。不吉がられてしまい、嫁ぎ先にいづらくなりました。二度目の結婚ではおとなしくしていようと思い、家庭のことだけするようにつとめました。けれどシャオもご存じのとおり、わたくしはとても不器用で。炊事、洗濯など身のまわりのことすら満足にこなせない。調度品を破壊したり、あわや家を火事にしかけたり。義実家からはあきれられて、実家に戻されました」

 トウファの一挙手一投足で大慌てする人々の様子を想像し、申し訳ないと思いつつもシャオは思わず笑ってしまった。

 二年の間に三回嫁いだのだ。ずいぶんと結婚年齢が早いが、家同士の政略のため、貴族の娘ならば十代前半のうちから嫁ぐこともままある。

「三度目の結婚ではうんと年上の夫のもとに嫁ぎました。二度離婚されているわたくしでも構わないと言ってくださったんです。おやさしい旦那さまに拾っていただき、ようやく落ち着ける先を見つけられたと思いわたくしもほっとしました。けれどなにもできないわたくしをそばに置いていることで心労がかさんだのか、旦那さまの持病が悪化してしまって。わたくしから離縁をお願いしました」

 水面に映るおのれの顔を、トウファは一瞬だけ悲し気に見つめた。

「実家に戻ったところでちょうど、鳳凰の募集がかかることを知りました。さいわいわたくしは黒目黒髪で、入り口には立つことができます。こんなわたくしでも、誰かの役に立ちたい。そんな思いからわたくしは両親に頼み、推薦人になってもらったのです」

 同じだ、とシャオは思った。

 シャオも、トウファも、ここに来たのは自分自身のためなのだ。二人とも、自分のために鳳凰になりたい。トウファは誰かの役に立てる自分になれるように。シャオは生き延びて、トーアと再び会うために。

「なれるといいな、鳳凰に」

「そう……ですわね」

 選ばれるのはただ一人。だがその事実をいまは忘れ、二人は顔を上げ、願いをかける気持ちではるか遠くの星々を見つめた。


 浴場をあとにして寝所へと戻る回廊の途中で、シャオはトーアと別れることにした。

「湯あたりしたみたいだ。すこし涼んでいくから先に戻っていてくれないか?」

「あら、大丈夫? お水をお持ちしましょうか?」

 トウファは気遣わし気だ。

「問題ない。夜風に当たりたいだけだから」

 シャオが安心させるようにほほえむと、トウファは納得したようだ。

「では、先に戻っていますわね。明日も早いようですから、ほどほどに」

「ああ」

 寝所とは反対方面にシャオは回廊を曲がった。

 宦官の詰所を探すのだ。まずは宦官を丸め込み、試験の情報を流してもらうなど協力をさせるつもりだった。選抜を有利に進めるため、すこしでも情報がほしかった。

 鳳凰に選ばれたところで、男だと発覚したら八つ裂きにされる。男でも認めてもらえるように裏から根回しをするか。報奨金だけ受け取ってとんずらする手助けをしてもらうか。最終的にどちらの選択でいくかは協力者の出方で考える。

 回廊の奥で意外な人物と遭遇した。

 昼間、紅玉殿にいた黒髪の男だ。ここでもやはり壁に斜めにもたれかかった姿勢で腕組みをして、じっと目のまえを見据えている。

 後宮に男がいる。男でありながら後宮に入ることを許されているということは、やはりただ者ではない。高貴な血筋をシャオは感じた。

 男はシャオに気がつくと、顔を斜めに目線を向けた。とんっと長靴で壁を蹴り、姿勢をまっすぐに起こす。そのまま風の速さで走り、シャオに向かって来た。

 避けるひまもなかった。

 疾風と同化した男に肩を掴まれ、なぎ倒される。シャオは床に押しつけられた。上から男がのしかかってくる。男は腰の刀を抜き、シャオの首に押しつけた。

 叫び声を上げそうになった。だが手で口をふさがれている。

「おまえ、男だろう」

 シャオは愕然とした。男であることがもうばれた。

 なぜ、こいつにわかったんだ。あの紅玉殿でわずかに顔を合わせただけのこいつに。今日一日案内を引き受けた役人にも、宦官にも、異性の気配に敏感なはずの娘たちにもばれなかったのに。

