Pass time Memories

水澄

第1話

 人の記憶というものは酷く曖昧で、不確かなものだ。

 どんなに忘れたくないことでも、過ぎる歳月に輪郭線は風化し、焦点の合わない虚像のようにぼやけていく。反面それは、新たな何かを刻むこむために、人類が進化の果てに獲得した「忘れる」という能力の体現に他ならない。


 無意識に刻まれ、その端から押し出されるように零れ落ちていく記憶達。

 ただ、そんな自分自身でもどこにしまったのか思い出せないような引き出しの奥の記憶が、ふとしたきっかけで鮮明に浮かび上がってくる時がある。それはまるで、水底の岩の間に閉じ込められた気泡が開放の瞬間、一直線に水面を目指すかのように。


「今度の週末、断捨離を行います」

 何の脈絡もなく、唐突にそんな宣言がなされたのは木曜の夜だった。

「断捨離? どうしたのさ急に」

「別に急じゃないよ、前々からやりたいなって思っていたし。ただ、今まではきっかけがなかったってだけ」

 コーヒーカップ片手に問いかけた僕に、美沙が答えては僕の隣に腰を下ろす。それから同じようにカップを手に取ると両手で包み込み、それから、コテンと僕の肩に身を預けてくる。

「ほら、こういうのって勢いが大事だって言うでしょ? なんだっけ、思い立ったがってやつ?」

「吉日ね。でも、そうだね、勢いは大事だ」

「でしょ? それにさ、これこそほんとに急だけど、きっかけもあったわけだからさ」

 そう言うと美沙は、僕に身を預けたまま右手を自分の下腹部に添える。その手は包み込むように優しく置かれていて、落とされた美沙の視線にもまた、慈しむような温かさが込められている。

「まあ、確かにきっかけって意味では、これ以上のものってそうはないだろうからなぁ」

 美沙の右手に重ねて手を添えると、その手を介して美沙の体温が僕に伝わり、自然と笑みが零れる。その笑みが今度は美沙に伝わり、お互いに目を合わせては微笑みを交し合う。それから美沙はもう一度お腹に目をやり、今度は満面の笑みを浮かべてからに言うのだった。

「本音を言うと、もうちょっと計画的が良かったんだけど、ね?」


 美沙の妊娠が発覚してからというもの、僕らの日常は急加速を始めていた。

 これまでは二人でわき道をのんびりと、だったものが、急にメインストリートをフル加速で走り出したようなものだ。もっとも全ては無計画に生きてきた僕の自業自得に他ならないのだけれども、幸いなことに美沙はこれを好意的に受け止めてくれている。おまけに「これで次の段階に進む良いきっかけになったんじゃない?」とまで言われてしまったものだから、今後はこれまで以上に美沙に頭が上がらなくなるのが避けようもない。

 とにかく、その授かりものをもって、僕は美沙にプロポーズをした。なし崩し的になってしまったことは本当に申し訳なかったのだけれども、それでも美沙が見せてくれた涙に僕は救われたし、これからもずっと守っていこうと心に誓った。

 その後、戦々恐々ながらのご両親への報告を兼ねた挨拶――三十過ぎの男の授かり婚という不甲斐ない報告を笑って済ませてくれたご両親には、感謝の言葉もない。本当に美沙といい、僕には勿体ないくらいの良縁に恵まれたと思う――を済ませ、今後のことも考えて、美沙の実家にほど近いところに新居を構えようという話になったのが、先月の中頃の話だ。


「断捨離はいいんだけど、なにも新居が決まってからでもよかったんじゃないか?」

 土曜日の午前中、揃っての朝食を済ませたところで話しかけると、美沙は「ううん」と首を振る。

「それだとまだ先になっちゃうだろうし、それに、私はこの先どんどん動きづらくなっちゃうんだもん。体調だって、今は問題ないけど、これからはちょっと予想つかないし」

 言われてなるほどと納得する。美沙はまだ妊娠二十週ほどなので、言われないとそうだとはわからないが、今後安定期に入るまでは体調の優れない日も出てくるだろう。特に初産の場合、つわりの酷いことも多いと聞く。

