孤独な鳥は後宮で愛を知るか?

森野稀子

第1話

 提灯に橙色の明かりが灯ると、蜜月館の開店時間となる。

 昼のあいだは扉をびちりと閉ざし眠っている蜜月館は、夜になればたくさんのお客を吸い込む娼館へと早変わりする。

 蜜月館のあるフォンタムはフォン国随一の歓楽街だ。賭場に娼館などの遊技場がみっしりと通りの隙間につめこまれている。なかでも蜜月館は最も規模が大きい。壱号館から伍号館まであり、歓楽街一番の大通りで今宵も、一夜の夢に惜しみなく金を払う酔狂な客たちを待ち構えている。

 蜜月館の立ち並ぶ大通りを、シャオは悠然と進んでいた。歩むと後ろで束ねた長い黒髪が優雅にゆれる。

 娼館近くの売店にシャオは立ち寄った。そこで肉饅頭を買い求める。シャオの顔を覆い隠すほど大きい、ねぎとにらと肉のたっぷりと詰まった饅頭だ。

 シャオは腰まで届く長い黒髪をして痩躯だ。顔は真白く、逆に黒々とした目や髪との対比が強い印象を残す。がさつな男くささとは無縁の優美な顔つきなので、正体を知らない者が彼を見たら、いい身分の娘だと誤解をしたかもしれない。

 だが夜も更けた。昼間とは一転して、どろどろと不浄な猥雑さを醸しはじめた街の風情にひるむ様子もなく、歓楽街に一人立つ。立ったまま急いで飯を胃袋に収める。そんな男がやんごとない身分の者がであるはずがない。

 まだ湯気も冷めきらぬうちに饅頭をたいらげると、シャオはぺろりと舌で指を拭い、中心地に向けて歩き出した。

 途中、娼館まえの客引きたちが仕事をさぼり、だらだらとおしゃべりに興じているのを目にした。切れ長の目を細めて、じろりとそちらをにらみつける。

 シャオにひとにらみされた客引き二人は、たちまちびくりと体を硬直させ、そそくさと仕事に戻っていった。

 ふん、と蔑みを込めて軽く鼻を鳴らし、シャオは通りを進む。シャオは弱い者、負け犬が嫌いだった。軽率に仕事をさぼり、こんな小僧ににらまれて震えあがる情けない連中には成り下がってはならない。自分はああなるまいと自戒の念が浮かぶ。シャオの仕事に失敗は許されないのだ。

 長い黒髪を束ねた痩躯の男、シャオと言えば、このフォンタムで知らない者はいない。まだ若いが、喧嘩の腕前と器用さを買われて出世し、この街で幅を利かせるフンテオ一座で頭に近しい立場にいるのだ。

 娼館の扉から顔をのぞかせた女たちが愛想よく手をふるのを、シャオは一瞥だけして歩み去る。

「あっ! だんな、お勘定! お勘定ー!」

 一人の男が店から逃走し、それを店主があわてて追いかける。実入りがすくないとフンテオへの上納金もすくなくなる。そうなると店の資金から立て替えをしないといけなくなる。取りこぼしは重罪だった。

 シャオは涼しい顔をして逃げる男の真正面に立つ。そして走り去ろうとするところ、伸ばした腕を相手の上半身にぶつけてひっくり返した。

 逃走経路にいる男がフンテオ一座で腕利きの用心棒だとは気づいていなかったらしい。事態を飲みこむまえに男はこてんぱんに痛めつけられる。

 シャオは腹に蹴りを入れた。ただの一撃で男は悶絶する。自分では起き上がれない間抜けな虫のように、男は地面に仰臥したまま苦し気にうめいていた。

「金を払えよ」

 店主が追いついてくるとシャオは男に向かって冷えた声で言い放ち、通りの奥へと歩み去った。通りにあふれる人々、客引き、それから店の窓から顔をのぞかせて媚びを売っていた女たちは、たったいましがた起こった暴力沙汰を目撃したために慄然としていたが、狂気の残滓を洗い流すべく、わざとのように明るくはしゃいだ声を上げて街の喧騒を復活させた。

 館の明かりが灯るころ、伍号館の奥にある倉庫に来い。

 今宵、シャオは兄貴ぶんのサオトラから呼び出されたのだ。サオトラはシャオの五つ年上。シャオよりも早く一座に入り仕事をはじめた。面倒見がいい男だが、いつも調子がよく、そしてたまに考えなしのところがある。後ろ暗い仕事ばかりしている一座にあって、よく言えばいつもあっけらかんと明るく、悪く言えば粗忽なサオトラのことがシャオはすこし苦手だった。