 無駄な抵抗だと知りつつ、拘束を逃れようとシャオはもがく。

「動くと首が切れるぞ」

 男は刀身をいっそう、シャオの細い首筋に近づける。

「うなずいて答えろ。男か?」

 ちり、と首の薄皮が痛む。わずかに切れるほど刀を近づけられ、仕方なくシャオはうなずいた。

「やはりか。鳳凰選抜にまぎれこんだ目的はなんだ。金か?」

 決めつけるように言われる。シャオは首を横にふった。

「金ではないのか。じゃあなんだ。鳳凰にあこがれて、などと見え透いた嘘を言ったら容赦しない」

 違う。金ではない。金は手段であって目的そのものではないからだ。生きて妹に再会できる可能性に賭けて、シャオは後宮に飛び込んだ。

 こんなところであっさりと挑戦が終わるのか。絶望で目のまえが白くなる。

 これからこの男に連れて行かれて、宦官のまえに突き出される。たちまち後宮から追い出される。そうなればフンテオ一座に追いかけまわされることになる。逃亡も長くは続かないだろう。フンテオには全土に渡る情報網がある。いずれ捕まり、代償として殺される。

 せっかく後宮までたどり着いたのだ。ここで終わりにはできない。この男に、シャオの願いを踏みにじることはさせない。

 シャオの目に力がみなぎる。上からかぶさっている男を押し返そうと、わずかな隙間で腕を動かし、掌底で相手の胸を突いた。

 抵抗に苛立った男の顔面が迫る。そこでシャオは、口にためていた唾を男の眼球に向かってぷっと吐いた。

「……ッ……!」

 これはさすがに予想外だったようで、男は顔を押さえてのけぞる。

 拘束がゆるんだ隙を逃さず、シャオは男を押しのける。腹に何度も蹴り食らわせた。

 背を向けて走り、男から距離を取る。

 男は立ち上がり、刀を構えた。正確に型にはまった動作はまるで舞っているかのように華麗に見える。精緻な動きから、武術の心得があることがわかる。

 刀を構えた男が小走りにシャオに向かってくる。

 シャオは迎え撃つ覚悟で構えの姿勢を取る。男がお手本どおりの武術ならば、シャオのは実戦で慣らした喧嘩戦法だ。一座にいたとき、ほかの賊との喧嘩沙汰はしょっちゅうだった。

 型もなにもない、無茶苦茶なやり方だ。ただ確実に相手の急所を狙い、痛めつけることだけに特化している。そのためにはなんでもありだ。それが功を奏することになる。

 シャオは姿勢を低く前かがみになり、男の懐に飛び込む。

 男には、シャオがいきなり目のまえから消えたように見えただろう。腹に肘鉄を見舞われ、回し蹴りで金的を狙われたのをかろうじて避ける。だが手の甲に手刀を見舞われて、刀を取り落とした。