「僕の方がずっと年上なのに、そういったところは美沙に敵わないな」

「まあね。でも安心して、付き合いも長いし、今更そんなことで幻滅したりはしないから」

よいしょ、と腕をまくった美沙が立ち上がる。

「でも、これからはもうちょいしっかりして欲しいかな。ね? パパ」

 微笑む美沙には一瞬きょとんとしてしまったが、すぐさま理解した僕もまた、「よし、任せろ」と腕まくりしながらに立ち上がるのだった。


 断捨離、などと大仰ぶって始めてはみたものの、結局のところ片づけというのは、いかに要らないものを捨てるかの一言に尽きるのだと思う。

 美沙と同棲を始めて約三年、あまり意識はしていなかったものの、いざ始めてみると2DKのアパートには思いのほか不要品が溜まっていたらしい。

 例えば美沙であれば、買ったきり使っていない調理グッズに、アパレルショップのノベルティや紙袋、気づけば増えている靴の箱など。

 僕の方はというと、どんどん買いためてしまう漫画や雑誌、一頃ハマって以降まるで使っていないサバゲーグッズなどだ。

「思った以上に出るもんだね」とは美沙。「同感」僕も答える。

「で、どうする? ここに置いておいても邪魔だよな、これ」

「うん、だから処分するものは外に出しちゃって、フリマアプリとかで売れそうなやつは画像だけ撮って一か所に、て感じかな」

 途中でお昼の休憩を挟みつつ、案外と順調に僕らの断捨離は敢行されていった。


「あとはここくらいか?」

 言いながらがらりと扉を開けるも、並び立つ美沙の表情は優れずに「だよねぇ」とか「でもなぁ」などと呟いている。

「当然だろ? それでなくたってここ、ギュウギュウでもう入りきらなくなってきているんだから」

 おそらく美沙が手を付けたがらないだろうから。そんな理由で後回しにしていたが、他が終わってしまった以上ここ――クローゼットも手を付けないわけにはいかない。というよりも、僕からすればこここそが最も断捨離すべき気がしている。もっとも、それを口に出すべきでないことぐらいはわきまえているので、「ほら」と美沙を促すだけに留める。

 クローゼットは二人で共有なのだが、その占有率は決して半々ではない。

 僕を1だとすれば美沙が3、もしくは4といったところだろう。僕の方は年々お洒落に無頓着になってきている節もあるし、普段の通勤はスーツということもあって、これで全く不便は感じていない。なんならその数少ない1のほとんどですら、美沙に選んでもらったものが大半を占める。

「美沙、断捨離するんだろ?」

試すように問いかけると、美沙は意を決したように頷き、ハンガーにかかった一着を手に取った。


 結果から言って、非常に骨が折れた。

 なぜって、美沙がまるで決められなかったからだ。僕のサバゲー装備一式は容赦なく捨てたにも関わらず、ブラウス一着につき数分悩むといった感じで、遅々として進まない。

 もちろん洋服好きな美沙からすればそのどれもがお気に入りであり、要る要らないであれば、全て要るになってしまうのだろう。

 なので、どういうわけか最終判断は僕に委ねられてしまった。

 まず僕の体感的な主観で着ている頻度が高いか低いかを大別し、その上で最後は美沙が服を自分にあてがい、似合う似合わない、もしくは僕の好き嫌いで決めていった。これも本音を言えば「全部似合っているし全部好き」なのだが、そこは心を鬼にして、というやつだ。惚気だと言うならば言うがいい、なにせ僕らはもうすぐ新婚夫婦になるのだ、惚気て何が悪いと言ってやろう。

 そんな付き合いたてのカップルのようなやり取りを経ること一時間弱、どうにかその三割ほどを処分に回すことができた。たった三割とはいえ、ベースの量が量なのでなかなかの数になる。