「おう、来たかー」

 倉庫の扉にもたれかかり、サオトラは巻き煙草を味わいつつ、シャオに挨拶を寄越す。着物のまえをだらしなく肩からはだけて、なかの黒い袖なし下着が丸見えになっている。フォン国は常に温暖な気候だが、夜が深まるにつれて涼しくなる。館が開店したばかりの午後六時はまだ昼の蒸し暑さが残っていた。

「それで、なんの仕事だ?」

 なにがおかしいのか、サオトラはにやにやと笑いながら煙草を消して、道端に投げ捨てた。

「このなかよ」

 サオトラはくいっと親指で倉庫の扉を指す。

 普段は娼婦たちの衣装に舞踊で使う小道具などを置いている場所だ。シャオは鍵をはずし、両開きの扉を開ける。思わず息を飲んだ。

 なかには女がいた。それも五人いる。薄暗いなかで、いずれもうつくしい娘であることがわかった。

 五人は隅のほうで固まり、一様におびえた表情でシャオを見つめていた。

「借金のかたに連れてこられたんだとさ。あ、この子たちじゃなくて、親のな」

 サオトラの言にシャオはうなずく。

 フォン国では売春自体は違法ではないものの、フンテオ一座では借金で首がまわらなくなった者をなかば無理やり娼館で働かせるなど、非道なことをすることもある。それでも働かせるのは二十を超えた者たちに限られていた。十九歳のシャオよりも年下に見える娘たちはこれまでいなかった。

 親のせいで売られたのだ。賭け金の異様な賭場やら、高利貸しやら、違法すれすれの商売を生業とする一座から金を借りるなど、ろくでもない人間に違いない。そう思うと、シャオはおびえる娘たちにわずかに同情した。

 シャオがなかに一歩踏み入ると、女たちはますます硬く身を寄せ合う。

「このなかから一番見た目がきれいなのと、一番賢いのと。二人選んで、親父のところに連れて行けってさ。そんで残りは来週から働かすから、おまえがここでのふるまいかたをよく教えてやれって」

 はあ? よくわからない指示にシャオは眉根を寄せる。さらってきた女たちにフンテオが興味を示すなど、これまでなかった。

「どういうことだ?」

「さあね。ま、おおかた自分の愛人にでもするんでしょ。じゃ、頼んだぞシャオ。俺はこれから客引きどもがさぼっていないか、見回りにいかないとー」

 サオトラはそううそぶくものの、たぶん館の女を冷やかしに行くだけだろうとシャオは思った。軽薄に手をふりながらサオトラは月夜に消えた。

 シャオは扉を閉めて、なかの小さな提灯に火を灯す。月光に照らされて青白いばかりだった女たちの容姿がよく見えるようになった。

 娘たちはいずれも、長い黒髪に黒い目の持ち主だった。フォンタムではめずらしい。そのためフォンタムでは黒目黒髪の女に人気がある。

「おまえも見てくれは貴族の娘さんみたいに上玉なのになあ。中身は粗暴そのもの」

 性別を感じさせないきれいな顔をして、娘たちと同じく黒目黒髪のシャオはよくサオトラからそうからかわれる。からかわれては兄貴ぶんの太ももの裏に蹴りを見舞うのが日常だった。

「なあ」

 シャオが口を開く。娘たちがうつくしいのは見た目でわかるが、賢さは会話してみないことにはわからない。だが女たちはすっかり委縮して、青ざめた顔のまま固く口を閉ざしている。

 あいつ、立ち去るまえに余計なことを言いやがって。

 親父に献上するなどと余計なひと言を残していったサオトラをシャオは恨む。ただでさえひどくおびえていた女たちは、自分たちをさらってきた組織の長の愛人にされるかもしれないと知り、ますますおびえている。

「あ……あの……」

 どうやって口を開かせるか。長靴のつま先を見つめながらシャオが思案していたところで、か細い声がした。

 シャオは目線を女たちに向ける。肩を寄せ合う女たちの一人がおそるおそる言った。

「あなたも無理やり連れてこられたの……?」

 おびえだけではない。シャオを気遣うような色がそこにはにじんでいた。

「見た目が、この街の人たちとは違うから。それに年も、私たちと同じくらいだから……」

 シャオが無言のままなので、女は必死に言葉をつむぐ。

 一人が発言すると徐々に、残る四人もすこしばかり体が弛緩した様子がうかがえる。ひょっとしたらシャオは自分たちの同類なのではないかと、同情するような顔に変わっていく。