 カラーンと乾いた金属音が回廊にこだまする。シャオの無茶苦茶な戦法が、男の型を突きくずした。

 男はおどろいて手元を見つめる。シャオは肩で息をして、今度はどう攻めてやろうかと男をねめつけた。

「俺に刀を落とさせるとはな」

 男はつぶやき、刀を拾う。

「俺は……まだ捕まるわけにはいかないんだ。邪魔立てするなら……それなりの覚悟はある」

 シャオは手負いの獣だ。目をぎらぎらと光らせて男を威嚇する。

 挑発されたにもかかわらず男は、あっさりと刀を鞘に収めた。

「おもしろい。すこし話をしないか?」

 男から敵意が消えた。唐突な心変わりにわけがわからず、シャオは全身に警戒をみなぎらせたままだ。

「事情によっては、おまえに協力してやらないこともない」

 その言葉を聞いてやや色めき立った。王家に近しい人間から協力の申し出だ。シャオにとっては願ってもないことだった。

「おまえ、名は?」

「シャオメイ……。シャオだ」

 男だと見抜かれた以上、こいつに偽名を名乗る必要はないかと思いシャオは言いなおす。

「シャオか。俺はダイダム。ついて来い。人目につかないところがある」

 ダイダムがシャオをうながした。こいつを信頼してもいいものか。まだ若干迷いつつ、選抜を有利に進められる協力者になるかもしれない男だ。

 髪のひと筋ほどのわずかな可能性をつかむため、使えるものはなんでも使う。おのれの容姿も、頭脳も、人脈も、情報も。シャオはダイダムについていくことにした。

 宦官たちももう休んでいる時間なのか、誰にも遭遇することはない。後宮内は夜の闇にしんと冷えていた。ダイダムについて歩いているうちに、後宮の出口が近づいてきたのでシャオはあわてた。

「外はまずい。後宮の外に出たことが発覚したら問題になる」

「安心しろ。ほかの連中にはぜったいにわからないから」

 ダイダムは入り口付近の壁を探る。どんと拳を打ち付けると、壁の一部がぱかりと開いた。そこから取っ手のようなものを取り出し、引く。

 すると壁の一部が大きく開き、入り口が出現した。縦幅はシャオの身長くらい、横幅はシャオとダイダム二人並んだのと同じくらいの大きさだ。

「隠し通路があったのか」

「安心しろ、もっといいものだ。なかに入れ」

 シャオが先に、ダイダムがなかに入った。どこかにつながる通路だと思われたものはそこで行き止まりだった。内部は小部屋になっている。それもそこそこ上背のある男二人が並ぶとたちまちいっぱいになってしまうほどの狭い空間だった。

 ダイダムが提灯に火を入れて、扉を閉めた。おそろしく閉鎖的な空間が薄橙に色づく。

 ダイダムは目のまえの小さな棚を開く。そこに碁石のような黒と白の丸い石が並んでいた。ダイダムは石の配置を動かし、その下にある取っ手を引く。

 ゴオオオン、となにか重たいもの同士がこすれるような音がしたあとで、ゴ、ゴ、ゴ、ゴと一定間隔で濁音が聞こえてくるようになった。

「すこしゆれるぞ」

 これからなにが起こるのだ。シャオが問い返す間もないまま、小部屋がゆれた。

「あっ……⁉」

 下に引っ張られて、どこかに落ちていく感じがする。シャオはおどろき、壁にもたれかかって体を支えた。

 完全に下がりきると今度は体が左に引っ張られ、また右に引っ張られる。

「これ、動いてるのか?」

「ああ。歯車仕掛けで動く高速の移動装置だ。王家の緊急脱出用に、王宮の地下にいくつもある。このことは王家の人間しか知らない」

 ということは……。ダイダムはやはり王家の人間か。

「どこに向かっている?」

「俺の隠し部屋だ。宮殿内にある」

 さんざん左右にゆさぶられて、今度は上に引っ張られる。

「着いたぞ」

 シャオは頭がくらくらした。高速の動きで乗り物酔いを起こしたようだった。部屋の外に出るとどこか城の一角に出た。移動装置があったのとは反対側の壁側に行くとまたダイダムが壁を探る。壁の一部が大きく割れて、隠し階段が出現した。

「行こう。俺の部屋はこの上だ」

 シャオはダイダムについて階段を上がる。

 階段の先にはほどよい広さを持つ部屋があった。絨毯が敷かれ、質素な机と椅子が置かれている。小さな寝台もある。壁には本が。床には弦楽器やら駒取りの遊戯版やらが複数、無造作に置かれている。整理整頓されているとは言い難いが、ある程度まとまったところに置かれているためか、そこまで乱雑な印象は受けなかった。

「座れ。いま茶を淹れる」

 湯を沸かす間、シャオは部屋を見まわす。窓と思しき、壁に丸い穴が開いたところは布で塞がれ、外から見えないようになっていた。ここはダイダムが城の喧騒を逃れて一人、ゆっくりと休んだり考えごとをしたりするのに使う部屋なのだという。