「さあ、私の方は終わったよ! ほら、早く出して出して!」

 次は僕の番だからか美沙のテンションが妙なことになってきていたが、あいにくと僕の場合、そもそもが最低限の量しか持っていない。

「そうは言っても、ハンガーに掛けてあるのは全部一軍だから、俺の方は処分するとしたらここくらいかな?」

 言って、衣装ケースの引き出しを一段丸々抜き出して床に置く。なお、五段ある引き出しの一段は二人の共用であり、残りの三段は全て美沙の服が入っている。

「ここのやつって、普段着てるやつ?」

「いや、全く。下手すると引っ越してきたときにしまった切り、出してすらないのがほとんどかもしれない」

 案の定、入っていたのはどれも僕がまだ二十代の頃に着ていたものばかりで、取り出して広げたそばから処分の側に回していく。

「これなんかまだ着れるんじゃない?」

「うん、でも着ないな」

そんなやり取りに一枚、また一枚と減っていく。

「さて、ラスト一枚――あれ、これって」

 衣装ケースの一番下に折りたたまれていたのは一本のジーンズで、それを広げた時だけ、思わず手が止まってしまった。


 僕がまだ学生だった頃、巷でアメカジ、ひいてはヴィンテージジーンズがやたらとブームになった時期があった。僕自身もその例に漏れずアメカジに嵌まり、それでも学生たる時分としては異様とも呼べるほどに高騰したジーンズ――501XXの大戦モデルともなれば車が一台買えるほどだった――には手が出るはずもなく、代わりに各ショップがリリースしていた、所轄レプリカモデルと呼ばれるジーンズに嵌まっていた。

 糊付きのリジットデニムを買っては履いたまま浴槽につかり、ヒゲやハチノスと呼ばれるアタリをつけるために、それこそ寝る時ですら履き続けた。そうして進む経年変化を友人と自慢しあい、儀式と呼ばれる洗濯ごとの色落ちを楽しんでは、次に履きこむ一本を雑誌片手に物色していた。

 それから早数年、今では趣味の変化であったり、そもそも毎日の履きこみなどできないということもあって、ジーンズ自体めったに履かなくなってしまっている。

 そんな中、出てきたこの一本である。ヒゲやハチノスはもちろんのこと、我ながら相当に履きこんだのだろう、太もも部分の縦落ちといわれる退色もなかなかのものだ。バックポケットのステッチは九割がたほどけ、かなり長めのレングスで合わせていたのだろう、裾の後ろ側のチェーンステッチもほどけてしまっている。

 そうだ、これはほとんど処分してしまったレプリカジーンズのうち、最も気に入っていた一枚だ。

「うわー懐かしいなこれ。ねえ美沙、ちょっと履いてみてもいいかな?」

「いいけど、履ける?」

 いそいそと部屋着のハーフパンツを脱ぎ、ジーンズに足を通す。もしかしたらきついかもと思っていたウエストもちゃんと収まり、当時とサイズが変わっていないことにまず嬉しくなる。

「美沙、どうかな? まだいけるんじゃない、これ」

 ずっとしまっていたせいか少しごわつくが、さすがデニムだけあって生地はしっかりしている。美沙に向き合ってジーンズを示すも、その表情はイマイチだ。

「いけるかもだけど、ちょっと野暮ったくないかな。かなり太めのシルエットだし、丈もかなり長め――ああ、でもそれは裾上げし直せばいいかな?」

「いやいや、この長めなのがいいんだろ? 第一裾上げやり直したりしたら、せっかくついたアタリがおかしなことに――」

 それを言い終わる前に、美沙がこらえきれないといった様子で笑い出す。僕は突然のことに言葉を切るが、美沙はなおも笑い続ける。少なくとも、笑われるようなことを言った自覚はまるでない。