 シャオの見た目があどけないせいもあるだろう。実年齢よりも二、三歳は若く見える。屈強な男ばかりで構成された一座の人間にしてはあきらかに異質なところから、話しかけても大丈夫そうだと判断されたらしい。とっさに恐怖を忘れさせてしまうほど、シャオの容貌が抜きんでているせいでもあるだろう。

「俺は……」

 シャオは軽く動揺していた。

 この期におよんで、女たちの一人がシャオを気遣ったからだ。無理やり売られてきて、これから客を取らされるのだと知っていながら、それでもなお、見た目が近しいシャオの境遇を案じている。それだけ心が清らかなのだろう。世間の荒波を知らないとも言える。

 シャオは過去に思いを馳せる。

 ずいぶんと昔に失ってしまった最愛の人、トーア。黒目黒髪のシャオとそっくりな、血を分けた存在。成長して、目のまえの娘たちと同じ年頃のはずだ。

 女たちのまえで昔の感傷に引っ張られそうになったシャオはあわてて表情を引き締めた。

「余計なことをしゃべるな」

 ぴしゃりとはねつけると、女たちはびくりと震えた。

「まあいい。まずは飯からだな」

 動揺を悟られないようにシャオは出て行き、倉庫の扉を施錠した。


 結局、昨晩は娘二人の選定まで至れなかった。容姿はどの娘も申し分ない。だが一番賢いとなると見極めが難しい。試しに自分と駒取りの盤上遊戯でもさせてみようかと思うシャオだった。

 ろくに話ができなかったのは、痛いところを娘に突かれて動揺したせいでもある。話続けるとシャオの心の奥深くにある大事なもののことを知られてしまうのではないかと恐怖があったので、飯を取りに行くふりをして会話を打ち切るしかなかったのだ。

 シャオの心の内側は、誰にも晒せない。大事に抱えたトーアへの思いは。

 トーアはシャオの二つ下の妹だ。シャオが九つ、トーアがわずかに七つのときに、離ればなれになった。

 シャオとトーアも借金苦のせいで親に売られたのだ。フンテオ一座にわずかな銭と引き換えに渡された。子どもでも立派な労働力になる。フンテオの下で汚い仕事の手伝いをさせられることになっていた。

 トーアだけは守りたい。自分はよくてもトーアだけは、汚い組織の仕事に手を染めさせるわけにはないかない。

 そのころ、一座が根城にしていた街に連れて行かれる途中で、シャオは一計を案じた。すれ違った穀物売りの荷台にトーアを潜り込ませたのだ。

 たどり着いた街でトーアが無事でいられる保証もなにもない。まだ七歳なのだ。誰かに騙されたり、乱暴されたりするかもしれない。そう考えると、焦燥で胸の奥が焼けついた。できれば、自分の近くに置いて守ってやりたい。

 だが連れて行くほうが危険なのだ。シャオはフンテオの手下から、仲間になりたければトーアを殺して忠誠を示せと指示されていた。おそらく、トーアには真逆の指示が出ていたことだろう。きょうだい同士で殺しあうことをなんとも思っていない組織だ。

 シャオは泣く泣く、妹と生き別れることになった。

「おにいちゃん」

 トーアは涙目で鼻を鳴らしながら、シャオを見つめた。それでも大声を上げて泣きわめくころはしなかった。シャオ一人が犠牲になり、自分を逃がしてくれようとしていることがちゃんとわかっているからだ。

「トーア、大丈夫だ。遠くに行け。隠れて、隠れて、できれば途中で別の馬車に乗り換えて、できる限り遠くの街に行くんだ。それで着いた街で役所に行って保護してもらえ。誰が話かけてきても返事をするな。やさしそうな人でも油断はするなよ」

 もうあとすこしで馬車が出る寸前、シャオは妹に言い含める。荷台で布を被って隠れた妹はシャオのひと言、ひと言をうなずきながら聞いていた。

「また、会える?」

 涙混じりの声でトーアが問う。広いフォン国で生き別れて、再び会えるのか。子どもだった二人には手立てなどわからない。これが、今生の別れになってしまうのではないかという予感があった。

「ああ、会えるさ。見ろ」

 シャオは着物の袖をまくり、左腕の入れ墨を見せた。シャオとトーアは少数民族の出身で、入れ墨は一族に伝わる伝統的な模様だ。蓮の花をくずして、一見それとはわからない幾何学模様のようになっている。シャオの腕にも、トーアの腕にも、同じ模様が入っている。