 ダイダムは湯呑みをシャオに差し出した。薄緑色の茶に口をつけると、ほのかに蓮のいい香りがする。

「茶を淹れる俺の手つきを観察していただろう。毒を盛られる心配はないと安心したか」

 にやりと笑いながらダイダムが言う。実際そのとおりだ。正体がわからない以上、油断することはできない。どこか不審な点はないかをさりげなく観察していたつもりが、見抜かれていたと知りシャオは気まずくなる。

「おまえ、何者なんだ。初日に紅玉殿に集められたときも周囲をよく観察していたな。それに俺に向かってきたあの身のこなし。実践で鍛えたとしか思えない動きだった。暗殺者か? それともまさか、兵士としてここで働いていた……なんてことはないよな?」

「それはない」

 シャオは自らの正体を明かした。フォンタムの街から来たこと。子どものころに妹と二人して親に売られて、売られた先のフンテオ一座で下働きをしていたこと。仕事でへまをしてしまい、一座から見逃してもらうために鳳凰選抜に参加し、紹介料と鳳凰に選ばれた際の報奨金を身代金として一座に納めること。すべては最愛の妹に生きて再会するためであること。

 喧嘩の腕前も、身の安全のために周囲をよく観察するのも、一座で暮らすうちに自然とシャオに身についた技術だ。

 ダイダムは茶をすすることもなく、黙ってシャオの話を聞いていた。しきりに相槌を打つことはないが、黒々とした目でじっとシャオを見つめ、真摯な態度で聞いていることがわかる。

「ふむ……。なかなかに壮絶だな」

 シャオが話終えるとそんなことを言った。さんざんだったシャオの人生に同情を示してくれたものらしい。

「なあ、どうして俺が男だとわかったんだ。そんなに目立ったか?」

 心配になりシャオは首に手をやり、喉仏の大きさをたしかめる。いつも首まで覆う上着を着ていたが、あまり目立つようなら追加で襟巻をしたほうがいいかもしれないなどと考えた。

「いや、見た目ではわからない。宦官はおまえみたいな中性的な人間を見慣れているから、まずわからないだろう。紅玉殿にいた役人に兵士も、接したのはわずかな時間だけだったから気づいていないはずだ」

 ではなぜだ。なぜ、ダイダムにはわかったのだ?

「おまえ、兄貴の術にかかっていなかっただろう? だからわかった」

「兄貴って……」

「俺の兄。現皇帝のドゥグアロイ帝だ」

 シャオは混乱し、眉をしかめる。皇帝は一人っ子のはずだ。

「といっても異母兄弟なんだがな。ドゥグアロイの母君は正室のタイクーロウ王妃。俺の母は側室のスホ王妃だ。前鳳凰が、俺の母」

 シャオは目を瞠る。だが言われてみれば至極納得する点もある。ダイダムは黒目黒髪だ。鳳凰となる者の特徴を顕著に受け継いでいる。一方で、兄のドゥグアロイに似ているところもある。凛々しい眉毛やおだやかそうに見えて力強い光をたたえる双眸などがそっくりだ。眉も目も黒いので、兄よりもより雄々しい印象を抱く。

「そうだったのか。弟がいたなんて知らなかった」

「側室の子は公にはされていないからな。父は兄に皇位継承させればじゅうぶんだと思って、俺を表舞台に出す必要はないと考えたようだ。まあ、あんな人だから」

 芸術に傾倒する父の姿を思い、ダイダムは苦笑する。

 笑顔を目にして、シャオの胸がつきりと痛む。ダイダムは母を亡くしたばかりだ。

「つらいだろう。スホ王妃がなくなってから、まだ日が浅い」

「つらくないと言えば嘘になるが、わかっていたことだから突然死よりは衝撃がすくなかったな。死の直前は臥せっていて、もう長くはないと思っていたから」

「そうか……。前鳳凰はどうして亡くなったんだ?」

 国を挙げて三日間かけた盛大な弔いだった。死因はあきらかにされていない。ただ国のために祈った鳳凰は燃え尽きて天に旅立たれたのだと説明がなされていた。

「うーん……。一番近い言葉で言えば、老衰ってことになるな」

「老衰……? ダイダムはいくつだ?」

「俺は今年十九歳だ」

「じゃあ、俺と同じだな」

 シャオは視線を落とし、一瞬考える。息子が十九歳ということは、スホはまだそこまで老体ではなかったのではないか。

 シャオの考えていることを察知したらしい。ダイダムが説明を補足する。

「母はまだ五十代にもなっていなかった。歴代の鳳凰には、たまに短命な者もいるらしい。皇帝に力を捧げて国のために祈ると、おのれの力を使い果たして体が急激に衰えることがあるんだとか」

