第29話 失恋
「どうしたの、限定グッズが今日発売することを今思い出して慌てて買いにいくオタクみたいな顔して」
「例えが独特なんだよ・・・ってかなんでここに?」
「忘れ物―、ゆったんこそどうしたの」
「ごめん、いま急いでるんだ。また今度な」
香音には悪いが、今はそれどころではないのだ。早くいかなければならない、あの場所へ。
僕は香音を押しのけて、「その場所」に行こうとした。しかし、後ろからの抵抗を感じて思わず足を止めてしまう。
「うおっ」
驚いて後ろを見ると、香音が僕の服の裾を掴んでいた。
僕は、その香音の行動に疑問を投げかけた。
「・・・どうしたんだ?」
「ううん・・・なんとなくこうしてみただけ」
香音はバツが悪そうにそっぽを向いていた。僕は香音の意図が分からず、服の裾を掴んだ手を剥がそうとする。
「だめ」
しかし、香音は譲らない。決して譲らなかった。その瞳は、なにか使命に駆られたような光り方をしていて、なんだか落ち着かなかった。
香音も落ち着かないような、興奮しているような様子で僕の服の裾を掴んだままだった。
そのような膠着状態が三十秒ほど続いた。
「じゃあどうして離してくれないのか、教えてくれないか」
僕は、香音の様子を窺うようにして言った。正直、今の僕にじゃれ合っている時間は少しもない。急かすように顔を覗き込む僕。それを聞いた香音は少し戸惑ったあと、震えた声でこう言った。
「このままじゃ、ゆったんが・・・裕斗がどっかへ行っちゃうような気がして」
僕は、すこしだけたじろいだ。いや「すこしだけ」というのは僕の取るに足らないプライドを含んだ表現だ。僕は、年下の女の子に図星を突かれたのだ。香音が、僕の奥底にある心を読んだかのようにそう言ったことに驚いたのだ。
僕の奥底に眠る、捨て身の心に。もうこれ以上は何もいらない、もう一度『彼女』に出会えたならもうそれだけで幸せだ。もう消えてしまってもいいんだと。
「・・・なんでそう思うんだ」
「私、裕斗たちと色んな事が出来て本当に良かったと思ってるんだ。本当に出会えてよかったなって、そう思ってる」
香音の声はさらに震える。よく見ると、香音は涙を流していた。うつむき気味の顔からは察しにくかったが、確かに香音は涙を流していた。
服の裾から。香音の手の震えがかすかに伝わってくる。
「香音・・・」
「ごめん・・・。私何で泣いてるんだろ・・・恥ずかしいなぁ、ちょっとそっち向いててよ」
香音は、服の袖で乱暴に涙をぬぐった。そしてこちらに向き直る。その瞳はいまだに潤んでいて、赤く腫れている。
「だからね・・・もう裕斗は私の中で大事な人になっちゃってるんだよ。そんな裕斗が、まるでそのまま消えそうな表情で行こうとしたら、意地でも止めるよ!だってもう裕斗は大事な人なんだもん!」
僕は、気持ちを吐露する香音の方をじっと見つめた。
「ごめん・・・」
そして、一言呟くように言った。
「ごめんじゃなくて!・・・そうじゃないんだよ。私が言いたいのは、だからね」
香音は、手探りで言葉を繋ぐように、涙はそのままで僕に向かって話す。
「もし、どこかへ行くときは『行ってらっしゃい』を言いたくなるような顔をしてなさいよってこと!」
香音は、そう言って潤んだ瞳を僕に向けた。その瞳の光は、先ほどから変わらない。美しい色と輝きをしていた。
僕は、それを聞いてハッとなった。
『いってらっしゃい』
『彼女』の声が、僕の中ではじけた気がした。
「ちょっと?聞いてるの、裕斗?」
「うん、聞いてるよ。ありがとう」
僕は、香音に向かい微笑みかけた。
それを見た香音は、肩の力が抜けたようにすこし笑った。
「どっかへ行ったら許さないからね、ハリセンボンと針千本飲んでもらうから」
「それは困るな、できればどっちかにしてほしいんだけど」
僕は苦笑いで、そう答える。
香音はそれを聞いて、また少し戸惑ってから顔を赤らめた。
「でも、デートの約束があったからね。デートしてくれたら全部許したげる」
そう言って、ニヒっと笑う香音。その顔は耳まで真っ赤で、夏の夜の薄暗い中でもその紅さを十分に僕に見せつけていた。
「こんなかわいい女子高生に、そんな口説き文句で言い寄られるなんて僕って幸せ者だなぁ・・・」
「ちょっと!?ゆったん、声に出てる!声に出てるからぁ!恥ずかしいから言わないで!そんで行くなら早くいけぇ!」
「どわっ!!」
香音は僕の服の裾から手を放し、その代わりとでもいうかのように僕の背中に蹴りをお見舞いしてくれた。
「ほら、早く行ってきなって」
顔を赤らめて、照れ臭そうに視線を泳がせる香音。
そんな香音に僕は、思いっきりの笑顔で言ったのだった。
「いってきます」
「いってらっしゃい!」
香音も僕に負けない笑顔で、そう返したのだった。
:::::::::::::::::::
「あーあ」
走っていく裕斗を見送った香音は一人、ドアの前で夏の夜空を眺めていた。
夏の夜空は、そんな香音を静かに見つめ返す。何もかもお見通しかのように。
そんな夜空に向かって、香音は一つ大きなため息をついて呟いた。
「今のとこで告白してたらいけたかなぁ」
香音は、自嘲めいた笑いをこぼす。
「いや、きっと振られただろうなぁ」
ずっと気づいていた。裕斗と一緒に過ごしているとき。ずっとそれに気づいていた。
裕斗が自分なんて見ていないことになんてとっくに気づいていた。
その目は、私を見ているようでどこか違う場所を見ていた。そしてその目は決意に満ちていた。きっと彼の想う「彼女」を見ていたんだと、今なら思える。
「きっと、そんなとこに惚れたんだろうなぁ私」
香音は、涙を流しながら笑う。「行ってきます」をいう人には、「行ってらっしゃい」をいう人も笑顔で送らなければならない。
その笑顔は、まだ剥がしちゃいけない。それはきっと、裕斗を裏切ることになるから。
「がんばれ、裕斗」
夕日に向かってそう呟く。その瞳に映るのは、これらの未来であり。
「さよなら、過去の私」
香音は自分にそう別れを告げたのだった。
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