「これが俺たちきょうだいをつなぐ証だ。この証がきっとまた二人を会わせてくれる」

 口にしたのは希望的観測だ。シャオ自身もわずかな希望にすがらないと、とても妹を手放せなかった。

「達者で暮らせよ。いつか必ず迎えに行くから……!」

 馬車は出た。シャオは入れ墨が入っているのとは反対の腕を出すと、肘の先を小刀で切りつけた。血が流れたのを服になすりつける。

 シャオはフンテオの手下のまえに行き、妹を殺したと嘘の報告をした。死体は、近くの崖から水流の激しい川に投げ込んだと理由をつけた。証拠はなにもなかったが、手下は子どもらしからぬシャオの迫力に圧され、話を信じた。これを機にシャオは、フンテオ一座の下っ端に加わることになったのだ。

 翌日の早朝、陽はまだ地平線の端にもかからない時間だ。娘たちのところに向かうため、蜜月館の立ち並ぶ大通りをシャオは歩いていた。昨晩とは打って変わって、通りは静まり返っている。館のなかで遊び疲れた客と娼婦が眠っている。あまりにも静かで、人がいることをまるで感じさせない。

 大通りの端を、小さな影が歩いてきた。二人の子どもだ。男児が女児の手を引いて小走りに裏道へと入っていく。二人とも赤みがかった茶色い髪をしていた。

 なんだ? シャオはさりげなく子どもの吸い込まれた路地に顔をのぞかせた。娼館の大きなごみ箱が置いてある。男の子のほうが蓋を開けて、なかから残飯を取り出して食べられそうなものを選り分けていた。分けると、隣にいる自分よりも小さな女の子に渡す。

 明け方まで営業している娼館から出たものだ。まだ新鮮で食べられる。それを狙いにきたのだ。

「おい」

 シャオは二人に声をかけた。

「……! にいちゃん……!」

 きょうだいだったらしい。肩をびくつかせ、妹がごみ箱に顔を突っ込んでいる兄を呼びかける。

「……! おまえは……!」

 顔を上げ、シャオを認識すると兄のほうは顔をひきつらせた。シャオを知っているものと見える。

 一歩、二歩ときょうだいに近づいていくと、兄は妹をかばうようにまえに立ち、両腕を広げた。

「……おまえっ……、フンテオのところのシャオだろ?」

「ああ、そうだ。残飯漁りはやめろ。食いもんを散らかすとねずみが寄ってくる。いい営業妨害だ」

 幼い兄は琥珀色の目をいからせてシャオをねめつけた。

「残飯くらい分けてくれよ。腹が減ってるんだ」

「だったら店のごみを盗むんじゃなくて、働け」

「こんなガキが働けるところなんか、この街にはないんだよ……っ」

 歓楽街に子どもの居場所はない。

 捨て子だろうな、とシャオは思った。まだ髪や肌の色艶がよく、路上生活が長いとは思えない。最近になり、きょうだいで路頭に迷うようになったのだ。

「俺がおまえらの年のころにはもう一座にいた。仕事は探せばなんだってあるだろう」

 半分は残飯を荒らされて迷惑がる気持ちから。もう半分はきょうだいの身を案じる気持ちから、シャオは忠告を口にした。こんな生活を長く続けるのは無謀だ。二人きりで生きていくのならば、安定して金が入ってくる手段を探したほうがいい。

「う、うるせえっ……! 女を無理に働かせてる悪い店から盗んで、なにが悪い。人に言えない悪いことばっかりしてるおまえに説教する資格なんかないんだ……っ」

 フンテオ一座のシャオを相手にしている恐怖から、兄は体を震わせながらも、気丈にシャオをにらみつけていた。目に涙がにじんでいる。くやしさと悲しさと怒りの涙だ。同時に軽蔑の色が浮かんでいる。ろくでもない仕事の斡旋をしているシャオを、心底軽蔑しているのだ。

 こんな子どもでも、シャオがなにをしているか知っている。そのためにシャオを軽蔑する。自分はとことん、堕ちてしまったことをシャオは知った。

 少年のころから一座で奉公して、殺されないように必死に仕事を覚えた。数年もすると一座で認められるようになり、羽振りもよくなった。あくどいことをして得る金が、シャオの生活を支えている。自分をさらってきた憎らしい組織の一角で、衣食住の心配がいらない生活をあたりまえのものだと思って享受する。いつの間にかそうなっていた。