 役目のために命を捧げた母を思い、ダイダムはそっとまぶたを伏せた。

「弱りながらも祈りを捧げ続けるのを見ているのはつらかった。だが俺の心痛など軽く粉砕するほど、祈る母はうつくしさと気高さに満ちていた。俺は母を誇りに思う」

 鳳凰の背負う重圧が体にかかったような気分になり、シャオは無言になる。ほのかに湯気を立てる茶をすすり、ダイダムに問いかけた。

「ドゥグアロイ帝の術って、なんのことだ?」

「誘惑の術。王家の人間が使える技だ。兄が退出するまえに檀上から意味ありげに娘たちを見渡していただろう? あのときに術をかけた」

 シャオには思い当たる節があった。

「そういえば、あの直後から女たちがいっせいに泣き出して、妙な具合だと思ったんだ。やっぱりなにかされていたのか」

「ああ。皇帝の術は一瞥しただけで人の心を虜にするものだ。そうやって、鳳凰候補の対抗心を煽り、試験に全力を注ぐように仕向けている。それから、選ばれた鳳凰を自分に従わせるための術でもある。あの術は男には効かない。あの部屋でおまえと、もう一人だけがかかっていなかった。俺から見て、左斜めまえにいた娘だ」

 トウファのことだと思い当たる。

「俺も気がついた。どうしてか、トウファだけが平気そうにしてたんだ」

「トウファという娘なのか。もう名前を聞き出すほど仲良くなった娘がいるんだな」

「ああ……。偶然な」

 シャオは刺繍の手伝いをきっかけに親しくなったいきさつを語る。

「それで俺は、おまえたち二人は男なんじゃないかと疑いを抱くようになった。まずおまえに当たりをつけて、確認のため後宮に入った。おまえから出向いてくれてむしろ助かったな」

「なんで俺なんだ」

 シャオは憮然とする。

「そりゃ、トウファに比べれば背は高いし、女らしさも劣るけど……」

 風呂で薄い布越しに見たトウファの豊かな胸元を思い出す。

「だっておまえ、あきらかにほかと違っていたからな。抜け目なく周りを観察して、ほかの女たちが仲良くおしゃべりしているなかで一人、異様な緊張感を放っていたぞ」

「う……。気をつける」

 意気込みが体からにじみ出ていたと知り、シャオはばつが悪い。

「まあでも、うまいこと隠しているから気づいているやつはほかにいないだろうけど。おまえについては納得だ。だがトウファが術にかからなかったのは不思議だな。たまたま視線をはずしていたとかで術にかからなかったか、まれに効かないやつもいるのか」

 ぼんやりしているトウファなら、せっかく皇帝とお目見えの時間でも明後日の方向を見ていたということはありえる。

「事情はわかった。おまえに協力する」

 ダイダムが本題に入る。

「皇帝になった兄の手伝いをするように父から言われている。鳳凰選抜の補佐もする。試験の情報が入ってくるから、それをおまえに横流しできる」

「どうして……」

 協力してもらえるのは願ってもないことだが、疑問しか浮かばない。

「皇帝の手伝いをするように言われてるんだろう? 逆に邪魔するようなことをしたら、おまえが困るんじゃないのか?」

 ダイダムの目的がよくわからない。

 いやなことを思い出したかのように、ダイダムが虚空をにらむ。そしてシャオを見据えると言った。

「俺は、鳳凰選抜をめちゃくちゃにしてやりたい」

 はっと、シャオは息を飲む。

「ずっと母を見てきた」

 ダイダムは悲し気に目を細めている。その瞳に在りし日の母を映しているかのように。

「俺の母はずっと後宮で祈りを捧げてきた。後宮の外には出られず、一緒に暮らしていた息子の俺以外には誰とも会えない。唯一、面会を許されていたのは一部の宦官とお付きの侍女、それから父だけだ。父だってめったに母のところには来ない」