「あーおかしい。今の会話といいそのジーンズといい、なんだか一気に思い出してきちゃったよ」

「え? 思い出すって、いったい何をさ?」

「そんなの」決まってるじゃない。「私たちが付き合い始めた頃のことだよ」


 美沙には悪いが、僕にとってこのジーンズは学生時代の思い出だ。それは二人が出会う前のことで、僕の記憶に美沙の姿はない。

 それでもしかし、美沙は話し出す。

「裕太はね、いや、裕くんだね」

 それは、付き合いだした頃の僕の呼び名だ。

「付き合いだした頃の裕くんたらさ、いっつもそのジーンズ履いてたんだよね。それに黒いブーツを合わせてて、それこそ一年中同じなの」

言われてみると、確かにジーンズに嵌まっていたころの僕はいつもそればかりであり、足元も自然とそれに合わせるブーツが多かった。

「そのうえどこに行くのにもバイクで、だから私、全然スカート履けなかったんだよ?」

 確かに若い頃の僕は、いつもバイクに乗っていた。当時は電車に乗るのがひどく面倒なことに思えていて、だから二人で会うときもいつもバイクで迎えに行っていた。

「あの頃は美沙だってバイクがいいって言ってたじゃないか?」

「それはまだ付き合い立てだったしね。でも、さすがに真冬のバイクは嫌だったよ?」

 おどけるように言うと美沙が白い歯を見せる。当時乗っていたバイクはいつからか乗ることも少なくなり、今の部屋に引っ越すタイミングで、もう乗らないからと手放してしまった。そう考えるとそれはもう、随分と昔のことのように思えてくる。

「裕太、覚えてる? 突然イメチェンしたいって言い出して、一緒に服買いに行って私が上から下まで選んであげた時のこと」

「あったっけ? そんなこと?」

「あったの。だって、それからなんだよ? 裕太があんまりジーンズ履かなくなったの」

「え?」

 思わず今履いているジーンズに目をやる。そうだったっけ? と記憶を巡らすも、どうにも思い出せない。

「そうだよ。だって裕太、言ってたんだよ? こんな細身のパンツ履くのも、スーツ以外でジャケット着るのも初めてだ、て」

 ぺし、とむくれた美沙に肩を叩かれる。とはいえそれはまるで痛いものではなくて、離れずにそのまま肩に添えられた手のひらが、ただただ心地よい。

 もう一度ジーンズを見てからに、次いでクローゼットを振り返る。僕の休日用コーデの主役たる数少ない一軍選手、その中でもエース級に出番が多いのは、やはり美沙の選んでくれたジャケットである。

「なんかそう考えると、美沙とも随分長いんだな」

「そうだよ、長いんだよ? 私たち。それに、これからはもっと長いんだから」

 これからは――。その言葉に、思わず美沙の肩を抱く。

「え? ちょっと何? どうしたの?」

「いや、なんかこうしたくなった。嫌ならやめるけど?」

「別に、嫌じゃないけど」

 尻すぼみな美沙の語尾に、思わず二人で笑いあう。その響きがたまらなく愛おしくて、だから少しだけ肩を抱く手に力を込めると、美沙も体を預けてくれる。

「そうだよ、長いんだよな、俺たち。これからもずっと」

「うん、そうだね」


 人の記憶というのは酷く曖昧で、不確かで。

 だから、そうだと気が付かないうちに、まるでパズルのピースが抜け落ちるかの様に忘れていってしまう。

 それは生きていく上で絶対に避けられないことであり、写真や映像を残したところで、その全てを補完できるものではない。

 でも、それでいいのだと思う。なぜなら、僕が忘れてしまった何かを覚えていてくれる人がいるのだから。そうして、僕が忘れていってしまう自分自身を、僕以上に覚えていてくれる人、それが家族なのではないのかと思う。

 僕はこれからもたくさんのことを経験し、忘れていくのだろう。それは美沙も同じであり、近い将来生まれてくる子供もまた、同じだ。

 だから、覚えていよう。

 美沙のこと、生まれてくる子供のこと。僕のことを、僕以上に忘れないでいてくれる家族のことを。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Pass time Memories 水澄 @TOM25

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