 いまの自分を見たらトーアはなんと言うだろう。この少年と同じように自分を軽蔑するだろうか。命を懸けて妹を救おうとしたシャオがいなくなってしまったと嘆くだろうか。

 落ちぶれてしまったことの衝撃で、シャオは呆けたように一点を見つめていた。微動だにしないシャオのことを少年は不審な顔で見つめていたが、自分たちに危害を加えるつもりはなさそうだと見るや、すばやく布巾に残飯を包み、妹の手を引いてシャオの横を走り去った。

 そのあとのことだ。どうしてそんな愚かな真似をしたのか、シャオにはわからない。

 しばらく突っ立っていたシャオはようやく自分を取りもどし、さらってきた女たちのところへと向かった。すばやく朝飯を食べさせてから言う。

「ついて来い。逃げるぞ」

 ひゅっと娘たちが息を飲んだ。続いて頬が弛緩し、誰の顔にも安堵の表情が広がっていく。

 フンテオ一座の多くは夜に活動する。朝早い時間だと一座の人間に遭遇する可能性は低い。シャオは倉庫にあった衣装を適当に見繕い、外套を着せ、行商人ふうの編み笠を被せた女たちを外に連れ出した。

「走れ! 早く!」

 背後から女たちを叱咤して走らせる。ひと晩拘束されていたが、女たちは疲労を感じさせることなく俊敏に走った。走ってそのまま街のはずれまで行く。そこから他県に向かう馬車が出るのだ。

 フォンタムは大きな街だ。街に来る観光客、物資を運んで来る行商人が日に何百人と流れ込んでくる。反り返った大きな赤い屋根が目印の、街の玄関口となる五行門のまえには、おびただしい数の馬車や牛車が停まっていた。

 御者の一人に賃金を払い、馬車を一台借り受けた。借りたといっても返す予定はない。馬車が一台、消えたことを騒がれないように賄賂を握らせておいた。出発の準備をしながら、女の一人に問う。

「おまえ。馬には乗れるか?」

 女たちを荷台に乗せつつ、返事が返って来るまえにシャオは言葉を継ぐ。

「乗ったことなくても乗れ。この馬は訓練されてるから、暴れることはない。脚で腹を蹴ってやれば進む。たずなを引けば止まる。いいな?」

 シャオに御者役を託された女はこくこくとうなずく。昨日、シャオに話しかけてきた女だ。朝晩の飯も食べ残さなかったので、一番度胸があるとシャオは踏んだ。

「街を出て県境に着いたら関所の役人に保護してもらえ」

 親に売られるような子どもたちだ。女たちに帰る当てなどないだろう。それでも、どこか別の街に流れ着き、生きていってほしい。すくなくとも、年老いて容色が衰えるまでフンタオのところで客を取り続ける、終わりの見えない生活を送るよりははるかにましなはずだ。

「どうして助けてくれたの?」

 シャオに手伝ってもらいながらあぶみに脚をかけ、もう出発も目前というところで女が問いかけた。馬車の垂れ幕から顔をのぞかせたほかの女たちも同じことを訊きたそうな顔をしている。

「べつに。ただの気まぐれだ」

 そう、気まぐれとしか言いようのないものだった。女たちを逃がしたことがばれたら、どんなにひどい目に遭わされるかをシャオは知っている。保身を捨ててまで切実に、己の誇りを取りもどそうとしていたのかもしれない。

「さあもう行け」

 たずなを引きながらシャオは門に向かって女たちを送り出す。

「ありがとう。あなたも、いつか自由になれますように」

「……俺は、自由になりたいなんて思っていない」

 シャオはそううそぶく。

 御者となった女はシャオを気遣うひと言を残し、速足の馬を駆って行った。

 自由。門前のあわただしい喧騒のなかでシャオはその言葉を反芻する。

 女たちは自由になれる。万が一、一座の者に捕まったとしても、その若さと美貌は利用価値がある。だから殺されることはないだろう。

 だがシャオは違う。若いながらも一座のなかですこしばかり賢く、立ち居振る舞いがうまいと評価をされていたが、少年のころから一座で仕事をしているので多少手馴れているだけのことだ。シャオの代わりになれる人はいくらでもいる。裏切り者には利用価値がないと見なされれば、シャオは殺される。

 シャオはどうしても生き抜きたい。生きて、トーアに会いたい。それなのにおのれの身を破滅させかねない愚かなことをした。その愚かさのせいでどんな悲惨な目に遭うか、知っていたにもかかわらず。


「ぐはっ……! あっ、がっ……」

 フンテオの館の一室で、シャオは折檻を受けていた。

 女を逃がした犯人がシャオであることはすぐに発覚した。昨晩からあの倉庫に出入りしていたのはシャオだけだ。

 折檻といっても凝った拷問器具など使わない。ただひたすら、木の棒でフンテオの側近に打たれるだけだ。これが地味に痛い。後ろ手に縛られた状態で背中や太ももを殴打され、シャオは思わず悶絶の声を漏らす。