 鳳凰の役目は皇帝と、国のために祈りを捧げることだ。その祈りの力で、周りを海に取り囲まれたフォン国から外敵を退け、国を豊かに繁栄させ続けている。

「誘惑の術などなくとも、母は自分自身の意志で父を愛しているのだと言っていた。世継ぎに興味がないのに俺を作ったくらいだから、まあ、父も母のことを愛していたのだとは思う。でも母は、本当はもっとたくさん父に会いたかったはずだ」

 広い後宮で皇帝から授けられる愛をただ待っている。鳳凰の孤独にシャオは思いを馳せる。鳳凰も人間なのだ。彼女なりの孤独があり、思いがある。至極あたりまえのことなのに、鳳凰という存在が神に近しい扱いだったがゆえに、これまで考えたこともなかった。

「俺の目的は、鳳凰という制度を終わらせることだ。誘惑の力で誰かを愛し、自由もなく国を守るために祈りを捧げ続ける。そんなのは間違っている」

 ダイダムは苦々しげに吐き出す。

「……あんたのほうの事情はわかったが……。俺に協力することであんたの目的は達成されるのか?」

 シャオの問いかけにダイダムがうなずく。

「ああ。間接的に、だが着実に。制度そのものの信頼をゆさぶろうと思っている」

 ダイダムは優雅な手つきで茶をすすり、ひと息入れた。先ほどから話しぶりは淡々としているが、所作には気品がただよい、側室の子とはいえやはり高貴な王族なのだと感じさせるものがある。

「俺は子どものころから何度も、鳳凰制度の廃止を父に訴えてきた。だが父は変化をなによりもおそれる人だからな。困り顔でかわされて聞き入れられなかった。いよいよ母の状態が危うくなったところで、皇位継承の話が出てきてからは兄にも進言してみた。父に比べると兄は改革には意欲的な人だが、鳳凰は国家安寧の要だと確固たる信念を持っているようでなくすつもりはないらしい。あの笑顔で、馬鹿なことを言うんじゃないよと諭されて終わりだ」

 ダイダムはくやしそうに嘆息する。慈愛に満ちているが底知れない笑みで、十九になる弟を子ども扱いしながら言い聞かせるドゥグアロイの様子が目に浮かぶシャオだった。

「俺はぜったいにあきらめない。だが、何度歎願したところで兄には響かない。やり方を変える必要がある。そう考えた」

 幾度となく拒絶されようとも、願いを成就させようとする。ダイダムは不屈の強さを目に宿らせた。

 こんな人間もいるのだ。失敗をおそれず、何度転んでもそのたびに立ち上がる強い人間が。一度でも失敗しないようおのれを厳しく律してきた自分とはまるで違う、ダイダムの不屈の精神に触れ、シャオは新鮮な感動を覚える。情熱をたぎらせるダイダムのまなこに射貫かれるようで、心がゆさぶられた。

「この問題にどう取り組むべきか。思案していたところであらわれたのがお前だ、シャオ」

「俺?」

 突如、名指しされてシャオは戸惑う。

「ああ、そうだ。まえの鳳凰が亡くなると、その力はほかの者に移動すると言われている。鳳凰の試験は候補となった女の神性を見抜き、一番ふさわしい者を選び出すためのものだ。ところがその選抜で男が選ばれたとなったらどうなる? これまでの伝統はなんだったのかと疑問が噴出し、鳳凰の神性は失墜する。鳳凰という制度は、鳳凰の絶対的な神性と威信に依存したものだ。その二つがなくなれば人々は見向きもしなくなり、制度が成り立たなくなる」

「なるほどな。最後に選ばれたのは男だったっていう事実さえあればいいのか」

 シャオの勘のよさにダイダムはにこっと笑った。笑うと目が細められ、精悍な印象が増す。

「シャオ、おまえの目的は鳳凰に選ばれて報奨金を手にすることだ。俺の目的は男が選出されたという既成事実を作り出すこと。おまえを鳳凰にするという点で、俺たちの目的は同じだ。俺と組まないか? 俺に手を貸すなら、確実に報奨金が手に入り、無事に逃げられる方法も考えてやる」

