第30話 再び

夏の夜風が、頬を舐めるように通り過ぎていく。しかし僕はそんなことに注意を割いている余裕はなかった。


「はぁ・・・はぁ・・・」


さすが運動不足の毎日を送っただけのことはある。あんなに香音に格好をつけていたのにも関わらず、僕は走り始めて五分もしないうちに息を切らしていた。

手には、かつてのプレゼント。そのプレゼントを守っていた箱は、走っている内に力んだ僕の手によって、くしゃくしゃに潰されていた。


しかし、僕の足はとまらない。まるで、これからの人生の活力を全て今この時に注ぎ込んでいるかのように、体の内からエネルギーが湧き出してくる。


僕が向かっている場所までは、まだ残り数キロはあるだろう。僕は、そんな現実に絶望しながらも走った。走り続けた。


「世奈さん・・・!」


彼女の名前を呼ぶ。もういない、彼女の名前を呼ぶ。その言葉は虚空に舞って消えていく。

もう止まってしまいたい。確証のない、この賭けから今すぐ下りてしまいたいと何度でも思う。しかし、僕は走り始めてしまったのだ。もう止まることはできないのだ。


たしか、『彼女』といつか見た映画のワンシーンでも今のように主人公が走り続ける場面があったはずだ。その時は壮大な音楽がBGMとして流れ、それはそれはドラマチックに描かれていた。

きっとこれが映画のワンシーンなら、そんな風にBGMが流れていることだろう。

これは現実、でも僕は映画よりもドラマチックなことをしようとしている。


「わっ・・・」


そんな考え事をしたせいか、僕の足が一瞬もつれた。一度体制を崩した体は止まらず、そのまま重力に従って、僕は地面に叩きつけられた。


目の前の景色が、ぐるぐると回る。体中が打ち付けられるような感覚。

それが終わると、次に体中がじんわりとした痛みに苛まれる。口の中は乾ききっていて、血の味がして、とても不快な感覚だった。


「っぐ・・・」


僕は、手を地面につきもう一度立ち上がろうとする。しかし、体はうまく立ちあがらない。

手に力が入らない。手だけではない、足も頭も心臓さえも。弱り切っているように思えた。


「はぁ・・・はぁ・・・」


僕は、霞む視界を睨み続ける。

止まってたまるか。ここで終わってたまるものか。

否、終わってはならないのだ。動け動け動け動け・・・!


そんな僕の気持ちとは裏腹に、視界は黒く霞んでいき・・・



『裕くん』


また、あの声がした。僕は、閉じかけていた瞳をゆっくり開いた。そこにはもちろん誰もいない。

僕は無意識に、その霞んだ視界からその声の主を探す。しかし、そこには誰もいない。


『裕くん』


しかし確かにその声は聞こえる。僕の心をつかんで離さない、あの声が。


『頑張って、春野世奈に会うんでしょ』


優しく、明るかい声が、それでも厳しく僕を励ます。

その声に、僕の体が応える。僕の腕が、足が、心臓がその声で目が覚めたように。


『立って』


「グっ・・・」


『立ち上がって』


僕は、骨がきしむような感覚に耐えながら、体を持ち上げる。

目の前は暗闇を街灯が薄暗く照らしている。しかし、僕にはその道が光って見えたように感じた。


『あともう少しだよ』


「・・・うん」


僕は、目の前をまっすぐに見据える。


「諦めて・・・」


息を吸って、こう叫んだ。


「たまるかぁ・・・!」


僕は、鉛のように重たくなっていた足をそれでも前に踏み出した。

もう、僕は止まらない。止まれない。


『彼女』に会うんだ。


「ああああぁぁぁぁぁ!!」


僕の叫びが、夜空に響く。


::::::::::::::::::::


神社の境内は、夜のせいかいつも以上に静寂に包まれていて、全てを飲み込むようなそんな恐ろしさをどこかに秘めているような気がした。


僕は、そんな境内の石畳を踏みしめるように歩く。

そう、かつて『彼女』にあったあの神社だ。


手の中を見ると、先ほど確認した時よりもさらにひしゃげたプレゼントがあった。僕は、そこにプレゼントがあることを確認し、境内の奥にある祭壇に向かう。


「会いたいっていう気持ちが、大事。物には魂が宿る」


鈴木さんがそう言っていたのを今一度思い出した。条件は整っている、はずだ。

僕は、祭壇の前に立った。祭壇の奥にいるであろう神様が、僕を見ているように思えた。


以前、ここに来た時に僕は思った。「奇跡」などないのだと。そんなものは、まやかしであると。

今も思う。この世に溢れている「奇跡」は全てまやかしであると。

しかし、ごく稀に。本当にごく稀に、本当の「奇跡」があるのだと。僕は教わったのだ。

僕を支えてくれる、何人もの人に教わったのだ。


だから僕は今一度願う。


「もう一度、『彼女』に逢いたい」


強く強く願った。

目に痛みが感じるまで強く瞑り、両手を擦り切れさせるように合わせ、僕はできる限りの力をもって願った。


夜の静寂が、僕を包み込む。

僕は、まだ願う。これでもかという程強く。


そして、ゆっくりと前を向く。そこには、先ほどと同じように荘厳な祭壇。


「・・・」


そして僕は一言言った。


「また逢えたね」


僕は振り向く。そこにいたのは。


「なん・・・で」


春野世奈ではない、『彼女』なのだった。

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