 近くにはサオトラがいた。一応、弟分の取り扱いがどうなるかを案じて様子をうかがいに来たらしいが、ビシバシとシャオを打つ音が響くなか、平然とした顔で煙草に火を点けるなど余裕の見物をしており、心の底から心配をしているわけではなさそうだ。

 サオトラはにやにやと苦笑いまで浮かべている。おまえ、どうしてこんな馬鹿なことしたわけ? と憐憫とあきれの入り混じったその目が問いかけているように見えた。

「そのへんでちっと休憩入れろ」

 背もたれの高い椅子に腰かけたフンテオが酒を手酌で注ぎながら、側近に指示を出す。正座のまま、床にうつぶせたところからシャオはゆるゆると顔を上げた。赤茶に白髪の混じりはじめたフンテオの口髭が憎らしく映る。

「シャオよう。なんだって女を逃がした? こうなることくらいわかってたろうが」

 責めるというよりは、心底不思議がっている口調だ。裏切り行為はすぐに発覚し責めを受けるなど、これまでさんざん一座のやり方を見てきたシャオにも想像がつきそうなものなのに。知っていながらあえて女を逃がした。よほどの理由があったのだろうと、一座の親父はシャオが粗忽者ではないことを信じているらしい。

「…………」

 シャオは黙ったまま答えなかった。ただ窓の外を見つめている。

 外壁も門扉も真っ黒なので通称、黒館と呼ばれているフンテオの館は、あちこちに透かし彫りの装飾をほどこした飾り窓が取り付けられている。扉を閉めきっていてもそこから外を見ることができるのだ。

 近くにあるはずの青々とした昼日中の空が、なぜかいまはとてつもなく遠い。

「おおかた、連れてきた娘っ子を見て妹のことでも思い出したんだろう。おまえと同じ見事な黒目黒髪だったって言うじゃねえか、え?」

 だんまりを貫くシャオに対し、フンテオが答えを先まわりする。図星を突かれてシャオは動揺した。

「おまえさんどうせ、妹のことも殺しちゃあいないんだろう?」

 フンテオはシャオの動揺に拍車をかける。親父は煙管に煙草の葉を詰めて、部下に火を点けさせる。シャオのことなどすべてお見通しのようだった。

「……そんなことはない。俺はちゃんと殺した」

 震える声でシャオは言葉を絞る。やけに確信めいた親父の口調だ。あのあと、一座はどこかでトーアを捕まえて殺したのではないかと顔面蒼白になる。

「どーだかなあ。死の自作自演くらいはできらあな。おまえはガキにしては頭がまわった」

 フンテオが笑うと、煙草の煙もゆれた。

「トーアを殺したのか?」

 凄みを帯びた形相でシャオが問うのに、フンテオはゆっくりと首をふる。

「いんや。たかが女のガキ一匹、追いかけるなんざ労力の無駄遣いだ」

 シャオは安堵した。フンテオはなによりも無駄を嫌うし、この期におよんでシャオに期待を持たせるような余計な嘘はつかない。トーアは一座には捕まっていないと確信できた。

「おまえさんはよく働くから、儲けもんだと思ったんだけどなあ。やっぱり妹のことが引っかかってたか。いつかこうなるような気がしてたぜ」

 シャオはまぶたを伏せた。もう終わりだ。自分は殺される。でも死ぬまえにせめて、ひと目だけでもトーアに会いたかった。

 そのとき、ひゅろろーとかん高い鳥の鳴き声がした。

 シャオはふと、顔を上げた。

 二羽の鳥が飾り枠の額縁を横切った。この季節に見るのは珍しい、南方からの渡り鳥だ。大きく広がる両翼と赤く色づいた尾っぽの先が長いのが特徴で、飛翔すると旗のように空中に広がる。その威風堂々とした姿は、伝説上の聖獣である鳳凰になぞらえられることがある。

 自由になりたい。大空を舞う鳥のように自由に。

 シャオは自由を渇望した。力強く飛翔する鳥の姿に、自分もああなりたいと憧憬を抱いた。

 この世は弱肉強食だとシャオは思っていた。立ちまわるのがうまければ生き残り、へまをしたら死ぬだけ。自分が死ぬときはなにか取り返しのつかないへまをしてしまったときで、だったら死んでも仕方がないだろうという諦念をいつも抱いていた。それは、親父や上層部の機嫌ひとつで生死が左右される非道な組織のなかで、常に死と隣り合わせの生活にありながら、おのれを平静に保つための防衛術でもあったのだ。