 ダイダムは右手を差し出す。一番情報源に近く、また確実に裏切らなさそうな味方だ。願ってもない好機。だがシャオはすぐにはその手を取らず、ためらいを示す。

「俺のことを簡単に信用しすぎじゃないか?」

 王族以外には秘匿されているはずの隠し通路に通し、私室にまで招き入れた。ダイダムは警戒心が薄いのか、豪胆なのかわからない。

「おまえの思いが真剣なことがよくわかった。妹のために命がけで後宮に乗り込んできた。その度胸を俺は買ったんだ」

 ダイダムは挑むように、右手を差し出したままだ。女たちを鳳凰の役目から解き放ちたいダイダムの思いもまた真剣だ。シャオは妹のため、ダイダムは母のため。大切な家族のために目的を果たしたい。そんな仲間意識を二人は瞬間、共有した。迷いのなくなったシャオはダイダムの手を取り、握手を交わした。

「母はずっと、後悔していると言っていた」

 ダイダムが悲し気につぶやいた。

「後悔? 鳳凰に選ばれたことをか?」

 後宮でたった一人の生活になると知っていたら、試験に挑戦しようとも思わなかったのかもしれない。シャオは前鳳凰の心を推し量る。

「いや、鳳凰に選ばれたことそのものというよりは……。鳳凰になるためにしてしまったことを一生悔いるのだと言っていた。おまえはなんのことだと思う?」

「なんだろう……。わからないな」

 謎かけのようだ。シャオはわずかに首をかしげる。

 息子に後悔を吐露するほど、鳳凰という立場に置かれた者の重圧は重い。無邪気な少女たちに取り囲まれているとつい忘れがちになるが、鳳凰選抜は、今後数十年に渡りフォンという大国を守護する宿命を担う守り神を選出するための、壮絶なものなのだ。


 三日間かけて練習課題となった鳥の刺繍を仕上げていく。広い教室で女たちは多少のおしゃべりも交えつつ手を動かす。

 これはまだ本試験ではないことをシャオはダイダムから聞いていた。

 昨晩、ダイダムに教えられたのは第二次試験までの内容だ。一次試験はシャオの予想どおり刺繍。いまやっている練習が終わったらお題を出されて作品を仕上げ、それが選抜対象になるとのことだった。二次試験は歌謡と舞踊。第一の試験が終わったところで、残った者でお題となる演目の練習をさせられるのだろう。演目はダイダムが探りを入れることになっている。だがおそらくは『鳳凰花月伝』か『鳳凰愛舞』になるのではとのことだった。どちらも、鳳凰から時の皇帝への熱烈な愛を題材にした演劇で、庶民の娯楽である水上劇でもよく演じられている。

 刺繍の合間に授業もはじまった。これは選抜とは関係なく、鳳凰となるのに最低限ふさわしい教養を身に着けるためのものらしい。フォン国の歴史に礼儀作法の授業。また、祈祷学に呪術学などというものもある。それらを指導するのはすべてブン翁だ。白く長い口髭が見事な老年の先生だった。

「あのう、ブン先生」

 呪術学の授業で娘の一人が挙手をする。北方地方からやってきたフーヨウという娘だ。フーヨウは勉強熱心でだいたいどの授業でも一回につきひとつは必ず質問をする。娘たちの間でも賢い娘だと尊敬の目で見られるようになっていた。

「どうして呪いなど、おそろしいことを学ぶのですか? 鳳凰の力は、祈りの力。祈祷学だけでじゅうぶんなのではないですか?」

 フーヨウの絶妙な指摘に、指導熱心な翁は目を細めてうれしそうにうなずく。

「毒と薬は表裏一体なのです。用法が変わると、薬はたちまち毒ともなる。どちらか一方の知識だけでは網羅的ではない。正しく知識を用いるためには、その対となる知識も学ぶのが理想なのです。お嬢さん、おわかりかな?」

