第2話

家出をする。


 何のことはない。昨日の夜、むしゃくしゃして寝付けないままに思いついた稚拙な計画だ。夜中の二時には『どうせ自分の事だから一度眠ればすっかりこの衝動は消え失せているだろう』と冷静に考えている自分がいた。


 早朝五時に覚醒した。僕の胸には、まだ怒りの炎がくすぶっていた。


 やるしかない。


 寝不足のわりに妙に頭がクリアだった。自分は今行動すべきだと、一種の使命感さえあった。


 そうして計画通りに準備を──むしろ、こんな時に限ってやる事なすこと、トントン拍子にうまくいくものだ──進め、今こうして駅に立っている。


 逃走資金が確保出来ないならば、行動は著しく制限される。一日だけ学校を休み、人生について考える。現実的に考えてそれが僕に出来る精一杯の反抗のはずで、何も出来ず、何者にもなれずに『事件』は終わる。


 そうだったはずが、ここまで上手くいくと、もはや『運命』なのかもしれないと思ってしまうものだ。行くしかない。僕はもう、いくつかのハードルを跳び越えてしまったのだ。


 駅のくすんだクリーム色の壁にもたれかかり、次の計画を練る。三十万は大金だ。大体の事は出来るはずだが、僕の考えた逃走劇は、正直ここまでしかなかった。


 ──どこへ行くべきか。


 考えはまとまらない。僕以外の人は皆迷いもなく右か左に進んでおり、駅の人だかりは一向に収まる気配がない。


 なにせ、今の時間帯は通勤通学ラッシュの真っ最中だ。人にぶつからない様、壁にぴったりと張り付いたままあたりの様子を窺う。


 空気がよどみ、誰かの吐いた息が自分の肺に入り込む。進む。目的地へ辿り着く。とどまる。帰宅する。そうして、同じ事をしている内に思考が統一され、みんな同じになっていく。そのはずだ。


 しかし。僕は乗るべき流れに、乗れていない。そうして、敷かれたレールを途中下車しかけている。


 人の流れに乗らない僕を、たまに訝しげな瞳で見つめる人がいる。


 ──ここはサラリーマンが多く、僕は不審だ。


 私服のおかげで年齢がすぐに見破られてしまう事はないだろうが、多くの人間には本能とも言うべき異質なものを嗅ぎ分ける力が備わっている。


 いつまでもここにはいられないと、あてもなく改札へ向かう。ここからどうしようか。再び電車に乗り、神奈川か、東京駅から新幹線に乗ってもっと遠くへ行くか。


 行った先でどうするのか──家出をしたところで、どこに行きたいとか、何をしたいかとか、僕には明確な目的がない。ただ、現状から逃走したいだけで、言われたことも出来なければ特段の発想力もない人間としてのつまらなさが露呈しただけだった。


 行き先を。せめて方角ぐらいは選定しようと案内看板を見ると、モノレールの看板が目に入った。


 モノレール。羽田空港。


 ──飛行機に乗る。それはこの環境をぶち壊す、最強の必殺技に思えた。


 最後に飛行機に乗ったのはいつだろうか。母方は東京、父方は栃木で飛行機の距離の親戚はいないし、父は多忙。僕の方もやれ夏期講習だなんだと、わざわざ母と別の場所へ思い出を作りに行こうなんて、計画にのぼった事もなかった。


 手持ちのICカードには何かあったときの為に、数千円余分にチャージされている。僕が行方不明者として警察に届けられた暁には、おそらく真っ先にこのデータが照合されるのだろうけれど……まあ、そんな細かいことは後回しでいいだろう。


 目的はとにかく──非日常の世界へと歩みを進めることだ。


 乗り込んだモノレールの車内を改めて観察すると、奇妙な形をしていると思った。


 普通の電車と同じように窓に平行した座席もあれば一人用の独立した席もあり。極めつけは、車両の真ん中が浮き島みたいに出っ張っている。


 スーツケース置き場はともかく、向かいあわせに四人ほどが座ることの出来る座席はまるで祭りの御神輿みたいで、どうしてもそこに腰掛ける気分にはなれなかった。


 まごまごとしていると、後ろからグループ客がやってきて、さっとそこに陣取った。ほかに空いている席はなく、ドアの縁に立って外の景色をじっと見つめた。


 縁にびっしりとマンションが建ち並ぶ川縁を抜けると、突然視界が開けてくる。海へ出たのだ。


 僕が住んでいるのは東京の北、埼玉よりの地域のため、東京湾の湾岸部にはあまり馴染みがない。理屈の上では分かってはいるものの、以外と近くに海がある、というのは不思議な気分だった。


 若干盛り上がった島とも中州とも呼べないような場所に海鳥が沢山集合しており、彼らは飛べるのにどうしてわざわざあんな草の一本も生えていないところに身を寄せ合っているのだろう、と不思議な気持ちになる。


 いくつかの知らない駅を通り過ぎたあと、まもなく羽田空港に到着するとのアナウンスがあった。


 羽田空港には第一ターミナルと第二ターミナルがあるのだが、僕にはその区別がさっぱりだった。なにしろ面倒を避けるためスマートフォンの電源を切ってしまっているために、得られる情報は元々持っているか細い知識と、看板、アナウンスのみなのだ。


 記憶を頼りに、第二ターミナルで降りることにする。周辺の空間は広いが椅子の数は限られていて、どこか自分の落ち着けるスペースを探すのは骨が折れそうだった。世の中と一緒だ。皆座りたいけれど、席は限られている。後から参加した所で、とうの昔にそこは確保されているのだ。


 立ち止まる事なく道なりに進むと、イメージした通りの受付カウンターがあり、そこにはゆったりしつつも明確な目的を持った人の流れがあった。


 次は、どうしよう。


 飛行機に乗ってやるぞと意気込んでやってきたものの、だんだんと決断に消費するエネルギーが大きくなってくるのを感じている。行き先を選定するのは骨が折れそうだ。


 途方に暮れたような気持ちでほとんど壁と言って差し支えないような掲示板を眺めていると、パチパチとめまぐるしく運行予定が移し出されていく。世界の主要都市への飛行機がどんどんと運航されているのだ。


 僕はもちろんパスポートを持っていないので、飛行機に乗ると言っても国内線に限る。


 どこへ行こうか。札幌、仙台、富山、大阪、福岡……新幹線で行ける所なら、わざわざ空港へ来た意味がない。となるとやはり北海道、九州……。


 那覇。


 その単語が、突然僕の目に飛び込んできたのだった。

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