 一座に入ってはじめて、シャオは死にたくないと強く思った。

「親父、シャオをどうする? 女を捕まえて来させる?」

 サオトラが口を挟む。シャオの救済とも取れる提案だ。

「そうさなあ……」

 口髭をなでながらフンテオは思案している。

 シャオの追跡能力をもってすれば、女たちを連れもどすことはたぶんできる。けれどシャオを信頼してくれたあの少女たちを裏切り、絶望を味わわせる羽目になる。どれほど恨みがましい目で見られるのだろう。嘘つき呼ばわりされるのだろう。軽蔑されるのだろう。

 少女が自分に向ける侮蔑と絶望の入り混じった表情を想像して、シャオの心は灰色に染まった。

「おまえ、行って捕まえて来るか? あれにはそれだけの価値がある」

 シャオは軽く肩を震わせる。フンテオがサオトラの口車に乗った。いかに容色が秀でていても、娼婦としての上がりなどたかが知れているだろうに。一座に残りたければ、殺されたくなければ、逃がした女たちを捕まえて来るのが条件になった。

 シャオは即答できずにいた。また人の道をはずれた一座の一員として生きるくらいなら、もういっそ――。そんなあきらめもじわじわと湧いてくる。

「あんたが、あんな年下好みだとは知らなかった」

 せめて最後に、嫌味のつもりでシャオはそう口にした。同時に、一番うつくしいのと一番賢いのを連れて来いという親父の指示が疑問でもあったのだ。親父の好みはもっと年増の女だ。年齢が上がるにつれてどんどん、自分と同じくらいの年の女を好むようになってきている。それに黒目黒髪にもこだわりはない。どういう心変わりなのかと不思議だった。

「ああん?」

 フンテオは軽く目を剥いた。

「俺の女にするために連れて来いと言ったわけじゃねえよ。おい、サオトラよ。おまえちゃんと説明してなかったのか?」

「なにがっすか?」

 サオトラはきょとんとしている。

「鳳凰の選抜がはじまるんだと。おまえに伝えといただろうが」

 サオトラはぽん、と手を打つ。

「ああー! あれ、この話とつながってたのか」

 フンテオはあきれたように首をふる。

「やっぱりわかっちゃいなかったか」

 やはりサオトラには考えなしのところがある。というより、もろもろの機微に疎いのだ。

「宮廷の役人とつながっている男から裏情報を得た。まえの鳳凰が崩御したんで、もうすぐ皇帝が代替わりする。それに合わせて、次の鳳凰選定もはじまるってな」

 鳳凰。それはこの国の守り神だ。人でありながら人ではない神聖な存在と見なされている。

 シャオもその存在を知っている。というよりも、この国では知らない者はいない。どんな幼い子どもでも、鳳凰さまを知っている。だが、姿を見た者はいない。鳳凰は表舞台にはめったに姿を見せないからだ。十年に一度の建国祭りのときにだけ、大きな冠と垂れ布で顔を隠した状態で宮殿の踊り場に立ち、皇帝とともに国民に手をふる。

 鳳凰には十七歳の少女が選ばれる。深い色の黒目黒髪に、たぐいまれなる美貌の持ち主であり、また頭脳のほうも冴えていることが条件だ。体には傷がなく、健康的な体躯に四肢は伸びやか。花のほころぶような声で歌い、月もうらやむほど見事に舞う。ほかにもいくつか能力的な条件があるらしいが、詳しいことは公にされていない。

 鳳凰は、形式上は当代皇帝の側室になる。後宮に入り、そこでフォン国のために祈りを捧げるのが、生涯を通じた大事な役目になる。歴代の鳳凰はその力で自然現象をも操り、過去に開国を迫ろうとタロの海域に迫ってきた他国の船を、嵐を起こして沈めたこともあるのだとか。

 フォン国は代々、グェンロン家が治めてきた。国が興り、ある時点を経て、一部の交易以外は他国との交流を徹底的に拒んで鎖国している。豊潤な鉱物資源を狙い、これまで幾度も外国が乗っ取ろうと攻めてきたこともあるようだが、いずれもフォン国が勝利している。

 皇帝と鳳凰は形式上の婚姻関係にある。皇帝は鳳凰に疑似的な愛を注ぎ、鳳凰は皇帝の愛を力に変え、祈る。鳳凰と疑似的な夫婦関係にとどまるか、あるいは国の泰平を司る同志の枠をはみ出て実質的にも愛するのかは、時の皇帝の意向による。