 ブン翁の説明に、フーヨウは納得したようにうなずいていた。

 練習課題として出された最初の刺繍ができあがる。トウファのぶんはシャオが手伝いつつ、なんとか形になった。不器用な手つきを思えば、よくぞここまで仕上げたものだとシャオは思う。ややゆがみはあるものの、ほかの娘のものと並べてもさほど見劣りしない出来栄えだ。

 刺繍の布は皇帝陛下に捧げられ、選ばれたのはフーヨウのものだとロウビン講師から知らされた。教室にはフーヨウを祝う声と、自分のものが選ばれずややがっかりする声とが交互に混じる。

 翌日から本試験がはじまる。そのまえの晩、シャオは例の通路を使い、隠し部屋でダイダムと落ち合った。後宮を歩いていたダイダムに昼間のうちにさりげなく時間指定を書きつけた紙片を渡し、待ち合わせたのだ。

 娘たちを観察するため、ダイダムはたまに後宮をうろついており、授業にも顔を出すことがある。娘たちの間ですぐさま、後宮に出入りする謎の男がいると話題になっていた。だが後宮に立ち入っても、宦官や講師陣はいっさい咎めない。おそらく試験の監督者なのだろうという結論に落ち着いている。早々にダイダムの胡乱さが薄れたのは、そのすぐれた容姿のおかげでもあるだろう。皇帝にやや似ているところから、無意識のうちに女たちに好印象を与えたのではないかとシャオは推測している。

「どうだった?」

「フーヨウっていう子のものが選ばれた」

 シャオはどかっと椅子に腰かける。日頃は女らしい仕草を心掛け、空気にゆれる羽衣のように楚々と動いているが、ここでは周囲の目から解放されて自分らしくふるまうことができる。ただいくら粗野な仕草をしても、シャオは細身なためいまいち迫力に欠ける。

「ああ、あの賢い娘か。北で名を馳せる豪商の子だ」

「座学も優秀だ。なんでも器用にこなせる。この先の試験も最後まで残ってくるだろうな」

 シャオはダイダムの淹れた珈琲をすする。

「そうか。ほかにも有望そうなやつはいるか?」

「うん。オウカという娘だ。容姿が抜きんでていて、胸がでかい」

 オウカは部屋に入ると、すぐに服のまえをくつろげる。着物の合わせ目から豊かな胸が、帯の上に乗っかる勢いでたわむ。大きな胸を自慢しているのか、それとも窮屈なので一刻も早く楽になりたいためなのか、シャオにはわからない。オウカは自己顕示欲が強く、目立ちたがりに思えるからだ。

「胸の大きさは試験には関係ないが……」

 ダイダムが首をかしげる。後宮入りして以来、シャオはなぜか貧乳の劣等感を抱くようになり、やたらと女たちの胸の大きさに注目してしまう。

「う……。二次試験は歌謡と舞踊なんだろう? オウカは容姿を武器に、上位に食い込む可能性があるってことだ。それから求心力がある。あっという間に女たちの中心になった。鳳凰たる指導力にすぐれていると見なされるかもしれない」

 オウカはシャオの同室だ。オウカのそばには常に数人の女が張りついている。シャオの部屋は女たちのたまり場となり、いつも姦しい声でにぎやかだ。

「医者の家系の娘だな」

 ダイダムが雑記帳をめくりながら言う。娘たちの氏名、出身地などを書きつけたダイダムの調査書だ。

「皇帝の様子はどうだった? 俺とトウファが術にかかっていないこと、ばれてたか?」

 ダイダムは首をふる。

「いや、まだ気づいている様子はない」

「そうか」

 人前ではせいぜい皇帝に惚れているふりをするよう、トウファに言い含める必要があるなとシャオは思った。シャオも悪目立ちしないよう、皇帝のことに話題がおよんだ場合は陶然と頬を赤らめておく必要がある。

 シャオは珈琲を飲み干すと席を立つ。杯の底に黒褐色の粉がわずかに残った。

「ごちそうさん。じゃあもう行く。あんまり不在が長いと女たちにあやしまれるから」

「ああ。次の試験、検討を祈る」

 シャオは静かにうなずくと、後宮に向かうため秘密の扉へと消えた。

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