 表の政治は歴代の帝が司る。だがその裏にはいつも、鳳凰がいる。帝と鳳凰は表裏一体のつがいとなり、この国を守っている。

「一生に一度、あるかないかの機会だ。試しに試験を受けさせてみようと思ったんだよ。鳳凰の候補はまず紹介者に謝礼金が入る。それから見事、鳳凰に選ばれたあかつきにゃ莫大な報奨金も入ってくるからな」

 謝礼金と報奨金の合計は、蜜月館の壱番館から伍番館まですべて合わせた十年分の売り上げに匹敵する。

 たしかに美貌の少女たちならばまず候補に残れる可能性は高い。どういう選抜基準なのかわからないので、とりあえずうつくしいのと、それからうまいこと試験をくぐりぬけられそうな賢いのとを親父は所望したようだ。

「うーん、そしたらさ。シャオに試験を受けさせるのはどうっすか?」

 深慮せずに思い浮かんだままを口にするサオトラのひと言に、フンテオも、フンテオの側近も、シャオも、その場にいたみながぎょっとした。

「だって見た目だけだったら完璧に募集条件に合致してるし。頭も悪くないから、どんな難問が来てもそこそこうまく切り抜けられると俺は思うんだ。なあ、親父。どうかな?」

 兄貴分としてなんとかシャオを助けてやりたい義侠心が働いたのか。あるいは単に思いつきなだけなのか。飄々としたサオトラの表情からは読めない。

 ふーむ、とフンテオが喉でうなる。シャオがごく普通の少年ならばなにを馬鹿なことをと一笑に付されるだけだが、性別が曖昧な突出した美貌の持ち主だ。その事実がほんのりとした可能性を示唆しはじめている。

 なにを馬鹿な。シャオはおどろき、あきれる思いだった。やっぱりサオトラはいつも行き当たりばったりだ。

 男の自分が宮廷に乗り込んで行ったところで、すぐばれるに決まっている。シャオは見た目があどけないので、十九歳を十七歳と偽ることはおそらく可能だ。見てくれも声色も、男くさい特徴が皆無。そのためしばらくは騙せるだろうが、鳳凰の選抜ならば当然、身体検査もあるだろうからその際に発覚する。それとほかの候補者としばらく共同生活を送ることにもなるだろう。いつも身近にいる女たちの目まで欺けるのかどうか。

 どう考えても荒唐無稽だ。だが――これはまたとない絶好の機会だ。組織と手を切ってまっとうに生きなおすための。

 この蛇のような執念に満ちた一座から逃れるためには、そこまで大胆なことをしないと無理なのかもしれない。万にひとつでも可能性があるのなら賭けたい。生き延びてトーアに会える可能性があるのならば――。

 無茶を承知で、シャオは心を決めた。

「行く」

 みな、シャオのほうに顔を向ける。

「鳳凰の選抜を受ける。謝礼金と報奨金はあんたたちに渡す。それで見逃してほしい」

 ほう、とフンテオが息を漏らす。

「だが、どうやる? 男を潜り込ませてたってことがわかったら、俺らも無事じゃ済まねえだろう」

「推薦人を自分にする。自分に振り込まれた金をあんたたちにそのまま流す、でどうだ?」

 シャオの提案に親父はうなずく。

「いいだろう。その代わり条件は、鳳凰に選ばれることだ。選ばれなかったらそんときは……償いをさせる。いいな?」

 脅し文句にシャオはうなずく。手首の拘束がはずされた。

 鳳凰の選抜を受け、鳳凰に選ばれること。それがシャオの生存条件になった。

「あ、そしたら早いとこ医者に連れて行かないと」

 フンテオ一座にはお付きの闇医者がいる。一座がほかの組織と揉めて流血沙汰になっても、あるいは内部の折檻で半死半生の人間を出しても、黙って処置をしてくれる。

「そんなにひどく打ってねえぞ」

 気楽そうな親父のひと言に、むかっと腹が立つシャオだった。打たれた箇所がじんじん痛んでいる。緊張状態が解かれたためか、いっそうの痛みを感じて骨まで響く。

「そうじゃなくってさ。体に傷があると試験、受けられないんだろ?」

 こういうときばかりはサオトラも一座の男なのだとシャオは実感する。先ほどは自分に対して手を差し伸べてくれたようで、基本的に考えるのは合理性ばかりだ。

 サオトラに肩を借りながらシャオは医者のもとへと向かう。鳳凰の試験はいまから、十日後にはじまるのだ。

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